第153話 四級候補
配信開始まで、あと十分だった。
亀山は控室の机に置かれた小型カメラを持ち上げ、画面に表示された時刻と通信状態を確認した。
撮影機材そのものは、これまでの公式同行で使ってきたものと大きく変わらない。ただし、今回は編集を前提とした収録ではなく生配信だ。現場から送られた映像は管理室を経由し、一定の遅延を入れて公開される。
所在地を特定できる情報や、公開前の回収品などが映った場合は、管理側で映像を切り替える。危険が生じた時も同様だった。
それとは別に、審査記録を担当する職員も同行する。
候補者を中心に隊列全体を撮影し、各人の装着カメラと合わせて判断材料にする。亀山が撮影を中断しても、審査用の記録まで途切れることはない。
「通信状態、問題ありません。音声も入っています」
管理担当者の声に、亀山はうなずいた。
「分かりました」
「現場では配信より安全を優先してください。候補者か審査員から指示が出た場合は、すぐに従ってください」
「はい」
同じ説明を、到着してから既に二度受けている。
以前なら、少ししつこいと思ったかもしれない。
今は、繰り返してもらえる方がありがたかった。
拉致未遂事件のあと、管理側から依頼が途切れていた期間は、それほど長くない。
それでも次の連絡が来るまでは落ち着かなかった。
安全のために活動を止められているのか。事件の影響が大きすぎて、今後は公式の仕事を任せにくいと思われているのか。それとも、水門に残った白い群れとの関係を、国側まで疑い始めたのか。
考えれば考えるほど、悪い方向へ想像が膨らんだ。
だから四級先行認定の配信を依頼された時、亀山は内容を最後まで聞く前に、引き受けると答えていた。
危険な場所へ戻ることに、不安がないわけではない。
知らない車が止まっていれば気になる。集合場所へ向かう途中にも、同じ道をついてくる人間がいないか何度も振り返った。
それでも、ここへ戻ることは自分で決めた。
事件を理由に活動をやめれば、恐怖から離れることはできても、恐怖を抱えたままになる。
もう一つ、理由があった。
管理された活動へ参加し続け、何度配信しても白い群れが現れず、亀山自身にも不自然な変化が起きない。それを積み重ねていけば、自分が水門の白い群れを操っているという疑いも、やがて薄れていくはずだった。
一度で証明できるとは思っていない。
疑っている者ほど、何を見せても自分に都合よく解釈する。
なら、普通に仕事を続けるしかない。
「亀山さん、少しいいですか」
声をかけてきたのは村瀬だった。
今回の配信では、制度説明と現場間の調整を担当している。配信中に顔を出す予定はないが、開始前の確認のため現地まで来ていた。
「今回の候補者については、本人の同意を得た範囲で氏名と経歴を公開します。ただし、審査結果は今日の配信中には発表しません」
「後日ですか」
「活動記録と審査映像、帰還後の報告をまとめて確認します。視聴者にも冒頭で説明してください」
「分かりました」
亀山は手元の進行表へ目を落とした。
四級先行認定の目的。正式五級との違い。筆記試験ではなく、実地記録を中心に評価する理由。
説明すべき項目は多いが、最初から役所の文面をそのまま読んでも、誰も聞かないだろう。
自分の言葉に直す必要がある。
進行表の下へカメラを置いたところで、亀山は思い出したように尋ねた。
「今回の候補って、第一陣は六人なんですよね」
「はい」
「戸張さんは、その中にいないんですか」
村瀬は一瞬だけ亀山を見た。
質問を警戒したというより、どこまで答えるべきか考えたようだった。
「今回の六人には含まれていません」
「能力が足りないという判断ですか?」
「個別の選定理由は答えられません」
そこで終わるかと思ったが、村瀬は少し言葉を選んで続けた。
「ただ、能力不足を理由に外したわけではありません。通常の候補者と同じ基準で比較するより、別に扱う必要がある人物だと判断されています」
「別に扱う」
「それ以上はお答えできません」
「分かりました」
亀山も、それ以上は聞かなかった。
