侵食する思考
飲み会から二日後。ユーグは床板を張るための釘を注文しようと、金物を扱う店に立ち寄ることにした。必要な大きさのものを伝えると、運よく在庫があると告げられる。他にも必要な小物を出してもらっている間に、代金を用意して待つ。
店の奥では彼の妻が帳簿を付けていた。客のユーグに愛想良く微笑んでから、また計算に取り掛かる。彼女は学校へ通っていたのだろう。アルトロワでは読み書きだけでなく経理の仕事を手伝う女性をよく見かける。
持参した箱に商品を入れてもらっていると、店の扉が外から開けられた。
「おはよう、釘をもらいに来たよ」
爽やかに入ってきたアランは、ユーグの姿を見つけるとわずかに顔が強張る。靴を作る時に使う、小さな釘はこの店で買っているらしい。道具の注文や受け取りなどを任されているのか、たまに通りで姿を見かけることがある。
「いつもご苦労さん。ちょっと待ってくれよ」
顔馴染みの店主が振り返るよりも早く、彼の妻がアランの対応をするために立ち上がった。店主は開きかけた口を閉じて、商品を詰めた箱をカウンターに置く。代金を手渡したユーグは、店主が金額を確認してから箱を受け取った。
「またいつでもどうぞ」
来店した時よりも機嫌がいい店主に見送られて店を出ようとすると、アランと肩が触れそうになった。
彼もまた用事が終わったようだ。ユーグに身振りで先にどうぞと伝えてきたので、遠慮なく譲ってもらうことにする。
軋む扉を開けて外へ出ると、後ろから浮かない顔のアランがついてくる。ここからユーグの家まで、リリィの自宅近くを通るはずだ。家が隣同士だったから、アランもほぼ同じ経路を通らなければいけないのだろう。
「……何か言いたいことがあるなら聞くよ?」
出会うたびに微妙な顔をされるのも疲れてきた。面と向かって文句を言ってくるなら対処しようがあるが、内に抱えた不満を隠しきれない様子に、こちらの気持ちも鬱屈してくる。
「そんなつもりじゃ……」
アランは気付かれたことに動揺している。
――しっかり顔に出てるくせに。若いなぁ。
正直で素直なところは羨ましくもあった。ユーグのような得体の知れない相手を警戒しているが、一方で嫌いだからという理由で排斥することに躊躇いがある。持ち前の正義感の強さが、己の好みだけで判断するのを良しとしない。
帝都を警備している騎士団なら、その性格が生かされるだろう。彼がその立場で納得するかは別として。
「そんな顔で言っても説得力ないよ。不満そうに後ろを歩かれると落ち着かなくてね。どうせ途中までは同じ道なんだから」
アランは決まりが悪そうにユーグの近くまで来た。会話の糸口が見つからない様子なので、共に歩きつつ放置する。年下とはいえ、仲が良いわけでもない成人男性の世話を焼くほどお人好しになれない。
――お互いに気に入らないなら、話しかけなくても良かったのでは?
ふと疑問が浮かぶ。
ユーグとアランはリリィに関する部分で衝突するか、相入れないところがあることは明白だ。彼が新しい恋を見つければ解消されるかもしれないが、そう都合よく現れるなら苦労はしない。だが叶わない想いを引きずっていたままでは苦しいだけだ。早々に諦めてもらって、次の幸せを探してもらうのがいいだろう。
早く諦めて――そう願っている先が相手の幸せではなく、破滅にすり替わっているような気がして、ユーグは考えることを中断した。
執務室で森のことを聞いたせいか、良くない方向へと思考が流れてゆく。
足は大通りから裏道へ向かっていた。郊外へ行くための近道だ。通行人はおらず、閉じられた民家の窓に人の気配もない。
「なんで、リリアーヌなんだよ」
ようやく決心がついたらしいアランが口を開く。
「その能力と財力があれば、他の土地でも良い暮らしができるだろ。望めば何でも手に入るような、恵まれた立場にいるのに。なのに」
理解が一瞬だけ遅れた。言われたことが頭の中で反芻されて、ひどく粘度が高いものが心の底に落ちる。
アランは悪くない。彼の視点では、好きな相手に想いを告げられないまま迷っていたら、いつの間にか知らない誰かと恋人になっていたのだ。何の権利もないと知っているのに、横取りされたと思ってしまう。ユーグ自身にも経験があることなので、むしろアランの気持ちは痛いほど分かった。
だから気が済むまで言わせておこうと決めていたのに、今日はやけに胸に刺さる。
「僕が恵まれている? どこが」
