-2- アンアームド・コンフィデンス
空は真っ暗だった。
昼なのに、雲が完全に空を遮って、少しの陽光も差し込まない。
「君もこっちにおいでよ」
ふくらはぎまで水に浸かった少女カゲヨが、ムジナを誘った。
その少女が遊んでいるのは、真っ赤に染まった巨大な水溜り。
世界じゅうに拡がっている、血みたいな赤い水溜り。
誰かが叫んでいるような気味の悪い波紋が、生温かい風につられて生み出される。
「人間が一人もいないのは、やっぱり君がそう望んだからなんだね」
そうかもしれない。
みんないなくなればいい、と思ったことがある。
そうなれば、変な疎外感を被ることもない、と。
「でもやっぱり、誰もいない世界じゃ、君もいなくなっちゃうよ」
自分だけが存在しているとき、自分が自分であると定義できる自我は、何と比較して自分を認識するのだろう?
「他を全て否定するから、自分の存在を、自分の世界を否定することに繋がっちゃうのかもね」
他人無くしては、自身の存在は有り得なかった。
「自分を守るためにどんな強固な城を築こうとも、守りきれるのはほんの一握りの心の奥にあるものだけだよ。……それに、私達は一人で生きられるようにはできていない」
人は何かに依存して生きる。
カゲヨは身を屈めて、水中から何かを拾い上げた。
それは銀色に輝く、一振りのナイフだった。
「これは君の身を守る武器? それとも相手を傷つける道具かな」
少女はそのナイフの刃先を、手でぎゅっと握り締めた。
ナイフの刃先を伝って、真っ赤な液体がぽたぽたと海に落ちた。
「痛そうな顔して見てるね。でも、全然痛くないよ」
少女は片方の口の端だけ持ち上げ、不気味な笑顔を浮かべた。
「本当に痛いのは、こんな物に頼らなくちゃ自分を救えない心」
少女は静かに瞼を閉じた。怪我したはずの手には、傷ひとつない。
そう……ムジナには、わかっていた。
狂気じみたこの終末の情景は、自分が望んだ排他的な精神によって作られた。
自分を守るために他者を排除したり、競り勝つことが生きる術だと思ったことがある。
そうしなければ、大勢の中の孤独に負けてしまいそうになるからだ。
「与えられたものなど、受け入れられないかもしれない。でも、自分を変えることはできる」
──カゲヨは静かに詩を口ずさむ。
赤い海の下に求めていた孤独
光のない場所でもがいていた記憶
君の心にある葛藤は
まるで光の生み出した影
闇と影は別物
光が差せば闇は消える
影は必ず光を伴う
人がいるから君がいること
忘れてほしくない
孤独ではないこと
一人でありながらも
世界と繋がっている奇跡を
君が誰よりも嫌う
傷つけること
傷つくこと
それは優しさ
君が奏でる優しさ
その才能があるからこそ
君はいつも
美しく温かいものと
繋がっているんだよ
「──そのうちまた、私の詩を聞いてくれる?」
カゲヨはまるで、声を失ったムジナの代わりに囀る小鳥のようだ。
ムジナは黙って頷いた。
「良かった。じゃあ、これはもういらないね」
──ぽちゃん。
白いワンピースの少女、カゲヨはナイフを海に投げ捨てた。
いつの間にか、赤い血の水溜りは透明で美しい海水へと姿を変えていた。




