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1 霧の街の無機質な方程式

ご訪問いただきありがとうございます!


19世紀末のロンドンを舞台に、世界の構造が「数式」に見える偏屈な青年と、身体能力が高すぎる花屋の少女が織りなすミステリーファンタジーです。


少しでも面白そうだと感じていただけたら、ブックマークや評価(下部の「ポイントを入れる」)をいただけますと大変励みになります!


ぜひお楽しみください。

仮想19世紀末、霧の街ロンドン。


ノエル・カーライル——ノアの目に見える世界には、昔から「色彩」というものが存在しなかった。


彼が眼鏡の奥の瞳を開くと、世界はすべて『青い幾何学模様』と『物理計算式』で構成された無機質なデータとして立ち現れる。


建物のレンガの歪み、馬車の車軸にかかる負荷、そして人間という肉体の骨格、筋肉の伸縮に至るまで——。


万物の「構造」が一瞬で計算式となって視界を埋め尽くすのだ。


(……情報量が多すぎる。鬱陶しい)


常に過熱する脳の激痛に耐えながら、ノアはスコットランドヤードの馬車からゆっくりと降り立ち、左のこめかみを指で強く押さえた。


ダボついた黒いコートを羽織り、フィンチ型の眼鏡をかけた18歳の青年。


黒髪に青い瞳が映えるその美しい美貌は、目の下の濃いクマのせいで台無しになっていた。


彼が立ち向かっているのは、ロンドン郊外の豪華な貴族館で起きた、凄惨な密室殺人事件だった。


「きたか、カーライル特別顧問。

すでに施錠状況の確認と、館内の関係者全員のアリバイ聴取は完了している」


声をかけてきたのは、叩き上げのベテラン・レストレード警部だ。


その表情は険しく、優秀な捜査官としての緊張感を漂わせている。


「現場は完全な密室。

……だが、我々の目を欺けると思うなよ」


警部の隣で、仕立ての良いスーツを着たキャリア組のグレグソン刑事が冷笑を浮かべた。


「このアーサー・グレグソンがすでに看破した。

犯人は窓から侵入し、特殊な糸を使って内側から鍵をかけたのだ。物理的検証も進めている」


ノアは彼らの推論に返事すら作らず、静かに事件現場である書斎へと足を踏み入れた。


「……静かにしてくれ。思考のノイズになる」


「な……! 捜査情報を共有してやっているというのに不遜な!」


「グレグソン刑事、お静かに!カーライル顧問の『構造解析』を妨げてはなりません」


後ろでメモ帳を構えるのは、ノアの鋭い観察眼を誰よりも尊敬している若手のトビー・カーター巡査だ。


ノアは警察官たちの議論を意識から切り離し、血だまりの中で倒れる館の主人の遺体の前にしゃがみ込んだ。


感情の失われた瞳で、淡々とその死体を検分し始める。


「死後硬直の進み具合、体温低下の傾斜グラフ……。心筋の打撃痕から推測するに、死因は急性心不全を引き起こす特殊な鈍器損傷。


……ふむ、ただの肉塊の構造変化に過ぎないな」


ノアにとって、人の死すらも「物理データの変動」でしかなかった。


彼がボソリと呟いた冷酷な一言に、実力派のレストレード警部すら眉をひそめ、別室にいた遺族は息を飲む。


誰もがノアの異常な冷血さに不快感を抱いた、その時だった。


「——ちょっとあなた。人の命を何だと思ってるの?」


凛とした、真っ直ぐな声が殺伐とした現場に響き渡った。


「……なんだ、騒がしい」


ノアが眉をひそめて振り返ると、そこには大きな花籠を腕に抱えた一人の少女が立っていた。


可憐な顔立ちに、活動的なドレス。