「全部だよ。俺が全力で課題をこなす横で、平気な顔して素振りしてたくせに。何年も前からこの町にいるみたいに溶け込んでる。完璧すぎるんだよ。出来ないことなんてあるのか?」
それ以上は聞きたくない。出来ないこと、叶わないことばかりだった昔を思い出す。
「別にリリアーヌじゃなくても、お前ならどんな美女でも狙えるだろうに。みんなから好かれる性格ってだけで、十分恵まれてるさ。なのに――」
「血が繋がっているというだけで、無条件に家族から愛されているお前の方が恵まれているだろう!?」
アランの胸ぐらを掴んで壁に押し付けた。一方的に言われ続けた限界が、今になって表に出てくる。止めろと自制する心の声が、呆気なく黒くよどんだ感情に塗り潰されていく。
「仲良く家に帰る親子の背中を見て、微笑ましいと思うよりも先に虚しさを感じたことがあるか? 天才だらけの血縁者に囲まれて、格下だから、出来損ないだからと手加減されたことは? 優しく接してくれる人間が、本当は自分の親に取り入ろうとするために演技をしていた、なんて知りたいのか。周りにいる誰もが、利用するか、利用される関係だったんだよ。それでも恵まれているか?」
どんなに望んでも、努力しても手に入らないものを持っている奴が羨ましかった。
違う世界に来ても過去が影を引きずっている。
打算と策略と嘘。
本心を見せれば潰される人生だった。少しの隙も許されなくて、たとえ欲しいと願っていても表に出せない。弱点を知られないように好きなものでも興味がないふりをして。
成功しているのは自分以外の兄弟たちばかりだった。自分の家の異常さに気がついても、誰かに訴えたところで、所詮は凡人の嫉妬だと思われるだけ。
諦めてばかりの人生で、リリィの手だけは離したくなかった。ユーグの心を尊重して、距離を保っていてくれる。彼女の隣は居心地がいい。時間をかければリリィのように愛情を感じる人が現れるかもしれないが、いるかどうか分からない人のためにリリィのことを諦めるのは違う。
アランの目に恐怖が浮かんでいるのを見て、ユーグに冷静さが戻ってきた。殺意を丸出しにして、もう関係ない実家のことを話してしまったのが腹立たしい。
「恵まれているのは君だよ、アラン」
両親は愛情を持って育ててくれて、兄弟姉妹とも仲がいい。物心つく前から競争相手に囲まれていた自分が惨めになるほど、環境の違いを見せつけられる。
平和な町で友達と遊びながら育ち、仲がいい人たちと家族ぐるみの付き合いをして。なんでも持っているのは自分の方だと、どうして気が付かないのか。
「君は、何でリリィと一緒にいたいと思う?」
乱暴に手を離すと、アランは壁にもたれたまま座り込んだ。
「よく、知っている相手だから……一緒にいることが当たり前で、お互いの性格も分かってる。だから」
「当たり前ね。気心知れた仲で楽だから、か。たとえ結婚しても、生活が大きく変わることは無いから」
居心地がいい場所から離れたくないのは理解できる。自分だって似た理由で生まれ変わったリリィに会いに来たのだ。ユーグとアランの違いは、もっと別のところにある。
「君の理想の生活のために、リリィを犠牲にする気?」
「……え?」
「少し残酷なことを言うと、彼女にとって君はただの隣人だよ。結婚相手どころか、恋の相手とも思われていない。それでも自分の気持ちを伝える?」
足元がふらつきそうになる。
自分がやっていることは、他人を蹴落として優位に立っていた実家のやり方そのものではないのかと思って、分からなくなってきた。
今のうちに諦めることは、アランのためになるはずだ。叶わない気持ちを抱えたまま、相手の幸せを願うのは辛いことだから。たまたま、嫌われ役が自分に回ってきただけ。
――気に入らないなら壊してしまえばいい。
嫌な考えが浮かぶ。
面倒なら問題ごと消してしまえば楽だ、と囁く声が聞こえた気がした。この暗がりから唆す感じは、負の感情に取り込まれそうになった時に似ている。
我慢は美徳ではない、感情を発露させることは生き物として当然ではないのか。ためらっている間に、世界は自分を踏みつけて栄えていく。潰された者のことなど気が付かないままに。
隙間に入り込んだ黒い泥が、そう笑っている。
飲み込まれるなと忠告してくれたフェリクスは、これを見越していたらしい。この声は抱えている劣等感を引きずり出して、ご丁寧に鮮明に意識させてくれる。
「……掴みかかって悪かったね」
ユーグは呆然とするアランを置き去りにして、修繕中の家へ向かった。




