第3話 【我、野菜を作る】 挿絵ː13枚
「一つ良いかな。この店には野菜は出さないという決まりでもあるのか?」
それは、あまりにも愚直で、飾り気のない問いだった。
そもそも、この大衆食堂『常盤木亭』で扱う食材の品書きには、《野菜》の文字どころか、それを使った小鉢料理一つすら見当たらない。肉、魚、それらを大雑把に焼くか煮るかした、いかにも男受けしそうな脂っこい料理ばかりが並んでいる。
だからこそ、軽い気持ちで尋ねたのだ。しかし、私の言葉に対する給仕の少女・ミツハの即答は、こちらの予想を遥か斜め上へと飛び越える、思いもよらないものだった。
まるで、この世界そのものに《野菜》という概念が最初から存在しないかのような、屈託のない返答。それは、私がそれまで培ってきた世の中の常識を、根本からひっくり返すような衝撃を孕んでいた。
「ヤサイって何さ? それ、美味しいの?」
きょとんとした顔で首を傾げるミツハ。その曇りのない瞳を見た瞬間、私は確信せざるを得なかった。
――この世界には、野菜が存在しないのだ、と。
本日のお仕事を終える。
夜の帳が下りた街の静けさの中、店の入り口に掛けられた《開店中》の木製プレートをひっくり返し、《閉店》の文字を表にする。そんな何気ない店じまいの最中に交わされたミツハの一言で、私はこの世界の決定的な「欠落」に気付くことになった。
野菜という概念そのものが、この世界にはない。
だが、元より「概念がない」という事実を、それを持たない人間に言葉で伝えるのは至難の業だ。そもそもこの世界に存在しないものなのだから尚更である。ないものは、無い。存在しないものは、どこまで行っても存在しないのだから。
◆◆◆◆
厨房の洗い場に向かい、今日一日の営業で溜まった食器の数々を、石鹸をたっぷりつけたスポンジで隅々まで丸洗いしていく。
「ゴシゴシ、キュッ、キュッ」と、泡立ったスポンジが皿の油汚れを落としていく小気味良い音が静かな厨房に響く。ちなみに、この世界に便利な食器乾燥機なんて気の利いた文明の利器はない。洗った傍から、清潔な布巾で一枚一枚手拭きしていくしかないのだ。
私が手を動かしている間、ミツハは残り物の処理や片付けのために、裏口からパタパタと出たり入ったりを繰り返していた。食べ残しや調理の過程で出た不要な部位を、生ゴミとして専用のコンテナに処理しているのだろう。
ふと、裏口の扉を閉めたミツハが、私の背中に向かって声をかけてきた。その声には、先ほどの疑問がまだ燻っているような、純粋な好奇心が混じっている。
「ねえジョニー。ジョニーは、その『ヤサイ』ってやつを食べたことがあるみたいだけど……それって一体、どんなものなのですか?」
私は皿を一枚、水ですすぎながら、頭の中で言葉を選んだ。
「野菜はね、基本的に土から生える植物の総称のようなものでね。一見するとただの草のようだけど、美味しい実がなったり、肉厚な葉っぱが食べられたり、あるいは土の中にある根っこそのものを食べたりするんだ。調理法も豊富で、生で齧っても美味いし、茹でても焼いても味が引き立つ」
私の必死の解説を聞いたミツハは、ポンと手を叩き、満面の笑みで納得の声を上げた。
「なるほど! ウマさんとかウシさんが毎日ムシャムシャ食べてる、あの牧草みたいなものですね!」
「うーん……」
私は動きを止め、苦笑いを浮かべた。
「例えとしては少々ワイルドすぎる気がするが、まあ、大体そんなもんだ」
牧草も動物にとっては栄養満点の野菜みたいなものだが、人間が口にする瑞々しいトマトやキュウリとはいささかニュアンスが違う。だが、植物を口にするという意味では大体あっている。これ以上の説明は、現物を見せる方が早いだろう。
……ん、待てよ。
そこまで考えて、ある記憶の断片が、まるで天から雷が落ちてきたかのように脳裏に閃いた。天災のような突飛な思い付きだったが、もしそれが事実なら、この『野菜のない世界』において、とんでもない可能性を開くことになる。いや、可能性としては十分だ。十二分に通用する。
私は慌てて泡だらけの手を執念深く水で洗い流し、ミツハを振り返った。
「確か、我は《常盤木亭》の入り口前に倒れていたと言ったな。そのとき、私が身に付けていた荷物……バッグのような手提げ袋を持っていなかったか?」