通常の比較評価には向かない。
戸張の事情を知っている身からすれば、ずいぶん穏当な表現だった。
候補に入っていないと知れば、秘密主義な彼なら喜びそうだな。
目立たずに済んだと安心し、そのまま誰にも言わず、どこかで次のことを始める姿まで簡単に想像できた。
「配信、二分前です」
管理担当者から声が飛んだ。
亀山は余計な考えを切り上げ、カメラを持った。
表示画面の端には、配信開始を待っている視聴者数が出ている。
まだ始まっていないのに、数字は普段の公式配信よりも速く増えていた。
四級という新しい等級への関心もあるだろう。
拉致未遂事件後、亀山が初めて現場へ戻る配信だから見に来た者も多いはずだ。
「十秒前です」
亀山は一度、息を吐いた。
怖くないふりをするつもりはなかった。
平気な顔で戻ってきたことにしてしまえば、ここへ立つまでに考えたことまで嘘になる。
配信開始を示す表示が点灯した。
「こんにちは、亀山です」
自分の声が、少しだけ硬く聞こえた。
「今日は、異常空間民間調査員の四級先行認定、その実地審査を公式配信でお伝えします。場所や内部情報の一部は、安全上の理由から公開できません。配信が途中で切り替わったり、停止したりする場合があります」
画面上をコメントが流れ始める。
《亀さんだ》
《おかえり》
《元気そうでよかった》
《また現場に出るんだな》
《無理だけはするなよ》
亀山は進行表へ一度目を落とし、用意していた説明から外れた。
「制度の話へ入る前に、一つだけ言わせてください」
流れていたコメントが、わずかに遅くなった。
「今回、自分は依頼されたからここにいるだけではありません。参加するか聞かれて、自分で引き受けました」
言葉を探しながら続ける。
「先日の事件のあと、怖くなくなったわけではありません。今日もここへ来る途中で、周りを何度も確認しました。異常空間の中より、外にいる人の方が気になる瞬間もあります」
「それでも、この活動は続けたいと思っています。現場へ戻ることも、自分にとっては怖さを乗り越えるために必要だと思ったからです」
そこで一度、息を継いだ。
「それと、自分と水門の白い群れに関係があるんじゃないか、という話が今もあるのは知っています。一回の配信で疑いが消えるとは思っていません。ただ、管理された活動に参加し、記録を積み重ねていけば、いずれ関係がないと分かってもらえると思っています」
最後の一つも口にした。
「国側からまた依頼をもらえた時は、正直、ほっとしました。今回も安全を優先して、自分にできることをやります。よろしくお願いします」
画面が一気にコメントで埋まった。
《おかえり亀さん》
《自分で戻るって決めたの偉いよ》
《怖くないって言わないの信用できる》
《公式からまた依頼来てるのが答えだろ》
《一回で証明しようとしなくていい》
《続けていれば見てる方も分かる》
《疑惑は時間をかけて晴らせばいい》
《管理下の仕事を続けるのが一番だと思う》
《無理せず続けてくれ》
《亀さんは亀さんの仕事をしてくれればいい》
《また配信で見られて安心した》
《拉致した奴らのせいで辞める必要ないぞ》
《戻ってきてくれてありがとう》
管理側で弾かれている言葉もあるだろう。
それでも、今見えている言葉の大半は、亀山が戻ってきたことを歓迎していた。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます」
それ以上言うと声が揺れそうで、亀山はすぐに本題へ移った。
「では、今回の四級先行認定について説明します。現在の異常空間民間調査員制度には、五級から一級までの等級があります。ただ、実際に運用されているのは五級が中心です」
「今回始まるのは、正式五級の中から、より広い活動範囲で安定して行動できる人を、四級として認定するための最初の審査です」
《ついに四級》
《ゲームみたいだけど中身は役所》
《何体倒せば昇級?》
《戦闘試験なのかな》
「コメントにもありますが、何体倒せば合格、という試験ではありません」
