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第8話 【我、動物に殺される】 挿絵ː14枚

挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)

これだけの道具が揃ったのはありがたい。ありがたいのだが――現在の俺の活動拠点は「空き地」という名の、ただの荒れ地である。ここを「畑」と呼べるレベルまで開拓しなければ、宝の持ち腐れだった。


「……はぁ」


俺は目の前にそびえ立つ、巨大な「それ」を見上げて、本日何度目になるか分からないため息を吐き出した。


《ステップ2:切り株の排除》

挿絵(By みてみん)

目の前の地面にどっしりと根を張っているのは、かつて大樹だった名残である巨大な切り株だ。しかも、それが複数箇所に渡って点在している。

これをすべて取り除かなければ、まともにうねを立てることもできず、畑を耕すことなど夢のまた夢だった。


日本にいた頃の常識で考えれば、こんなものは個人が手作業でどうにかするものではない。普通なら、専門の業者に委託して、油圧ショベルやバックホーといった重機を投入し、ガガガと地面ごと掘り起こして一網打尽にする案件だ。

だが、ここは異世界である。重機なんて便利な乗り物があるはずもない。そもそも、ガソリンという概念が存在するのかどうかすら怪しいのだ。

挿絵(By みてみん)

この街の主な移動手段として《馬車》がパカパカと音を立てて走っている時点で、内燃機関を積んだ自動車の存在など絶望的だ。電気そのものが普及していないに等しいこの世界なのだから、当然の帰結と言えた。


つまり、文明の利器に頼ることはできない。

手持ちの道具だけで何とかするとなれば、地道にスコップと鍬を使って周囲の土を掘り進め、頑強に張り巡らされた根っこを一本ずつ割り出し、少しずつ切り落として除去していく他、選択肢は存在しなかった。


「これは……地道に切り株の周辺を鍬で掘り起こして、シャベルを使って根を一本ずつ叩き切っていくしかないな」


俺は手元にあった大きめのシャベルの刃先で、切り株の側面をトントンと叩いてみた。鈍く重い音が響く。生前、よほどの巨木だったのだろう。

木の根がどれだけ深く、そして広範囲に地球の重力に抗って根付いているかなど、専門知識がなくても想像がつく。普通の木であっても、よほどの超大型台風でも来ない限り倒れないのだ。それを人間の腕力だけで、しかも原始的な道具で掘り起こそうというのだから、正気の沙汰ではない。

挿絵(By みてみん)

「……三日はかかるかもしれませんね。いえ、それ以上かも。木の根をすべて、取り切らないといけないのでしょう……?」


切り株の隣で、不安そうに眉をひそめているのは、現地の案内人であり協力者でもあるミツハさんだった。彼女もこの荒れ地を見渡しながら、気の遠くなるような作業量に圧倒されているようだ。


「そうですよ。木の根が強く、深く根付いていればいるほど、畑に作物を作る際に必ず邪魔になってくる。根が栄養を奪い合うし、何より耕せませんからね……」


俺たちは並んで切り株に腰掛け、これからの作業手順を確認し合った。しかし、話し合えば話し合うほど、作業が始まる前から絶望的な気分にさせられる。


ああ、車でロープを引っ張って一気に引き抜くことができれば。

あるいは、一掘りで土を撥ね退けるシャベルカーがあれば。

最悪、魔法的な何かでドカンと一発、綺麗に取り除ければ――。


「……ん? 待てよ」


俺の脳裏に、異世界ならではの「お約束」が閃いた。

科学技術がないのなら、ファンタジーの力に頼ればいいのではないか。もしかして、魔法ならこの状況を打開できるかもしれない。


「なぁ、ミツハさん。この頑固な切り株を、一瞬で粉砕・玉砕するような、都合のいい破壊魔法的なものってこの世界にないのかな? できれば、それを使って快く手伝ってくれるような魔法使いの知り合いとか、心当たりはいない?」


俺のすがるような視線に対して、ミツハさんは困ったように苦笑いを浮かべ、左右に首を振った。


「破壊魔法、ですか……。残念ながら、この近くの都市『イーゲル』でそれほどの高等魔法を使える者となると、教会の奥深くにいる、余ほど高位の修道士様に限られてきますね。当然、私のような一般人にその方たちの知り合いはいませんし、仮に頼めたとしても、一介の開拓のために動いてくれるとは思えません。お役に立てず、すみません……」


