2-3.雛森の迷宮
玲奈がフルー、スドン、ギリムを連れて時間どおりに待ち合わせ場所である学園のロビーに赴くと、まもなくスプリーン教授が若い男を連れて現れた。
玲奈と教授は従者を紹介し合った。
「こちらは本家の三男で助手のハワードだ。彼にはときどき手伝ってもらっているので、屋外の作業は慣れているよ。」
「ハワードです。おじさん、いえ正確には大叔父ですが、お世話になっております。」
ギリムより少し背が高くヒョロリとしたハワードが軽く会釈をする。
純朴そうな顔立ちで親しみやすい雰囲気を漂わせているが、貴族だけあって着ている外套は上質な生地できれいに仕立てられ、所作は洗練されている。
まだあどけなさの残る顔から、玲奈はハワードが自分より一、二歳年下と思った。
「玲奈です。魔法学園では教授のお世話になっております。今日から三日間、よろしくお願いいたします。」
年下の助手で親しみのもてる風貌とはいえ相手は貴族なので、玲奈は深めにお辞儀した。
「社交じゃないんだから、そんなに気を使わんでもかまわんよ。」
スプリーン教授から声がかかる。
教授とハワード、それに玲奈たち四人を加えた一行は王都のワープポイントに移動し、そこからクライドまで飛ぶ。
「ほうっ!」
ポータルワープが初めてらしいハワードから感嘆の息が漏れる。
フルーたちは慣れたものだ。
教授が口をはさむ。
「ワシは一度魔道士隊の連中と迷宮探索したときにワープを体験しているが、初めてだと驚くよな。ともかく、まずは役場に顔を出そう。」
一行は商店が立ち並ぶにぎやかな中心街の大通りを西に進む。
しばらく西に進むと露店はなくなり、大きな屋敷が道の両側に現れる。
玲奈が屋敷を珍しいそうに見ていると教授が話しかける。
「クライド子爵家は家格が高いので、寄子の貴族や独自に叙任した騎士が屋敷を構えているんだよ。」
「それでお屋敷が並んでいるのですね。ちょっとした王都みたいなものですね。」
「王国でも限られた貴族家だけだよ。」
話しているうちに石造りの役場に着いた。
教授を先頭に建物に入ると受付の奥が執務室になっていた。
受付に声をかけてまもなく、部屋の奥から二人の男がやって来た。
前を歩く中肉中背の男はきれいに折り目がついた紺色の服を着て、撫でつけた薄茶色の頭を下げて恭しくお辞儀をする。
「スプリーン教授とご一行様、ようこそいらっしゃいました! 私は執政のジェナスと申します。本日はあいにく主人に所用がありまして、代わりに私が応接をつとめます。どうぞよろしくお願いします。」
ジェナスがよどみなくあいさつすると、もう一人、長身の男が前に出てお辞儀をした。
「初めてお目にかかります、スプリーン教授とご一行の皆様方。私はクライド領軍の司令を仰せつかっているカークと申します。現地の駐留軍にもできる限り教授の便宜を図るように伝えております。なんなりとお申し付けください。」
短く刈りそろえた茶髪の下は柔らかい表情を浮かべているが、カークの眼光は鋭い。
紺色の騎士服の上からでもわかる胸板の厚さがあり、動作にすきがなく、歴戦の武人らしさが漂っている。
スプリーン教授、ハワードに続いて、玲奈はジェナスの文官らしいなめらかな手とカークの武官らしいゴツい手と握手した。
ジェナスの勧めで壁際の小机に移動して、現地の地図を見ながら今後の予定を話し合った。
おおよそ予定が固まるとそこでカークと別れ、ジェナスに案内されて役場の外に出る。
「雛森から最寄りのダネスへ馬車が出ています。私もしょようでダネスまで参りますので、乗り場まで案内しましょう。」
一行は大通りを引き返し、馬車乗り場までやって来た。
乗り場では二頭立ての乗合い馬車が待っていた。
スプリーン教授と玲奈たち一行六人とジェナスの他に、穏やかそうな老夫婦と中年の小柄な男の三人が乗り込んだ。
乗車がすむとまもなく馬車はゆっくりと動き出し、市街地を南に抜けた。
そのまま南にパルマに向かう道を途中で西に折れた。
道が細くなるが、それでも揺れが少ない。
車中では玲奈がスプリーンの助手として同行したハワードと話している。
「ハワード様は教授とよくお出かけされるのですか?」
「たまにですよ。それに‘様’付けはやめてください。」
「それでしたらハワード‘さん’とお呼びします。でもハワードさんは名門貴族のご子息ですよね?」
「三男坊で長兄に子供がいますから爵位を継ぐ可能性もまずないですし、叔父さんの手伝いで屋外に出ていて社交術にも疎くなります。」
「ハワードはなかなか見所のある男だよ。ワシが見落とした小石の微細なキズをこやつが見つけて、調べてみたら土器の破片と判明したこともあったのだ。」
その後スプリーン教授はハワードと出かけた遺跡の思い出話を始めて、どんどん専門用語が飛び出した。
玲奈は微笑みを浮かべて生暖かく二人の会話を聞いていたが話についていけなくなったので、今度はジェナスに話しかけた。
「先ほどから感じていたのですが、車体の揺れが少ないですね。路面をしっかり整備しておられるのですか?」
「よくぞお気づきになりました。村の周辺の道は村人が手入れしていますが、村々を結ぶ主要な街道は領主の務めとして整備をしています。」
「道がよくなれは人や物の往来が活発になりますものね。クライドの街がにぎやかなのはそのあたりも一因ですか?」
ジェナスは我が意を得たりと語り出す。
「はい、子爵は村での農業のほか、商業活動を重視しております。なんといっても一大消費地である皇都と近いですからね。」
「それで領内の産品を皇都で売ると?」
「ええ、農産物を売れば村での現金収入にもなります。村々の収入が増えて購買力が上がればそのお金でモノを買って経済が回るようになります。」
「領地が豊かになれば税収も増えるということですね?」
玲奈の質問にジェナスも苦笑いを浮かべる。
「そう言われると身もふたもありませんなあ。でも領民の暮らし向きが領主の個人的な資質で大きく左右されるのに比べればマシだと思いませんか? 世の中善性の人ばかりではないですから。」
話しているうちに馬車は停まり、小さな村で休憩をとった。
御者は馬たちをくびきからはずして水場に連れていく。
乗客たちは車外に出て固くなった体をほぐしたり、水を飲んだりしながら話している。
玲奈もカップを取り出して魔法で水を満たしてフルーたちに飲ませている。
ハワードが玲奈に近づいて声をかけてきた。
「さすが魔法学園生は魔力が潤沢ですね。」
「ただの生活魔法ですよ。ハワードさんは魔法使われるんですか?」
「これでも生活魔法全般と初歩の攻撃魔法は覚えたのですが、どうも僕は魔力がすくないようで、魔法を常用できないんです。」
「それでしたら少量の魔力で所定の効果を発揮するような魔法の使い方をすればいいのです。たとえば拓本で石碑に紙を貼るときに霧吹き代わりに水魔法使うなんていかがですか?」
「そんな水魔法があるのですか?」
村の中を歩き回っていたスプリーン教授がいつのまにか戻ってきて会話に割り込む。
「レイナ君はオリジナルの水魔法を考案しているぞ。ハワードも習ったらどうだ?」
玲奈が新魔法の考案者と知って、ハワードの玲奈を見る目が変わった。
魔法学園の教授が親族にいて彼も新魔法のことは耳に入っていたが、玲奈がその考案者とは思いもしなかったようだ。
「レイナさん、その新魔法はどんな魔法なんですか?」
「一言で表すなら、鉢植えに水やりするための魔法です。それほど難しくないので、ハワードさんも覚えていきますか?」
「ぜひお願いします!」
玲奈はハワードに《スプリンクル》の魔法を伝授したが、彼は魔力が少なくても筋がいいのか、短い休憩時間でこの水魔法をマスターした。
話しているうち、ハワードは玲奈の一つ年下であることが判明した。
「どうりでハワードさんはあどけなく見るわけだよ。」
「レイナさんこそ、絶対僕より年下だと思ったんだけどなあ。」
馬の休憩もすんで馬車につなぎ直され、乗客が車内に戻り馬車は出発した。
車中で玲奈はハワードと話していたが、まもなくスプリーン教授が割り込み、話は遺跡発掘のうんちくに移った。
玲奈は口をつぐみ、車窓に広がる広々とした畑やヒツジやヤギがのんびり草を食む牧草地をながめていた。
まだなにも植わっていない畑で働く人たちを見て、彼女はふと思い立ちジェナスに話しかけた。
「ジェナスさん、さっきの話、面白かったです。」
「何の話でしたっけ?」
「商業を活発にして村を豊かにする話です。畑で働いている人を見て、この人たちも恩恵を受けいるのかと想像してしまいました。」
「このあたりの村でとれた羊毛やミルクを加工して皇都に売っているので、影響はありますよ。」
「他の貴族領でもこのような振興策を採用しているのですか?」
「他領の詳しいことはわかりませんが、どこも豊かになりたいのは変わらないと思います。ただクライド子爵家は他と違うところがあるんです。」
「違い、ですか?」
