3-14話:深淵の静寂
アイゼン・ガルド砦を揺らしていた怒号も、魔法が炸裂する轟音も、今はもう遠い。 崖の縁を蹴り、奈落へと身を投げた瞬間から、世界は劇的な変貌を遂げていた。
ヒュオオォォ……と耳元を掠めていく風の音だけが、世界のすべてになったかのような錯覚。 だんだんと、戦場での音が遠ざかり、ついには消失していく。重力に従って落下していく加速感の中、レオの耳に届くのは、自分自身の焦燥に満ちた荒い呼吸と、喉の奥で鳴る激しい鼓動の音だけだった。
「アリーシャ!!」
レオが叫ぶ。その声は崖の壁面にぶつかり、幾重にも反響して闇の底へと吸い込まれていった。 視界の先、数メートル下を落下していくアリーシャの背中。彼女を包む黒い呪いの霧が、まるで彼女を死の国へと引きずり込もうとする影の手のように見えて、レオの胸を締め付ける。
(あと少し……あと少しなんだ……ッ!)
レオは空中での制御を強引に行うべく、反対側の壁を思い切り蹴り飛ばした。肉体が悲鳴を上げるほどの衝撃。だが、その反動を利用して、彼はアリーシャとの距離を強引に詰め寄る。
「アリーシャアア!!」
魂を振り絞るような再度の叫び。 その時、衝撃と呪いの痛みで意識を失っていたアリーシャが、うっすらと、微かにその瞳を開けた。 霞む視界の中で彼女が見たのは、自分を救うために必死に手を伸ばし、狂おしいほどに名前を呼び続ける少年の姿。
「マ、マスター……」
弱々しく、消え入りそうな声。 それでも彼女は、残された最後の力を振り絞り、自分へと伸ばされたその手に応えるように、ゆっくりとレオの方へ右手を伸ばした。
刹那、二人の指先が触れ合い、レオはその掌をがっしりと、二度と離さぬという決意を込めて掴み取った。
「捕まえた……っ! 離さない、絶対に!!」
レオはアリーシャの細い身体を引き寄せ、自らの胸の中に固く抱きかかえる。 そのまま自由な方の手で錬金銃を『ブレードモード』へと変形させ、剥き出しの岩肌に向かって渾身の力で突き刺した。
ガガガガガギギィィィィッ!!
岩を削る耳障りな金属音。激しい火花が散り、レオの腕に、アリーシャを抱える荷重と落下エネルギーのすべてが襲い掛かる。
「くっ……う、あああぁぁぁ!!」
腕の筋肉が断裂するかのような激痛。骨が軋む音が、レオ自身の体の中から聞こえる。 だが、彼は歯を食いしばり、顔を歪めながら耐え抜いた。たとえこの片腕が砕けようとも、二度と使い物にならなくなろうとも、この腕の中にいる彼女を離すという選択肢は、今のレオには微塵も存在しなかった。
下方に目を向けると、立ち込める霧の向こう側に、薄暗い地面らしき影が見えてきた。 この速度で激突すれば、受け身を取っても無事では済まない。
「……火よ!!」
レオは障害物になりそうな大きな岩塊を見つけると、そこへ向かって『フレイムショット』を至近距離で放った。 ドォォォォンッ! 爆風が二人を押し上げるように吹き荒れる。レオはその反動をパラシュート代わりにして落下速度を極限まで殺し、最後は自らの脚をクッションにして地面へと着地した。
「……はぁっ、はぁっ……アリーシャ! アリーシャ!!」
地面にアリーシャを横たえたレオは、一刻の猶予もないと判断し、すぐさま『ヒールバレット』を彼女に撃ち込んだ。
淡い緑色の輝きがアリーシャの全身を包み込む。 擦り傷や打撲、そして失われていた体力が急速に癒されていくのが分かった。だが、彼女の右横腹、ヘルヴィーナの魔手が触れた場所だけは、不気味な黒ずみが消えることなく、血管のように脈打っていた。
「……呪い、か。やっぱり普通のヒールじゃ、これは消せないのか」
レオは悔しさに唇を噛む。
「ライラやセレスさんなら、なんとかできるのかもしれない。……でも、今は……」
あたりを見回すが、そこにあるのは冷たく湿った岩壁と、どこまでも続く暗い空洞だけだった。地上からの音は完全に遮断され、ここは死んだように静まり返っている。 ただ一刻も早く、彼女を上の戦場にいるヒーラーたちの元へ届けなければならない。
「まずは上に戻る道を探さないと。どうしたら……」
レオが壁面を探索しようと腰を上げた、その時だった。
「マ、マスター……」
「アリーシャ! 気がついたのか!」
レオは慌てて彼女の傍に寄り添い、その手を取った。 アリーシャの瞳はまだ虚ろで、焦点が定まっていない。呪いの侵食が、彼女の意識を内側から蝕んでいるのだ。
「……マスター。ごめんなさい、私……また、足を引っ張って……」
「そんなこと言うな! 君は竜人族の彼女を助けたんだ。君がいたから、僕たちはまだ戦えているんだよ」
レオはアリーシャを安心させるように、努めて明るい声を出した。
「大丈夫だ。僕がなんとかして上まで連れていく。……心配しないで、僕を信じてくれ」
それを聞いたアリーシャは、ふふっと、春の陽だまりのような柔らかな笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます……レオ、様……」
「こんな時にまで敬語とかいらないから! てか、あまり喋っちゃダメだ。体力を温存するんだ」
真剣な表情で語りかけるレオに対し、アリーシャはさらに深く、何かを決意したような瞳を見せた。
「マスター。もし……もし、私に何かあったら。その時は、お願いしますね……。」
「アリーシャ? おい、アリーシャ!!」
彼女はそれだけを言い残すと、再び深い混濁の中へと意識を沈めていった。
「くそっ……絶対に死なせるもんか! 絶対に助ける、僕が君を!!」
レオは自らの震える肩に力を込め、アリーシャを背負い直した。 彼女の身体から伝わる冷たい呪いの気配。だが、それ以上にレオの心を熱くさせているのは、彼女が最後に託そうとした、消え入りそうな希望の灯火だった。
「行くぞ、アリーシャ」
レオは背中の温もりを確かめるように強く抱え直し、闇に閉ざされた道の先へと、確かな一歩を踏み出した。 上空の戦場では、今も仲間たちが血を流して戦っているはずだ。そしてこの奈落の底でも、二人の命を懸けた、もう一つの孤独な戦いが始まろうとしていた。
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