ミツハは人差し指を顎に当て、記憶を遡るように上を見上げた。
「茶色の手提げ袋ですか? あぁ、それなら店の奥で大切に預かっていますよ。中身は一応、危険なものがないか拝見させてもらいましたけど……なんだか不思議なものばかりでした。財布のような革袋の中に、見たこともない変なコインと紙切れ、それから、変な紙の小袋にパラパラした小粒の何かが入ったものが幾つかと……あと、四角くて折り畳み式の、ガラスがついた板のような――」
ミツハの言葉を聞き進めるうちに、私の記憶の霧が急速に晴れていく。
一つ、重要なことを思い出した。我は、ここではない全く別の世界を、かつて確かに生きていた。その国の名は、確か――■■。
しかし、なぜかその国名を発音しようとすると、頭の中でペンキか何かの黒い塗料でベッタリと塗りつぶされるように、強制的に伏字にされてしまい言葉に出てこない。だが、持ち物の正体ははっきりと分かった。
財布の中身は『ユキチ』と『ノグチ』。それは私がいた世界のお金だ。
そして、ミツハが言った「パラパラした何かが入った紙袋」――それこそが、野菜のタネだ。
タネは、適切な土と水、そして手入れがあれば、豊かな恵みをもたらす野菜へと育つ。もしかしたら、この世界でも……育てられるんじゃないか?
淡い期待と、前世の記憶がもたらす確信が、私の胸を激しく高鳴らせ、躍らせていた。
「それは今、どこにある!?」
詰め寄る私に、ミツハは少し気圧されながらも答えた。
「あ、あの、奥の畳の部屋(※なぜかこの異世界に存在する和室)に置いてありますけど……」
「すまん、洗い物は任せた!」
私はまだ少し残っていた皿洗いを中断し、エプロンを脱ぎ捨てて廊下へと駆け出した。厨房から繋がる廊下を進み、件の畳部屋へと向かう。厨房靴を脱ぎ捨てて畳に上がると、部屋の隅に、それは静かに鎮座していた。
使い古された、見覚えのある茶色の手提げバッグ。
経年劣化で生地が掠れ、所々に小さな穴が開いている、お世辞にも上品とは言えない代物だ。
私は逸る心を抑えきれず、バッグのジッパーを開けて中身をひっくり返した。ガサゴソと音を立てて掴み取ったもの――それは、紛れもない『野菜のタネ』だった。
日本のホームセンターの園芸コーナーでよく見かけるような、色鮮やかな完成予想図が印刷された野菜の種のパッケージ。表面には誇らしげにその品種名が躍っている。
トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、そしてカボチャまである。
私はこの時、自分の手の中にあるものの重大さに、改めて気付くことになった。どうやら私は、夏野菜のタネたちを、次元の壁を超えてこの世界に持ち込んでしまったらしい。
机の上に並べて数えてみると、全部で八袋のタネがあった。
以下が、そのタネたちの詳細な一覧である。
《アイコ》
家庭菜園で絶大な人気と育てやすさを誇るミニトマト。果実がプラム型で、果皮が薄くて果肉が厚く、酸味が少なくて甘みが強い優良種。
《ぷるん(※つぷるん)》
甘さはまるでサクランボ。指でつまむとマシュマロのようにぷよぷよとした新食感を持つ、新感覚のミニトマト。薄皮で口に残らないのが大きな特徴。
《四川きゅうり》
中国品種の「四葉」系を改良した白イボキュウリ。表面に沢山のイボと深いシワが入る。見た目は無骨だが、パリッとした歯ごたえと抜群の風味が特徴の、昔ながらの良さを受け継いだ品種。
《千両ナス》
日本のナス界における品質第一位と称される傑作。どこに出荷しても、その濃紫色のみごとな色艶、果肉の締まり、形の揃い、全ての面で大変高い評価を得ている万能ナス。
《京まつり》
「深緑色」の果肉がツヤツヤとしていて光沢がある、肉厚なシシ型ピーマン。苦味が少なく、加熱するとさらに甘みが引き立つ。
《シシトウ》
皮が鮮やかな緑色で、5〜6cmほどの細長い形をした、いわゆる「獅子唐辛子」。たまに猛烈に辛いアタリが混ざるのがご愛嬌の、焼き物や天ぷらに最適な品種。
《坊ちゃん》
手のひらサイズのミニカボチャ。形や肉質は一般的な大玉の栗カボチャとよく似ており、レンジで丸ごと調理できる手軽さと、粉質でホクホクとした強い甘味が非常に美味しい優秀な品種。
