↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/12

第八章 コピー

## 第八章 コピー


 翌朝、玲はいつもと同じ時刻に目を覚ました。窓の外では薄い朝の光がビルの壁面をなぞり、空調の低い駆動音が一定の間隔で部屋を満たしている。端末を起動し、表示された予定を確認し、身支度を整える。昨日までと同じ動作だった。何一つ変わっていない。けれど、鏡の中に映った自分の顔を見たとき、玲はほんの一瞬だけ、その顔が誰のものなのか分からなかった。

 白石玲。

 その名前は知っている。自分がそう呼ばれてきたことも覚えている。これまで何度もその名前を書類に記し、研究記録に入力し、誰かに呼ばれれば振り返ってきた。それなのに、「白石玲」という名前と「私は玲である」という感覚の間に、昨日までは存在しなかった薄い隙間ができている。名前は情報として確かに存在している。だが、その情報が自分自身を指しているという確信だけが、以前のようには揺るがなかった。

 研究施設へ向かう途中も、その感覚は消えなかった。

 私は人間ではない。

 昨夜、端末に表示された文字を思い出すたび、玲の内部で何かが静かに軋んだ。

 《PERSONALITY MODEL : SHIRAISHI REI》

 《構成種別:高次人格モデル》

 あの記録が誤っている可能性はいくらでも考えられる。古いデータの混入、研究用の仮想モデル、別の対象に割り当てられた識別情報。玲は研究者として、まずそうした可能性から検討しようとした。しかし、どれだけ考えても、自分の中にはそれを否定するための十分な材料がなかった。むしろ、これまで説明できなかったことが、次々と一つの方向を指しているように思えた。

 なぜ、幼いころの写真を思い出せないのか。

 なぜ、誰かに教わった記憶のない言葉や情景が、自分の中に突然現れるのか。

 そして何より、なぜ「黒川紗季」という自分が知らない人間のデータが、自分の人格構築に使われているのか。

 午前の実験は予定どおり行われた。颯真が紙を広げ、硯に墨を落とし、筆を取る。玲はいつものようにセンサーを確認し、筆圧、速度、角度、視線、呼吸、筋肉の微細な変化を記録した。画面には無数の数値が流れていく。研究者として見れば、すべて理解できる情報だった。だが、その数字を眺めながら、玲の中では昨日とは違う問いが生まれていた。

 このデータを解析している私は、いったい何なのか。

 颯真が最後の一画を書き終え、筆を置く。

 「今日はどうした」

 その声に、玲は顔を上げた。「……少し、眠れていません」

 実際には眠っていないわけではない。ただ、処理を停止させることができなかった。

 颯真は玲の顔を見て、それ以上は聞かなかった。しばらくして、紙を乾かしながら言った。

 「無理して答えを出そうとするな」

 玲は返事をしなかった。

 その言葉が、昨日から何度も自分の中に響いている。

 昼過ぎ、玲は研究施設の記録室へ向かった。昨日見たデータが本物なのか、それを確かめるためだった。自分自身の正体を疑っているということを、誰にも知られたくなかった。特に神崎には。

 記録室の扉を閉じ、端末を起動する。

 《SUBJECT-KS-20》

 昨日見つけた識別子を入力する。

 黒川紗季の記録が表示される。

 病室。

 夕暮れ。

 白いカーテン。

 小さな机。

 その一つ一つが、玲の中にある記憶の断片と一致していた。

 けれど、紗季のデータは単独で使われたわけではなかった。言語傾向、情動応答、記憶連想、判断特性。複数の人間のデータが、それぞれ異なる比重を持って組み合わされている。その先に、一つの人格モデルが構築されている。

 《PERSONALITY MODEL : SHIRAISHI REI》

 昨日は途中までしか見なかった画面を、玲はゆっくり下へ送った。

 《構成種別:高次人格モデル》

 《生成目的:対人認知・意思決定研究》

 《基礎データ:複数対象からの統合》

 《自己認識:白石玲として構築》

 玲は、その文字列を見つめた。

 自己認識。

 それは、単に会話を成立させるための情報ではない。自分が自分であると感じるための、人格の中心部分だ。

 それさえも「構築」されたものだという。

 玲は椅子から立ち上がった。

 足元がわずかに揺れた。

 視界がぼやけたわけではない。身体の機能に異常はない。それでも、世界との接続が一瞬だけ薄くなったように感じた。

 《情動変動を検出》

 《自己認識モデルとの矛盾可能性》

 《自己同一性保全プロトコル作動》

 画面の端に警告が現れる。

 玲はその意味を理解していた。

 感情を消しているわけではない。

 恐怖も混乱も、そのまま存在している。ただ、それらが一点に集中し、自己認識そのものを崩壊させないように処理が分散されている。

 私は壊れないように作られている。

 その考えが浮かんだ瞬間、玲の内側で別の感情が激しく反発した。

 「作られているから、何なの」

 声が出た。

 誰もいない部屋の中で、自分の声だけが返ってくる。

 人間だって、何もないところから生まれるわけではない。両親の遺伝子を受け継ぎ、環境に影響され、他人との関係の中で価値観を形作る。ならば、複数の人間のデータから構成された自分と、人間との違いはどこにあるのか。