「はい、先代が長く宰相を務めて王都にいる時間が長かったので、領地に帰ることが少なかったのです。このため他の貴族家と異なり、領地を統治する家臣は領都に、家中のことを司る家臣は王都にとはっきり分かれることになったのです。」
「普通は分けていないのですか?」
「ええ、家臣各人の担当分野は分かれていても、序列とか指揮系統は一緒くたにされていることが多いみたいですね。そのため家中の事情で政策が左右されることも起こり得ます。もっとも我が子爵家も家中の事情で偶然に分離しただけなので、威張れたものではありません。」
「でも偶然に始まった分離策も定着させて活用して成果を出しているなら胸張っていいと思いますよ。」
「そう言ってもらえると嬉しいものです。」
ジェナスがふと表情を和らげ、声のトーンを落とした。
「私はしがない商家の次男だったのですが、当代に声をかけていただき今があります。当代は成人前は大半を王都で過ごして、成人後に勝手のわからない領地に帰って戸惑ったと思いますよ。私らのように年代が近い平民が引き立てられたのもこの頃のことです。」
「そんなことがあったのですね。では商業振興策も当代の領主様が?」
「ええ、役場には私のように商家や農家で働いていた者がいますから下情に通じたのだと思います。」
「そのためか、ジェナスさんはじめクライド子爵家の皆さんは気さくで話しやすい方ばかりですよ。」
「元が元ですからね。昨日まで御用聞きや荷運びしていた若造が領主に抜擢されて急に威張りだしたら反感を買うだけですよ。」
「私も平民ですから、威張らない人の方が好感度は高いですね。」
「レイナさんは貴族社会の一端である魔法学園で成果をあげていると思いますよ。」
「自分ではそれほど大したことをしたとは思えないんです。」
「これから大したことをしてくれると期待しましょう。ところでクライド領軍の先代の魔道士隊長は魔法学園出身でした。今の隊員たちはあの人の弟子ですから、現役の学生が顔を見せてもらえると喜ぶと思いますよ。」
話しているうちに馬車は目的地であるダネス村に到着した。
時間はお昼を少しまわったとこらである。
村はそこそこの規模があり、周囲を木の柵で囲っているのが他の村と異なっていた。
村の西側に見える森にある迷宮に備えているのだろう。
馬車は村の中心にある広場に止まった。
下車した一行を村長を名乗る初老の男が出迎えた。
玲奈は、ジェナス、スプリーン教授、ハワードに続いて村長と握手する。
ジェナスと村長がスプリーン教授と玲奈を交えて、今後の予定を確認している。
領軍が荷馬車を出してくれるとのことなので、今日は一旦宿屋に荷物を預け、軽食をとってから遺跡と迷宮に出かけることにした。
宿屋に着くとジェナスはあるじに手紙を渡し、一言二言話してから玲奈たちに向き直った。
「私はこの村での用事をすませてこのまま戻ります。皆様方は宿屋の食堂でお茶でもいただいて荷馬車を待ってください。明後日の午前に迎えの馬車を出します。では!」
ジェナスはきれいなお辞儀をして宿屋を去っていった。
従者がちゃんとしてないと主人に恥をかかせると言ったアメディアの言葉を玲奈は思い出した。
玲奈が通された二階の一人部屋は狭くて殺風景だが、思ったより清潔で古びてはいなかった。
他のメンバーは、スプリーン教授とハワード、フルーとスドン、ギリムの二部屋に分かれている。
玲奈は荷物を置くと一階の食堂に降りた。
迷宮まですぐに出かけられるように帯刀して、ナイフの入ったポーチと水筒をベルトに付け、コートを羽織ってバッグを背負っている。
彼女は食堂で窓辺のテーブルに席をとり、主人にお茶を頼んだ。
外ののどかな農村風景を見ながらお茶を飲んでいると、フルーたちが武装して降りてきた。
「すまないマスター、待たせた。」
「いや、私もお茶を飲み始めたところ。」
「今日はどのような予定なのか?」
「そうだね、現地の滞在時間が二時間ってところだろうから、地下二階まで行ってみようか? これがジェナスさんからいただいた迷宮の地図だよ。」
「そうか、マスターがそれでよければ私に異存はない。」
話しているうちにスプリーン教授とハワードも降りてきた。
彼らは発掘をするので道具類を一通り身につけている。
「待たせたね、諸君!」
「お茶をいただいていたところです、教授。馬車が来るまで待ちましょう。」
窓辺でおしゃべりを楽しんでいるうち、幌に羊の紋章を付けた荷馬車がやってきて停まった。
荷台から二人の軍服を着た男が出てくる。
玲奈たちは談笑を切り上げ、宿屋の外に出た。
軍服の男のうち一人が近づいてくる。
「はじめまして、スプリーン教授! 私たちはクライド領軍の輜重隊です。主人より教授たちを雛森までお連れするよう仰せつかっております。」
「うむ、助かる。こちらの準備はいいぞ。」
教授の発掘用道具類は輜重隊の兵士が荷台に持ち上げ、玲奈たちも荷台に乗った。
全員が乗り込むと二頭立ての荷馬車は動き始めた。
車台の枠の内側につけた木の板に腰掛けたが、玲奈たちは柔らかいクッションを持ってきているので余裕の表情をしていた。
領軍の兵士はもとよりスプリーン教授とハワードも平気そうなので、意外と旅慣れているのかもしれない。
村を囲む柵を出てクライドに戻る道を右に折れて三十分ほどダネス村郊外の畑作地帯を走ると、馬車は森の中の道を進むようになる。
それとともにゆるい傾斜が始まり、雛森の丘陵地に差し掛かったようだ。
森の中をさらに三十分ほど進むと道は二手に分かれた。
その手前に馬車を止めた御者は振り返って言った。
「ここを右に行けば迷宮があります。私たちは左に進んで遺跡に参ります。」
「乗せていただき、ありがとうございました。」
玲奈は兵士たちに礼をして、フルーたちと馬車をおりた。
そして左に折れて走り去るスプリーン教授たちの乗った馬車を見送った。
分かれ道を右に進み、十分も歩くと木々の間に石の壁が見えてきた。
進んだ先に鉄の大きな扉があり、その脇の小さな扉が通用門となって領軍の詰所となっていた。
玲奈は魔法学園の学生証を見せて通用門をくぐった。
門衛の兵士は迷宮に魔法学園の学生がやってくることは前もって知らされていたのか、すぐに通された。
玲奈は兵士に断って門内でフルーたちと軽くストレッチをさせてもらった。
迷宮の入り口は丘の麓にポッカリと開いていた。
パルマにある花の迷宮より一回り小さい。
探知能力が優れたギリムと夜目がきくフルーが先に立って中に入った。
中の通路は学園の迷宮などと比べると高さや幅がやや狭く、明るさも暗かった。
「フルー、ギリム、暗くて見えにくかったら魔法で明るくしようか?」
「いやマスター、ドラゴニュートは暗視能力が高い。このくらい明るければ問題はないぞ。」
「ギリムは大丈夫?」
「大丈夫ってわけじゃねえけど、なんとかするしかねえだろ。気配は探れるから安心しろ!」
玲奈は前方の索敵は二人にまかせ、後列で地図を見ながら進んだ。
ただし手元の地図が細かいところまで見えない暗さなので、やむなく見るときだけ右手のひらをわずかに光らせて左手に持った地図をてらした。
そうして進むと、突如ギリムが叫んだ。
「そこのヤブに虫がいやがる!」
その声に反応してフルーが大剣を背中の鞘から引き抜く。
玲奈が風属性付与の呪文を唱え、フルー、ギリム、スドンと付与魔法をかける。
フルーは虫の居場所がわかるようで、草むらに踏み込むと左右に大剣を振っている。
約三十センチのバッタらしき虫はほとんどフルーに斬られたが、数匹が空に飛び立った。
玲奈は空中の敵ならと弓と矢をアイテムボックスから取り出した。
飛ぶバッタを狙い弓を引き絞るが、狙いが定まる前にいずれも飛び去ってしまった。
「なかなかうまくいかないね。」
「弓では難しそうだな。私にとっては地上にいる限り問題ない。」
「俺も探知するだけなら、この暗さでも問題ねえよ。」
「ギリムは暗くてもちゃんと探知したね。頼りにしてるよ。」
「まかせとけ!」
玲奈は弓を肩にかけたまま歩くことにした。
ギリムは今度は飛び交う数匹のアブらしき虫を見つけた。
いずれも十センチを超える大きさがあり、羽音がよく響く。
玲奈は弓に矢をつがえながら声を低くして話す。
「あの虫は弓で狙わせて!」
彼女は自分に闇属性を付与してから弓を引き、静かに息を吐き出しながら虫の動きを見定める。
狙いがつくと静かに矢を放つ。
矢はアブの胴体に突き立った。
「やるじゃねえか!」
「今度はうまくいったね。空中にいる標的はまず私が狙うよ。もし逃げずに向かってきたときはフルーが叩き斬って!」
「ああ、素早く動き回る相手は得意ではないが、できる限りやってみよう。」
あと一回バッタの群れに遭遇しただけで一階を抜け、玲奈たちは二階に降りた。
二階では虫に代わってヘビやトカゲなどの爬虫類が現れた。
ヘビといっても学園の迷宮にいる小ヘビを一回り大きくした程度で大きな脅威ではないが、毒の有無がわからない。
このため慎重に対処して、ギリムが先に発見してフルーが後ろに回り込んで仕留めるようにした。
トカゲはこちらを視認すると突進してくるが、直線的にただ突っ込んでくるだけなので、すべてフルーの大剣の餌食となった。