亀山は資料を見ながら説明を続けた。
「経路の確認、接敵した時の判断、同行者との連携、撤退、帰還後の報告まで含めて評価されます。今は上位等級の前例そのものがないため、二級までの先行認定では、当面、筆記試験を設けず、活動記録と実地評価を中心に審査する方針です」
「これは、筆記や知識が必要ないという意味ではありません。後から二級、三級の試験制度を作るためにも、まずは実地の記録を集める必要がある、という説明を受けています」
《問題を作る側も正解知らないもんな》
《先に実例を集めるのか》
《初期勢が基準を作る感じか》
《実績で上げて後から制度を整えるんだな》
「今日の配信とは別に、制度側の記録担当者が同行します。自分の撮影が止まっても、審査記録が途切れることはありません」
カメラを横へ向ける。
少し離れた場所では、六人が装備確認を行っていた。
四級候補の深町浩一。
同行する正式五級が二人。
審査員が一人。
審査用映像を撮る記録担当者が一人。
そこへ配信担当の亀山を加えた六人で内部へ入る。
「今回、四級候補として実地審査を受ける深町浩一さんです」
深町がカメラの前へ立った。
元陸上自衛官、元二等陸曹。現在は正式五級として活動し、異常空間内で生じる身体能力の変化について、国側の測定にも協力している。
派手な装備はない。
貸与された防具と短槍型の武器。腰には緊急発信器と最低限の携行品があるだけだった。
「深町です。よろしくお願いします」
「配信される中での審査になりますが、緊張はありますか?」
「あります」
即答だった。
「ただ、配信されているからといって、普段と違うことをするつもりはありません。与えられた課程を進め、全員で戻ります」
《全員で戻るが先なんだな》
《落ち着いてる》
《元自衛官か》
《強そう》
深町は配信への挨拶を終えると、すぐに役割確認へ移った。
同行する正式五級の一人は、小型盾と短棒を持つ前方担当。もう一人は短槍を持ち、後方警戒を担当する。
審査員は、危険が差し迫らない限り判断へ介入しない。
記録担当者は装着型カメラと手持ちカメラで、隊列全体を後方から撮影する。
「亀山さんは、前方担当と私の間に入ってください」
「中央ではないんですか?」
「中央に置くと、前後を撮ろうとして隊列から外れる可能性があります。私の前なら、位置を確認できます」
「分かりました」
「配信中でも、移動を優先してください。画面を見るために足元から目を離さないように」
「はい」
「記録担当は審査員の前。後方担当が最後尾です。入口を越えた後も、この順番を維持します」
深町は一人ずつ返事を確認した。
亀山のカメラだけでなく、記録担当者の機材、全員の装着カメラ、通信機器の状態まで見る。
確認が終わると、配信画面に管理側から注意書きが表示された。
映像遅延あり。
所在地非公開。
異常発生時は配信中断。
コメントは現場の判断に反映されない。
「それでは、入ります」
入口を越えると、空気が変わった。
内部は湿った石造りの通路だった。
床には浅く水が溜まり、歩くたびに小さな波が広がる。天井から落ちる雫が規則的に水面を叩き、壁際には白い苔のようなものが帯状に生えていた。
事前説明では、触れないよう指示されている。
今回の課程は、一層の指定経路を進んで三か所の確認地点を回り、一層のボスを処理する。その後、二層へ入り、中間地点に設置された確認標識まで到達して帰還するというものだった。
敵性生物の種類や地形は、ある程度記録されている。
ただし、出現する数や位置まで固定されているわけではない。
深町は最初の分岐で足を止めた。
前方担当が右側を確認する。深町は左と天井を見たあと、後ろを振り返った。
「六人います。右へ進みます」
全員が同時に動き出した。
亀山はカメラ越しに深町を追った。
深町自身は、目立つ動きをほとんどしていない。
分岐で止まる。床に残った水の揺れを見る。前方担当の位置を確かめ、十数歩ごとに後方へ視線を送る。
ただそれだけなのに、深町が止まれば全員が止まり、進めば同時に動いた。
