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ようやく恋心を自覚したアイネアに何か変わったことがあったかと言えば、特に無い。目が合った時や手を繋ぐ時に、以前より多少意識するようになったが、変化したのはそれくらいで、あとはびっくりするくらいいつも通りだった。自覚していなかっただけで、ずっと昔から好きだったのだから、それは仕方がないのかもしれない。恋を学んだだけでも大きな前進である。逆にユニアスの方が、しばらくぎこちなかったくらいだ。
創立祭が終わると、すぐに夏季休暇がやって来る。宿舎に残ることもできるが、実家に帰る者が大半を占め、言うまでもなくアイネアはバラダン領に帰る。途中まではユニアスも一緒だ。
「みんな元気かしら。はやく会いたいわ」
「きっとみんなもアイネアを待っているよ」
同じ馬車に乗りながら、アイネアは期待にはやる心のまま、いつもより饒舌に喋っていた。婚約者といえども、未婚の男女が二人きりでいるなんてとんでもないので、当たり前だが互いの従者も同乗している。
「アイネアは休みの間、ずっと屋敷で過ごすのかい?」
「そのつもりよ。やることがたくさんあるもの。ユニアスは?」
「兄上達に連れ回されるかもしれないな。そうじゃなかったら、大人しく勉強してるよ」
アイネアは学園にいる間も、勉強の合間を縫っては、漫画の原稿を書いたり、新しいレシピを思いついたりしていたのだが、出来ることは限られていた。それでこの長期休暇で遅れを取り戻そうと燃えている。何となく予期していたユニアスは、さほど残念がる素振りも見せなかった。
帰郷には五日以上かかるので、道中にある宿屋に泊まりながらの移動となる。貴族御用達の高級宿が各所に点在するため、安全面での心配はいらない。どの道、アイネアには強力な護衛兼侍女が同室にいるので、初めから不安など抱いていなかった。
何事もなくバラダン領に辿り着いたアイネアは、一目散に屋敷へと向かった。見送られた時と同様、たくさんの人達に温かく出迎えられる。皆の笑顔に囲まれて、自分の居場所はここだと改めて強く思う。しばらく離れたことで、よりこの場所を愛する気持ちが深まっていた。
アイネアは大きく息を吸い込むと、元気よく宣言する。
「滞っていた仕事を片付けるわ!これから忙しくなるわよ!」
その言葉通りせっかくの休暇だと言うのに、アイネアは学園に入学する前よりも忙しく動き回っていた。だが、その表情がとても明るく生き生きとしているので、アンドリューをはじめ、誰も止めようとはしなかった。
「お嬢様、これはいったい何ですか?海藻っぽいっすけど?」
「ご名答よ、レギオン。これは北の王国で『石花菜(=テングサ)』と呼ばれている海藻なの。最近になってごくわずかだけれど、こちらに入ってきたのよ」
南の王国では、海藻は好んで食べられない。よって、国内の市場に出回る事もほとんど無く、レギオンでさえも見るのは初めてだった。
「そうなんすか。勉強不足でした。で、こいつをどうするおつもりで?」
「石花菜を煮詰めた煮汁を冷やして『寒天』を作ってほしいの。ゼリーとはまたひと味違う食感になると思うわ」
「カンテン…?よくわからないですけど、わかりました!でも冷やし固めるなら冬場の方がいいんじゃないですかね?」
「そうね。煮詰めると言っても、加減がわからないし、本格的に作るのは寒くなってからにしましょう」
「それまでにこの海藻を研究しておくっす!」
「あ、いた。お嬢、ちょっといいか?」
「あら?クーザ、何かしら?」
盛り上がる第二厨房にやって来たクーザの相談事は、もっと漫画を出版してほしいという要望が殺到している、というものだった。
「俺はどんだけでも描けるけど、お嬢が大変だろ?」
「わたしも楽しいから構わないのだけれど、執筆のスピードが遅いのは確かね」
アイネアがやっているのは、既刊の物語を簡略化する作業だ。文章を一から書いている訳ではないが、決して楽な仕事ではない。物書きでも何でもないアイネアは、適任者が見つかればすぐさま仕事を譲る気でいるのだが、そんな簡単に見つからないのが現状だった。
