全てを白紙にする解決法
森の奥深くから伝わってくる魔力は、不定期に放出されているようだった。強さも違う波が法則など一切無視して流れてくるせいで、船酔いに似た不快さが胸のあたりに溜まっている。
体にまとわりついてくる力を集めて圧縮してみると、小さな赤黒い欠片が生まれた。自然に生成される魔石とは違う。濁った色をした魔石もどきは、指でつまんだだけで崩れていった。
魔力は少量でも人体に影響を及ぼすことがある。魔力が持つ特性と人間の体質や健康状態で左右されるため、残念ながら明らかになっていることが少ない。だが言葉が人の心を傷つけるように、悪意を含んだ魔力に晒され続けていると、心身を病んでいくことは確かだ。
森から魔力の波が来ると、索敵のために展開しているレーダーにもノイズが走る。影響を受けないように遮断する方法が見つかるまで、機能を停止させておくしかなかった。
現在、森から来る魔力は不気味なほど沈黙している。長年アルトロワに住んでいたフェリクスが気が付かなかったほどだ。次の波まで、まだ時間があると考えてもいい。
ユーグは薄い板に溝を彫り、床に固定した。全て敷き詰めて磨いてやれば、肌触りが良いフローリングになるだろう。室内の構造は現地の伝統的な家とは異なる部分が多いが、どうせ住むのは自分だ。より快適な方を選ぼうと決めていた。
休むことなく続けていると、流石に疲労を感じた。作業をしていた二階から下へ、吹き抜けに設けたところから飛び降りる。階段はまだ枠組みしか作っていない。この程度の高さなら怪我をすることはないのだが、少し面倒だ。
そのままリビングになる予定の床に寝転んでみた。開放感を求めて吹き抜けにしたので、天井が高い。光を取り入れるために設けた窓から、冷たい風が入ってくる。換気のために少し開けているだけでも肌寒い。雪が降る日も近いだろう。
体を休めている間に魔力の遮断方法でも考えようと、脳裏にメニューを展開させた。
特定の魔力だけを防ぐ方法はいくつか存在し、教会では治療にも用いられているが、時間をかけてサンプルを収集しなければ使い物にならない。
森から来る魔力は一種類ではない。まとめて黒い思念やら負の感情と読んでいるだけだ。従来のやり方で遮断する魔法式に組み込もうとするなら、それら一つ一つを分析して書き込むしかない。
――スパム単体をブロックしてもキリがない。発信者を特定できれば、あるいは。
森のどの辺りから流れてくるのか探るために、逆探知する方法も並行して作成しておきたい。観測地を決める時は領主の意見を参考にすべきだろう。きっと誰にも言っていないだけで、森の深いところまで探索しているはずだ。
過去に感じたことがある黒い思念をデータ化して、魔法式に入れられないかと試行していると、不意に先ほどのアランとの会話を思い出した。
感情的な行動は自制しているのに、どうしても言わずにはいられなかった。根拠のない噂と、評価されているかのような視線で疲弊していたところに、森からの黒い思念が重なって限界がきたのだろう。
――影響されているのが僕とフェリクスだけとは限らない。あれが原因で攻撃的になっている人もいるはず。畑に血を撒いたり、噂を流していたのも、もしかしたら。
言葉で攻撃するだけで踏みとどまって良かったとユーグは思う。もし刃物を持っている時だったなら――ユーグの殺気で萎縮したアランは、きっと対応できなかった。
彼は少し配慮が足りないところがあるが、殺されるほどの愚か者ではない。若さゆえに周りが見えていないだけで、人生経験を積めば大成できるだけの素質は持っている。
――素質を眠らせておくのは、もったいないなぁ。あ、でもその前に。
まずは己の精神を守る方が先かと、作業の優先順位を決めていく。
「ユーグ、いるー? あっ、床が出来てる」
裏口からリリィの声がした。
