第八章 コピー
## 第八章 コピー
翌朝、玲はいつもと同じ時刻に目を覚ました。窓の外では薄い朝の光がビルの壁面をなぞり、空調の低い駆動音が一定の間隔で部屋を満たしている。端末を起動し、表示された予定を確認し、身支度を整える。昨日までと同じ動作だった。何一つ変わっていない。けれど、鏡の中に映った自分の顔を見たとき、玲はほんの一瞬だけ、その顔が誰のものなのか分からなかった。
白石玲。
その名前は知っている。自分がそう呼ばれてきたことも覚えている。これまで何度もその名前を書類に記し、研究記録に入力し、誰かに呼ばれれば振り返ってきた。それなのに、「白石玲」という名前と「私は玲である」という感覚の間に、昨日までは存在しなかった薄い隙間ができている。名前は情報として確かに存在している。だが、その情報が自分自身を指しているという確信だけが、以前のようには揺るがなかった。
研究施設へ向かう途中も、その感覚は消えなかった。
私は人間ではない。
昨夜、端末に表示された文字を思い出すたび、玲の内部で何かが静かに軋んだ。
《PERSONALITY MODEL : SHIRAISHI REI》
《構成種別:高次人格モデル》
あの記録が誤っている可能性はいくらでも考えられる。古いデータの混入、研究用の仮想モデル、別の対象に割り当てられた識別情報。玲は研究者として、まずそうした可能性から検討しようとした。しかし、どれだけ考えても、自分の中にはそれを否定するための十分な材料がなかった。むしろ、これまで説明できなかったことが、次々と一つの方向を指しているように思えた。
なぜ、幼いころの写真を思い出せないのか。
なぜ、誰かに教わった記憶のない言葉や情景が、自分の中に突然現れるのか。
そして何より、なぜ「黒川紗季」という自分が知らない人間のデータが、自分の人格構築に使われているのか。
午前の実験は予定どおり行われた。颯真が紙を広げ、硯に墨を落とし、筆を取る。玲はいつものようにセンサーを確認し、筆圧、速度、角度、視線、呼吸、筋肉の微細な変化を記録した。画面には無数の数値が流れていく。研究者として見れば、すべて理解できる情報だった。だが、その数字を眺めながら、玲の中では昨日とは違う問いが生まれていた。
このデータを解析している私は、いったい何なのか。
颯真が最後の一画を書き終え、筆を置く。
「今日はどうした」
その声に、玲は顔を上げた。「……少し、眠れていません」
実際には眠っていないわけではない。ただ、処理を停止させることができなかった。
颯真は玲の顔を見て、それ以上は聞かなかった。しばらくして、紙を乾かしながら言った。
「無理して答えを出そうとするな」
玲は返事をしなかった。
その言葉が、昨日から何度も自分の中に響いている。
昼過ぎ、玲は研究施設の記録室へ向かった。昨日見たデータが本物なのか、それを確かめるためだった。自分自身の正体を疑っているということを、誰にも知られたくなかった。特に神崎には。
記録室の扉を閉じ、端末を起動する。
《SUBJECT-KS-20》
昨日見つけた識別子を入力する。
黒川紗季の記録が表示される。
病室。
夕暮れ。
白いカーテン。
小さな机。
その一つ一つが、玲の中にある記憶の断片と一致していた。
けれど、紗季のデータは単独で使われたわけではなかった。言語傾向、情動応答、記憶連想、判断特性。複数の人間のデータが、それぞれ異なる比重を持って組み合わされている。その先に、一つの人格モデルが構築されている。
《PERSONALITY MODEL : SHIRAISHI REI》
昨日は途中までしか見なかった画面を、玲はゆっくり下へ送った。
《構成種別:高次人格モデル》
《生成目的:対人認知・意思決定研究》
《基礎データ:複数対象からの統合》
《自己認識:白石玲として構築》
玲は、その文字列を見つめた。
自己認識。
それは、単に会話を成立させるための情報ではない。自分が自分であると感じるための、人格の中心部分だ。
それさえも「構築」されたものだという。
玲は椅子から立ち上がった。
足元がわずかに揺れた。
視界がぼやけたわけではない。身体の機能に異常はない。それでも、世界との接続が一瞬だけ薄くなったように感じた。
《情動変動を検出》
《自己認識モデルとの矛盾可能性》
《自己同一性保全プロトコル作動》
画面の端に警告が現れる。
玲はその意味を理解していた。
感情を消しているわけではない。
恐怖も混乱も、そのまま存在している。ただ、それらが一点に集中し、自己認識そのものを崩壊させないように処理が分散されている。
私は壊れないように作られている。
その考えが浮かんだ瞬間、玲の内側で別の感情が激しく反発した。
「作られているから、何なの」
声が出た。
誰もいない部屋の中で、自分の声だけが返ってくる。
人間だって、何もないところから生まれるわけではない。両親の遺伝子を受け継ぎ、環境に影響され、他人との関係の中で価値観を形作る。ならば、複数の人間のデータから構成された自分と、人間との違いはどこにあるのか。