二階では慎重に構えたのでやや時間がかかったが、それでも二時間足らずで三階に降りることができた。
そろそろ予定していた時間が経過するので、三階では一回だけ戦って帰ろうということにした。
地図を見ながら歩き出してまもなく、ギリムが敵を発見した。
「前方にワンコロがいやがる。」
イヌ型のおそらくコボルトと思われる個体が数匹のいるようだ。
玲奈たちは身を低くして足音を忍ばせて近づいたが、途中で相手に気がつかれた。
コボルトは逃げ足が速く取り逃がしてしまい、発見者のギリムは地団駄を踏んだ。
「チクショウ! 逃げ足だけは一人前の野郎どもだぜ。」
「コボルトは危機察知能力が高くて素早いからしかたないよ。むしろ私たちが深追いしないようにしないと。」
「マスターの言うとおりだ。今日は深追いせずにここで引き上げ、明日また挑めばよい。」
「わかったよ! レイナさんとフルーが言うならしかたねえな。」
この日は三階に降りたところで引き返した。
帰り道はゆるい下りで、森を抜けると道は平坦になった。
往きは馬車で一時間弱の道のりが、帰りは歩いて一時間半で夕暮れのダネス村に着いた。
玲奈たちは宿屋に帰り着いたが、スプリーン教授たちはまだ戻っていなかった。
玲奈は宿屋の主人から桶を借りてフルーたちの部屋に持っていき、魔法で水を満たしてこれで身をぬぐい装備の手入れをするよう言い置いて、村長宅に無事帰着のあいさつに出向いた。
彼女は村長との話のついでに村で鍛冶ないし研ぎができる人がいないか尋ねてみた。
フルーが何匹もウロコのあるトカゲを斬ったので、剣がいたんでることを懸念したのである。
幸いにも農具中心ながら鍛冶をやっている人がいると村長が言うので、彼女は場所を教えてもらい宿屋に戻った。
二階に上がってフルーに声をかける。
「ねえフルー、この村に鍛冶をやってる人がいるって! 剣を研いでもらわない?」
「ああ、マスター。ちょうど剣を点検していたところだが、刃こぼれはないな。使っていた感触では切れ味が鈍ったとは思わなったが、細かいキズがついたのも確かだ。どのくらいの腕かわからないが、見てもらうのも悪くない。」
「じゃあ、お疲れだろうけど、鍛冶屋さんに行こうか。スドンとギリムはお留守番しててね。」
フルーは大剣を背負い、玲奈と鍛冶屋に出かけた。
初老の鍛冶屋は鋤や鍬、斧が専門だが、剣も経験があるとのことなのでみてもらうことにした。
鍛冶屋の見立てではフルーの大剣は剣心に狂いはなく軽く研いでおけば大丈夫とのことで、今晩中に仕上げると言うのでまかせることにした。
玲奈とフルーが村の中央広場に戻ってくると、ちょうどスプリーン教授たちを乗せた荷馬車が戻ったところだった。
馬車から降りたスプリーン教授、ハワード、二人の領軍兵士を玲奈は出迎え、労をねぎらった。
教授は小ぶりな木箱を抱えてご機嫌である。
「二時間だけだったのに、これなら初日からまずまずの成果だと言えるな。」
玲奈も教授から木箱の中を見せてもらった。
そこには遺跡の出土品だという石ころが数個入っていた。
「教授、この出土品はどうされるのですか?」
「村長宅で一部屋空けてもらったから、そこに持ち込んで調査するんだよ。レイナ君も来るかね?」
「はい、喜んで!」
玲奈は行きがかり上、教授についていき出土品を見る羽目になった。
一緒にいたフルーには、宿屋に戻るように伝え、夕食になったら呼ぶよう頼んだ。
村長宅の一室で出土品を手に、スプリーン教授は絶好調だった。
「この土器を見てくれ。残念ながら古代王国時代のものではないが、現王国中期まで遡る可能性があるのだ。と言うのも、ここの断面を見ると熱変性による色変化で窯の様式が推測できるんだ。つまり、窯の様式変化の年代から土器の年代が決まるというわけだ。」
教授は長広舌をふるい、玲奈は適当に相槌を打っていたが、ふとハワードを横目で見ると彼は表情を消して不動の構えで座っていた。
玲奈がそろそろ苦痛に感じ始めたころ救世主が現れた。
ギリムが宿屋で夕食ができたことを知らせに来たのである。
玲奈はそれに便乗した。
「夕食ができましたよ。出土品の調査は栄養をとって万全の体調に戻してから再会しませんか?」
「しかし、土器の組成を南方の産地と比較してみないことには作られた場所の特定が困難なんだ。」
「土器は作られてから数百年たってますが、夕食は作られたばかりです。スープが冷めないうちにいただきませんか?」
玲奈はハワードと示し合わせてスプリーン教授を引きずるように村長宅から宿屋に連れていった。
夕食後早々に教授は村長宅に戻ったが、ハワードと玲奈たちは自室に引っ込んだ。
細いロウソク一本だけが照らす夜の室内は暗く、何か読み書きするのにも苦労する。
玲奈はやむを得ず光魔法を天井に付与して室内を明るくして、ベッドの隅で書き物をした。
今日迷宮一、二階での戦いや魔物の状況などを書いておいて、帰りにクライドの役場で渡してくる予定だ。
書き物を終えると彼女は念のためベッド周りに浄化の魔法をかけてから床についた
翌朝玲奈たちは自宅にいるときと同じように早朝起き出した。
玲奈は部屋を抜け出して外に出て村のはずれ、柵の側まで歩いてみた。
大きな村ではないので、すぐに端までたどり着く。
今度は反対側の端まで歩いてみる。
家々は密集しておらず、間に空き地とも庭ともつかない空間がたっぷりとある。
木製の家屋のほか、家畜小屋や納屋が建っているのが目につく。
ちらほらと外に出て家の周りで立ち働く人がおり、玲奈は通りかかる際にあいさつした。
反対側の端まで行って宿屋の前まで引き返すと、フルーが出てきて体を動かしていた。
「おはよう、フルー!」
「あっ、マスター、おはよう! 旅先でも相変わらずだな。」
「ベッドでゴロゴロしててもしょうがないからね。」
「そうか、スドンとギリムは叩き起こしておいたから、じきに降りてくるだろう。」
フルーの言葉どおり、まもなく眠そうな顔をしたスドンと、あくびを噛み殺したギリムが出てきた。
目覚めを促すためか、玲奈はパンパンと手をたたいてから、いつもどおり動的ストレッチを始めた。
ただし長い距離を歩くことを意識して股関節周りは念入りにやった。
ストレッチがすむと、各自思い思いに体を動かした。
木剣を持ってきていないが、真剣を村内で振り回すわけにもいかない。
やむを得ず、フルーは無手で足さばきの練習をしている。
重心を落としてすり足で素早い機動を繰り返している。
スドンも無手で、左手を構えて右手を横に動かして左右バラバラに動かす練習をしている。
ギリムは探知の練習なのか半眼になって動かない。
玲奈は右足を引いて体を開き、ゆっくりと呼吸を整えて一点に意識を集中させる練習を繰り返した。
何度かルーティンを行った後、ふとギリムを見ると探知を終えたのか両目を見開いてキョロキョロしていた。
「ギリム、探知してたの?」
「まあ、そんなところだ。」
「なにかわかった?」
「そうだな、あの小屋にはちっこい馬と鳥がいるぜ。」
「へえ、建物の中までわかるんだね。私もやってみようかな。」
「できるかよ!」
玲奈は呼吸を整え意識を集中して周囲を探った。
しかし目で見えること、耳で聞こえること以上の事柄をなにも感じ取ることができなかった。
「やっぱり難しい! なにも感じないよ。」
「そう簡単にできるようになってたまるかよ!」
「そうだ! 目や耳、鼻が難しいなら魔力を使えばいいんだ!」
玲奈はアメディアが魔法の練習をする際、彼女が魔力をきちんと制御できているか確認するため、魔力の流れを感知していた。
これを四方の環境に対して行おうと考えたのである。
玲奈は目を薄っすらと閉じて、アメディアの魔力の流れを感知した時のことを思い出しつつ、その感触を全周に伸ばす。
薄く開いた目でとらえたギリムからはなにも感じない。
フルーからは微弱な魔力の漏れが感じられる。
ギリムが元々魔力が乏しいのに対してフルーは潜在的に魔力が豊富だからだろうか。
一方、比較的魔力に豊かなはずのスドンからは魔力の漏れは感じられない。
「ねえギリム、魔法を覚える気はない?」
「なんだよ、ヤブから棒に。」
「魔法を習得するための資質って必ずしも魔力の多寡だけじゃなく、アメディアみたいに器用で目端の利くタイプが向いてると思うんだ。だからギリムも適性があるって!」
「そうかよ!」
ギリムは魔法の習得に興味がなさそうだ。
玲奈は気を取り直し、魔力感知の練習を再開した。
先ほどまでの手法では、感知できるのはフルーだけで、スドンもギリムも、小屋の中にいる馬や鳥も気づかない。
彼女はやり方を変えて、相手が発する魔力を受けるのではなく、こちらから魔力を使って探る方法を模索した。
まずは全方位に向けて均一になるように魔力を放散する。
自分から出ていた魔力を感知して、取り逃がさないようにトレースする。
とらえた魔力の動き全体をイメージしてみると、自分の周囲にいる人の形を成した。
自分の他に四人いる。
フルー
スドン
ギリム
あと一人、誰?
