交わる境界
遠慮がちなノックの音がした。ドニの父親は半分眠っている頭で玄関へ向かった。
早朝に人が訪ねてくるなんて珍しい。用心のために暖炉のそばにあった火搔き棒を掴む。玄関の鍵を開ける前に訪問者へ問いかけると、よく知った声がした。
「親父、開けてくれ」
「ドニ!?」
外に立っていたのは行方不明になっていた息子だった。防寒具だけを身につけた格好は、まるで近所に散歩へ行ってきたかのようだ。
「お前、どこで何をしていたんだ! いったいどれだけの人に迷惑をかけたと思っている」
「……覚えていないんだ。気がついたら広場にいた」
「またそんな嘘を……森へ行ったんじゃなかったのか」
「森?」
ドニは困惑した顔で首を横に振った。
「本当に覚えてないんだよ。俺、家で寝てたはずなのに、いつ外へ出たんだ?」
分からないのは父親も同じだった。外へ出ていた間の記憶だけが消えるものだろうか。ただ泣きそうになっている息子には、自分たちを騙そうとしている様子はないようだった。
「……とにかく、中へ入りなさい。夜が明けたら、領主様のところと自警団本部へ行くぞ。いなくなったお前を探すために、さんざん手を尽くしてくれたんだからな」
父親はドニを中へ迎え入れた。知らない間に自警団を動かす事態になっていたと聞き、ドニは混乱している。この様子では魔獣が町へ押し寄せたことも知らないだろう。まず息子を落ち着かせてから、順を追って話してやらなくてはいけない。
暖炉に火をおこす準備をしていると、物音に気がついたドニの母親が起きてきた。飼い猫を抱いて居間に入ってきたが、ドニがいることに気がつくと驚いた顔で声をあげる。
「ドニ! あんた、いつ帰ってきたの!?」
猫が急いで居間から逃げていった。母親の声が原因というよりは、ドニを警戒して唸っていたように見えた。あの猫はドニにも懐いていたので、違和感を感じる。
「……気のせいか」
父親は二人が言い争いを始めた声を聞きながら、暖炉の中に薪を組んでいった。
*
畑の復旧作業に協力してくれている教会を訪れるため、領主の屋敷の前には馬車が停まっていた。
教会はミケーレ司教の指示で、積極的に薬草や忌避剤を提供してくれている。建物の警備をしている僧兵は人数が少なく、防壁での戦いに参加していない。その代わり獣の浄化を無償で引き受けたり、精神面で不安になった住民へ心の治療を行なっていた。
モニカが教会の出身とはいえ、フェリクスは宗教から一定の距離を保った付き合いをしていた。
政治と宗教が過度に結びつくとロクなことがない。幾度も歴史が証明しているのに、同じ過ちを犯すのは愚者がやることだとフェリクスは思う。だが教会が領民を手助けしてくれた時は、可能な限り感謝の意を示すように決めていた。
領内のことは領内で解決できるようにする。教会の支援はありがたいが、依存しすぎても良くない。
――そろそろ、領で運営する治療院のようなものを作るべきか。
多少の怪我や病気なら各家庭で、それ以外は教会の治療師を頼るのが常識だった。適切な治療が必要な時に受けられるかどうかは、教会側の都合に左右されやすい。特に赴任してくる治療師の腕に差があるため、未熟な者と交代した地方は悲惨だった。怪我を負いやすい自警団にとって、死活問題でもある。
幸い、リール領の予算には余裕が出てきた。新しいことを始める頃合いだろう。
考えている間に馬車が動きだした。
「随分と気難しい顔をされてますね。お一人では解決できない問題ですか?」
苦笑しているモニカの声で我に返った。彼女もまた共に教会へ向かうために隣に座っていた。
「領の予算で治療院を設立するなら、何から手をつけるべきか考えていた」
「教会が治療院を設立する手順を参考にしますか? 魔法の治療は教会がほぼ専売しているところがありますから、全てを真似するのは障りがありそうですね」
なぜ教会に代わる治療院が必要なのか、モニカは分かっている様子だった。何度か領内の問題点について話したことがあるせいだろう。
「教会と対立しないために、運営目的が教会とは違うと明言しておくと良いかもしれません。あくまで教会が苦手とする分野を補足する形なら、妨害されないと思います」
「一番の問題は治療師の確保か。回復魔法の使い手は教会と帝国で奪い合っている。領内から人材を確保するのも限界があるな」
「魔法に頼らない高度な治療法があれば良かったのですが……」
「魔法以外の治療か」
無いこともない。騎士団では魔法を使わない治療は珍しくなかった。戦場で魔法が妨害されたときを想定して、様々な治療法が伝わっている。だがそれは一時的な応急処置であり、完治を目的とした治療とは別だ。
モニカが言う高度な治療は、更に一歩踏み込んだものだろう。
――各家庭で行なっている怪我や病気の治療のうち、効果が高いものを領内で共有できたなら。
まず治療法について広く情報を集め、精査する場所が必要かと、ぼんやりとした像が浮かんでくる。魔法を使わずとも高度な治療ができることは、異世界の知識に触れた経験から知っている。ユーグを巻き込むことは決定だ。
「ここに学校と研究機関が移動してくるなら、責任者に話を持ちかけてみるか」
