21:元推しは、弟子になる
ルカの気迫に押されて仕事を探したが、結論から言えば、彼が採用されそうな仕事はなかった。
正確には、仕事そのものはいくらでもあった。ただし、それは、社会の中に存在している人間に向けて開かれた仕事だった。身分証や銀行口座が必要で、住所に電話番号、時には緊急連絡先や保証人まで必要になる。
この国では、人間であることと、社会に所属していることが、ほとんど同じ意味として扱われている。
ルカには、そのどれもない。戸籍がない。住民票がない。銀行口座も作れない。目に見える信用できる書類が一枚もないというのは、この世界では文字通り、透明人間になることだった。
だからといって、柚希の家で家事だけをさせていればいいとも思えなかった。
ルカは、金そのものに執着しているわけではない。自分の食費を自分で稼ぎ、自分が使っているものの対価を自分の手で返したいだけだ。それは、庇護される立場に置かれた瞬間、彼の矜持がそれを屈辱と処理するからだろう。
そのくせ、自分から他者に何かを与える段になると、不気味なほど真面目で、妙に律儀だった。水回りを鏡のように磨き上げ、寸分の狂いもなく家事をこなすその姿勢には、恵んでもらうだけの存在になるまいと足掻く、必死の自尊心が宿っている。
そんな彼の歪で頑固な性格を知っているからこそ、柚希はどうにかして彼の出口を作ってあげたいと思った。
「既存の枠組みに潜り込めないなら、個人で商売を始めるしかないか……」
ノートパソコンの画面を睨みつけたまま、柚希はぽつりと呟いた。
最初に脳裏をよぎったのは、恐ろしいほど確実で、そしてルカの尊厳を完全に無視したビジネスモデルだった。
――ルカをそのまま『背徳のトガに咲くレガリア』のコスプレイヤーとして撮影し、SNSの海へと放流する。
衣装を用意する必要すらない。そこに存在しているのは、究極の再現度を誇る本物そのものだ。ファンなら一目で狂喜乱舞し、アカウントは瞬く間に万バズの渦に呑み込まれるだろう。
かつて重度のルカ・ブライトオタクだった柚希自身、そんなアカウントが現れれば秒でフォローし、投げ銭の弾丸を撃ち込んでいた自信がある。
ある程度フォロワーという名の顧客を獲得した後は、月額制のサブスクリプションを開設し、限定のオフショットや高画質画像を切り売りする。
「確実に儲かる。勝ち筋しか見えないんだけど」
完璧なマーケティング計画だった。
「却下だ」
一通り説明したところで、ルカは一秒も迷わず言った。
「前にも伝えたはずだ。俺は見世物になる気はないと」
「いや、本人なんだから、むしろ究極の公式なんだけど」
「俺は娯楽ではない」
取り付く島もなかった。
次に思いついたのは、ポイ活だった。スマホの画面を数回タップするだけで、数百ポイントがチャットのログのように加算されていく。
「これならどう? 完全に一人で完結するし、誰の顔も見る必要がない。スキマ時間にポチポチやるだけで、成果に応じた対価が数字で入ってくるよ」
柚希はアンケートに答え、動画広告を数十秒流してみせた。
「ほら、これだけでお金になったよ」
柚希が画面を見せると、ルカは眉間に深すぎる皺を刻んで、スマホ画面を覗き込んだ。
「……このくだらない動画を視聴するごとに、金が貰えるのか?」
「そう。チリツモだけど、労働としての透明度は完璧でしょ?」
ルカは画面上の「動画を観て五ポイント獲得」というカラフルなボタンを、まるで毒薬の入った瓶でも見るような目で見つめた。そして、長く美しい指でゆっくりと画面を押し、三十秒のスマホゲームの広告を見せられたあと、深々と溜息をついた。
「不条理すぎる」
「え、どこが?」
