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教室内はしん、と静まり返った。生徒達はいきなり勃発した修羅場に、恐ろしさ半分、興味半分といったところで成り行きを見守っている。
「あんなに素晴らしい婚約者をお持ちでありながら、ライリー様に色目を使うなど……っ! 見損ないましたわ、アイネア様!」
机上に散らばる恋文の数々。アイネアには全く身に覚えのない手紙だった。どうしてこのような誤解が生まれたのか検討もつかない。アイネアは席から立ち上がると、努めて静かな口調で論じた。
「ビルガ様、誤解でございます。わたしは一通たりとも、ライリー様に手紙を書いたことはありません。それにこの筆跡は、わたしのものではありませんわ」
「字体などいくらでも変えられます。確かにライリー様は美しい女性がお好きな困った方ですが、既にお相手がいらっしゃる方に手を出すほど、節操無しではございません。アイネア様が誘惑なさったとしか考えられませんわ!」
アイネアの冷静な物言いが、かえってビルガの癪に触ったらしい。目を剥いたビルガは憎悪の色を濃くした。
「あくまでも認めないおつもり?」
「わたしに非があるのなら誠心誠意、謝罪致しますが、身に覚えのないことを詫びろと仰られても困ります」
「よろしいですわ。しらばっくれるのなら、それも結構。必ず報復致しますので、精々覚悟なさってください」
赤い髪を振り払うと、ビルガはアイネアから離れていった。重い沈黙の落ちる教室で、その渦中に置かれたアイネアは、何事もなかったかのように着席した。そして表情ひとつ変えずに机の上を片付けると、教本を取り出して読み始める。あまりに落ち着き払った姿に、傍観していた生徒達の方が動揺したくらいだ。とは言っても、それはあくまでも表向き。アイネアとて突然のことに戸惑っている。
(ビルガ様はいったいどうなさったのかしら……)
あの手紙が捏造されたものだというのは、一目瞭然だ。アイネアの字ではないし、ちらりと見えた内容も完全にデタラメだった。付き合いは浅いが、賢いビルガが見抜けないなんておかしいと感じる。どうにもビルガらしくないずさんなやり口だ。だが、遠巻きにしか見ていない他人の目には、アイネアが友人の婚約者に横恋慕した、恥知らずな女に映っただろう。これは厄介なことになりそうだった。
人の噂というのは、驚くほど広がるのが速い。しかもそれが、アイネアのように名の知れた人物なら尚更だ。いつものようにユニアスと昼食を摂っているだけでも、有る事無い事を囁かれてしまう。アイネアとユニアスは平然と受け流すようにしているが、当然良い気持ちはしなかった。
「僕に何かできることはあるかい?」
ユニアスは周りに注意を払いながら、アイネアにひそひそと問いかけた。アイネアが不貞を働いたなどとは微塵も疑っていない。ユニアスがしているのはそんな心配ではなく、アイネアの身に降りかかろうとしている災難についてだった。同じ敷地内にいるものの、学年が違うため、いつでもすぐに助けに入れるとは限らない。ユニアスの心配をよそに、アイネアは不敵な面構えをしていた。
「ありがとう。でも女の戦いに手出しは無用よ。ここで潰されるようなら、社交界に出た時に生き抜いていけないもの。これも勉強だと思って、正々堂々受けて立つわ」
きっぱり言ってのけたアイネアを見て、彼女は真っ向勝負を好む性格だったことを、ユニアスは思い出した。
「……わかったよ。でも助けが必要になったら必ず言ってくれ。僕は何があってもアイネアの味方だ。僕自身はどう言われても構わない。前にもお願いしただろう? 君の労苦を僕にも背負わせてほしいって」
「ユニアス……あのね、正直に言うとわたし、あなたに疑われないか、それだけが心配だったの。だからその言葉だけで勇気が湧いてくるわ。ありがとう」
「君は多情な人ではないし、仮に移り気したなら、それはきっと僕の方に問題があるんだよ」
「それはあり得ないわ。あなた以外の相手なんて考えられないもの。そもそも、問題があったことなんて一度として無いわよ?」
そう告げたところで、互いに何だか恥ずかしいことを口走ったと気付き、両者の頰に赤みが差す。そわそわとしたまま、ランチタイムは終了した。
報復すると宣言したビルガは、その言葉の通り、アイネアを敵視するようになった。純然たる誤解だとアイネアが言っても効果は無かった。それだけでなく、大胆な嫌がらせも始まる始末だった。
足を引っ掛けられる、水をかけられる、事あるごとに悪しざまに言われる等、アイネアに直接仕掛けてくる時もあれば、ユニアスの方に白羽の矢が立つ場合もあった。ユニアスが誰それと二人きりでいたとか、女性を口説いていたといった噂話を流されたのだ。根も葉もない噂であるが、相手の精神を揺さぶるには打って付けの手段である。だがしかし、相手はあのアイネア。一筋縄ではいかない令嬢なのだ。「ユニアスはわたしを疑わなかった。だったら、わたしも決して疑わないわ」と、ユニアスへの絶対的な信頼により、下らない噂に屈することはなかった。
「ビルガ様を裏切っておいて、なんて白々しい」
「面の皮が厚いにもほどがありますわ」
「ユニアス様がお優しいからって、好き勝手しすぎよ」