「うーん。やっぱりそうか。地道な手作業で撤去するしかない、か……」


俺ががっくりと肩を落としたその時、ミツハさんが「あ!」と何かを思い出したように人差し指を立てた。


「あの、魔法そのものは無理ですが、魔法を使える『存在』を仲間にする、というのはどうでしょうか?」


「魔法を使える存在?」


「はい。この街の外れにある森――通称《シュナウザーの迷林めいりん》の最深部に、強力な魔法を操る魔獣が生息していると聞いたことがあります。その魔獣は魔物には珍しく、比較的温和な性格で、人間の言葉も理解して通じるらしいんです。もしその魔獣を説得して連れてくることができれば、切り株の処理くらい簡単に手伝ってくれるかもしれません!」


「おおっ! それは素晴らしい情報じゃないか!」


一筋の光明が見えた。これぞ異世界ファンタジーの醍醐味だ。しかし、ミツハさんの表情は晴れない。むしろ、さらに深刻なトーンへと声を落とした。


「ですが、そこへ一人で行くには危険が多すぎます。道中には、入った者を惑わせる迷宮とも呼ばれる森の環境そのものの攻略が必要ですし、何より、その森を縄張りにしている《殺戮動物キラーイーター》の妨害を掻い潜る必要がありますから……」


「……妨害?」


俺はその不穏な単語に引っかかりを覚えた。

普通、この手の異世界ものの小説やゲームにおいて、凶暴な魔獣というのは「見つけ次第、即座に討伐されるべき害獣」であり、第一種危険動物に分類されるはずだ。それなのに、わざわざ「妨害」という、どこか生ぬるいような、奇妙な表現を使うのが不思議でならなかった。


この世界において《魔獣》という存在が、単なる凶暴な獣とは異なる「トクベツな生き物」であるという本質を、俺が身をもって知ることになるのは、もう少し後のことである。


「妨害って、具体的にどういうことなの一? 襲いかかってきて、食べられちゃうとか?」


俺の問いに、ミツハさんは実感を伴った恐怖を瞳に宿しながら、静かに説明を続けた。


「いえ……【殺戮動物キラーイーター】は、不思議なことに人間をすぐには殺さないのです。彼らは侵入者を見つけると、ただただなぶるんです。なぶり尽くして、精神的にも肉体的にも徹底的に痛めつけ、仕舞いには森の外へと放り出すように追い返すんですよ。そして……その《殺戮動物》に徹底的に嬲られた者は、例外なく心折れ、身体を壊され、半身不随になって戻ってくるそうです」


「半身不随……っ!?」


殺戮動物キラーイーター》という物々しい名前に反して、やっていることが陰湿かつ残虐すぎて、背筋が凍りついた。

一瞬で噛み殺されるならまだしも、弄ばれた挙句に半身不随にされて社会的に抹殺されるなど、恐ろしすぎる。勝てる見込みも勝率も、今の俺には万に一つもない。いっそ一撃で殺された方がマシではないか、というレベルだ。

じわじわと這い上がってくる恐怖に、周囲は別に寒くもないのに、俺の身体はガタガタと身震いを始めていた。


というか、それほどまでに危険で残忍な魔獣が、なぜ今まで駆逐されずに放置されているのだろうか。そんな疑問も湧いてくる。


「ただ、絶望することばかりではありません」と、ミツハさんは励ますように言葉を重ねた。


「《殺戮動物》たちは、普段は集団で群れを作る習性を持っています。裏を返せば、一匹一体の個体としての戦闘力は、それほど高くはありません。ですから、街の酒場に行って、腕の立つ傭兵を一人でも雇うことができれば、《殺戮動物》の群れは何とかなるはずです」


「なるほど、護衛を雇えばいいわけか。……で、もう一つの問題である『迷宮の攻略』っていうのは? 入ったら出られなくなるとか?」


「それについては、迷う心配はありません。なぜなら、正しいルートを外れると、迷う前に強制的に『入り口の前に戻される』という奇妙な結界が張られているからです。ですから、なんでもいいのでとにかく『鼻の利く魔獣』を一匹、街のレンタル屋さんで借りてくれば、迷うことなく最深部まで案内してくれるそうですよ」