「これは労働ではない。人間の注意力を無駄飯の種として切り売りさせられているだけだ。己の肉体も、培った技術も何一つ介在していない。ただ画面の点滅に従って指を動かすだけの作業に、どのような機能的価値があるというのだ」
「価値なんてなくていいの! お金になれば!」
「駄目だ。こんなものは、己の時間を無機質なシステムに擦り減らせ、施しを得ているに過ぎない。ポイ活とやらは、電子の施しだ」
ルカは吐き捨てるように言うと、スマホを丁寧にテーブルへ置いた。
コスプレ配信は「見世物」として拒絶し、ポイ活は「電子の施し」として突っぱねる。この男のプライドの境界線はあまりに苛烈で、どこまでも面倒くさかった。
こめかみを圧迫する溜息をどうにか呑み込み、柚希は手元のノートパソコンへと視線を落とす。
会社から支給されたものではない、自腹で買った私物の端末だ。
その時、暗い液晶のタスクバーに並ぶアイコンの中で、ひとつだけ無機質に異彩を放つデザインが目についた。トラックパッドを叩いて起動する。暗転した黒い背景の上に、淡々とコードを吐き出すための見慣れたテキストエディタが立ち上がった。
青白い光が、画面を凝視する二人の顔を等しく照らし出す。
文字列の規則、構文の構造、そしてエラーを吐かずに処理を完了させるためのロジック。そこには感情も、身分証も、人間関係の軋みも存在しない。あるのは、「要求された仕様通りに機能するかどうか」という成果だけだ。
「……これを、ルカに教えたらいいかも」
ぽつりと呟いた柚希の声に、ルカが僅かに眉を動かした。
「何をだ」
「プログラミング」
ルカが眉をひそめる。
「お前が普段、画面に向かって意味不明な文字列を打ち込んでいる、あれか」
「意味不明じゃない。コンピューターに命令してるの」
「俺も、命令には慣れている」
「そういう意味じゃないんだけど」
説明するのが面倒になって、柚希は話を先に進めた。
「家でできるし、人と会わなくていい。身分証問題も、私が仕事を受けて、ルカに作業を振る形ならなんとかなるかもしれない」
少なくとも、今までの仕事探しよりは現実的だった。
何より、ルカは妙に頭がいい。王族として詰め込まれた膨大な知識と、暗殺者として培った異常な観察力。問題が起きた時、感情より先に構造を見ようとするところもある。
もしかしたら、向いているかもしれない。
ただし、致命的な問題がひとつだけ残されていた。元はといえばゲームのプログラムによって構築されていたはずの男に、いまからプログラムの書き方を教えるという、倒錯した構造だ。
現実というものは時折、どんな悪趣味な作家すら思いつかないような、破綻した冗談を差し出してくるものらしい。
「やってみたい」
ルカは予想外に素直にやる気を見せた。
「……いいの?」
「何がだ」
「いや、こういうの、もっと嫌がるかと思って」
「理屈が分からないものは、理解すればいいだけだろう」
それは、いかにもルカらしい答えだった。
*
これまでずっと曖昧なままだった二人の関係に、初めて「師弟」という分かりやすい名前がついた。
柚希は、最初から本格的なコードを書かせるようなことはしなかった。まずはブロックを組み合わせて、画面の中のキャラクターを動かす子供向けの学習教材から始めた。
「このブロックを右に置くと、キャラクターが右に動く」
「つまり、命令を積み重ねれば、結果が変わる」
「そう」
「単純だな」
「でも、条件分岐が入ると急に面倒になるよ」
その言葉通り、ルカは三十分後には画面の中で自分のキャラクターを壁に激突させていた。
「なぜ動かん」
「条件が逆だから」
「説明通りにしたぞ」
「勝手に解釈したでしょ。ほらここ、違う」
柚希が指した部分を見て、ルカは一切の反論を口にせず、ただ彫像のように固まった。
