*47* 蒼葉の秘想
水墨画のような空。
紫陽花の滲む庭先に、けほけほ、と空咳の音を認めた。
長らく頬杖をつき、参考書の活字やルーズリーフの罫線とニ対一のにらめっこ大会を繰り広げていた穂花は、飛び上がる思いで文机を引っぱたいた。
「どうしたの蒼! 具合悪い!?」
しかしながら、咳き込んだ当人は振り向きざまにきょとんと小首を傾げ、膝立つ穂花を常磐の瞳でまあるく切り取るのみ。
「んー、だいじょぶー」
ふにゃあ。あどけない笑みに、穂花まで頬が緩みそうになる。
「ちょっと、むせちゃったのー」と続ける蒼は、腰かけた濡れ縁から投げ出した素足を、思い出したように滴る青葉時雨と遊ばせていた。
水神の使いである蛇の妖らしく、雨季における蒼は連日上機嫌だった。
ゆえにこそ穂花は失念していた。楽しげに鼻歌を口ずさむこの子と最後に戯れたのは、いつだったかと。
「ねぇ蒼、今日は日曜だし、私と遊ばない?」
「ふぇ……?」
そっと肩を叩かれたことで、頭上を仰いだ蒼の背を、ひとつに束ねた天色の髪がさらりと滑り落ちる。
「あそぶ? ねーさまと?」
「うんうん」
「あおと、あそんでくれるっ!?」
「もちろん! なんでもいい……うぐっ!」
穂花を突如見舞った肉弾は、言わずもがな、言葉の終わりを待たずに抱きついてきた妖によるものだ。
「やたー! ねーさま、だいすき!」
「ふふ……わたしも、だよ……」
ともすれば少女のように可憐な見目をして相も変わらず怪力な蒼であるがゆえに、若干意識が薄れそうにもなったが、そこは可愛い可愛い蒼のため。
穂花は根性で踏ん張り、抱き返す。
誰とは言わないが、プライベート侵害の達人である永久の神や、自称兄を名乗りながらバリバリに手を出してくる知恵の神や、薄幸の美少年の皮を被った雷の武神などに悩まされる日々なのだ。
そりゃあ、純粋無垢な妖に癒やされたくもなる。テスト勉強? ナニソレおいしいの?
かくて穂花は、残りの休日すべてを捧げても悔いはなしと、鈍色の彼方へ頬笑みを飛ばしたのだった。
* * *
身支度をととのえた後に、穂花は居間へ舞い戻る。
開放した障子の向こうでは、手毬咲いた薄桃と薄青の花が水滴に滲むのみ。
くるりと静寂を見渡すうちに、ふと囁くような人声を捉えた鼓膜が震える。台所のほうだ。
深く考えるまでもなく一歩、二歩、三歩と足を伸ばした穂花は、まもなく視界を遮った紺の暖簾を潜る。
探していた妖はそこにいた。後ろ手に細い指を組み、主たる美しき少年の神と対面している。
「ねぇねぇ、ぬしさま」
「……うむ」
「ダメ……?」
小首を傾げた蒼の肩を、一房の天色の結髪がさらりと滑る。
紺青の衣に桜霞の襷掛けを施そうとしていた姿勢を不自然に維持した紅は、「……うぅむ……」と再度唸るような声をもらし、嘆息する。
「昼餉までには、帰ってくるように」
「ほんと? ぬしさまありがとー!」
利口な蒼のことだ。外出の可否について、紅へお伺いを立てていたらしい。
〝穂花の専属お世話係〟を自称する紅としても食事の支度を放棄することは躊躇われたため、このような返答となったようだ。
そのさまが幼い弟のおねだりに折れる兄のようで、穂花は声を押し殺して笑ったのだった。
* * *
無邪気に穂花の手を引き、るんるん気分で外へ繰り出した蒼であったが、それも刹那の夢に終わった。
予期せぬ第三者の介入が認められたために、ほかならない。
「あれ、こんなところで偶然。今日もかわいいね、ほのちゃん」