「うーん……。タネがあるのは最高だが、問題はここからどうやって苗にするか、だな。肥えた土の確保も必要だし、地温を保つためのマルチはどうする? 支柱は近くの森の木の枝で代用するにしても……」
そう、植物を育てるにあたって、第一の、そして最も高い課題となるのが<育苗箱>だ。
ここで解説をしておくと、<育苗箱>とは、タネをまいてからある程度、苗が自立して畑に植え替えられる大きさに育つまで、植物にとって最適な環境(温度や湿度)を整えて集中管理するために使われる平たい容器である。
大抵は前世のホームセンターに行けば数十円から数百円で安価に買えるものだが、この見知らぬ異世界に、ホームセンターや100円ショップなんて便利な店があるはずもない(間違いなく無に等しい)。
そもそも野菜が存在しないこの世界で、園芸屋という商売がこの街に存在しているかどうかすら怪しいのだ。
持ち運びがしやすくて、水はけがよく、底に適度な網目状の穴が開いている箱。そんな都合の良い箱がこの世界にあるだろうか。私は早くも、栽培計画の前段階で大きな難関にぶつかることになった。
しかし――その難関は、実にあっけなく、軽く打ち砕かれることになる。
「ジョニー、そんなところで腕組みして、さっきから何をブツブツと押し黙っているのですか?」
いつの間にか、部屋の入り口にミツハが立っていた。畳の上にタネ袋をずらりと並べ、胡坐をかいて頭を抱えている私の右肩口から、ひょっこりと顔を覗かせる。彼女はこの店の若き店主、【ミツハ・アリアンナ】。並べられたカラフルなタネ袋を、不思議そうにまじまじと見つめている。
「実は、ここに来る前の世界で、私は野菜を育てていてね。このタネをここに蒔いて、もう一度育ててみようと考えているんだ」
説明しながら私がタネを整理していると、ミツハはおもむろに手を伸ばし、カボチャやトマトのタネ袋をガサガサと興味深そうに上下に振り始めた。中のタネが擦れ合う音が静かに響く。
やがてピタリと動きを止めたミツハは、弾かれたように顔を上げ、まるで歴史的な偉人を目の当たりにしたかのような、極上の尊敬のまなざしを私に送ってきた。そして、興奮のあまり息巻いて、部屋中に響き渡る大声で叫んだのだ。
「もしかしてジョニーは、伝説の《先導者》なのォねェー!!」
「……はい?」
私は間の抜けた声を返した。
チーターってなんだ。世界最速の脚を持つ野生動物になった覚えもなければ、ゲームの規約を違反して裏技を使うイカサマ野郎になった覚えもない。
怪訝な顔をする私に、ミツハは興奮冷めやらぬ様子で身を乗り出し、一気にまくしたてた。
「ほら、おとぎ話にあるじゃないですか!――名は、カオリ・タナカ。今から約1000年前、このシャルロッテ大陸に【お花】を持ち込んで、一大文明を築き上げた偉大な方がそう呼ばれていたのですよ。そのカオリ・タナカ様は、タネという魔法の粒を使って、世界中に千差万別な綺麗な【お花】を咲かせ、人々の心を鷲掴みにしたとされています。それ以降、この世界にない『新しいタネ』を持ってくる旅人のことを、敬意と親しみを込めて、時代を先へと導く者――いわゆる《先導者》と呼ぶのが習わしなのですよ!」
先導者、ね。
それにしても、タナカ・カオリか。その名前の響き、文字の構成からして、間違いなく私のいた世界の島国【日本人】の同胞だろう。おそらく偉人でも何でもなく、たまたま趣味で【お花】が好きで、異世界転移したときにたまたま【お花】のタネを大量に持ち合わせていただけに違いない。
しかし、残念ながらそのタナカさんという方とは面識がない。そもそも記憶が曖昧なので分からないが、もし生きていたとしても、そんな大層な二つ名で呼ばれるようなトラブルメーカーとは、できる限り関わりになりたくないというのが本音だった。
「その、ま、眩しい《先導者》云々の話は一旦そっちに置いておくだな、ミツハ。先ほど言ったように、私は今、タネを植えるための『育苗箱』なるものを探しているんだが……何が良いアイデアはないか?」
私の問いかけに対し、ミツハはいつの間にか綺麗に正座の構えへと移行しており、そこからビシッと音が出そうなほど元気に右手を振り上げた。
その表情は、育苗箱が何たるかを完全に理解しているようで、どこか誇らしげで自慢めいていた。