プライドの高い彼にとって、自分の解釈がエラーを引き起こしたという現実は、どのような敗北宣言よりも重く胸に突き刺さったように見える。
整いすぎた目鼻立ちにわずかな影を落とした彼は、無言のままマウスを握り直し、液晶画面に映るエラーログを、まるで親の仇でも見つめるかのような眼差しで睨みつけた。
「やり直す」
吐き出された声は、氷のように低かった。
「指示の順番をひとつずつ巻き戻し、俺の思考のどこに歪みが生じたのかを検証する」
「……はいはい。素直でよろしい」
己の誤りを「システムのエラー」として機械的に処理し、即座に修正モードへと移行する。その徹底した理屈っぽさと、挫折を敗北ではなくただの計算ミスとして捉え直す粘り強さ。
画面の向こうで壁に頭を打ち付け続ける哀れなキャラクターを眺めながら、柚希は「この男、案外本当にモノになるかもしれない」と、密かに期待し始めていた。
その予想は、見事的中した。
貸し出したプログラミングの入門書は、数日もしないうちに無数の付箋で丸々と膨れ上がっていた。
「分からないことがあったら、その場で調べて。ネットには大抵のことが書いてあるから」
「ならば、もうお前に聞く必要はないな」
減らず口を叩きながらも、ルカは忠実に柚希の言葉を遵守していた。
疑問にぶち当たったら検索する。次にコードを打ち込み、試す。エラーを吐けば、再びログを洗って調べる。それでもどうしても解決しない時だけ、彼は苦虫を噛み潰したような顔で、ようやく柚希へ視線を向けた。
やる気を出したルカが現代のテクノロジーに適応していくスピードは、柚希の予想を遥かに上回っていた。彼は異物でしかない機械をどこまでも速やかに、そしてしなやかに手懐け、そのシステムを攻略し始めていた。
キーボードを叩く指の動きは、迷いなく速い。ショートカットキーの網羅も、呆れるほど早い。画面上に赤く吐き出されたエラーに対しても、彼は取り乱すことなく眉間に深すぎる皺を刻み、静かに原因を特定しては一つずつ確実に潰していく。
思い通りに動かない現実に対して、彼の示す粘り強さは異常だった。
――これ、戦いと同じなんだ。
彼の手元を眺めながら、柚希はふと思う。
敵の間合いを図り、弱点を炙り出す。予期せぬ一撃を受ければ、即座にその要因を分析する。一度侵した敗北のプロセスは、二度と繰り返さない。
かつて誰かを殺し、己の生を繋ぐために研ぎ澄ませてきた感情を削ぎ落としたロジック。それをいま、彼はこの世界の片隅で、生きるための技能へと鮮やかに置き換えている。
プログラムで動いていた男が、生きるためにプログラムを打つ。
それはあまりにも皮肉な巡り合わせで、けれど、どこまでも彼らしく、決して悪くない変化だった。
ただ、ルカが画面の青白い光に没頭すればするほど、かつて彼が熱心に行っていた、元の世界へ帰還するための模索は、どこか遠くへと追いやられていくようだった。
もちろん、柚希の視界が届かない時間の中で、人知れず情報を集め続けている可能性はある。
けれど、柚希の知る限り、彼の口から「帰る」という切実な単語が紡がれる頻度は、明らかに減っている。郷愁に囚われる暇などないと言わんばかりに、ただ目の前にある現代社会という新しい戦場へ向けて、全力で突進していた。
その姿を嬉しく思う反面、柚希は自分に問いかける。
――本当に、これでいいのだろうか。
彼がこちらの世界に順応するために手助けしている自分の行為は、正しい救済なのか。元の世界で彼を待っているはずの運命から目を背けさせ、この小さな部屋に繋ぎ止めているだけなのではないか。
そんな疑念が、柚希の胸の底に、消えない澱のように残り続けていた。
それでもこの世界は止まらない。師弟関係を結んだ二人は、秋という季節を静かに消費していった。