玲奈が振り返るとハワードが後ろからハワードが近づいてくるところだった。
「あっ、ハワードさん、おはようございます!」
「おはようございます! 気がつかれないように近づいたつもりだったのに、レイナさんは鋭いですね。」
「偶然ですよ。」
「魔法使いの‘偶然’は必然という気がします。それはさておき、そろそろ朝食ですよ。僕は叔父さんを呼んできますね。」
「では私たちはお先に失礼します。」
ハワードは宿屋に二階に戻るのかと思ったら、村長宅に向かった。
玲奈はハワードの行動が気になったが、彼が確信を持っているように見えたのでそのままフルーたちと食堂に行った。
席に着いて待っていると、まもなくハワードがスプリーン教授を抱えるようにして戻ってきた。
「お待たせしました。実は昨晩、叔父さんは出土品を遅くまで調べていて宿屋に戻るのが面倒くさくなって、そのまま村長宅に泊まったんですよ。」
「それは村長さんに迷惑かけちゃいましたね?」
「ええ、ですから連れてくるときに村長には謝っておきました。」
場合によっては自分が村長宅に行って一言詫びようかと玲奈は思っていたが、心配いらないようだ。
スプリーン教授は寝不足なのか、朝食の間眠そうだった。
食後、玲奈はスドンとギリムには部屋に戻り出かける準備しておくように言い置いて、フルーと鍛冶屋へ昨日研ぎを頼んだ剣を受け取りに行った。
鍛冶屋で剣を検分したが、キズがあったとは思えないほどきれいで滑らかに研がれていた。
農具に関する仕事がほとんどとはいえ、仕上がりに鍛冶職人のプライドを見た思いがした。
代金を支払い宿屋に戻ってきた玲奈は身支度を終えたスドンに磨かれた剣身を見せた。
フルーが身支度を整える間、スドンは戻ってきた大剣をためつすがめつしてきたが、フルーの支度がすむとスドンは一つうなずいて剣をフルーに返した。
その後、迷宮でコボルトへの対応策を話し始めたところで、領軍の荷馬車が迎えに到着した。
スプリーン教授は寝不足でテンションが低かったが、遺跡に向かっていると徐々に多弁になっていった。
それに辟易したのか、ハワードが玲奈に話しかけてきた。
「朝早くから面白そうなことしてましたね。」
「それほど面白いものではないですよ。体を動かす前に念入りにほぐすことにしています。急に激しい運動するよりも筋肉系の故障が発生する恐れが少なくなります。」
「ほう! 確か騎士団では人だけでなく馬も準備運動するそうですね。でもその準備運動よりも気になるのは、僕が後ろに立ったのに気がついてのはいったい何の魔法だったのかということです。」
ハワードは、玲奈が背後も見えるかのような振る舞いをいぶかしみ、ある種の魔法を行使したと推測したようだ。
たしかに玲奈は魔力をふんだんに使って感知している。
昨日ハワードにスプリンクルの魔法を教えた感触から玲奈はハワードの魔術的適性はそれほど高くないとみており、彼の推測は当て推量に過ぎないと思った。
念のため玲奈は彼に向けて多少の魔力をぶつけてみたが、彼がなにも反抗を示さなかったことから魔力への感受性がそれほど高くないことが読み取れた。
おそらく玲奈が魔力による探知を行った確証を彼は得ていないと見切り、ごまかすこおなした。
「魔物との戦いで、前衛の支援だけでなく、背後や側面の監視をして不意を突かれないようにするのも後衛の役目ですよ。私はずっと後衛でしたから。」
「そうですか。新進気鋭の魔法使いであるあなたのことだから、てっきり後方や側面を目で見なくても感知する魔法を使っていると思いました。」
試みに玲奈は全周に魔力を放散してみた。
誰も特に反応を示さなかった。
ただし彼女自身も感知はできても、動いている馬車の上からでは揺れもあって明瞭なイメージが結びにくい。
「魔法使いは魔法の専門家です。でも魔法だけに頼ると脆弱になりかねませんよ。」
「そんなものですか?」
「ええ、魔法使いは詠唱したり発動に時間がかかったり連続して撃てなかったりとスキができるので、その間に肉薄されて対処できないと致命的なことになりかねません。」
「なるほど、魔法使いにも弱点があるということですね。」
玲奈は腰に帯びた剣の柄をポンポンとたたく。
「対処法の一つとして私の場合は、片手間ながら剣や弓を鍛えました。物理職と一緒に準備運動をするのも、自分が思ったとおりに体が動くようにするためです。」
「魔法使いでそのような修練をしているとは意外ですね。かつて短期間ですが私と兄が魔法を習った魔導師は杖を持って黒い三角帽子に黒いローブを着ていましてよ。その人と比べるとレイナさんはちょっと違うなあ。」
「そうかな? 自分でも典型的な魔法使いとは遠いところにいるとは思いますけど、必ずしも典型的な魔法使い像が魔法による戦闘に最適化されているとも思えないんです。たとえは戦闘に魔法を多用している聖騎士の人たちは典型的なもの魔法使いとは異なりますよね?」
ハワードは玲奈の問いかけに納得がいかないのか、理解が追いつかないのか首をひねる。
「ううむ、聖騎士とは大きく出ましたねえ。ひょっとしてレイナさんは聖職者を目指しているのですか?」
「まさか! 現在は教皇領に住んでいるので教皇庁の動向には気を配っているだけで、私が想定しているのはイオニウスの方です。魔法戦闘職として聖騎士は、典型的な魔法使い以外で参考になるモデルだと思うんです。」
「そんなものですか。」
ハワードはまだ得心できないようで難しい顔をしている。
「ええ、複数の見本を比較してみると有益ですよ。ところでハワードさんは、何か目指すものやなりたいものがありますか?」
彼はさらに微妙な表情を浮かべる。
「教えてくれたのでおわかりだと思いますが、僕は大して魔法の才能がありません。かといって剣や乗馬がうまいわけでもないし、頭が切れるわけでもないです。なにになりたいかなんて言える立場じゃないですよ。」
「辛めの自己評価はいいんですが、ハワードさんは悲観的すぎではありませんか?」
「跡取りでもないと使われる立場にしかなれません。あなたのように魔法の才能があるなら違うのでしょうけれど。」
「才能の大小は単なる条件にすぎませんよ。たしかにあなたは傑出した魔法の才能はないと感じましたが、叔父さんの発掘作業の手伝いをよくやっていて、粘り強さや根気、器用さはなかなかのものと感じました。」
発掘の話になって、それまで眠そうにしていたスプリーン教授が目覚める。
「そうだぞ! ハワード、お前はなかなか見所がある。勘もいい。」
今度はスプリーン教授がハワードと出かけた遺跡の話を始め、玲奈は聞き役に回った。
教授の弁舌が滑らかになったころ、迷宮との分かれ道にさしかかり、玲奈たちは下車した。
彼女たちは門番にあいさつして門内に入り、迷宮に入る前にストレッチで体を軽くほぐした。
いつもどおりの動作を行なったが、玲奈のテンションが低いことにギリムは気がついた。
「レイナさん、どうした? 学者のジイさんの相手で疲れたのか?」
「ううん、疲れてみえたのかあ、テンション下がってたのかも。よし、気合い入れ直しますか!」
「その意気だぜ!」
「でも攻略は慎重にね!」
索敵を行うギリムが先頭のフルーと並び、その後にスドンと玲奈が続く。
迷宮に踏み入ってまもなく、フルーが玲奈に尋ねた。
「マスター、今日はどうするつもりだ?」
「一、二階は敵が弱いから、逃げるなら追わず、向かってくるのだけ戦えばいいよ。三階のコボルトは遠目からでも私の弓で削るから。」
「下の階は力を温存して十階まで踏破をめざすのだな。」
「今日は目指さない、地図もないし。」
一階は虫のフロアだが、逃げ遅れた個体や進路上に居座る個体のみを相手した。
玲奈が地図を読み、その前でギリムが探知を行なって進んだ。
ときに玲奈は魔力を周囲に放散して魔力感知を行なった。
ギリムの負担を減らす目的もあったが、彼女自身の探知能力を高める狙いもあった。
四回、五回と繰り返すうち、徐々にイメージを結ぶのに要する時間が短くなり、像も明確になってきた。
五メートル離れた草むらのバッタを見分けることができた。
一階は危なげなく通り過ぎて二階に降りた。
二階は爬虫類エリアである。
この階の魔物はトカゲのように向かってくるものが出現する。
このため盾を持ったスドンが前に出て、ギリムはその後ろに引っ込む。
「ねえギリム、二階にいるトカゲってやたら突っ込んできて邪魔じゃない?」
「ああ、俺もそう思うぜ。」
「だったら、少し大回りしても避けて通らない? あいつら鈍いのか少し離れると気がつかないんだから。」
玲奈とギリムの会話を耳にしたフルーが振り向く。
