第9話 ホメ猫
――ドクン、と。
存在しないはずの心臓が、大きく一度だけ跳ね上がった。
気がついた時には、俺はまた「そこ」に立っていた。
全身を引き裂かれ、内臓をぶちまけて死んだはずの生々しい痛みは、嘘のように消え失せている。だが、喪失感と強烈な眩暈だけが頭の中に居座り続けていた。
「……ここは、どこだ?」
阿呆のように口を半開きにして立ち尽くす俺の目の前を、不意に、滑り込むような不気味な動作で「ナニカ」が横切っていった。
それは、ゆらゆらと蠢く一筋の黒い影だった。シルエットだけを見れば猫のようだが、輪郭が常にブレており、まるでブラウン管テレビの砂嵐を見ているかのような強烈な違和感を放っている。大きさだけは、現実世界の子猫のように小さかった。
【ニャー!_°○”#$%&’()――】
影の口元が裂けるように開き、鳴き声が響く。だが、その音は俺の耳に届く直前で、まるでデジタルデータが破損したかのように激しくバグを落とした。記号の羅列のようなノイズ。語尾が完全に壊れている。
ゾッとして一歩下がり、周囲を確認するために視線を上へと向けた。
どうやらここは、見覚えのある、しかし致命的に何かが欠落している空間――【■■■駅】の郊外らしかった。
どんよりとした灰色の空。その下に佇む駅の入り口には、木製の古い看板が掲げられている。
【■■■駅】郊外
看板を留めているネジは錆びつき、今にも地面へ脱落しそうなほど斜めに外れ掛かっている。
だが、なぜだろう。たぶん、あの看板が完全に落っこちることはないのだろうな、という確信があった。根拠は何一つない。ただの不確実な勘に過ぎないが、このバグり散らした空間の「仕様」が、そう俺に告げている気がした。
「……クソ、俺はここに来る前、一体何をしていたんだっけ……?」
記憶を掘り起こそうとするが、脳の奥底に濃い霧が立ち込めているかのように、思考が全く明瞭としない。まるで泥水の中で物事を考えているようなもどかしさだ。
考えても始まらない。ここに留まっていても精神を病むだけだ。俺は重い足を動かし、灰色に染まったコンクリートの上をあてもなく歩くことにした。
数分ほど歩いた時、ふと、前方に奇妙なエリアが目に留まった。
何もないはずの駅前広場の中心に、それは唐突に現れた。
【KEEP OUT(立入禁止)】
鮮やかな黄色いテープが、何重にも交差するように張り巡らされている。まるで現実世界の凄惨な事件現場そのものだ。
不穏な予感に胸をかき乱されながらも、俺の視線は引き寄せられるように、そのテープの中心へと向いてしまう。
そこにあったのは、凄まじい量の「赤」だった。
肉片が、まるで巨大なミキサーで跡形もなく磨り潰されたかのように、ぐちゃぐちゃになって地面にへばりついている。べっとりと広がった真っ赤なナニカ。それはつい先ほどまで生命だったものの成れの果てだった。
「う、おえっ……!」
強烈な嘔吐感が込み上げ、本能的に目を背けようとした。しかし、そのおぞましい光景は、網膜を通じて文字通り「鮮明に」脳内に植え付けられてしまった。フラッシュバックのように、消そうとしても頭から離れない。
その時だった。
【パンパカパーン!!】
耳を突き刺すような、この凄惨な場に全く似合わない軽快でマぬけな音が、静寂に包まれていた周囲の空間に響き渡った。
まるで安っぽいバラエティ番組のファンファーレのような、軽薄極まりない音。
同時に、どこからともなく、スピーカーを通したような大音量の声が降ってきた。
【はぁーい皆様! こちらFKLネットワークサービスの《先導者チーター》田中三代目でぇす!! たった今、大変な殺人事件がここ■■■駅で起きましたァ!! 散らばった肉片は、お馴染み掃除屋の松本■■■さんが、それはそれは綺麗にここまで運んでくれましたァ!! さぁさぁ、そこで問題です! 犯人は一体誰でしょう!?】
「な、なんだって……!?」
唐突に始まった狂気じみたクイズショーに、俺の心臓が激しく鐘を打つ。
背後でガシャコンと音がした。振り返ると、いつの間にか世界は完全な暗闇に包まれており、上空から一筋の強烈なスポットライトが、ある地点をピンポイントで照らし出していた。
光の輪の中に浮かび上がったのは、巨大な黒い影だった。