「はいっ、それなら私、バッチリ知ってます‼ イクビョウバコなら、この先の通りにある園芸屋さんに普通に売っていますよ!【お花】のタネを安全に、素早く成長させるための魔法のハコですからね! ……まぁ、でもしかし……」
急にミツハの歯切れが悪くなり、上げた手が力なく下がっていく。
「何か問題でもあるのですか?」
ミツハは口元をすぼめ、声を潜めて言った。
『それが……少々お高いのです。一般的なイクビョウバコ(小)でも銀貨3枚はしますし、農家様が使うような(大)サイズになると、なんと金貨3枚もするのですよ……』
魔法の箱、というのがこちらの世界の園芸の常識なのだろうか。ふとそんな未知の技術に思考を巡らせつつも、私はミツハの提示した金額の内訳に顔をしかめた。
ミツハが私に日給として払ってくれる、あのズッシリとした銅貨1枚の価値を基準にするならば、異世界の定番として銀貨は10倍、金貨はさらにその10倍、あるいはそれ以上の価値があるはずだ(昔読んだ異世界ものの知識が確かならば)。新入りの居候がポッと出せる金額ではない。
「うーん、それは困ったな。予算がまるで足りない……」
私が腕を組んで唸っていると、ミツハは悪戯っぽく目を輝かせ、人差し指を立てて提案してきた。
「あ、そういえば! ちょっと古い旧型になりますけど、先代の店主が昔趣味で使っていたイクビョウバコ(大)が、裏の物置に幾つか眠っていたと思います。もしよろしければ、ジョニーの春期分のお給料の半分を前借りという形にして、それで差し上げますがどうでしょうか?」
私はその提案に飛びついた。
「野菜を育てる分には、多少古かろうが旧式だろうが全く構いませんよ! よし、それで手を打ちましょう。それで、その旧式というのは一体どんなものです?」
「ふふん、ちょっと待っててくださいね!」
ミツハはパッと手のひらをこちらに突き出して制すると、嬉しそうに立ち上がり、廊下を走って裏口の方へと消えていった。
それから、ガタゴトと物置をひっくり返す派手な音が遠くから聞こえる中、私は畳の上で二十分ほど待ったと思う。
◆◆◆◆
「お待たせしました! これが我が家に伝わる旧式イクビョウバコですよ!」
ミツハが誇らしげに両手で抱えて持ってきたのは、縦長で平たい、見覚えのある形状の箱だった。
私はそれを手にとってまじまじと観察する。重さを量り、ひっくり返して底の網目を指でなぞってみる。
――驚いた。それは、前世のホームセンターの園芸コーナーで山積みにされて売られている、緑色のプラスチック製育苗箱そのものだった。重量も非常に軽く、底の網目もしっかりとしていて、これなら水はけも通気性も抜群のはずだ。
しかし、プラスチック製の箱がなぜ「魔法の箱」などと呼ばれ、新旧の差があるのだろうか。私は残った純粋な疑問を、恐る恐る彼女に尋ねてみることにした。
「これ、見たところ十分に使えそうですし、むしろ理想的な形をしていますが……。ちなみに、今の最新型と、この旧型とでは、一体何が違うんですかね?」
私の問いに、ミツハは一つ間を置いて、したり顔で人差し指を立てた。
「園芸屋さんで聞いた話ですけど、最新のイクビョウバコは、埋め込まれた【土属性の魔法】の効果によって、植物の育成速度を極限まで高める『育成加速ブースト(大)』の恩恵が得られるらしいですよ!」
なるほど、魔法技術の進歩というわけか。やはりこの世界は一筋縄ではいかない。
「ちなみに」と、ミツハはウィンクしながら付け加えた。
「その旧型でも、一世代前ですから『育成加速ブースト(小)』ならちゃんと付いています!」
異世界の育苗箱は、旧型であっても、前世の農業従事者が腰を抜かすほどチート過ぎる性能を秘めた魔法のアイテムだった。何はともあれ、これで栽培における最初の高いハードルである「苗作り」の工程はクリアしたと言っていい。
だが、本当の勝負はここからだ。
タネを苗に育てたとして、それを植え替えて本格的に育てるための広大な『土地』がない。
荒れ地を耕し、豊かな耕地に変えることができるだけの土地が、この街の近くにあるだろうか。
美味しい野菜をこの世界に実らせるための我らの挑戦は、まだ始まったばかりだ。
(つづく)