わざと聞こえるように囁かれる陰口にも、アイネアは反応を示さない。こういうのは毅然としている方が良い。そうすると陰口を叩かれた側よりも、叩いている側の方が悔しい思いをするものだ。だからアイネアは何を言われても気にしていない体を装った。というより、もともとあまり気にしていなかった。心がまったく傷付かないと言えば嘘になるが、そんな事でいちいち消沈していては、社交界などとてもじゃないが渡っていけない。
(それに、わたしは独りではないわ)
孤立無援ではないという事実が、何よりアイネアを力づけ、萎縮することなく立ち向かうことを可能にしていた。
一輪だけ咲く花のように凛としているアイネア。その堂々たる姿は、多くを語らなくとも周囲を黙らせる効果があった。相変わらずユニアスと仲睦まじい様子でいたおかげもあり、あの二人に限って浮気などあり得ないという空気を徐々に取り戻していった。それと比例するように、アイネアに対するビルガの憎しみも増しているようだった。今日はアイネアの教本が中庭の噴水に捨てられていた。帳面は目の前で破かれてしまったし、これからは手間だが書籍類は持ち歩かなければならないだろう。
一切気の抜けない教室を出て、パルメナが待つ宿舎に戻ると、ようやく大きな溜息が吐ける。
【お疲れさまです。先に湯浴みになさいますか?】
「いえ、食事にするわ」
【ではすぐに用意致します】
「疲れたけれど、何だかお芝居の演者になったみたいで、ちょっとスリルがあるわね」
打っても響かない人間に嫌がらせをするだけ無駄であるが、敬愛するお嬢様にこんな仕打ちをしたので、同情の余地は無いとパルメナは淡々としていた。
「あら? パルメナ、扉のところに何かあるわ」
【変ですね。さっきまで何も……】
アイネアが部屋に帰って来た時には何もなかったのに、ふと見るとそこには折りたたまれた紙切れが挟まっていたのだ。訝しみながらパルメナが拾い上げ、扉の外を見回すが人の気配は無い。アイネアの許可を得てから、パルメナは紙切れを開いた。もし主人に対する悪口が羅列してあったら、見せるまでもなく処分するつもりだった。しかし、小さな文字で書かれたメッセージを読んだパルメナは、何も言わずにそれを差し出した。同じようにアイネアも黙ってそれに目を通す。
アイネアはパルメナが今後どうするのかと尋ねても、しばらく顎に手をあてて物思いに耽っていた。ようやく口を開いたと思えば、彼女らしからぬ台詞が飛び出す。
「……ビルガ様を追い出すしかないわ」
その心なしか硬い声に、パルメナは目を丸くした。「褒められたことではないけれど」と付け加えたアイネアの顔は明らかに気乗りしない感じだった。
【……本当に良いのですか】
「今以上に恨まれるかもしれないわね」
週明けの登校日、アイネアが教室に入ると、ビルガが仁王立ちして待ち構えていた。美しい顔に憎しみを宿らせ、アイネアを睨みつけている。
「おはようございます。わたしに何かご用でしょうか?」
「貴女、まだライリー様を諦めていないのね。いい加減になさい! 手紙だけでは飽き足らず、今度は逢引ですって!? どれだけ私を侮辱すれば気が済むのですか!」
週末は確かに出掛けていたのだが、勿論ライリーには会ってすらいない。逢引だなんて、とんだでっち上げだ。しかし、パルメナも一緒だったと説明したところで、専任侍女の証言など当てにならないと一刀両断されるに違いなかった。
「諦めるも何も、わたしは初めからライリー様に恋愛感情など抱いていませんし、ビルガ様からご紹介された日以来、お会いしてもおりません。ライリー様に確認はされたのですか?」
「私が嘘をついていると仰りたいのかしら?そうやって澄ました顔で私を貶めて……どこまでも姑息な人ですこと」
「私がお慕いするのはユニアス様ただお一人。ライリー様と通じていたことは無いと断言致します」
「これだけの証拠がございますのに?」
「あのようなお粗末なものを証拠と呼びますか? 理不尽な嫉妬はおやめくださいませ」
「私が貴女に嫉妬ですって……! 馬鹿馬鹿しいっ!」
「ええ、そうですとも。ビルガ様が『素晴らしい』と評してくださる程の婚約者がおりますのに、わざわざ他の方を口説くなんて、心底馬鹿馬鹿しいことですわ」
この時、アイネアは小さく笑ってみせた。それは至って普通の微笑みだったが、台詞とも相まって相手を小馬鹿にしているような絶妙な効果を生み出していた。見くびられたと捉えたビルガは、整った眉を吊り上げる。
「そんなものお世辞に決まっているでしょう! 今でこそユニアス様は王子だと持て囃されておりますが、私は知っていますわ。あの方がそばかすだらけの醜い豚だったことを! そのような殿方を慕う、アイネア様の審美眼を疑いましてよ」
ビルガのあからさまな嘲笑に、教室にいた生徒達も釣られてクスクスと笑い出した。たった一人、アイネアを除いて───
「それはユニアス・シャレゼル様への侮辱とみなしますが?」
アイネアは双眼をスッと細めて、ビルガのみならず笑った生徒達を鋭く見回した。絶対零度の瞳を向けられた者は、自分が誰を嘲笑ったのか理解する。彼女が告げたのは、公爵家に次ぐ爵位を持つ家名。今しがたの言動はとんでもない不敬に当たる。安易に犯した罪と、"氷の令嬢"から送られるひどく冷たい眼差しに、生徒達は青ざめ震えた。彼女が本気で憤るのは、彼女が大切に想う人を傷つけた時である、ということをこの場にいる者達は知らない。
「ビルガ様。今のお言葉、本心ではないと信じておりますわ」
「……」
「もうわたしが何を言っても無駄なようですね……残念です。ビルガ様とお友達になれなくて」
強張った表情をした二人の美しい令嬢は、それきり互いに背を向けたのだった。