「トカゲを避ける必要はないだろう。大して強いわけでもないし、群れるわけでもないぞ。向かってきたものからたたき斬るだけだ。」
「フルーの実力に疑いはないよ。でもね、剣の耐久性はどうかな? トカゲを目標にしているわけじゃないから、ここで無理して試す必要もないんじゃない?」
「マスターがそう言うなら、私も我をとおすつもりはない。」
「ありがとう! あくまでも無理しないだけだからね。」
玲奈は左隣りのギリムに向き直った。
「ギリム、交互に索敵しながら進むよ! 相手より先に気がつかないとね。」
「おお、了解だ!」
玲奈たちはトカゲは避けたものの、ヘビは積極的に狩りながら進んだ。
剣を振る機会が増えてフルーも機嫌がいい。
魔力感知も慣れてきたが、地図を見ながらも感知に集中していると頭の芯が重くなり、玲奈は疲労を感じた。
「三階に降りる前に一休みさせて!」
玲奈は土魔法で地面から小さな円柱を四つ作り出した。
そしてそのうちに一つに彼女は腰を下ろし、バッグから取り出したカップに魔法で水を入れ、一杯、二杯と飲み干した。
今度は水を満たしたカップを差し出した。
「さあ、飲んで飲んで!」
玲奈はカップをスドンに渡すと立ち上がって大きく伸びをした。
次に手を腰にあて、首をグルグルと回した。
それがすむと肩や腕の力を抜いてぶらんぶらんさせる。
しまいには土魔法で作ったイスに腰を下ろして脱力している。
スドンがおずおずと差し出したカップを玲奈は受け取ると、再び魔法で水を満たしてフルー、ギリムに差し出した。
二人とも首を振って断ると、玲奈が自らゆっくり時間をかけて飲み干した。
「もう少しだけ休ませて!」
彼女はそう言って、魔法で水を出すと手ぬぐいを湿らせて首筋、次に額から目にかけての顔面にあてて、じっとしている。
数分間そのままの体勢でいたが、手ぬぐいをしまうとおもむろに立ち上がった。
「お待たせ! そろそろ行こうか? みんな準備はいい?」
三人も立ち上がり、黙ってうなずく。
フルー、スドンを先頭に三階に降りた。
この階から玲奈はフルー、スドン、ギリムには火属性を、自分自身には闇属性を付与した。
「ここから先は未知の領域だよ、気を引き締めて!」
「見たところ、通路のかなり先にコボルトのヤツらが三匹いるだけだぜ。」
「じゃあ、そっと近づいてみよう!」
先頭のフルーが心なしかペースを落として、足音を忍ばせて近づく。
玲奈は左手に弓、右手に矢を持ち、いつでも狙える態勢だ。
三匹のコボルトは、フルーたちが十メートル少々まで近づくとフルーたちを凝視して警戒心をあらわにした。
そしてフルーたちがさらに接近すると、きびすを返して逃げる。
引き離してしばらくすると逃げ去るのではなく立ち止まってこちらをうかがう。
近づくとまた逃げる。
これを二回繰り返した。
そして三度目に逃げようとするとき、玲奈が矢を放った。
コボルトたちが逃げ出す距離。
逃げ出すとき、左足を軸にターンすること。
ターンするとグンと重心を落として前傾姿勢で走り出すこと。
一匹が逃げ出すとき他の二匹もつられて逃げ出すこと。
これらのことを見極めて、玲奈はタイミングを計り狙いを定めていた。
放たれた矢は背を向けて逃げるコボルトの首筋に突き刺さった。
矢を受けたコボルトは前のめりに倒れて動かなくなった。
コボルトの動きを見切り、一射で倒した成果に玲奈は満足を覚えた。
残りのコボルト二匹は仲間を倒されて一目散に逃げ去った。
と思わせて、射られる前より安全マージンを大きくとって立ち止まり振り返る。
玲奈はコボルトの死体をアイテムボックスに入れると、早足で進むフルーの後を追った。
二匹のコボルトは玲奈たちが少しでも近づいたり武器を構えようとするとたちまち逃げにかかる。
かといって休まず逃げ去るわけでなく、ときどき立ち止まって振り返り、玲奈たちを先導するかのようである。
コボルトに導かれるように、玲奈たちはまもなく広い空間に出た。
コボルト二匹は立ち止まることなく走り去った。
「ギリム!」
「ハイハイ、わかりましたよ。」
ギリムが前に出てあたりを見渡す。
前方右寄りを指差してた。
「弱虫のコボルトどもはあっちに逃げてます。」
「戻ってこない限り、あの二匹は意識の外に置いてもよさそうね。」
ギリムが今度はやや左側を指差す。
「少し離れたあそこにコボルトの群れが! でもありゃ俺たちに気がついてねえな。」
「何匹いる?」
「ええと、四、五、六、七匹いるな。特にデカいのとかはいねえ。」
「よし! あの群れを狙おう。フルー、なるべく見つからないように近づくよ!」
「ああ、わかった。努力しよう。」
その前に玲奈は自分でも探知しようと周囲に魔力を放散した。
自分の魔力を追って感知すると、左側方十メートルもない距離でビクンと震えるものがあった。
草むらのように見えたものは動物、それも魔力の感受性を有する未知の魔物だった。
枯れ草色のふわりとした毛に包まれた丸々とした生き物。
五十センチ足らずの大きさで物理的な脅威は薄いとしても、魔力を感知できるとなると魔法を使う可能性はあり、軽視はできない。
玲奈はスタンスを変えずに矢をつがえて顔だけ左に向けて弓を引く。
呼吸を整えると、素早く狙いをつけて静かに矢を放った。
弓鳴りの音と矢の風切り音に生き物は反応したものの、動くより先に矢が到達した。
黄色い毛玉はキュッと短い鳴き声を立てると二つに割れて、一つが矢を立てたまま横転し、もう一つは走り去った。
毛玉は二匹のフカフカな生き物が寄り添っていたようだ。
玲奈は急いで駆け寄って毛玉を拾い上げ、矢を抜いてアイテムボックスに収容した。
「お待たせ! 改めて左前方のコボルトたちに向けて進みましょう。なるべく気づかれないようにね。」
フルーとスドンを先頭に、足音が大きくならないように普段よりゆっくりとコボルトたちに接近した。
弓の射程に入ったと判断すると玲奈はジャスチャーでフルーとスドンを止まらせた。
静かに彼女は弓を引き絞り、ゆっくりと息を吐き出すと矢を放った。
耳のいいコボルトたちは矢の音に素早く反応した。
彼女の狙いは正確であったが、いつもより距離があったので威力が落ち、矢が目標のコボルトに到達するまでわずかに時間がかかった分、急所をそれて臀部に刺さった。
他のコボルトたちは一斉に逃げ出し、矢に射られた個体はよろけて倒れた。
矢に付与した闇属性が効いたのか、倒れたコボルトはもがくだけで立ち上がれない。
悠然と近寄ったフルーがとどめを刺し、玲奈は矢を抜いてアイテムボックスに放り込んだ。
「さてマスター、あの群れを追いかけるのか?」
「うん、そうしよう。ただしフルー、相手は速いので追いかけっこをすると消耗するだけだから、左端の壁際に追い込むようにね。」
「なるほど、右側から回り込むように追えばいいんだな?」
「そういうこと。理解が早くて助かるよ。」
玲奈たちはフルーとスドンを先頭に、六匹に減ったコボルトの群れを追い始めた。
群れは仲間の一匹がやられて慌てて逃げ出したが、一気に逃げ切ろうするでもなく、玲奈たちが追えば逃げ、彼女たちを引き離すと立ち止まるを繰り返した。
それでも徐々にフルーが右側にから回り込んで左の壁に押し込みつつあった。
だがコボルトたちは玲奈たちの意図を察したのか、逃げる方向を左斜めから右斜めに変えた。
玲奈はコボルトたちの進行方向を再び左寄りに変えさせようと、一旦自身にかけていた闇属性を解除して土魔法を発動させる。
コボルトたちを穴に落とすか、慌てて進路を左に切るよう足元を狙って幅、深さとも約一メートルの溝を土魔法で出現させた。
しかし、やや距離があったこと、早足で歩きながらであったことから、相手の足元すぐのところに穴を開けるつもりが三メートルほど先にずれた。
コボルトたちは穴に落ちることはなく、軽く助走をつけて難なく穴を飛び越えた。
玲奈は一瞬脱力しかけた。
「マスター、立ち止まっているヒマはないぞ。すぐに追いかけなくては!」
「うん、わかってる。今すぐ穴を埋めちゃうね。」
こちらはスドンがうまく飛び越せないかもしれない。
玲奈は土魔法で作った穴を土魔法で埋めて、再びコボルトを追い始めた。
まもなくギリムが叫んだ。
「おい、もうちっとデカい群れが右側から近づいてやがるぜ。」
「えっ、フルー! スドン! 立ち止まって! ギリム、大きな群れは何匹いる?」
ギリムは右前方をにらみながら指を折る。
「十二匹いる。特にデカいヤツや雰囲気が変わったヤツは見当たらねえぜ。」
ギリムが数を数えている間に、逃げていた小さな群れが進出してきた大きな群れに合流して一つになった。
