22:元推しは、給料を得る
ある日、柚希の大学時代の友人からDMで仕事の相談が来た。
自分で会社を立ち上げた彼は、経理業務に使っているソフトウェアのプログラムが、あまりにも散らかってしまっているという。
《動くことは動くんだけど、誰が見ても分からないコードになってる。波方さ、時間があったら整理してほしいんだけど。もちろん、報酬ありで》
「リファクタリング、か……」
画面越しに送られてきたソースコードと仕様書を目で追いながら、柚希は小さく呟いた。
一度構築されたプログラムの「動作」はそのままに、内部構造の重複や無駄を削ぎ落とし、誰が見ても読みやすい状態に整える作業。ゼロからコードを打ち込むこと以上に難しい。できれば避けたい、面倒な仕事でもある。
ただ、既存のプログラムを弄ることは、かなり勉強になる。しかも詳しく話を聞くと、新たな機能を追加したいので、その周辺のコードを整理してほしいとのことだった。
それはそれで、一滴落としたインクが水面を侵食していくように、思わぬ箇所へバグが波及する厄介さを孕んでいる。けれど、全領域の改修を引き受けるのではなく、対象を一点に絞って臨める分、まだ勝算の見える戦いではあった。
《これ、ルカにやらせてみてもいい?》
《ルカ?》
《あー、うちの、まあ……知り合い》
説明するには、いろいろと面倒だった。
友人に「今、プログラミングを勉強中の知り合いがいる」と打ち明け、自分が責任を持って監視・チェックすることを条件に、なんとか承諾を取り付けた。
納期と報酬の調整も無事に済み、案件を正式に任せてもらえることが決まった。
「……ねえ、ルカ」
リビングの床に座り、付箋を貼り付けた分厚い技術書を片手にノートパソコンへ向かっていた彼が、静かに視線だけをこちらへ向けた。
「実戦、やってみる?」
「実戦」
ルカの喉から、低く鋭い響きが漏れた。
「大学時代の友人が個人で運営している会社の経理システム。そのコードを整理する仕事。要するに、めちゃくちゃに散らかった構造を綺麗に整えて、無駄を削ぎ落とす作業。報酬はちゃんと出る。私の名前で受注して、私が最終チェックをする。でも、実際のコードを整理するのは、ルカ」
柚希はノートPCをルカの正面へと向け、画面に並ぶ惨状を見せた。継ぎ足し継ぎ足しで構築された、文字通りのスパゲッティコード。どこかの変数をひとつ触れば、別の処理が崩壊しかねない危険な構造だ。
「本来なら、まだ初心者に投げるような案件じゃないとは思う。……でも、勉強になるし、ルカにとってもプラスになるかなって。今ノートPCに送ったから、確認してみて」
ルカは画面の前に歩み寄り、青白い光の中へ整った顔を突っ込むようにして、スクロールバーをゆっくりと下ろした。
数分間、部屋にはエアコンの微かな稼働音だけが響いていた。
やがて、ルカの眉間に恐ろしいほど深い溝が刻まれる。
「不愉快なコードだ」
吐き捨てるような声だった。
「ただ動くことだけを目的に、理屈を無視して継ぎ足された醜悪な建造物。……主の美学も、構造への敬意も存在しない」
「言っておくけど、バグは出しちゃダメだよ。機能はそのままに、構造だけを美しく整えるの」
「当然だ」
ルカは座卓の前で静かに膝を折り、正座をした。
膝頭を揃え、寸分の歪みもなく伸びた背筋は、まるで一本の垂直な線のようだった。洋服を着ているはずなのに、その姿からはまるで切腹の場に臨む武士のような、恐ろしいほどの緊張感が漂っている。
「……あのさ、ただのプログラミングだよ? 命まで取られたりしないからね」
「戯れ言を」
柚希の呆れ顔に視線すら寄越さずに一蹴し、ルカは床に両手を置く姿勢から、静かにキーボードへ指を滑らせた。
「見当違いの継ぎはぎで誤魔化された命題など、俺の性分に合わん。……すべて削ぎ落とし、本来あるべき正しい形に整えてやる」
「はいはい……」
背筋を微塵も曲げぬまま、青白いディスプレイを睨みつける元王子様。
座卓という生活感の塊みたいな家具の前で、彼はまるで名刀を研ぎ澄ますかのような真剣さで、現代の戦場へ足を踏み入れていた。
その日から、二人の共同作業が始まった。
もちろん柚希には本業がある。その隙間時間を削り出しながら、受注したシステムの仕様をAIで整理し、ルカが取り組める単位へとタスクを切り分けていった。
ルカが既存コードの歪んだ構造を読み解く。
不明点があれば自力で徹底的に調べる。