大きなヘーゼルグリーンの瞳に、ふわふわの明るい栗色の癖毛が印象的な、街の花屋で働く18歳の少女——アリシア・エヴァンスだった。


館へ注文の花を届けに来た先で、警察の現場検証に巻き込まれていたのだ。


「あなたにとっては『肉塊』かもしれないけど。この人には家族がいて、大切な人がいて、今日まで一生懸命生きてたのよ。物みたいに扱わないで!」


アリシアは抱えていた花籠から、一番綺麗に咲いた一輪の真っ白な生花を取り出すと、恐れることなく遺体へと歩み寄り、床にそっとお花を添えた。


「……安らかに、お眠りください」


深々と頭を下げ、泣き崩れる遺族の肩を優しく抱きしめる少女。


ノアは、その光景を不快そうに見つめた。


(……無意味だ。死体に植物を添えたところで、組織の壊死は止まらない。何の計算的価値もない感情論だ)


……だが、ノアの眼孔は知らず知らずのうちに、彼女の「肉体データ」を精密にスキャンしていた。


重い花籠を日常的に持ち歩くことで鍛えられた体幹、しなやかな足首の筋肉構造、そして無駄のない重心移動。


(……足腰の瞬発力と関節の柔軟性が異常に高い。あの警察官どもより、よほど物理的に素直な構造をしている……。順序だ法だと、頭の硬い彼らより使えそうだな)


ノアは不機嫌にそっぽを向くと、部屋の構造解析へと意識を切り替えた。


青い立体図面が脳内で高速で組み上がっていく。


「グレグソン刑事。窓からの侵入というあなたの仮説は棄却される。窓枠の埃の堆積ベクトルが均一だ。


……犯人は、この部屋から一歩も出ていない」


「な、なんだと……!? 部屋のどこに隠れるというのだ!」


「天吊り照明の懸垂曲線と、床の血痕の飛散軌跡——ベクトルが30°偏向している。この部屋の空気の対流、そして壁の厚みの物理的矛盾。


……あそこの本棚の背後に、空洞が存在する」


ノアは本棚の上部、重厚な額縁を指さした。


「あの額縁の裏だ。滑車とロープが仕込まれている。


……そこの花屋、お前のその運動神経なら届く」


「え? 私……!?」


唐突に指名されたアリシアが目を丸くする。


ノアには自ら動く体力など微塵もなかった。


「あの額縁の右側、麻縄の張力を切れ。荷重のバランスが崩れ、隠し扉のロックが強制解除される。犯人を逃がしたくなければ、今すぐ飛べ」


「なっ、勝手な捜査を許すな! 警官隊、本棚を改め——」


グレグソン刑事が怒声とともに制止しようとした、その瞬間。


(——あんなに悲しんでる遺族がいるのに、犯人を逃がすわけにはいかない……!)


ノアの鼻持ちならない言い方に強烈な苛立ちを覚えつつも、アリシアはノアの瞳の奥にある「絶対の確信」と、遺族の涙を瞬時に思い浮かべた。


理屈は分からない。


だが、身体が直感的に動いていた。


「理屈はさっぱりだけど……あそこね!!」


アリシアは文句を言う間もなくスカートを軽く持ち上げると、重厚な椅子を踏み台にして、高所の棚へと軽やかに跳躍した。

日々、高所の鉢植えを手際よく運ぶ彼女にとって、この程度の跳躍は手慣れたものだった。

その圧倒的な速さと迷いのなさに、レストレード警部すら「なっ……速い……!」と息を飲む。


「えいっ!!」


アリシアがエプロンのポケットからサッと取り出した愛用の花切りバサミで、指定されたロープを一閃!


パチンッ、と澄んだ音が響いた直後——ノアの計算通り、力学のピタゴラスイッチが作動した。


ギギギ……と音を立てて本棚がスライドし、隠し部屋から慌てて飛び出そうとした覆面の人物が、崩れ落ちた重りによって床へ叩きつけられたのだ!