双方の群れのコボルトがなにか鳴き交わしている。
「あっ、合流して十八匹になったか。迷ってる猶予はないね。よし! 撤退するよ! ギリム、私が殿をつとめるから、スドンを連れて退路を確保しつつ先導して!」
「おお、まかせてくれ! 多少疲れはあっても、そのぐらいやってやるぜ!」
回れ右したギリムと前に出ようとした玲奈にフルーが声をかける。
「ギリムもマスターもちょっと待て! 相手は足が速くて数も多い。背を見せると嵩にかかって追ってくるぞ。いくらマスターでも苦戦を免れまい。」
「んんん、仕方ない。この場で迎撃に切り替えるよ! フルーとスドンは前衛で迎え撃って!」
「よしきた!」
「ギリムは悪いけどスドンの後ろで援護して!」
「仕方ねえな。」
「みんなに火を付与し直すよ。お互いの間隔を開けすぎないよう注意するように!」
玲奈は改めてフルー、スドン、ギリムに手早く火属性を付与する。
自分には闇属性を付与した。
前衛右側にフルー、その後ろには玲奈、前衛左側にはスドン、その後ろにギリムの陣形でコボルトたちに相対した。
一団となった二つの群れのコボルトは左右に大きく広がる陣形に変化した。
玲奈たちの態勢が整うころには、コボルトたちの両翼は外側が勢いよく、中央部がゆっくりと近づいて陣形が半円形ないし馬蹄形に変化して、そのまま包囲しようと接近してきた。
そうはさせじと玲奈は矢をつがえて弓を引き絞り、右側の先頭を走るコボルトめがけて矢を放った。
矢はコボルトの左胸に深々と突き刺さり、コボルトは小さくうめくと前のめりに倒れて動かなくなった。
それを合図にフルーは背から大剣を抜く。
剣先から炎が揺らめいて尾を引き、間合いを詰めてきた正面のコボルトたちがギョッとして立ち止まる。
「来ぬならこちらから行くぞ!」
フルーは一声吠え、火の力がこもった大剣を上段に構えたままダッシュしてコボルトの隊列に踊り込んだ。
コボルトたちはフルーの剣戟を止めることができず、二匹斬られたところで算を乱して逃げ出した。
向かって右側に伸ばしたコボルトたちの左翼は根元で引きちぎられた。
右利きのフルーに追い立てられて正面右側のコボルトたちは左側、スドンのサイドに逃げた。
スドンは体を開いて右手にハンマーを構え、重心を落としてカイトシールドをどっしり構える。
その後ろでギリムは悪態をつきながらポーチから取り出したナイフを投げ始めた。
ナイフは火を吹きながら飛び、命中しなくとも左側のコボルトたちの脅威になったようで、ギリムはコボルトの接近を許していない。
右側ではちぎれた翼の先に四匹のコボルトが右往左往している。
玲奈はそこに矢を射込んだ。
一匹がもんどり打って倒れる。
残る三匹は逃げるではなく、玲奈を標的に定めて駆け出した。
玲奈は矢筒から次の矢を抜く。
矢をつがえる。
呼吸が合わず深呼吸する。
息を吸う。
弓を引く。
コボルトが接近してきた。
恐怖は感じない。
息を吐き出す。
狙いをつける。
矢を放つ。
先頭のコボルトまで三メートルを切っていた。
矢がコボルトの右目に突き刺さる。
コボルトはビクンとけいれんすると、糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
すぐ後ろから二匹のコボルトが続いて接近する。
矢を射る時間がないと判断した玲奈は弓を捨て、短剣を抜いた。
剣は闇属性を帯び、光を反射せず黒々としていた。
剣身を視認しにくく間合いがつかめないのか、接近してきたコボルトは急停止して間合いを取り警戒している。
右側の一匹が斬りかかるが、腰が引けていて刃は遠く届かない。
さてどうしようかと玲奈が思案していると、眼前の敵を掃討したフルーが戻ってきて、横合いからコボルトたちに斬りつけた。
フルーはたちまち二匹を倒した。
斬られたコボルトの血で玲奈のブーツも赤く濡れた。
「マスター、大丈夫か?」
「ありがとう、フルー。ピンチというほどではないけど、助かったよ。それより。」
玲奈が振り返ると、左側の二人は苦戦していた。
スドンには三匹のコボルトが群がっていた。
彼が右手に握る大きなハンマーを恐れてか、左側、盾の側にコボルトは集中している。
スドンは盾をコボルトにぶつけたりしてあしらっているが、大きなダメージを与えることはできていない。
逆にコボルトが盾をかわしてスドンに斬りつける。
胴体部分は金属のよろいに守られており、非力なコボルトがなまくらな剣で斬りつけてもダメージは受けない。
しかし守られていない腕や太ももはときおり攻撃を受けてキズを負い、血が流れ出していた。
ギリムは四匹のコボルトを相手にしていた。
不規則に動き、火を帯びたナイフを盲滅法に投げるギリムにはうかつに踏み込めず、コボルトたちは攻めあぐねていた。
ギリムが手持ちのナイフをすべて投げ切ってきまうのを待っていたのかもしれない。
「ギリムは私が援護する! フルーはスドンを助けて!」
「承知した。」
玲奈は下に落とした弓を拾い矢をつがえて構えた。
しかしギリムの動きがつかめず、誤射の恐れがあるので狙いがつかなかった。
命中せずとも牽制になればと彼女は一矢放ったが、あたらずといえどもコボルトの注意をそらすことはできた。
ただしギリムの考えは違ったようだ。
「なんでレイナさんは魔法使わねえんだよ!」
そう、玲奈は弓を引くか剣を抜くかばかり考えていて、魔法のことは不思議と念頭になかった。
もちろん魔法を使って不都合があるわけでない。
玲奈は自身に付与した闇属性を解除すると、四匹のコみボルトのうち、一番近くにいる一匹に右側の手のひら
向けた。
次の瞬間、彼女の手のひらから火の渦が噴き出し、コボルトは炎に包まれた。
仲間が燃え盛りながら地面をのたうつのを見て残りのコボルトは戦意喪失し、玲奈が手のひらを向けただけで慌てて逃げ去っていった。
もうピクリとも動かなくなった燃え残りのコボルトに対して玲奈は、土魔法で掘った穴に落として埋めた。
あたりには毛が、肉が焼ける焦げた匂いが色濃く残った。
ちょうどフルーがスドンにまとわりついていたコボルトたちをすべて斬り伏せて戻ってきた。
フルーは返り血で真っ赤になり、スドンの手足は切られて流血がまだ止まっていなかった。
玲奈はスドンに治癒魔法を細かくかけてキズをふさいだうえで、水魔法で血を洗い流した。
フルーが浴びた血も洗い流した。
そのうえで三人にはカップを取り出して水を飲ませた。
流血したスドンには多めに。
「さてマスター、この後どうするつもりなのだ?」
「フルーや私はまだ余力があるだろうけど、スドンは負傷していたし、ギリムも息が上がってる。ここらが引き際かな。」
「たしかに余力は残しているし四階まで行けるとは思うが、マスターが引くと判断するなら従う。」
「俺はそろそろしんどいぜ。帰るってことならありがてえ。」
ギリムは投げたナイフを拾い集めながら応答した。
かなりの本数を投げたので、疲れた体には大変そうだ。
フルーとスドンは平静な表情をしているが、血の匂いを帯びているので玲奈が浄化の魔法をかけた。
「スドンは痛み残ってない?」
「ううん、まだちょっと痛い。でも歩くくらいなら大丈夫。」
「そっか、無理しないようにね。何度も言ってるけど、ケガしたらすぐ治癒魔法を使っていいからね。」
「さっきみたいに戦いながらはできない。」
「それなら戦いが終わったらすぐ使ったらいいよ。私も治癒魔法は使えるけど、もっと重症の人がいたらそっちを優先するし、ほかの魔物が襲ってこないとも限らないからね。」
「うん、わかった。」
その後、ギリムはナイフを、玲奈は矢をあらかた拾うと迷宮を出た。
門の外に出たところで装備を解いたり一段落して小休止したが、その折にフルーが玲奈に話しかけた。
「なあマスター、どこか調子が悪いのか?」
「えっ、なんで?」
「いや、いつも視野が広くて的確な指示を出していたマスターが今日はどこかおかしく感じられる。心配するのは当然だろう?」
「自分では調子が悪いとか、おかしいとか感じないな。頭は冴えてるつもりだし、体は思ったようによく動きし、相手の動きは細部までよく見えるし。」
「そうか、取り越し苦労ならよいのだか、なにもないならどうか気にしないでくれ。もしどこか悪いのなら遠慮なく言ってくれ。」
「ありがとう! そのときは頼らせてもらうよ。でも今日の敵は連携してきて手強かったのはたしかだけど、私自身はいつもどおりだったつもりなんだけどな。」
玲奈たちはダネス村に戻る道を歩き出した。
体はトップコンディション!