そして、自らの美学と理屈に沿ってコードを書き直す。
柚希は、その修正によって既存の機能が壊れていないかを検証するテストコードを組み上げ、出来上がった成果物を検品しては、容赦なく修正点を突きつける。
ルカがそれを受け止め、再びコードを研ぎ澄ます。
現代ではAIを活用して仕様書の整理やコードの解読を補助できるため、昔に比べれば幾分か作業は効率化されている。
それでも、この仕事は息が詰まるほど淡々とした、純粋な反復作業だった。途中で何度、この案件を引き受けたことを後悔したか分からない。文字通りのスパゲッティコード――継ぎ足しと継ぎはぎで崩壊寸前の怪物を相手取る作業は、想像を絶する不毛さだった。
*
納期が明日に迫った日。夕方が過ぎ、夜が更けても終わりは見えない。日付が変わっても、二人は青白いディスプレイの前から動けずにいた。
「ここ、変数名を統一して」
「この階層の処理はどうだ」
「いい。そこは綺麗」
「なら、次へ進む」
時計の針が無情にも午前二時を回る。
三時。
四時。
限界を迎えた柚希の意識が途切れ、何度もフローリングに倒れ込みそうになった。そのたびに、隣から冷たい声が降ってくる。
「起きろ。まだ終わっていない」
「……誰の仕事だと思ってるの」
「俺の戦いでもある。だが、引き受けたのはお前だ」
正論すぎる突っ込みに、柚希は重い瞼をこじ開けてキーボードに手を戻すしかなかった。
そうして迎えた、納期当日の朝。
閉め切ったカーテンの隙間から、白みがかった光が静かに差し込み始めていた。
最後のレビューを終え、柚希は人差し指で静かにエンターキーを押し込む。画面にポップアップしたのは、冷淡で、それでも確実に作業の終わりを告げる完了メッセージだった。
「……終わった」
「終わったな」
二人の間に、静寂が落ちる。
窓から差し込む朝日の眩しさが、モニターの青白い光で照らされる部屋の中を、じわじわと侵食していく。
柚希は椅子の背もたれに深く体を預け、肺の中の空気をすべて吐き出した。全身の関節が悲鳴を上げているのに、不思議と嫌な疲労感ではなかった。
――本業のほうは、今日の定例会議だけパリッとこなして、あとは適当にお茶を濁そう。もう無理……。
心の中で固く決意しながら隣へ視線をやると、ルカが眠気を含んだ瞳で、無機質なほど美しく整えられた完成コードをじっと見つめていた。
「ありがとう、柚希」
静かな声だった。
柚希は一瞬、疲労による幻聴を疑う。
あのルカが、自分から謝意を口にした。かつてなら、どんな手厚い施しを受けようと「当然だ」の一言で片付けていたはずの王子様が。
「……どういたしまして」
柚希は小さく口元を緩め、白んでいく部屋の中で静かに微笑んだ。
*
無事に全行程の検証が完了し、依頼主からの入金を確認した日の夜。柚希は座卓の前に腰掛けるルカへ、百円ショップで購入した給料袋を差し出した。
中に入っているのは、彼が己の技術と時間を差し出し、正当な労働の果てに手に入れた、初めての対価だ。ちなみに、ベテランバイトを床に叩きつけて強制終了となった仕分けバイトの給料は、現場への迷惑料として当然のように柚希の中で、ノーカウントとして処理されている。
ルカは差し出された封筒を受け取ると、視線を落としたまま、しばらく口を開かなかった。
「……これが、俺の働いた対価か」
「そうだよ」
彼は紙の感触と重みを確かめるように、指先でゆっくりと封筒を握り直した。
今回は一部分の修正で、しかも友人価格ということもあり、数万円ほどだ。
この現代日本において、それは決して人生を変えるような大金ではない。けれど、ルカにとっては、それまで受け取ってきたものとは明らかに意味の違う金だった。同情による施しでもなければ、見せ物としての対価でもない。この世界で自分の存在が証明されていない中、それでも自分の知識と手、それから時間を使って手に入れた金だ。
「……悪くないな」
彼の口から漏れたのは、静かで、けれどどこか噛み締めるような一言だった。
その横顔を盗み見ながら、柚希の胸の奥で、何かが静かに腑に落ちていく。
もしかすると、これこそが本当の始まりなのかもしれない。
ゲームの中のキャラでもなく。
異世界の王子様でもなく。
誰かに匿われるだけの居候でもなく。
ただ己の手で働き、己の足で立つ、一人の人間として。
ルカ・ブライトという男が、この世界という構造体の隙間に、初めて自分だけの正当な居場所を作り始めた瞬間だった。