すぐに作業を中断して起き上がり、裏口へ向かう。リリィは扉を開けたところに立っていた。
「良かった、ここにいたのね。まだ靴のままで入っていいの?」
ユーグの足元を見たリリィは、扉を閉めてから言った。
「うん、いいよ。ここはまだ下地だから」
「じゃあこのまま入るね」
床の上に上がったリリィから、薄紙に包まれた塊を渡される。
「お父さんからの差し入れ。酪農家に嫁いだお姉ちゃんからチーズが届いたの。ワインに合うらしいよ」
「ありがとう。そろそろザイユ村でもらったワインを開けたいと思ってたんだ」
リリィに姉がいたというのは初耳だった。彼女のことを聞いてみると、リール領内にある村で暮らしているらしい。アルトロワから最も離れた村なので、滅多に帰ってこないそうだ。もちろんテランスの出張先にも含まれていない。
「ちょっと変わった性格でね。牛が好きすぎて、酪農をしていた人のところに押しかけていったのよ。運よくお義兄さんと出会って意気投合できたから良かったけど」
「結婚した理由が『牛』って面白いなぁ」
「他人事みたいに言ってるけど、義理の姉になる人よ?」
「美味しいチーズが手に入るなら全く問題ないよ」
ユーグは夜が来るのを楽しみにしつつ、チーズを異空間へ収納した。
「お父さんが『働きすぎるな』ってさ。休憩した?」
「ついさっき作業を中断したところ」
「お茶淹れてあげるから、もう少し休みなさい」
リリィがテーブルの代わりにしている木箱を軽く叩いた。魅力的な誘いだ。もちろん休む以外の選択肢は存在しない。近くに放置していたイスを持って来て、素直に従う。
必要な茶器と茶葉を出すと、リリィが慣れた様子で手に取った。ヤカンに用意した湯をティーポットに入れ、さらにカップに移して温める。空になったティーポットに茶葉を入れたのを見て、ユーグは熱湯を注いで蓋をした。
「お父さんね、口は悪いけどユーグのこと気になってるみたい。次はいつ店に来るのか聞いてくるよ。基礎を教え終わってないとか言ってるけど」
「リリィのお父さんって感じがするね」
「どういう意味」
リリィはティーポットに布巾を巻いて紅茶が冷めないようにした。
「教育を担当することになったら、最後まで教えないと気が済まないところ」
「だって。中途半端って気持ち悪くない?」
抽出が終わり、リリィはカップの湯をバケツに捨てた。空のカップに茶こしを乗せて紅茶を注ぐと、湯気と共に紅茶の香りが広がった。少し冷ましてから口をつけると、香りから想像した通りの味がして幸せな気持ちになってくる。
「……何かあったの?」
「いつも通りだよ?」
リリィがじっとユーグを見つめている。濃く深い青色の瞳は、何を隠しているのか見透かそうとしているようだ。
前世で初めて出会った時は、この目が苦手だった。こちらが用意した回答には惑わされず、直感で正解まで辿り着いてしまう。どんなに仮面を被っても隠せない。怖いとすら思っていたのに、この人に本音を知られても不快ではないと気がついてしまった。
リリィは立ち上がってユーグの目の前に来ると、両手で頬に触れてきた。迷ったユーグがためらいがちに手を重ねる。自分よりも小さな手なのに、温かくて安心するから不思議だ。
「迷子みたいな顔して、本当にいつも通り?」
ここで拒否を選んだら、この手が離れてしまう。こちらに合わせて無理に踏み込まないようにしてくれる配慮が、今は少し寂しい。
ユーグはリリィを膝の上に乗せて抱きしめた。リリィの肩に頭を置く。
「少しだけ休ませて」
「頑張りすぎなのよ。明日やらないといけないことは今日やらなくてもいいの。貴方はね。七割ぐらいに抑えておきなさいって、昔、言わなかったっけ?」
「言われた。これで三回目かなぁ」
リリィの手が髪を撫でている。