頭はクリア!
視界もクリア!
広い視野?
的確な指示?
そうか!
玲奈はフルーが言う違和感の正体に思い至った。
いつもは戦局を見定めるためフルーたち三人を常に視界に収めるように、今日は弓で照準するため一点だけ見ていた。
「フルー、わかったよ。」
「なにがだ?」
玲奈が前を歩くフルーに話しかけると、彼はチラリと振り返った。
「今日苦戦した原因。相手は関係なく、私が弓を使って狙いをつけようとして視野が狭くなったせいなんだ。フルーがコボルトの隊列に突っ込んで間隔が開いたときも、視野の片隅に入れていたのに、気に留めずに戻るように声もかけなかった。」
玲奈が独り言を垂れ流すので、先頭を歩くギリムが振り返り顔をしかめる。
フルーとスドンは我関せずでスルーしている。
「スドンとギリムには振り向きもしなかった。敵に囲まれそうになっているのに、攻撃を受けて血を流しているのに。私は目の前の敵しか見なかった。意識を向けることすらしなかった。だから一匹一匹はそれほど強くないコボルトにも苦戦するんだ。コボルトのリーダーはちゃんと群れを統率していたのに。人間のリーダーはなにをやっていたの?」
ギリムが振り返り、青筋たててどなる。
「うるせえんだよ! 多少ケガしても全員無事帰れたからいいだろ? アンタ、ちょっと黙ってろ!」
ギリムはどなって息が切れた。
迷宮での戦いで疲れが出たようだ。
玲奈はギリムの言葉に従って黙り込んだ。
ギリムは疲れていて何度も索敵するのはキツいだろうと考えて、玲奈は黙って魔力を使って探知を行いながらながら歩いた。
ギリムやスドンのペースが上がらず、前日よりかなり早い時間に迷宮を出発したのに、村に帰り着いたのは前日とそう変わらない時間になっていた。
みんな黙り込んで重苦しい道中だった。
玲奈は歩きながら探知の精度を上げようと試みたり、できるだけ遠くまで探知できるように魔力の拡散の仕方を試したり、地を這うように魔力を低く漂わせてアリの巣を探そうともした。
うつむいて難しい顔をしているので、はたから見ると彼女は落ち込んでいたり悩んでいるように見えた。
実際にはほとんど無心になって探知に集中しており、迷宮でのことは一旦頭から締め出してサバサバしていた。
ダネス村に着き、村はずれで静的ストレッチをしてクールダウンをすませたころにはギリムとスドンは疲労困憊しており、宿屋に戻り二人は夕食まで休むことにした。
玲奈は気分も切り替わり、食堂のテーブルを借りて昼間のコボルトたちとの戦闘について詳細な報告書を書き始めた。
明日帰りに役場か領軍に渡すつもりだ。
スプリーン教授たちは前日より遅く、夕食間近になって帰ってきた。
教授は連日の屋外作業にもかかわらず疲れも見せず笑みを見せている。
夕食後の席でも教授はご機嫌で、ハワードはややお疲れの表情を見せている。
「教授、お顔を見ているという成果があったみたいですね。」
「レイナ君、聞いてくれ! 知らない人から見たら大した進展がないように見えるかもしれないが、なにも出土しなかったということも一つの成果なのだ。」
「なにもないのに成果はあるということですか?」
「そうなんだ。ないってことがわかることも成果のうちなんだ。文物が元々なかったのか、早いうちに失われたということが推測できるということだよ。」
「たしかに特定の地層に遺跡を思わせるものがないということは、その年代に遺跡となるものを生み出す活動がなかったことの傍証にはなりそうですね。」
「そうだろう? 今回の遺跡だと現王国前期のものはあっても、それ以前、現王国初期や古代王国時代のものはなかった可能性が高いということだ。」
「現王国前期の遺物だと、歴史書と対照しやすいんじゃないでしょうか?」
「うん、現王国時代なら対照となる文物が豊富になるから比定しやすいね。でも正史では王都というか、王宮のできごとが主で、地方のことはあまり記載がないよ。」
「私も正史に目をとおしたことがあるからわかります。王様の動静が主ですが、地方から領主や代官が謁見に上がったとか献上の品があったとこで記録はありましたよ。照合の一助となりませんか?」
「まあ、なる場合があるねえ。」
「あとは注釈書は参考になりませんか? 謁見だったら同行者の名前や肩書きがあるでしょう?」
「残ってる場合もあるにはある。ただ、注釈書の記載事項は儀典に関することがほとんどだ。レイナ君が望む情報が得られることは稀だよ。」
「そんなものですか?」
「ああ、この世界、あらかじめ望んでいたものが得られないとわかって嘆くよりも、わずかでも得られたものからなにを引き出すかが肝心なんだよ。」
スプリーン教授の言う‘世界’とは考古学や古文書学を指していると玲奈は理解できたが、もっと広く普遍的にこの世界そのもののことと解釈してもあてはまる哲理であると彼女には感じられた。
教授の弁舌はますます滑らかになったが、フルーにたたき起こされて食堂に連れてこられたスドンとギリムがダルそうなので、早めに休ませてもらうことにした。
去り際、教授の話し相手になったことに対し、ハワードが玲奈に目礼した。
フルーたちは自室に戻るとすぐ寝入ったようだが、玲奈は迷宮の報告書を書き上げてから眠った。
翌朝、玲奈はいつもより遅く目が覚めた。
それでも早朝の運動の時間には外に出て体を動かした。
スドンとギリムも疲れは取れたようで、すっきりした顔をしている。
ハワードが外に出てきて、玲奈に話しかける。
「連日早くから精が出ますね。」
「ハワードさんこそ早起きですね。私たちはいつもこんなものです。むしろ私は寝坊したくらいですよ。」
「この時間で遅いのですか?」
驚くハワードを尻目に、玲奈たちは黙々とエクササイズをこなした。
朝食までの残りの時間、玲奈は魔力による探知の練習を繰り返した。
昨日の帰路で既に、自分の放散した魔力をとらえることは苦もなくできるようになっている。
それをさらに精度を高め、速度を上げることを目標にした。
また視覚、聴覚の情報と統合して、魔力による探知の情報も組み込んで、自分の周辺を一枚のレーダー画面のように把握しようと試みた。
眼前にとらえている村の家屋や立木、柵を、魔力による探知の情報と脳内で一つに結びつけていく。
近距離は距離感を実感しやすいためか、視覚と魔力の生み出す図面が一つに重ねるのが比較的容易だった。
しかし距離が遠くなると視覚では立体感が乏しくなるからか、うまく映像が一つに結びつかない。
玲奈が試行錯誤しているうちに朝食の時間になり、玲奈たちは食堂に戻った。
朝食後、村に駐屯している領軍の分隊長がやって来て、昨日の定時連絡で迎えの馬車は予定どおり到着する見込みと知らせがもたらされた。
玲奈は宿屋の主人に宿代を払おうとすると、既に子爵家からもらっていると言われた
馬車の時間までまだ余裕があるので、玲奈は食堂のテーブルを借りて、昨晩書き上げた報告書にスドンとギリムの経験や見解を付加しようと考え、二人を呼んだ。
ギリムは嫌がって理由をつけて外に出て行ったが、ズドンは特に思うこともないのか素直にヒアリングに応じた。
スドンの語る情報は決して緻密なわけでもなく狭い範囲のものだったが、玲奈の目が届かないところでなにが起こっていたかを教えてくれた。
スドンへのヒアリングをあらかた終えるころ、迎えの馬車が到着した。
馬車はおととい昨日と森まで往復した荷馬車のほか、紺色の馬車が並んでいた。
もう一台の馬車は磨き上げられた車体に羊の紋章が彫り込まれた貴族用の馬車だった。
中からはジェナスが降りてきたが、御者もコートをぴっしり着ている。
玲奈はジェナスにまず宿代のお礼を言ったが、軽く受け流された。
いつのまにかギリムが戻ってきていた。
村長宅に誘われ、そこで村長も交えて簡単な打ち合わせをした後、教授や玲奈たちは馬車に乗り込んで出発した。
人は紺色の馬車に乗り込み、出土品や道具類、それにフルーとスドンの金属よろいは荷馬車に乗せた。
スプリーン教授はハワード相手にご機嫌で今回の成果を語っている。
玲奈はジェナスに話しかけた。
「ジェナスさん、実は迷宮で思いもかけない現象に遭遇しました。コボルトに関してですが、複数の群れが連携を取るような動きをしました。畑違いかもしれませんが、こちらにその様子を記載しましたので、お目通しください。」
そう言って玲奈はジェナスに報告書を渡した。
ジェナスは報告書にしばらく目を落とした。
路面の整備状況だけでなく、馬車の機構で振動を減衰しているようだ。