《動き地味だな》
《でも誰も遅れてない》
《後ろ確認する回数多い》
《人数確認を声に出すんだ》
《亀さんの位置も毎回見てる》
第一確認地点までは、接触なしで到達した。
壁面の苔が以前より広がっていることと、床に残った複数の足跡を記録する。
亀山が足跡へカメラを向けている間も、深町は撮影に加わらず、通路の前後を見ていた。
「記録終了です」
記録担当者の声に、深町がうなずいた。
「移動します」
第二確認地点へ向かい始めて間もなく、前方担当が左手を上げた。
全員の足が止まる。
右側の壁にある浅い亀裂から、濁った水が流れ出していた。
その奥で、何かが動く。
「右、二体」
亀裂の中から現れたのは、犬ほどの大きさをした四足型の敵性生物だった。
暗い灰色の皮膚は濡れた石に似ている。前脚が長く、口の左右から細い牙が突き出していた。
一体目が前方担当へ跳びかかる。
「左へ流してください」
深町の指示に、前方担当が盾を斜めに構えた。
敵性生物の身体が盾へ当たり、通路の中央から壁際へ逸れる。
短棒が前脚へ落ちた。
鈍い音とともに、敵性生物の姿勢が崩れる。
二体目は、その横を抜けて亀山の方へ向かってきた。
画面いっぱいに灰色の身体が迫る。
深町が亀山の前へ入った。
短槍の刃ではなく、柄の中央を敵の首元へ当てる。跳びつく勢いを横へずらし、そのまま踏み込んだ。
水が大きく跳ねる。
敵性生物が床へ落ちるより早く、深町の短槍が返った。
刃先が前脚の付け根へ入り、身体を支えていた脚が沈む。
深町は槍を引かず、柄を押し下げて頭部を床へ固定した。
「亀山さん、後ろへ」
「はい」
亀山が距離を取る。
深町は位置を確認してから、首の付け根へ短槍を差し込んだ。
敵性生物の身体が一度大きく震え、動きを止めた。
前方担当も、脚を潰した一体を盾で壁へ押し込み、短棒を頭部へ振り下ろしている。
二体の動きが止まるまで、十秒もかかっていなかった。
《速い》
《今の一歩で亀さんとの間に入った?》
《普通に強いな》
《槍で突くだけじゃないのか》
《最初に脚を潰した》
《連携が早い》
《二体が別方向へ行っても崩れてない》
亀山は倒れた敵性生物を映した後、深町へカメラを向けた。
「今のは、事前に決めていた動きですか?」
「大まかな役割だけです」
深町は短槍の汚れを確認しながら答えた。
「前方担当が一体を止めたので、残った一体へ対応しました」
「こっちへ来るのが分かっていたんですか?」
「前が塞がったので、空いている方へ来る可能性が高いと判断しました」
深町はそれ以上説明せず、全員の位置を確認した。
「負傷者はいません。装備にも異常なし。移動を再開します」
《亀さん守られた》
《予測して先に動いてたのか》
《これが四級候補》
《倒した後にすぐ人数見てる》
《強いけど派手に見せようとしないな》
最初の戦闘を終えてから、隊列の動きが少し変わった。
亀山自身が、深町の位置を意識するようになった。
何か起きれば守ってくれると思ったわけではない。深町がどこを見て、いつ動くのかを、カメラ越しに追いたくなった。
第二確認地点で、床に残った爪痕と、水路を塞ぐ崩落の進行を記録する。
そこからボス部屋へ向かう途中、天井から乾いた石が落ちた。
深町が足を止める。
「上です」
亀山がカメラを向けた先で、天井に張りついていた三体の生物が動いた。
人間の腕ほどの長さがある、平たい虫型だった。
薄い甲殻を石の色に変え、長い脚で天井の凹凸を掴んでいる。
一体が後方へ落ちた。
「記録担当、前へ」
深町が声を上げた。
後方担当が短槍を突き出し、落下してきた虫型を空中で弾く。
床へ落ちたところへ石突きを叩き込み、腹側を上へ向けた。
もう一体は、亀山と前方担当の間に落ちた。
細い脚が亀山の防護服へ伸びる。
亀山は反射的に一歩下がった。
前方担当の盾が横から入り、虫型を壁へ押しつける。
「亀山さん、前へ。立ち止まらないで」
深町の声に従い、亀山は横を抜けた。
三体目が天井から深町へ落ちる。
深町は短槍を両手で持ち、頭上へ水平に構えた。
虫型が槍の柄へしがみつく。
