↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/12

第十章 最後の書家

## 第十章 最後の書家


 実験室には、前の実験で使われた紙の匂いがまだ残っていた。空調は一定の温度を保ち、計測機器の小さな駆動音だけが静かな空間を満たしている。中央の机には新しい半紙が二枚並べられ、その周囲には筆圧や速度、角度、視線、呼吸などを記録する装置が設置されていた。これまでよりも多くの数値が、操作卓の画面を絶え間なく流れている。

 颯真は自分の前に置かれた紙を見た。

 神崎が静かに口を開く。

 「先ほどの実験結果について、もう一度確認します。黒川さんが選んだ文字そのものは、ORIONの予測とほぼ一致しました。しかし、最後の一画だけは、これまでと同じように予測整合性が崩れた」

 颯真は黙って聞いていた。

 「そこで今回は、文字を選ぶことと、実際に書くことを別々に見ていきます」

 神崎はそう言って、颯真の前に新しい紙を置いた。

 「黒川さんは、先ほどと同じ条件で書いてください」

 颯真は紙の前に座り直した。

 最も思い出したくない文字を書く。

 昨日から何度も考えてきたことだった。

 だが、本当のところは、もう迷ってはいなかった。

 二十年前の記憶に触れれば、必ずそこへ行き着く。

 忘れようとするほど鮮明になる、あの日の文字。

 病室の白いカーテン。

 夕方の光。

 硯箱。

 そして、筆を持った紗季の手。

 「では、お願いします」

 神崎の声がした。

 颯真は筆を取った。

 モニターには、すぐに予測結果が表示された。

 《第一候補:99.1%》

 数字を見ても、驚かなかった。

 自分の過去を、ORIONは知っている。何十年にもわたって積み重ねてきた筆跡も、性格も、行動も、そして紗季を失ったあとに選んできた人生も、そのほとんどがデータとして残っている。