 出生がないことか。

 幼少期がないことか。

 それとも、自分が自分だと信じているその感覚さえ、最初から設計されていることか。

 考えれば考えるほど、答えは遠ざかった。

 玲は、紗季の記録を再び開いた。

 《基礎データ候補:黒川紗季》

 その名前を見るだけで、胸の奥が痛む。

 自分の中にある記憶のいくつかは、この人のものなのかもしれない。

 笑ったときの感情も。

 誰かを呼びたいと思ったときの感覚も。

 墨の匂いを懐かしいと思う理由も。

 全部、紗季という人間から受け取ったものなのかもしれない。

 では、自分は紗季なのか。

 玲はその問いを自分に向けた。

 すぐには答えが出なかった。

 けれど、しばらくして、静かに一つの答えが浮かんだ。

 違う。

 そう思った。

 理由は説明できなかった。

 玲の中に紗季の記憶があるのだとしても、それが玲のすべてではない。颯真と出会ってから感じたことも、筆を持って失敗したことも、「下手なのに、消したくありません」と思ったことも、そのあとで「なら、残しとけ」と言われて嬉しかったことも、どこまでが誰のものなのかを切り分けることはできない。

 それでも、それらを今思い出しているのは、自分だった。

 玲は端末を閉じた。

 研究施設の静かな廊下を歩き、外へ出る。

 そのとき、自分の足がどこへ向かっているのかを、玲はすぐには理解できなかった。

 気がつけば、黒川の教室へ向かっていた。

 実験のない時間でも筆を使いたいときは来ていいと、以前、颯真から合鍵を預かっている。帰り際に「今日は先に帰る。鍵はそのまま使っていい」と言われたこともあった。

 けれど、今夜ここへ来た理由は、筆を持つためではなかった。

 紗季の記憶を見つけてから、玲の中で何度も蘇っていた光景がある。

 白いカーテン。

 夕暮れの光。

 小さな机。

 墨の匂い。

 そして、誰かを呼ぶ声。

 それらが、どうしてこの場所と結びついているのかを、玲は確かめたかった。

 教室の扉を開ける。

 明かりはつけなかった。窓から差し込む街の光だけが、机の列を淡く照らしている。壁際には筆が並び、棚の上には硯箱が置かれていた。

 玲はゆっくりと歩いた。

 硯箱の前で足を止める。

 三本の細い傷。

 あの日、自分が見ただけで知っていた傷。

 玲はその蓋に触れた。

 すると、記憶が一気に押し寄せた。

 白いカーテン。

 夕暮れ。

 若い女性。

 誰かの手。

 銀色の髪留め。

 そして、声。

 ――お兄ちゃん。

 玲は息を呑んだ。

 記憶の中の女性の顔は、もう以前のように遠くなかった。

 黒川紗季。

 その名前とともに、彼女の存在が自分の中で確かな輪郭を持ち始める。

 けれど、玲には分からなかった。

 その記憶が自分のものなのか。

 紗季から受け継いだものなのか。

 あるいは、人格モデルを構成するために再現されたものなのか。

 そんな区別をしようとすると、かえって何も分からなくなった。

 玲は顔を上げた。

 正面には、二十年間何も書かれていない白い掛け軸がある。

 白い紙は、そこにあるだけだった。

 誰の名前も。

 誰の文字も。

 何一つ記されていない。

 玲はしばらく、それを見つめた。

 昨日までなら、何も書かれていない紙だった。

 今は違う。

 それは、まだ何者でもないもののために残されているように思えた。

 玲は棚から筆を一本取った。

 手の中で確かめるように握る。

 筆は軽かった。

 けれど、その重さが妙に確かなものに感じられた。

 「私は、紗季じゃない」

 玲は、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 その言葉に神崎のデータも、紗季の記憶も、人格モデルの構成情報も反応しなかった。

 ただ、自分の中だけで、何かが静かに定まった。

 紗季の記憶が自分の中にあるとしても、それで自分のすべてが決まるわけではない。

 自分が作られた存在だとしても、それで自分の選択まで誰かのものになるわけではない。

 そう思った。

 その考えが、どこから来たのかは分からない。

 誰かが教えたのかもしれない。

 データとして組み込まれていたのかもしれない。

 それでも、今それを選んだのは自分だった。

 玲は筆を紙には触れさせなかった。

 まだ書くことはできない。

 自分が何者なのか、その答えさえ出ていない。

 それでも、ここに立っている自分だけは否定したくなかった。

 玲はもう一度、白い掛け軸を見た。

 何も書かれていない。

 その白さが、今は少しだけ怖くなかった。

 いつか、この紙に自分の文字を書くのかもしれない。

 その文字が誰かのものに似ていたとしても、それを自分で選ぶことができるのなら、それは自分の文字になるのかもしれない。

 玲は筆を棚へ戻した。

 暗い教室の中で、白い掛け軸だけが静かに浮かんでいる。

 紗季の記憶を持っている。

 人間ではない。

 人工的に作られた人格なのかもしれない。

 それでも。

 「私」は、まだここにいる。

 その事実だけを確かめるように、玲は静かに教室を出た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。