そのまま腕を振り下ろし、床へ叩きつけた。
甲殻が割れる音が響く。
深町は踏みつけて動きを止め、短槍の刃を腹側へ差し込んだ。
前方担当と後方担当も、それぞれ押さえていた個体を処理する。
「三体、停止」
後方担当が告げた。
「全員の装備を確認します」
深町は自分の短槍より先に、亀山の防護服を見た。
虫型の脚が触れた部分に、浅い傷が残っている。
「破断はありません。内部まで届いていません」
「大丈夫です」
「痛みや痺れは?」
「ありません」
他の者にも異常はなかった。
深町は天井を見上げた。
「擬態型の分布が、事前記録より入口側へ移っています。帰還後に報告します」
《二戦目》
《天井怖すぎる》
《亀さん止まらなかったの偉い》
《深町が全部倒すんじゃなくて役割を振ってる》
《記録係を先に逃がしたのか》
《戦闘中も指示が短い》
《四級審査ってこういう所を見るのかな》
ボス部屋の前へ到着した時点で、予定より七分遅れていた。
深町は時刻を確認したが、焦る様子は見せなかった。
「帰還予定には余裕があります。ここで五分休憩します」
「このまま入らないんですか?」
亀山が尋ねる。
「呼吸と装備を整えてから入ります。遅れを取り戻すために、ボス戦前の確認を省く理由はありません」
前方担当が盾の固定具を締め直し、後方担当は短槍の刃を確認する。
亀山も水を一口飲み、カメラの残量を見た。
画面にはコメントが流れ続けている。
《時間押してても休むのか》
《ボス前で焦る方が危ない》
《予定より七分なら余裕あるってことか》
《深町さんずっと時計見てる》
《ここまでは普通に強い》
《ボス戦期待》
休憩を終えると、深町が扉の前に立った。
「内部の個体は、大顎を持つ大型甲虫型一体。確認されている攻撃は正面への突進と、大顎による挟み込み。前方担当が突進を逸らし、後方担当が側面から脚を狙います」
「深町さんは?」
亀山が聞いた。
「全体を見ます。予定どおり崩せるなら、止めを担当します」
「予定どおりでなければ?」
「その場で変えます」
短い返答だった。
「亀山さんと記録担当は、入って右側の壁沿い。審査員はその後ろです。ボスがこちらを向いた場合、撮影を止めて退避してください」
「分かりました」
深町が全員の返事を確認し、扉へ手をかけた。
重い石扉が、低い音を立てて開く。
その先は、これまでの通路よりも広い円形の空間だった。
中央に黒い塊がある。
亀山がカメラを向けると、それがゆっくりと動いた。
大型の甲虫型。
胴体は軽自動車ほどあり、黒褐色の甲殻が幾重にも重なっている。頭部から伸びた二本の大顎は、成人の胴をそのまま挟めそうなほど大きい。
甲虫型が身体を持ち上げた。
六本の脚が床を叩く。
「配置へ」
深町の声と同時に全員が動いた。
亀山は右側の壁へ寄り、甲虫型を画面へ収める。
敵の頭部が前方担当へ向いた。
床を削りながら突進する。
前方担当は正面から受けなかった。
横へ動きながら盾の縁を大顎へ当て、進行方向をずらす。
甲虫型の巨体が僅かに傾いた。
後方担当が左側面へ回り込み、短槍を脚の関節へ突き入れる。
刃先が浅く入った。
甲虫型が身体を振り、後方担当を弾こうとする。
「離れて」
深町の声に、後方担当が槍を抜いて下がった。
大顎が空を挟む。
硬い音が部屋に響いた。
《でかい》
《これ一層ボス?》
《軽自動車くらいないか》
《盾で正面から受けてない》
《脚を狙うのか》
甲虫型が向きを変えた。
今度は後方担当へ突進する。
深町が側面から短槍を伸ばし、傷ついた脚の関節へ刃を差し込んだ。
身体ごと踏み込み、槍を捻る。
関節が割れ、一本の脚が沈んだ。
甲虫型の巨体が傾く。
だが、倒れきらなかった。
残った脚で強引に身体を支え、大顎を深町へ振る。
深町は後ろへ逃げず、大顎の内側へ踏み込んだ。
長い刃先ではなく、槍の柄を両手で持ち、大顎の付け根へ押し当てる。
閉じようとする二本の顎が、深町の左右で止まった。
「今です」
前方担当が盾を甲虫型の頭部へ叩きつける。
後方担当が反対側の前脚へ短槍を突き入れた。