通学路でもある歩道を、特に宛もなく歩んでいたときのことだ。雨音に混じり耳に届いたのは、少年の声。
遅れて水墨の景色の向こうに人影を見出した穂花は、黒の傘下から覗いた緋の色彩が、掴みどころのない同級生のものであると思い至るや否や、苦笑をこぼす。
「おはよう。綺羅くんも相変わらずだね……」
「心外だな。軟派男みたいに言わないでよ」
違っただろうか。素朴な疑問が脳裏に浮かんだところで、「僕がこんなこと言うのは、ほのちゃんだけだよ」と追撃を頂戴する。
悪戯っぽく口許をゆるめている綺羅が、確信の上で犯行に及んでいることは明白だ。
このように翻弄される毎日を送っていれば、穂花が悟りを開くのも必然で。
綺羅にとってこれはご挨拶。適度に受け流すというスキルを習得してからは、幾分か心臓の平穏が保てるようになったかと思う。
涙ぐましい、ほんの誤差範囲だが。
「今朝はどうしたの?」
他愛もない問いだった。
野良猫のような綺羅であるからして、気ままな散歩であっても別段おかしくはなかったのだが、返答は穂花の予想の斜め上をゆくものであった。
「そうだな、どこに雷落とそうかなぁって探してた」
「え、雷?」
思わず復唱した穂花には、発言の意味をすぐに理解できない。
間接的な比喩表現なのかもしれないし、華奢で病弱な設定を背負ったこの少年は、その実雷を司る神だ。言葉通りの意味を実現させることとて可能だ。
詰まるところ、よくわからない。
くすりと笑みをもらした綺羅は、首をひねる穂花へ解答を寄越す。
「今日みたいに水気が強い日には、陰の気も集まりやすい。魑魅魍魎とかもね。要は妙な五行の滞りがないか、パトロールしてたってこと」
丁寧に噛み砕かれたそれを脳内で反芻したなら、すとんと咽頭を滑り落ちるかのような心地だった。
「すごい、ちゃんと神様業してる」
「そうそう、僕ってば真面目だから。そういうほのちゃんは? そっちの子とお散歩?」
「そうなの、蒼と遊ぼうと思って……あっ」
「知ってるよ。チルヒメの使い魔の子でしょ」
蒼は妖である。ともすれば、綺羅の言う魑魅魍魎に当てはまるやもしれないと思い至り、誤解の生まれぬうちに弁明を試みようとした穂花だが、杞憂だった。
「久しぶりだねぇ、蒼くん?」
綺羅が紅の恩師であるなら、教え子の使い魔とも面識があって然り。その点に関して、穂花の見解は的中したのだが。
「ねーさま、あっちいこ」
にこりと笑んだ綺羅に対する返答は、ぐいと腕を引かれる感触だった。
あからさまに顔をしかめて、声音を硬くさせている。天真爛漫なあの蒼が。
「あお、こいつキライなの!」
どうしたのかと事情を問うより先に、わっと語気を荒らげる蒼。
はっきり言ってらしくない。にわかに困惑を覚えた穂花をよそに、不信感をぶつけられた綺羅本人はにこりと笑んだ表情を崩さない。
「昔から嫌われてるんだよねぇ、何故か」
「えぇ……綺羅くん……蒼ぉ……」
キッと綺羅を睨みつける常磐色の瞳は見るからに不快感をあらわにしているし、綺羅も綺羅で、稲妻を宿した夜色の瞳を細めたまま。
綺羅の言う〝昔から〟とは、神の概念を適用するに、数年や数十年単位のお話ではないだろう。
ここで思い出してほしいのが、穂花は誰彼構わず「みんな仲良く!」と友愛を説く勇者ではないこと。
友達がいないことがちょっぴり悩みの、至って普通の現代女子高生だ。こういったことは、お手柔らかに願いたいのだが。
「……ん?」
板挟みに遭った穂花が、途方に暮れていたそのときだ。つと綺羅の双眸が逸らされる。