大きさはイヌのようだが、やはりその身体は漆黒のモヤで包まれている。信じられないほど凶暴な気配を放ち、口元からはドロドロと汚らしい涎を絶え間なく垂らしていた。あからさまに、こちらを食い殺そうと飢えた目を向けている。
しかし、その首には頑丈な鉄の鎖が巻き付けられており、地面に打ち込まれた巨大な杭に繋がれていた。鎖がジャラジャラと音を立てる。魔獣は前に進めないもどかしさから、「ハァハァ、ハァハァ」と荒い息を切りながら、こちらを睨みつけて威嚇している。
パッ、パッ、パッ。
順々にライトが切り替わり、合計三体の「イヌみたいな黒い影」が、等間隔に並んでスポットライトの下に晒し出された。
【この凶暴な動物たちが、罪なき■■■■を肉片へと磨り潰しましたァ!! さぁ、この動物ノ名前ヲ当テヨ……!!】
「動物……?」
俺は困惑し、眉根を寄せた。
冗談じゃない。こんな禍々しい生物、地球のどこの動物園でも見たことはない。
……いや、待てよ。動物園って、一体何だっけ? 檻の中に動物がいて、それを見る施設だった気がするが、その詳細な記憶すら朧げだ。
だいたい、こんな理不尽なクイズの正解なんて知る由もない。殺人事件の解決なんて、今の俺にはどうでもいいことだ。一刻も早くこの場を切り抜けたい。
俺は半ば投げやりな気持ちになり、直感の赴くまま、頭に浮かんだデタラメな名前を口にすることにした。
「……【ホメ猫】」
適当に、ただ口から出ただけの文字列だ。猫ですらないイヌ型のバケモノに向かって、俺はそう言い放った。
――ブブー、と不合格のブザーが鳴るのを身構えた、その瞬間。
【ピンポーン、ピンポーン! ピンポーン、ピンポーン!!】
鼓膜が破れんばかりの、けたたましい正解音が鳴り響いた。
【そうですそうです、そうですよ!! 大正解!! この動物の名前は《ホメ猫》です!! いやぁ素晴らしい! 見事正解されましたお客様には、なんとこの《ホメ猫》を一匹差し上げますので、お好きな個体を選んでください!!】
「えっ、マジで……? これ、本当に《ホメ猫》っていうの……?」
自分の適当な名付けがまさかの大正解だったことに、脳の処理が追いつかない。しかも、あんな涎を垂らした狂暴そうなバケモノを「一匹くれる」と言われても、恐怖と困惑しかない。
しかし、選択を拒む権利などないのだろう。俺はおそるおそる、三並びの真ん中にいる、比較的こちらへの敵意が薄そうな《ホメ猫》を指差した。
「……じゃあ、真ん中のやつで」
その瞬間、鎖で繋がれていたはずの真ん中の影が、シュウウウ……と黒い霧となって霧散した。そして意思を持つ生き物のように空間を泳ぎ、俺の胸元へと一直線に飛び込んできた。
「うわっ!」と声を上げる間もなく、黒い霧は俺の皮膚へと吸い込まれ、完全に同化していった。身体の奥が、ほんのりと冷たく重くなる感覚が残る。
すると、凄惨極まりなかった殺人現場から、ボン、ボン、ボーンと、立て続けに白い煙が勢いよく噴き出した。
あまりの煙の濃さに激しく咳き込み、涙を拭いながら見渡すと、いつの間にか地面の肉片や黄色いテープ、スポットライトといった「殺人現場のギミック」は綺麗さっぱり清掃されていた。
そして、晴れていく煙の特等席から、またしてもあの古びれた「公衆電話ボックス」が、静かに姿を現した。
俺は引き寄せられるように電話ボックスへ歩み寄り、ガラス張りの重い扉を開けた。
中に入ると、外のノイズ音が少しだけ遮断される。手を伸ばして、冷え切った緑色の受話器を持ち上げ、耳に当てた。
液晶ディスプレイを見る。
■■■■
■■■■
■■■#
文字盤の上にある肝心の番号案内は、無惨にもインクで真っ黒に塗りつぶされていた。どこに、何番へかければいいのか、視覚的には全く分からない。
それでも、俺の指は迷わなかった。【知っていた】のだ。
どのボタンを押せば、あの不快な男に繋がるのかを、魂が記憶しているかのように。
ボチ。ボチボチボチ。ボチ■■■。■■■■■。■■■。
プッシュボタンを、【適当に】、しかし確実なリズムで押し下げていく。
トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル。
電子的な呼び出し音が、誰もいない暗闇のボックス内に虚しく響き渡る。