二本目の脚が崩れ、甲虫型の頭部が床へ落ちた。
深町は大顎の間から身体を抜き、首元へ回り込む。
甲殻の重なりに短槍の穂先を差し込んだものの、隙間が狭い。刃は硬い表面を滑り、内部まで届かなかった。
「頭を押さえてください」
前方担当が盾を大顎の付け根へ押し当てた。
後方担当も崩れた脚側から短槍の柄を差し入れ、巨体が起き上がらないよう固定する。
甲虫型が身を捩る。
黒褐色の甲殻同士が擦れ、首元の重なりが僅かに開いた。
「そのまま」
深町は短槍を引き、開いた合わせ目へ刃を横向きに差し入れた。
そのまま首の周囲に沿わせて、内側を切り払う。
甲虫型の六本の脚が一斉に床を掻いた。
前方担当は盾を離さず、後方担当も巨体を押さえ続ける。
深町が短槍を抜いて距離を取ると、甲虫型は頭部を持ち上げようとした。
だが、片側の脚が床を擦っただけで、身体は起き上がらない。
大顎が一度閉じ、鈍い音を立てた。
残った脚の動きも、徐々に弱くなっていく。
深町は短槍を構えたまま数秒待った。
「停止を確認。まだ近づかないでください」
部屋の中に、三人の荒い呼吸だけが残った。
亀山はカメラを深町たちへ向けた。
三人とも無傷だった。
前方担当の盾には深い傷が入り、後方担当の短槍にも甲殻の欠片が付いている。
《倒した》
《普通にすげえ》
《大顎の内側に入ったぞ》
《あれ怖すぎる》
《押さえて隙間を作ったのか》
《一人で倒したんじゃなくて三人で崩した》
《深町さんが止め役なのか》
《盾と槍の連携が早い》
《これが正式五級の上位か》
《四級候補、戦闘力もちゃんとあるんだな》
亀山は深町の近くまで移動した。
「最後に大顎の内側へ入りましたよね」
「外側へ下がるより、振られる範囲が狭いと判断しました」
「失敗したら挟まれていましたよね」
「はい」
深町は簡単に認めた。
「ただ、脚が二本とも崩れる直前でした。前方担当と後方担当が予定どおり動けていたので、止められると判断しました」
自分一人ならできた、とは言わなかった。
亀山が何か続けて尋ねる前に、深町は盾と二本の短槍を確認した。
「前方担当の盾は交換が必要です。予備へ替えます。二層へ入る前に十五分休憩します」
《もう二層行くのか》
《ボス倒して終わりじゃないんだ》
《一層だけでも十分試験になってるだろ》
《ここから二層半ばまで行く予定か》
《戦えるのは分かった》
《後は判断力を見る感じかな》
一層のボス部屋の奥には、下へ続く石段があった。
これまでの通路よりも暗く、階段の下から冷たい空気が流れてくる。
深町は休憩中、誰よりも先に階段へ近づくことはなかった。
装備を交換し、水分を取り、全員の疲労と残り時間を確認する。
亀山も壁際へ座り、保存されている配信映像を短く見返した。
四足型二体。
天井の虫型三体。
そして一層のボス。
一層だけで三度の戦闘があった。
深町はそのすべてで前へ出ていたが、同じ戦い方は一度もしていない。
亀山を狙った敵には自分で入り、頭上からの奇襲では全員へ役割を振り、ボス戦では二人の正式五級と動きを合わせた。
強い。
少なくとも、戦えないから慎重に動いているわけではない。
「亀山さん」
深町に呼ばれ、亀山は顔を上げた。
「そろそろ移動します。二層は一層より未確認部分が多い。配信中でも、こちらの指示を優先してください」
「分かりました」
「ここからが、今日の審査です」
深町は階段の下へ目を向けた。
一層では、記録されている敵を処理し、既知のボスを倒した。
二層から先は、出現する敵の数も、位置も、記録どおりとは限らない。
亀山はカメラを持ち直した。
コメント欄にも、同じ空気が伝わったらしい。
《今までが前半?》
《ここから本番か》
《戦えるのはもう分かった》
《二層は何が出るんだ》
《亀さん無理するなよ》
《全員で帰ってこい》
深町が先頭の正式五級へ合図を送る。
六人は隊列を組み直し、一層のボス部屋を後にした。
石段を下りるにつれ、背後から届いていた光が少しずつ細くなる。
二層の入口は、冷たい霧の向こうにあった。