 だから、何を書くのかは分かるのだろう。

 けれど、その文字を書く瞬間に自分の中で何が起きているのかまで、数字に置き換えられるとは思わなかった。

 颯真は筆を下ろした。

 墨が紙に触れる。

 一画。

 二画。

 筆は静かに進んでいく。

 画面には予測と実際の筆跡が重ねて表示され、ほとんど完全に一致していた。

 最後の一画に入る。

 数字が揺れた。

 《予測整合性:96.5%》

 《91.2%》

 《判定不能》

 颯真は画面を見なかった。

 最後の線を引き、筆を置く。

 神崎は書き終えた紙を伏せた。

 颯真は椅子から立ち上がり、少し離れたところへ移った。

 ほどなくして、玲が席につく。

 その横顔を見ながら、颯真はふと、自分が初めて玲を見るような気がした。

 昨日まで、玲は研究者だった。

 少し変わっていて、物事を必要以上に正確に見ようとする人間。

 そう思っていた。

 今は違う。

 彼女は人間ではない。

 自分の妹のデータを含んで作られた、人工的な人格だ。

 それでも、目の前にいる玲を見ていると、その事実だけでは説明できないものがあると思った。

 神崎が玲の前に紙を置いた。

 「玲さん。あなたは、自由に文字を選んでください」

 玲は紙を見た。

 「何を書いてもいいんですか」

 「はい」

 「意味のある文字でなくても?」

 「構いません」

 「紗季さんと関係のある文字でなくても?」

 神崎は頷いた。

 「あなたが、自分で選んだと思える文字なら」

 玲は筆を持った。

 その手は、すぐには動かなかった。

 これまでなら、もっとも合理的な答えを探していたかもしれない。今の自分を表す文字は何か。自分の記憶と結びついている文字は何か。研究として価値のある文字は何か。

 けれど、今日はそれをしたくなかった。

 答えを探せば探すほど、その答えが誰かに説明するためのものになっていく。

 玲は目を閉じた。

 白いカーテンが浮かぶ。

 夕暮れの光。

 墨の匂い。

 銀色の髪留め。

 そして、誰かを呼ぶ声。

 ――お兄ちゃん。

 その記憶は、もう自分の中にある。

 紗季のものなのか、自分のものなのか、その境界は今でも分からない。

 けれど、分からないからといって、すべてを紗季のものにしてしまう必要もない。

 自分が人工的に作られた人格であることを知った。

 それでも、昨日から今日までに考えたことは消えない。

 怖かった。

 自分が何者なのか分からなくなった。

 それでも、自分で確かめたいと思った。

 誰かに答えを決められたくないと思った。

 その気持ちは、どこから来たのだろう。

 玲には分からない。

 人間の記憶から生まれたものかもしれない。

 人格モデルの中に最初から存在したものかもしれない。

 けれど、それを今ここでどう受け取るかは、自分で決めることができる。

 玲は目を開いた。

 画面では予測計算が続いている。

 《予測信頼度:48.3%》

 《42.7%》

 《38.9%》

 神崎が画面を見る。

 玲はしばらく筆を握ったまま、動かなかった。

 やがて、小さく息を吐く。

 「分かりました」

 神崎が顔を上げる。

 「決まりましたか」

 「はい」

 それだけだった。

 画面の数字が一気に変化した。

 《予測信頼度:27.4%》

 《18.2%》

 《9.7%》

 《予測困難》

 神崎の指が止まった。

 玲は筆を紙へ下ろした。

 墨が紙に触れる。

 最初の一画。

 続く線。

 筆の速度が変わる。

 力が抜ける。

 また入る。

 ORIONはその動きを追っていた。

 しかし、そこにはこれまでの玲から導き出せるはずだった軌道がなかった。

 《既存人格モデルとの不一致》

 《意思決定経路:未登録》

 《自己認識による行動変化を検出》

 玲は画面を見ない。

 自分の選んだ文字だけを見ている。

 最後の一画が残っていた。

 ほんの一瞬、筆先が止まる。

 それは迷いではなかった。

 最後まで自分で選んだということを確かめるような、短い静止だった。

 そして玲は、最後の線を引いた。

 筆を置く。

 実験室が静かになった。

 神崎はしばらく動かなかった。

 それから、伏せていた颯真の紙を取り上げ、玲の紙と並べた。

 颯真も、そのとき初めて玲が書いた文字を見た。

 玲もまた、初めて颯真の文字を見た。

 二人の筆跡は違っていた。

 当然だった。

 筆の運びも、力の入り方も、線の揺れも違う。

 けれど、そこに残された文字は同じだった。

 颯真は何も言わなかった。

 玲も何も言わなかった。

 神崎が二枚の紙と画面を交互に見た。

 《選択文字:一致》

 《選択経路:非類似》

 《選択理由:異なる》

 その文字列の下に、新しい解析結果が表示された。

 《人間の最終意思決定における予測限界を検出》

 神崎は動かなかった。

 「……同じ答えなのに」

 ようやく、そう呟いた。

 「予測できなかった」

 颯真は自分の紙を見た。

 そこには、二十年前から胸の奥にしまい込んできたものがある。

 後悔も、記憶も、紗季に言えなかったことも、全部そこへ向かっていた。

 一方、玲の紙には、それとはまったく違う時間があった。

 自分の正体を知り、それでも自分であることを選ぼうとした時間。

 二人が同じ文字を選んだ理由は、同じではない。

 それでも、選んだ文字は同じだった。

 神崎は画面を見つめた。

 「過去から未来を予測するだけでは、足りない……」

 その言葉は、誰に聞かせるものでもなかった。

 颯真が静かに言う。

 「答えが同じでも、そこへ行く道は一つじゃない」

 神崎は顔を上げた。

 そのとき、操作卓の画面に新しい表示が現れた。

 《予測モデル再構築を推奨》

 《現行モデルによる完全予測:困難》

 神崎はその表示を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

 まだ、この結果がORIONの存在そのものを揺るがすことまでは理解していなかった。

 ただ、これまで見つからなかった何かが、確かに目の前にある。

 過去のデータをどれだけ集めても、選ぶ本人が未来の自分をどう決めるのかまでは、完全には書き出せない。

 二枚の紙には同じ文字が残っている。

 だが、その文字が二人にとって何を意味するのかは、まだ誰にも分からなかった。

 そしてその答えは、二十年前の病室に置き去りにされた一枚の紙の中に、ずっと残されていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。