たまには人脈を利用してやろうとフェリクスは企んだ。上手くベルトランの興味を引くことができたなら、似たような研究をしている機関を誘致できるかもしれない。
あの上皇陛下が『動いてやってもいい』と思えるように話を持ちかけるのは、相当苦労するだろう。だが治療院を作る目的を正確に伝えられたなら、研究機関の長との面会に漕ぎ着けられるかもしれない。
皇帝の位を退いたとはいえ、その影響力は帝国全土に及ぶ。
国民想いの上皇陛下という姿は、長い年月をかけて作り上げた仮面。その下にある為政者の顔は非常に冷静で、たとえ身内であっても国政の障害になるなら切り捨てる。臣下の尊敬と恐れを集めるベルトランは、生ぬるい理想には決して首を縦に振らない。計画を持ちかけるなら、細部まで煮詰めておく必要があった。
「焦っても仕方ない。まずは具体的な――どうした?」
馬車の速度が落ち、やがて完全に止まった。まだ教会には程遠い。緩やかな坂道を下りきって、アルトロワの町へ入ろうとしたところだ。
「領主様、ドニです。行方不明になっていた領民が、両親と共に現れました。迷惑をかけたことへの謝罪のため、訪れたと申しておりますが」
護衛のネストリが馬車の外から告げた。馬車の横を馬に乗って並走していた彼は、どうしますかと尋ねてくる。
「……話を聞こうか」
モニカに中にいるように言い、フェリクスは馬車から降りた。
馬車を牽く馬の数メートル先に、初老の夫婦と若者がいた。フェリクスはドニの顔を知らない。人相書きでおおよその特徴を知っているだけだった。
「お待ち下さい」
彼らの方へ行こうとしたフェリクスの袖を、モニカが掴んで引き止めた。真剣な顔でドニを見据え、フェリクスをかばうように前に出た。
「あなたは自分が何者なのか、知っていますね?」
モニカの周囲に花びらが散った。彼女の手の内に現れた杖は、巫女が持つものとよく似ている。現役時代に使っていたものだ。家に保管していたものを精霊に願って持ってきてもらったようだ。
「出て行きなさい。その体はあなたのものではありません」
「お、奥様。いったい……」
杖の先を向けられ、動揺したのは夫婦だけだった。ドニらしき若者は不愉快そうに杖を見ている。
「モニカ」
「体と魂の間に乖離が見られます。死体に悪霊が入った時と同じです」
「手遅れか」
「彼自身は既におりません。体を動かしているのは……誰かの魂とは言えないようですが……」
モニカは断言することを避けた。彼女が相手にしてきた悪霊とは異なる部分が多いようだ。
正体が何であれ、巫女が危険だと判断したものがそこにいる。悪霊がモニカに注目している間にドニの両親を保護しようと、ネストリに合図をした。すでに馬を降りていたネストリはフェリクスの側に寄る。
「あれは悪霊だ。お前はドニの両親を――」
咄嗟に体が動いた。幾度となく繰り返してきた動作で盾を出現させ、呪文も唱えず身体強化をかけて前へ出る。モニカを狙っていた黒い腕は、体当たりに近い守りをぶつけられ、潰れた音をたてた。
驚いた馬車馬が町へ向かって駆け出していく。御者は懸命に宥めようとしていたが、戻ってこられるまで時間がかかりそうだ。
遅れて出現させた剣で攻撃してきた相手を狙う。盾に隠した突きは、大きく距離をとられてかわされた。
戦いに精通した者の動きではなく、動物の本能に近い――フェリクスはそう予想した。
前触れもなく襲ってきたのは、やはりドニの体を乗っ取った悪霊だった。右腕が黒く変色し、肥大化し始めている。裂けた服の下に見える肌は、アルトロワを襲った獣と同じ毛皮になりつつあった。
「どうして息子が……こんな……」
気絶したらしい妻を抱え、ドニの父親が座りこんでいる。
悪霊が離れた隙に、フェリクスはネストリへ中断していた指示を出す。
「ドニの両親を守れ」
「獣との戦闘なら、私が」
「貴重な証人だ。あれが町にいた経緯を知りたい」
獣になった悪霊が低く唸った。防壁で食い止めた個体よりも大きく、顔はまだドニのままだ。苦悶の表情を浮かべているのは、体が変化していく痛みのせいだろう。
「フェリクスさん。あれは、憎悪で固められています。負の想念を取り込んだ時のような」
フェリクスの胸の内に、負の想念に翻弄された苦い過去が甦る。
一方的に押し付けられた力と感情が自分の中で暴れ、意識を侵食してくる不快さ。
他人の記憶が混ざり、抵抗もできずに自分が塗り潰されていく恐怖。
何年経とうと忘れられるものではない。
「消せるか?」
「やってみます」
モニカはフェリクスから距離をとった。準備が整うまでは時間稼ぎだ。ネストリは音もなくドニの両親に近づき、獣の動きを注視している。ちょうど獣の死角になる位置だった。
「お前は誰だ」
獣に話しかけると、ようやくモニカからフェリクスに視線が移った。どこか遠くを見たまま、口を開く。
「瞳はどこだ」
「……瞳?」
「盗られた。どこへ」
獣がふと空を仰いだ。
上から降ってきた人影が獣に斬りかかった。不意をついた一撃だったが、獣は前足で受け止め、人影を弾く。
「面倒なことになってるねぇ」
前触れもなく現れた人影――ユーグは身軽に着地して刀を構えた。