「ページを減らす代わりに、刊行の間隔を少し短くしましょう。でも打開策にはならないから、早いうちに他の手を考えないといけないわ。なるべく遅れないように努力するわね」
「勉強とかもあんだろ?大丈夫か?」
「平気よ。休みの間に書き溜めるから。さっそく部屋に戻って、」
作業に入るわ、と続けようとしたアイネアの言葉を遮るように、今度はネーヴェルが助けを求めに駆け込んで来た。今にも泣きべそをかきそうな顔である。普段はしっかり者のネーヴェルだが、感受性豊かなのが裏目に出ると、こうして情緒不安定になることがあった。
「まあ!どうしたの?」
「お嬢様!作曲のヒントを!何でもいいのでくださいぃぃ!このままだと間に合いません!!」
「わかったから落ち着いて、ネーヴェル」
ネーヴェルの作曲は、自身で手掛けたものと、アイネアとの合作のものと半々だった。合作と言ってもアイネアは耳に残っている旋律をハミングするだけで、そこから曲想を膨らませていくのはネーヴェルなので、携わっているのはほんの一部に過ぎない。それでも、アイネアが口ずさむメロディーは、斬新かつ愉快でネーヴェルの作曲魂を刺激するのだ。
「そんな暗い顔をしていたら、良い曲は思い浮かばないわよ。気分転換に突発コンサートに行きましょう!パルメナ、支度を手伝って!」
【かしこまりました】
つまり路上ライブである。
クラシカルな楽器で、軽快なポップの曲をかき鳴らす。その珍妙さに、道を行くほとんどの人が足を止めて、聴き入ってくれる。そうすると、ますます楽しくなって、気分も爽快になるのだ。
「予行演習として、今回は男装するわ!」
「男装!?」
「何の予行演習なんすか!?」
【諦めておられなかったのですね…】
パルメナの手腕により、見事な男装の麗人に変身したアイネアは、謎のヴァイオリニストとしてネーヴェルと街角に出て、一緒に喝采を浴びた。やや強引な気分転換を経て、ネーヴェルはすっきりした頭で作曲に打ち込むことができたのだった。普段、着飾る時より変装する時の方が乗り気なので、パルメナだけは複雑な心境である。
クーザとの分担作業、レギオンとの共同研究、ネーヴェルへの助力という、アイネアの日常に加えて、屋敷にいる間はアンドリューから領主としての指導も行われていた。これは幼い時からなされてきたが、近頃のアンドリューは本腰を入れて厳しく教えている。表面上厳しいのは昔からであるが、成長に伴ってアイネアに要求される事項が増えてきた。故に、アイネアはついていくのでいっぱいいっぱいだった。しかし弱音も泣き言も漏らさず、父が教えてくれることはすべて吸収しようと奮闘している。
「卒業までに、お前が企画した催しはすべて自分で遂行できるようになりなさい。予算の組み立て方は、もうわかるな?関係者各所への手配と告知、会場の準備、それぞれの仕事に割り当てる人数、偶発事故の防止…やるべきことは山のようにある。一つ一つ、確実に行なうのだぞ」
「はい。お父様。ご教示ください」
空いた時間には、孤児院や病院に慰問へ行くのも忘れなかった。彼らはアイネアの心強い協力者でもある。新商品の開発時には、率先して試食や試聴を買って出てくれるのだ。そのことに対する感謝の意を込めて、出来る限りアイネアは足繁く通うことに決めていた。
忙しない毎日を送っていると、時間などあっという間に過ぎていく。
気がつけばもう、学園に戻る日となっていた。バラダン領に戻ってきたのが、つい昨日のことのように思える。
「学園が嫌な訳ではないけれど、ずっといたいと思う場所は、やっぱりここだわ。そんな風に思えるって、すてきなことね」
そうパルメナに語った時、アイネアの深い青色の瞳の奥は慈愛で満ちていた。
このまま学園生活も順調に…とはいかなかった。休暇が明けて初めての登校日、朝の教室にて、ビルガの悲痛な叫びがアイネアを貫く。
「友人だと思っておりましたのに…っ!!こんなのあんまりですわ!!」
ビルガが机に叩きつけたのは、アイネアがライリーに宛てたと見られる、何通にも渡る恋文であった。