稲妻のまなざしは、降りしきる水墨の景色の向こうへ向けられている。
「綺羅くん……?」
「あぁ、何でもないよ。空耳だったみたい」
さぁさぁと絶え間ない雨音の静寂を経て、向き直った綺羅は、風の悪戯だとうそぶいてみせる。
「邪魔者はそろそろ退散しようかな。いい休日を過ごせるといいね。それじゃあ」
意外だった。穂花を揶揄っては楽しむきらいのある少年が、やけに気の利いた台詞を置土産にすんなり背を向けたためだ。
言葉をかけるかどうかを穂花が決めあぐねているうちに、黒の傘を肩にもたれさせた後ろ姿は、霧雨の向こうへぼやけゆく。
後には細かな雨粒が頭上を叩く音が、取り残されるばかり。
「ねーさま」
「あっごめん、ぼーっとしてた!」
喚び声があって、穂花は大げさに傘を持ち直す。
とっさに笑みを張りつけることに意識を注いでいた穂花は、先程まで右腕を引いていた感触がなくなっていることに、気づくべきだった。
「……気に入らない」
行こっか、と先を促そうとした言の葉は、ふいのひと言に押し留まる。
「昔からそうだ。大事なものをあいつは……いつもいつも……!」
俯く影。常磐のまなざしが射抜いていたのは、右手の甲で蕾む黄色の花だったろうか。
怨讐に打ち震える声音は、牙を剥き出した少年の紡いだものだったろうか。
「……あ、お?」
こわごわと名を喚んでようやく、彼の妖はその表情の全貌をあらわにする。
少女のごとく可憐なかんばせに、雫が伝っていた。常磐の空からこぼれ落ちるそれはふた筋の軌跡を残しながら、灰色の地面に散る。
「蒼……泣いてるの?」
無意味だと理解しながらも問いかけてしまったのは、かける言葉を見失った戸惑いのせい。
一体何が、この子にそうさせているのか。
あろうはずもない答えを自問しながら、穂花は白い頬の雫へ指を伸ばすことしかできなかった。
そうして殊勝にも案じてくれる穂花に、常磐の強ばりはほどかれる。
それと引き換えに細腕の拘束で以て、蒼は体温と体温を強く結びつける。
「優しい姉様……大好きな、僕の姉様……」
苦しいほどの抱擁。
頬に擦りつけられる存外やわらかい鱗の感触。
それがよく見知った妖によるものだとたしかに告げているのに、穂花の胸中を占めるのは、戸惑いと疑問だった。
夢中で見上げた視界が、にわかに白へ染まる。
――このままふたりで、遠くに行きたいね。
木の葉の囁く陽だまりのもと、靡く天色。
若草色の風車を片手に常磐の双眸ではにかんだ青年は、誰だったか。
気の遠くなるほど脳裏の奥底へ消え入ったありし日に、彼女は何と返したろうか。……わからない。
――あなたが望むなら、喜んで差し出そう。この大地も、この心も。
ただ、風に吹かれるその笑みがとても愛しくて、胸が張り裂ける思いだったことは、憶えている。
「……ミ…………タ……さま……」
じわりと、記憶の笑みが滲む。
ほろりと、うわ言がこぼれる。
揺らぐ常磐の瞳に共鳴したように、穂花の胸が甘い痛みと熱を宿す。
彼のそばには、いつも爽かな風があった。
清らかな水があった。
こんなに大切なことを、どうして忘れていたのだろう。
「――南方様」
にわかに見開かれた常磐の瞳は、濡れる琥珀の瞳を捉える。
ややあって、血のように赤い舌、鋭い牙のすきまから、はは、とちいさな歓喜をもらすのだ。
「なぁに? かわいいかわいい、僕の姉様」
遠い昔に仕舞い込んだ青葉の秘想が、幾千もの夜を経て、ここに咲き開く。