「がはっ……!? な、なぜ隠し部屋が……!」


「犯人だ! 全員、確保せよ!!」


レストレード警部の鋭い号令とともに、控えていた警官隊が一斉に雪崩れ込む。


グレグソン刑事は「な……本棚の裏に空間など、建築図面にも載っていなかったぞ……!?」と呆然と立ち尽くしていた。


「やった……! 本当にいたわ!」


アリシアが軽やかに着地し、安堵から胸を撫でおろす。


だがその直後、ノアは過度な構造視のオーバーヒートにより猛烈な頭痛に襲われていた。


「……くっ……」


(昨日は徹夜だったからな……能力の酷使が限界を超えたか…)


視界が青く明滅し、激しい眩暈に襲われたノアは、壁にポツンと寄りかかり、青ざめた顔で眼鏡を外し、固く目をつむって眉間を押さえた。


カーター巡査が「カーライル顧問! メモの準備は……あ、また深遠な思考に入られた!」と勘違いし、警察官たちは犯人の身柄拘束と現場検証に追われている。


(……誰も僕の異常には気づかない。いつも僕はただの、都合のいい計算機だ……)


そう思って、一人で痛みに耐えていたその時。


スッと、ノアの額に「冷たい触感」が当たった。


「……!?」


目を開けると、すぐ目の前にアリシアの顔があった。


自分のハンカチを書斎にあった水差しの水で濡らし、ノアの額にそっと当ててくれていたのだ。


「……ほら、これで冷やしなさい」


「……何をしている。触るな」


ノアは拒絶するように顔を背けようとしたが、アリシアは強引にハンカチと冷たい水のグラスをノアの手に握らせた。


「あなたねぇ。人に偉そうに指図しておいて、自分は顔色がドブ色じゃない。自分の体のお世話くらい、自分でできなくてどうするのよ」


「……ドブ色……?」


「そうよ。犯人を追いつめる前に、あんたが倒れてどうするの。ちゃんと休みなさい!」


プンプンと怒りながら、雑に、けれど心からの親身さで自分を心配してくる少女。


「はぁ…。事件を解決してくれたのは感謝するわ。

でももう二度と、あなたみたいな冷酷な人と関わりたくないわね。


じゃあね!」


アリシアは捨て台詞を吐くと、空の花籠を抱え直し、嵐のように館を去っていった。


「……勝手にしろ。騒々しい構造体だ」


ノアは不機嫌そうに鼻を鳴らし、冷たい水のグラスをそのままテーブルに置いた。


そこへ、犯人の連行指示を終えたレストレード警部が近寄ってくる。


「顧問、いつも通り、見事な分析だったな。……ん?その濡れたハンカチ、部下に処分させようか?」


「顧問! なるほど、脳の冷却が必要だったのですね! では私のハンカチも!」


とカーター巡査がハンカチを掲げるが、ノアは無情にもそれを無視した。


ノアは無表情のまま、自分の手に残された安物の、けれどかすかに花の匂いがするハンカチを見つめた。


「……いや。証拠物品の付着物として、僕が保管する。……彼女の名前は?」


「え? たしか……アリシア・エヴァンスですが。それが何か?」


「余計な口を挟むな。……帰るぞ」


ノートを広げるカーター巡査には目もくれず、ノアは淡々とそう告げると、ハンカチを丁寧な手つきで折りたたみ、コートの胸ポケット深くへと仕舞い込んだ。


馬車の窓から外を眺めるノアの視界は、相変わらず無機質で青い計算式に覆われている。


……だが、彼が胸ポケットの上からそっと手を当てると、過熱していた脳の激痛が、ほんの少しだけ和らぐような気がしていた。


(……アリシア・エヴァンス。使い勝手のいい手足になりそうだ。


……また、検証が必要だな)


ノアは心の中でそう理由をこねくり回しながら、深くシルクハットを目深にかぶり直した。


最後までお読みいただきありがとうございました!

自分の「肉体データ」を冷酷に分析され、雑にハンカチを押し付けられたノア。

理屈っぽい青年と行動派な少女のドタバタな関係は、ここから始まります。

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次回の更新もお楽しみに!

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