弱さごと抱きしめて、受け入れてくれる彼女が好きだった。弱音を吐いても攻撃してこない。慰めや激励を必要としていなくても、こうして側にいてくれる。
「僕は欲張りなだけだよ。止まっている間に自分の手から無くなっている気がして」
「失くした時は一緒に探すから。何のためにユーグを追いかけて転生してきたと思ってるの。たまには私を頼りなさい」
「男前だなぁ。惚れ直しそう」
悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきて、笑いが込み上げてきた。何でも一人で解決しなければいけなかった前世とは違う。立ち止まって、助けを求めてもいいと言ってくれる人がいる。
リリィをしっかり抱きしめると、人肌の温かさをより感じた。
冷たくない。
彼女が生きていて触れられることが、ただ嬉しい。
「リリィ」
目を見て言うのは恥ずかしい。けれど伝えたいことをリリィの耳元で囁いた。髪を撫でてくれる手が一瞬だけ止まり、耳が赤く染まるのが見える。
しばらくして、私も、とだけ返事が返ってきた。
ユーグは安心して目を閉じた。胸に溜まっていた黒いものが薄れていく。彼女がいてくれるなら、また森から魔力が流れてきても大丈夫だ。アルトロワの住民の多くが影響されていないのは、きっと大切な人と同じ時間を共有できているからだろう。
ずっと触れていると別の欲が出てきそうになったので、ユーグはリリィを解放した。
「差し入れありがとうってお義父さんに伝えて」
「うん。もう大丈夫?」
「届け物をしに来たお嬢さんを長時間拘束してるとね、怖いパパがショットガン持って殴り込みに来るんだよ」
「それ、どこのアメリカ映画?」
膝の上から降りたリリィは、笑いながら裏口へ向かう。扉を開けて振り返り、ユーグを見上げた。
「ちょっと屈んでくれる?」
「……髪にゴミでも付いてた?」
休憩する前に服についた木材の切り屑を落としたが、寝転んだ時に付いたのだろうか。ユーグは言われた通りに腰を曲げた。
リリィの両手が耳の辺りに伸ばされる。動かないように固定されたと気付くと同時に、唇に柔らかいものが触れた。
頭の中が真っ白になった。
目を閉じたリリィの顔が間近にある。
綺麗だった。ずっと見ていたいと思えるほど。
「……我慢してたのに」
ユーグは口元を手で覆って、リリィから離れた。顔が熱い。
相手は未成年だからなるべく触れないようにしていたのに。
リリィは簡単に境界を飛び越えてくる。昔からそうだ。人の感情を掻き乱して、好きなところを一つ増やしていく。
「たまには仕返ししないとね」
自分から触れたくせに、リリィは頬を赤く染めてそっぽを向いた。照れている顔が一番色気があると言ったら、どんな反応をするだろうか。
「じゃあ、また」
リリィは振り返らずに、逃げるように走り去っていった。
後に残されたユーグは家の中へ入り、力尽きてイスに座りこむ。
「……殴る以外の解決法があるとは思わなかった」
不快な魔力が全て消えている。何も考えられなくなった時に、体の中から一気に排出されたらしい。精神状態を正常に保つために魔法式を作ろうと思っていたが、まさかキスだけで解決するとは予想外だ。
「えっと……魔力が消えたから、次は何をすればいいんだっけ?」
防衛策と探知、どちらを優先させようとしていたのか思い出せない。リリィのお陰で体の不快感は無くなったが、別の問題が発生している。先程の体験が脳裏から離れないせいで、簡単な魔法式の記述すら間違えてしまう。
「ダメだ、何も考えられない。とりあえず、その、素振りして頭を冷やそう……」
ユーグは全て諦めて刀を取り出した。この調子では家の修繕に取り掛かっても手元を誤りそうだ。長さを間違えて建材を無駄遣いしても遅い。
体を動かせば煩悩が消えてくれるだろうかと期待したユーグは、何もない庭へ出て行った。




