第1話 始まりの夕日
二人だけの『秘密の場所』で、優と遥人は心を繋げる。
『ずっとこのまま一緒にいような』
『うん。ずっと一緒だよ』
それだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
優にとって遥人は誰よりも大切な友達だった。
そして遥人にとっても優は特別な存在だった。
優はふと、遥人と出会う前のあの日のことを思い出す。
あの頃は、こんなに穏やかな時間が訪れるなんて思わなかった。
ても、あの出来事がなければ、遥人とこうして『繋がる』ことも出来なかったのだろう。
優の記憶は始まりのあの日に潜っていった。
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「ただいま」
声をかけて開けたリビングのドアの向こうは、ひどく薄暗かった。
夕日がカーテンの隙間から床に細く差し込んでいる。
その光の行く先に母がいた。
リビングテーブルに肘をつき、両手で顔を覆っている。
肩が小刻みに震えていた。
「お母さん……? 泣いてるの?」
優ユウが恐る恐る声をかけると、母はびくりと身を強張らせ、ゆっくりと顔を上げた。
赤く腫れた目の端から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「ごめんね、優。お母さんとお父さん、別れることになっちゃった」
母の声は、かすれて今にも消えそうだった。
そのまま堪えきれなくなったように、テーブルに突っ伏して泣き崩れてしまう。
優の胸の奥が、きゅっと冷たく縮んだ。
夫婦間や親から子への共感接続は義務ではない。
それでも、優は物心ついた頃から、寝る前によく母に「繋いで」とせがんでいた。
母はいつも、少し照れくさそうに笑って応じてくれた。
けれど、ここ何年も両親が二人だけで共感接続をしているところを見たことがなかった。
泣いている母をどうにかして救いたかった。
優はランドセルを床に下ろすと、母の椅子の横へと歩み寄った。
「お母さん、繋いでも良いよ」
優は自分の受信モードを開く。
そして、母の隣に座った。
自分が母の辛さを受け容れることで、少しでもその苦しみを和らげたかった。
隣に座った優から向けられる優しい眼差しに、美彩は一瞬、椅子の上で身を固くした。
目を伏せ、唇を噛む。
繋いでいいのか、迷っているのが優にも伝わってきた。
親から子へ、温かい愛情を送信することは社会でも推奨されている。
けれど、今の美彩の脳内は、夫に拒絶された寂しさと悲しさでぐちゃぐちゃだった。
このまま優と繋がったら、優への愛と一緒に、このどろどろとした大人の絶望まで我が子の脳に流れ込んでしまう。
けれど、優から伸びてくるかすかな『受信』の気配は、あまりにも優しく、温かかった。
愛しさと、夫に捨てられた容赦のない寂しさが、美彩の胸の中で激しくせめぎ合う。
しばらく悩んだ末に、美彩は共感接続を繋いだ。
次の瞬間、優の脳内に濁流のような光景と感情がなだれ込んできた。
『優、ごめんなさい。こんなはずじゃなかったの』
母の謝罪の念と共に、優の意識は見覚えのある我が家の過去の景色へと引きずり込まれていく。
それは、両親が少しずつ、けれど確実にすれ違っていった日々の記憶だった。
始まりは本当に些細なことだった。
ある日の夜、仕事から帰宅した父がリビングのソファで「繋ぐか?」と母に尋ねた。
エプロン姿の母は無理に作った笑顔で「今日は疲れてるから明日にしましょう」とやんわり断った。
それが優の脳に、当時の母の本音を伴って響く。
(パートの仕事もあるのに、家事も育児も全部私。こんな不満を抱えたまま繋いだら、きっと険悪な雰囲気になる。だから、今日はやめておこう)
険悪になりたくないという、配慮のつもりだった。
しかし、その日を境に二人の歯車は狂っていく。
翌週、父が「繋ぐか」と聞かなかった。母も、聞かなかった。
そうして次第に誘わないことがお互いへの優しさになっていった。
少なくとも、この時の美彩はそう思っていた。
そして、今朝の記憶。
テーブルの上には父の署名と捺印がされた離婚届が置かれていた。
有給休暇を取った父がリビングの椅子に座り、冷徹な声で母に告げる。
「共感接続もしないでただ一緒に暮らしているだけなら、もう夫婦である必要もないんじゃないか?」
慌てた母は、すがるように言った。
「だったら、今からでも接続しましょう。ちゃんと話すから」
しかし、父はただ短く首を振った。
「今更だろう」
父の表情には怒りすら残っていなかった。
彼にとって、この関係はとうの昔に「終わったこと」になっていたのだ。
そこまで夫婦の溝は深く、手遅れになっていた。
その事実にようやく気づいた瞬間、胸が引き裂かれるような絶望と惨めさが、接続を通じて優の幼い胸へと突き刺さる。
「お父さん、もう帰ってこないんだ……」
声に出してみて、初めてそれが本当のことだと分かった気がした。
優の目から涙が溢れ出す。頬を伝う感触だけが、やけに冷たくはっきりしていた。
隣で泣き崩れる母の背中に、優はそっと手を置いた。
何を言えばいいのか分からなくて、ただ、その震えが少しでも収まるようにと願った。
母の絶望をそのまま自分のものとして感じてしまった優の心には、この日のことが、そっと小さな染みのように残った。
けれど、その染みがこの先も消えないままなのか、それとも誰かによっていつか薄れていくのか、9歳の優にはまだ知る由もなかった。