正確に三回ほどの電子音が鳴り響いた後、カチャリと音がして、電話が繋がった。
『はいはーい! こちらFKLネットワークサービスの《先導者チーター》田中三代目と申します! ええ、ええ、ご用件は重々解っておりますとも。ずばり、お決まりの「災厄の解除」ですね? なになに? 解・ら・な・い!?”#$%……おっと、失礼。私は現在、お客様が掛かっている理不尽な呪いを打ち消したり、お客様の多様なニーズに合わせた素敵な新サービスを提供しております。選択は、目の前の画面からどうぞ。あ、そうそう。《農》POINTの利用は計画的にね。それでは、アデュー!』
ツーツーツー……。
用件だけをマシンガンのようにまくし立て、一方的に通話を切った。受話器からは虚しいビープ音が流れる。
同時に、電話機の上部に設置された小さな液晶ディスプレイが、激しく明滅しながら新たな情報を表示し始めた。
【ステータス画面】
所持:《455農》POINT
◆ 災厄解除・サービス一覧 ◆
・災厄:虚数言語 level.2 【必要:40p】
・災厄:記憶 level.2 【必要:40p】
・災厄:買い物 level.2 【必要:40p】
・常闇状態解除 【必要:9999999p】
・時間固定解除 【必要:500億p】
・■■■の常設化 【未開放】
・■■■■の営業 【未開放】
【New! 追加項目】
・農POINTの引き出し level.1 【必要:100p】
・《ホメ猫》の強化 level.1 【必要:800p】
・■■■■■の利用 【未開放】
「なるほど……」
画面を見つめながら、俺は顎をさすった。
初期の基礎項目である《虚数言語》《記憶》《買い物》の3つに関しては、それぞれ40ポイントでlevel.2に解放できるようだ。
しかし、その下にある《常闇状態解除》の99万ポイント、さらには《時間固定解除》の500億ポイントに関しては、もはや桁が違いすぎて笑うしかない。これ、なんて無理ゲーだ……? どんなチートを使えばこんな天文学的な数字が溜まるというのか。
そして、よく見ると新しい項目が増えている。
《農POINTの引き出し》。説明文はないが、これは現実世界のATMみたいに、ポイントを実体のある通貨か何かに引き出せるサービスなのだろうか……?
さらに、先ほどクイズの景品(?)でもらった《ホメ猫》の強化とかいう、これまた謎に包まれた項目まである。
「というか、《ホメ猫》って、いつから俺の所持品扱いになったんだよ……」
身体に吸い込まれたあの黒い影を思い出し、少し気味が悪くなる。しかも、強化に必要なポイントは「800p」と、現在の所持ポイントを遥かに上回っている。
幸いなことに、今手元にある農POINTは《455農》だ。前回来た時よりも確実に増えている。これなら基礎ステータスの解放を優先し、謎の多い《ホメ猫》の強化は後回しにしても全く問題はないだろう。
俺は迷わず、画面に表示された《虚数言語》《記憶》《買い物》の3つのボタンを順番にタップした。
ピコン、ピコン、ピコン、ピコーン。
小気味良いシステム音が鳴り響き、文字列が更新されていく。
――《虚数言語》がlevel.2に上がりました。
――《記憶》 がlevel.2に上がりました。
――《買い物》 がlevel.2に上がりました。
――《農POINTの引き出し》が使用可能になりました。
その瞬間、頭の中にドクドクと冷たい衝撃が走った。
ガガガ、ダダダダダダダダダダダダダダ!!と、脳内でノイズが激しく弾ける。
「が、あ……ッ!?」
頭痛に耐えかねて頭を抱え、電話ボックスの壁に背中を打ち付けた。しかし、その激しい苦痛が去った後、劇的な変化が俺の身体に訪れていた。
まず、耳に入ってくる環境音が変わった。
ボックスの外、遠くの暗闇に佇んでいる無数の黒い影たち。彼らが発している、これまではただの雑音にしか聞こえなかった「話し声」が、劇的に鮮明に聞こえてくるようになったのだ。とはいえ、まだ彼らの言語レベルが高いのか、あるいはシステムの制限か、ところどころ言葉が途切れて完全には理解できないが、以前よりは確実に世界の「解像度」が上がっている。
それに、以前よりも思考が圧倒的にクリアになった(気がする)。
何より大きかったのは、解放された《記憶》の恩恵だった。