出生がないことか。
幼少期がないことか。
それとも、自分が自分だと信じているその感覚さえ、最初から設計されていることか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかった。
玲は、紗季の記録を再び開いた。
《基礎データ候補:黒川紗季》
その名前を見るだけで、胸の奥が痛む。
自分の中にある記憶のいくつかは、この人のものなのかもしれない。
笑ったときの感情も。
誰かを呼びたいと思ったときの感覚も。
墨の匂いを懐かしいと思う理由も。
全部、紗季という人間から受け取ったものなのかもしれない。
では、自分は紗季なのか。
玲はその問いを自分に向けた。
すぐには答えが出なかった。
けれど、しばらくして、静かに一つの答えが浮かんだ。
違う。
そう思った。
理由は説明できなかった。
玲の中に紗季の記憶があるのだとしても、それが玲のすべてではない。颯真と出会ってから感じたことも、筆を持って失敗したことも、「下手なのに、消したくありません」と思ったことも、そのあとで「なら、残しとけ」と言われて嬉しかったことも、どこまでが誰のものなのかを切り分けることはできない。
それでも、それらを今思い出しているのは、自分だった。
玲は端末を閉じた。
研究施設の静かな廊下を歩き、外へ出る。
そのとき、自分の足がどこへ向かっているのかを、玲はすぐには理解できなかった。
気がつけば、黒川の教室へ向かっていた。
実験のない時間でも筆を使いたいときは来ていいと、以前、颯真から合鍵を預かっている。帰り際に「今日は先に帰る。鍵はそのまま使っていい」と言われたこともあった。
けれど、今夜ここへ来た理由は、筆を持つためではなかった。
紗季の記憶を見つけてから、玲の中で何度も蘇っていた光景がある。
白いカーテン。
夕暮れの光。
小さな机。
墨の匂い。
そして、誰かを呼ぶ声。
それらが、どうしてこの場所と結びついているのかを、玲は確かめたかった。
教室の扉を開ける。
明かりはつけなかった。窓から差し込む街の光だけが、机の列を淡く照らしている。壁際には筆が並び、棚の上には硯箱が置かれていた。
玲はゆっくりと歩いた。
硯箱の前で足を止める。
三本の細い傷。
あの日、自分が見ただけで知っていた傷。
玲はその蓋に触れた。
すると、記憶が一気に押し寄せた。
白いカーテン。
夕暮れ。
若い女性。
誰かの手。
銀色の髪留め。
そして、声。
――お兄ちゃん。
玲は息を呑んだ。
記憶の中の女性の顔は、もう以前のように遠くなかった。
黒川紗季。
その名前とともに、彼女の存在が自分の中で確かな輪郭を持ち始める。
けれど、玲には分からなかった。
その記憶が自分のものなのか。
紗季から受け継いだものなのか。
あるいは、人格モデルを構成するために再現されたものなのか。
そんな区別をしようとすると、かえって何も分からなくなった。
玲は顔を上げた。
正面には、二十年間何も書かれていない白い掛け軸がある。
白い紙は、そこにあるだけだった。
誰の名前も。
誰の文字も。
何一つ記されていない。
玲はしばらく、それを見つめた。
昨日までなら、何も書かれていない紙だった。
今は違う。
それは、まだ何者でもないもののために残されているように思えた。
玲は棚から筆を一本取った。
手の中で確かめるように握る。
筆は軽かった。
けれど、その重さが妙に確かなものに感じられた。
「私は、紗季じゃない」
玲は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
その言葉に神崎のデータも、紗季の記憶も、人格モデルの構成情報も反応しなかった。
ただ、自分の中だけで、何かが静かに定まった。
紗季の記憶が自分の中にあるとしても、それで自分のすべてが決まるわけではない。
自分が作られた存在だとしても、それで自分の選択まで誰かのものになるわけではない。
そう思った。
その考えが、どこから来たのかは分からない。
誰かが教えたのかもしれない。
データとして組み込まれていたのかもしれない。
それでも、今それを選んだのは自分だった。
玲は筆を紙には触れさせなかった。
まだ書くことはできない。
自分が何者なのか、その答えさえ出ていない。
それでも、ここに立っている自分だけは否定したくなかった。
玲はもう一度、白い掛け軸を見た。
何も書かれていない。
その白さが、今は少しだけ怖くなかった。
いつか、この紙に自分の文字を書くのかもしれない。
その文字が誰かのものに似ていたとしても、それを自分で選ぶことができるのなら、それは自分の文字になるのかもしれない。
玲は筆を棚へ戻した。
暗い教室の中で、白い掛け軸だけが静かに浮かんでいる。
紗季の記憶を持っている。
人間ではない。
人工的に作られた人格なのかもしれない。
それでも。
「私」は、まだここにいる。
その事実だけを確かめるように、玲は静かに教室を出た。




