第1話 侵攻開始
少し壮大な話をしよう。人類は四足歩行から二足歩行になることで、両手を使えるようになり、重い脳みそを支える体を作り上げてきた。それにより、人は道具を作り使い、言葉を話して共同体を作り、文明を築き上げてきた。直立二足歩行したことが猿人の最大の特徴の一つとして挙げられるように、これは人類を人類たらしめるために不可欠の進化であった。
しかし同時にこれは速さと言うものを代償にした進化であった。だからだろうか、人間と言うものは速さにこだわり続けてきた。これはおそらく人間のDNAに刻まれた、ある種の宿命と言えよう。人類、最速の男には、オリーブの冠が与えられ、オリンピアの名を与えられ、裸だったことを除けば、後世にも残るツボに描かれたことも紛れもない誇りであったと言えよう。二足歩行と言う制約からも四足歩行の馬に乗ることで解放され、その四足の足は、鉄の車輪となり、鉄の翼になった。
さて、そのような人類が最も早く走れる時とはどんな時だろうか。世界陸上のトラックの上に立った時だろうか、親友が邪智暴虐の王に囚われた時だろうか、それとも、思いを伝えられずにいるあの人が外国へ発つ、その飛行機に間に合うように、友達に葉っぱをかけられた時だろうか。
いや、違う。断言できる。
人類が最も速く走れる時は、ちょっとだけうんこが出そうだけど、まだお腹を抱えるまでもないときの帰路である。
その日も俺、谷口リョウスケは爆走していた。もちろん、ちょっと出そうだったからである。
「今のうちに、今のうちに距離を縮めろぉぉぉぉぁぁぁ!!」
通学カバンを振り回し、一心不乱に帰路を爆走する。
自転車通学するほどでもない距離に家があることを今日ほど恨むこともない。いや、正しくは昨日も恨んだ。
右足、左足、とただひたすらに交互に前に出す。ただそれだけの行為だけで、体はぐんぐんと前に進む。公園に向かう小学生を振り切り、散歩中の老犬を追い抜き、電動自転車にさえ追いつかんとするその勢いを、もしかの文豪が覗き見ていたなら、激怒の在り方を履き違えていたに違いない。
ここまで、自己最高記録とも言える走りを見せてきたが、それを阻む障害が俺の前に聳え立つ。くすんだ白色の棒の上で灯る赤い光。そう、歩行者用信号だ。学校から家までの間に一つだけある歩行者用信号付き交差点、それが家に着く手前にあることは、神が俺の早さを恨んで設けたものだと思わずにはいられない。そして今日もそれは赤かった。
肩で息をする俺の前を無慈悲にも鉄の塊が高速で横切る。文明にや慈悲などない。あの速度で帰れたならば、憧れずにはいられない。見せつけるように横切るそれは同時に俺を阻む。
くそっ、俺には時間がないっていうのに。
このクソというのは別に掛けたわけではなくて、なんてことを考えてしまうと、連想が余計なものを連れてくる。本物の方だ。
く……なんだと、ここまでだというのか!
下腹部に力の塊がある。それは体から飛び出んと、絶対防衛ラインに体を押しつけはじめる。
もう走れない。これ以上大きく足を開いて、上下に衝撃など与えたら、考えるまでもない、そこにあるのは死だ。
頭をよぎるその予感が、背骨の中に冷水を通すのを感じる。
そして考えれば考えるほど、それが現実味を帯びてくる。しかし現実味を帯びてくるごとに、俺はそれを認識せざるをえない。
もう少し、もう少しで着くというのに!!
神は、俺を弄ぶのが上手いらしい。右の方で何かチラつくものが見えて顔を上げると、横の信号が点滅してるではないか。そして、自動車用信号も黄色を点灯させる。
勝機!
勝った、勝ったぞ!
その意識が、防衛ラインを強固にし衝動の塊を少し押し返す。そして嘘のように、勝利のヴィジョンが頭を埋め尽くす。
走れる、俺、もう一度走れるんだ!
目の前に広がるのは地方の住宅街と、片側一車線の道路ではない。5×100の栄光への滑走路である。
横の自動車用信号が赤を点灯させる。そこから三つ数えることで、こちらの青が点灯することは体に染み付いた感覚。
屈んだら出てしまうが、気持ちだけはクラウチングスタートで、青に構える。
3、2、1。
地面を蹴ったところで、大きな音が鳴った。少し遅れたスターターだった。
そして俺の体は、宙をまった。
あれ、俺は、走り出したはずだよな。
栄光への滑走路は、空へ繋がっていたのか? あまりの早さに鉄の翼を身につけたのか?
ぼやけていく意識の中で考えることが出来たのは、そこまでだった。