直前まで、自分がどこで何をしていたのか――その行動の記憶が、鮮烈な濁流となって脳内に蘇ってきたのだ。
「そうだ……俺は、あの森で……」
思い出した。俺は《シュナウザーの迷林》の最深部で、あのハスキー犬の姿をした凶暴な魔獣――《殺戮動物》の偽物に不意を突かれ、背中を引き裂かれて殺されたんだ。
そして、その原因を作ったのは……今まさに俺の身体と同化している、あの『田中三代目』が差し出してきた《ホメ猫》というバケモノの存在だった。あのチワワに似た犬のような何かが肥溜めを見つけ、俺をそこに誘導し、結果として俺は無防備な背中を晒して殺されかけたのだ。
「あの野郎、仕計りやがったな……」
ふつふつと湧き上がる怒り。だが、今はそれよりも確認すべきことがあった。
新しく解放された《農POINTの引き出し》だ。これは一体どこで、どうやって引き出せばいいのだろう。周りを見渡しても、それらしいATMのような機械は見当たらない。
視線をディスプレイに戻すと、所持ポイントが更新されていた。
所持:《455農》POINT ⇒ 《235農》POINT
3つの能力解放に120ポイントを消費したため、残りポイントがカチリと減っている。不思議なことに、数値が減った瞬間、自分の肉体的なエネルギーか、あるいは霊的な何かが目減りしたような感覚が、体感としてリアルに伝わってきた。
現状、この駅前エリアでできることはもうなさそうだった。
俺は電話ボックスを出て、前回の記憶を頼りに、薄暗い道をトボトボと歩いて【ホームセンター《■■店》】へと向かった。
自動ドアをくぐり、静まり返った店内に足を踏み入れる。
棚を一つずつ巡ってみたが、残念ながら今回は目新しい新商品や、劇的な農業チートをもたらしそうな便利グッズは入荷していないようだった。
品揃えは前回と変わらない。しかし、せっかく《買い物》のレベルを上げたのだから、次の開拓に向けて最低限の資材を買い足しておく必要がある。
俺はプロの農家としての経験と知識を総動員し、現在の荒れ地開拓に最も必要となる実用的な基礎資材を選定した。
まずは【支柱】だ。これから夏野菜の苗を育てるにあたり、トマトやキュウリといった蔓が伸びる植物を支え、強風から守るためには絶対に欠かせない。
次に【マルチ(マルチングフィルム)】。これを土壌に被せることで、雑草の繁茂を劇的に抑え、地温を調節し、土の乾燥を防ぐことができる。開拓の手間を減らすための必須アイテムだ。
そして、それらを固定し、蔓を結びつけるための【ビニールひも】。
地味だが、これらがあるのとないのとでは、今後の農作業の効率が天と地ほど違ってくる。俺はそれらの資材を台車に乗せ、レジへと運んで購入手続きを済ませた。
支払いが完了した瞬間、脳内に現在の残高が表示される。
《235農》POINT ⇒ 《50農》POINT
やはり、このホームセンターでの買い物は、日本円ではなくこの《農》POINTを消費するシステムのようだ。一気に185ポイントが消費され、残高はわずか50ポイントになってしまった。かなりカツカツだが、背に腹は変えられない。
「さて……と」
最後に残った謎、《農POINTの引き出し》の具体的な利用方法については、現時点ではこれ以上、無理に頭を悩ませて解き明かす必要はないと判断した。ポイントも残り少ないし、今は畑の開拓と、あの理不尽な死からの仕切り直しが最優先だ。
俺は前回ここから元の世界(あるいは異世界)へ帰還した時の手順を思い出していた。
目指すのは、ホームセンターの奥にある、薄暗い男子トイレだ。
静まり返ったトイレに入り、ひんやりとした空気が漂う手洗い場へと向かう。
そこにある、古びた洗面台の【蛇口(■■■)】。
俺は躊躇うことなく右手を伸ばし、その金属製の蛇口にそっと触れた。
ゾクッ、と全身を震わせる奇妙な感覚。
手を触れた瞬間から、蛇口を中心に空間が歪み、俺の輪郭がドロドロと液体のように溶け出していく。まるで洗面台の排水口へと、身体ごと強引に吸い込まれ、呑み込まれていくかのような感覚。
視界が真っ暗に染まり、強烈な重力が俺を引っ張っていく。
次こそは、あの理不尽な魔獣どもを出し抜いて、まともな畑を作ってみせる――。
意識が遠ざかる中、俺は強くそう誓った。
つづく。