それだけでなくクッションが効いたシートで座り心地がよい。
「拝見しました。思いもかけないことがあるものですね。軍の連中にも伝えておきますので、ご安心ください。」
「ありがとうございます。」
「せっかくの労作ですからね。ところでレイナさん、毎朝面白い運動をしているそうですね。」
ここでジェナスは身を乗り出した。
「と、いいますと?」
「毎朝早くから体を動かしているそうじゃないですか?」
「ああ、あれはですね、二つの目的があるんです。一つは魔物との戦闘で激しく動く前に体を温めてほぐすためです。朝だけでなく、迷宮に入る前にもやってます。馬を走らせる前に歩かせて体をほぐすのと同じ要領ですよ。」
「なるほど、考えてますね。それで、もう一つの目的はなんでしょうか?」
「体を柔らかくすることです。正確に言うと関節が動く範囲を広げることです。たとえは肩が動かせる範囲が広くなると、より自由自在に剣を振れるようになります。一番目の目的とあわせて筋肉系の故障を防ぐことにも役立ちます。」
「ぜひとも軍の連中に聞かせてやりたい話ですなあ。」
「肩でなく股関節を柔らかくすれば、歩幅が広がって速く歩いたり走ったりできるようになりますよ。」
「たしかに同じピッチで歩くのなら、歩幅が広い方が速くなるのは道理ですね。」
「そうなんです。ただし足を踏み込む筋力、地面を蹴り出す筋力がないとダメですけどね。個人差はあっても筋肉は鍛えればついてきますから安心です。」
それから玲奈はクライドの街に着くまでジェナスと話をして過ごした。
ときどき魔力を使った探知をしながら。
クライドの街にお昼を過ぎて到着すると、番号がついた麻袋に入れられた出土品は役場の奥の一室に運び込まれた。
フルーとスドンのよろいも返ってきて一安心である。
奥の部屋にとおされたスプリーン教授とハワードに、玲奈はついていった。
これから出土品の照合作業を行うとのこと。
子爵家側はジェナスと若い文官が二人ついてテキパキと作業を進めている。
折を見て、玲奈はスプリーン教授に尋ねた。
「教授、いつもこんな手間をかけているのですか?」
「うん、そんなもんだよ。ワシも発掘や検証ならともかくこうした作業は得意じゃないよ。今回は日程も短かったし、ここは手際がいいんで助かっているんだ。」
「ここでないところはそうもいかないと?」
スプリーン教授は声をひそめた。
「ああ、どことは言わんが某宗教勢力だとこうはいかんよ。通常、王の直轄領や貴族領だと出土した文物の所有権は領主、優先研究の権利は発掘した学者にあるんだ。学者は期限を区切って出土品を借りて、いの一番に研究ができる。それで学者が発見者や研究者として栄誉に浴し、領主が遺跡の所在地として誇りを保てるのだ。」
「その某勢力ではそうはいかないんですね。」
「そのとおり! 発掘の申請をするとなぜか神官が同行することになる。現場でヤツらは立ち会うだけでなにも作業するわけでもないのに、発見者としては研究者と連名になってしまうんだ。さらに優先研究権をあちらが持ちたがるから、こちらの手元に出土品が来るのは、あちらが研究して論文を書いた後になってしまう。」
「それはひどいですね。ここは違うんですよね。」
教授はしかめっ面から一転ニコニコになる。
「もちろん! 確認が終わったらワシが持って帰って、一ヶ月後に返却するまで独占的に研究できるというわけだ。」
話している間にも作業は進み、ジェナスと教授が書類にサインして終了した。
ジェナスが別室にいざなう。
「ささやかではありますが、軽い食事の席をもうけております。」
彼は玲奈に近づいてささやいた。
「報告書の件は軍の当直に伝えました。お食事の後に少しだけお時間をいただくかもしれません。」
「それはかまいません。ところでジェナスさん、今度ダネスから西や南に出かけようと考えているのですが、地図はないのでしょうか?」
「ダネスから雛森を越えて進むと他の貴族領になりますね。他領のことは分かりかねますが、軍が情報を持ってるかもしれませんので照会してみましょう。」
「お手数をおかけして申し訳ありません。」
軽食の席にはフルーたちも同席を許された。
ただしケーキやフルーツが中心で、ギリムは浮かない顔をしている。
せっかくなので玲奈は貴族家のおいしいお菓子を堪能した。
最後にお茶をいただいていると、彼女を人が呼びにきた。
指定された控え室に行くと、軍服に身を包んだ中肉中背の男が待っていた。
「クライド領軍副司令のラニと申します。司令のカークが任務ではずしておりますので、代わりに私が伺います。」
「これはご丁寧に。私はエリュシオール魔法学園の玲奈と申します。このたびは色々と便宜を図っていただき、ありがとうございました。」
「いえいえ、お役に立てたのなら幸いです。さて、レイナ殿の報告書を拝見いたしました。結論から申しますと、同様の現象は我々も確認しております。」
「そうでしたか。」
玲奈の声が若干沈む。
「ただし、レイナ殿が遭遇したような二十匹近い例は今までにありません。今後同様のことが起きないとも限りませんし、参考にさせていただきます。」
「お役に立てそうでなによりです。今までは規模が小さかったんですか?」
「はい、せいぜい十匹でした。たとえば六匹の群れが我々に三匹狩られて追い立てられ、七匹の群れに逃げ込むような事例ですね。我々の経験則では、追い立てられ数を減らして窮地に陥った群れにその倍以上の数がいる群れが近くにいると合流することがあるようです。」
「これまでのデータを元に法則性を導き出しているのですね。その法則を知ったうえでの十匹でしたら私たちでも躊躇しないでしょう。」
「我々の編成だと前衛の近接戦闘職五名に後衛に魔道士か弓士が一、二名つくので余裕はありますが、十八匹だと警戒を要する数になります。二十匹を超えるようになると退却も視野に入ってくるでしょう。」
「でもラニさん、足の速いコボルト相手だと退却は危険ではないですか?」
「算を乱して背を向けて走って逃げるならたしかに危険です。この場合、背を向けずにゆっくり後ずさりしながら距離を開けていけばいいのです。」
「なるほど! いいことを伺いました。機会があるかわかりませんが、いざというとき役に立つ情報です。」
「いや、レイナ殿にしても我々にしても、この情報が役立つような局面に遭遇しないことが一番ですよ。」
「ハハッ、たしかにそのとおりですね。」
昨日迷宮でコボルトと遭遇し戦ったことを回想した玲奈は、その直前に別の生き物を狩ったことを思い出した。
バッグの中から取り出すフリをして、アイテムボックスから毛玉を取り出す。
「実はラニさん、コボルトと戦う前に同じ階で見つけたんですが、これ、見てください。」
にこやかな笑顔を浮かべていたラニが一瞬真顔になる。
「レイナ殿もずい分と珍しいものを見つけましたな。これは‘ふっくらフォクス’という魔物で、めったには見かけないし、手に入ることはまずないような希少な存在です。」
「そんなに珍しいものなんですね。私、初めて見ましたし、名前も知りませんでした。」
「ええ、珍しく他で見る機会も少ないですから、それほど知られているわけでもありません。よければ子爵家で買い取りますよ。」
「いや、宿代を負担していただきましたし、いろいろ便宜を図っていただいたのですから献上しますよ。」
「そういうわけにはまいりません。宿代や馬車代でとても引き合うものではないのに、それを献上させたとあれば子爵家の名折れとなります。」
「ううっ、そういわれたらどうしようもありません。買取をお願いします。」
玲奈は獲物を引き渡し、さわやかな笑顔のラニと握手した。
「一週間もあれば査定して支払いの準備を整えておきますよ。学園とご自宅、どちらにお持ちしましょうか?」
「いえ、こちらまで取りに伺います。」
「そうですか。この先に軍の本部がありますから、一週間後においでください。」
玲奈は軽食の間に戻った。
「教授にハワードさん、お待たせしました。」
「大事な話なんだろ? なに、かまわんよ。」
席を立つ前に玲奈は一杯だけお茶を所望した。
帰り際に彼女はジェナスから一枚の紙を受け取った。
それはクライドから近隣の都市にかけての簡略化した地図だった。
それでも道の分岐や宿をとれる村名が書き加えられており、旅に役立つことは間違いなかった。
玲奈はジェナスに深々と頭を下げて別れ、教授たちを連れて王都に戻った。