「……あ、なるほどね」


俺は思わずポンと手を打った。

まさにチートダンジョンにおける、あるあるパターンだ。

チートなダンジョン攻略には、いつだって《鼻のキく優秀な案内魔獣》と《前衛を張れるつよつよ戦士》のセットが付きものと決まっている。

案内魔獣を解き放ち、追従し、襲いかかってくる雑魚敵は最強の戦士が華麗に蹴散らしていく――これぞ、ファンタジー世界における由緒正しい、王道の正当なるダンジョン攻略法だ。


「よし、方針は決まった! 恐れるものは何もないなっ!!」


……まあ、実質的に危険な戦闘や索敵をすべて他人に丸投げしているだけなのだが、その点についてはあえて思考の隅に置いておくことにした。生き残るためには、使える手段は何でも使うのがスマートというものだ。


ミツハさんの助言に従い、俺はさっそく行動を開始した。

ギルドには腕の立つ、強い傭兵たちが夜な夜な集まっているという噂を聞きつけ、俺は街の三番街に店を構えるギルド兼酒場《酔いどれホライズン》の重厚な扉を叩いた。


「おい、新顔か?」

「ガハハ! もっと酒を持ってこい!」


扉を開けた瞬間、熱気とアルコールの臭いが顔を殴りつけてきた。

使い古された木製の椅子に腰かけ、昼間から大ジョッキを傾けて呑んだくれているのは、屈強な獣人族から、神秘的な雰囲気を纏った精霊使い、血気盛んな青年から酸いも甘いも噛み分けたような老人まで、実に多種多様な面々だった。


この世界において、ギルドと酒場は完全に一心同体だ。血生臭い《シゴト(依頼)》と、それを癒やすための《酒》は、切っても切れない深い関係で繋がれている。

だが、そのぶん実力は本物のようだ。いざ金を払って傭兵を雇うとなれば、ギルドに登録している傭兵たちは、常人離れした狂人的な力を貸してくれるらしい。


俺は荒くれ者たちの人込みをなんとかかき分け、カウンターの奥でギルドを管理してくれている、若い女性の受付係に声をかけた。いかにも「ギルドの受付嬢」といった風情の、愛想の良さそうなネーちゃんだ。


「あのー、すみません。これから『シュナウザーの迷林』に行きたいと思っているのですが、護衛をお願いできる方はいませんか……?」

挿絵(By みてみん)

「おや、迷林ですか。傭兵の雇用ですね。少々お待ちください……そうですね、現在動ける方だと、このあたりはどうでしょうか?」


受付のお姉さんは事務的な手付きで、カウンターの下の引き出しから、使い込まれて端が丸まった数枚の紙を広げ、俺に傭兵リストを提示してくれた。


どこぞの異世界小話で読んだことがあるが、ギルドでこの手の傭兵リストを見せられた時点で、システム的に《クエスト》が強制発注される仕組みになっているらしい。つまり、一度見てしまったら、もう後戻りはできない。依頼を断ることは一切許されないのだ。ひぇー、ブラックすぎないか?


戦々恐々としながら、俺はリストに記載された人物のスペックと、必要な報酬(雇用費)に目を走らせた。

挿絵(By みてみん)

ベルリン・ウォール(25)男 【職:武道家】

価格:銅貨1枚

・強靭な肉体から繰り出される拳でドカンと一発! どんな魔物も一撃で吹っ飛ぶ!

挿絵(By みてみん)

カルロス・オーストリアン(30)男 【職:素早い剣機】

価格:銅貨3枚

・その名の通り、素早い剣技で魔物も人もキリキリ舞い!

挿絵(By みてみん)

ブレンディ・ブレン(20)女 【職:精霊剣士】

価格:銅貨7枚

・期待の若手魔法剣士。卓越した剣技だけでなく、扱う魔法も一級の逸品!


俺はうーむ、と深く唸った。

一番上のベルリンさんは、雇用費がたったの銅貨1枚で済む。非常にリーズナブルだ。しかし、格闘家というのは、どうしても日本でいうところの《柔道》選手みたいな、泥臭い異世界版の印象しか湧かない。武器を持たない生身の人間で本当に大丈夫なのだろうか。


二番目のカルロスさんは、職種欄にある【剣士】みたいなものだろうが、よく見ると【剣機けんき】と書かれている。……機械の機って何やねん! それに説明文にある【素早い】っていうのも、完全に本人の自称だよね……? ちょっと胡散臭い。


最後のブレンディさんは、めちゃくちゃ強そうだ。剣技のほかに魔法も使えるハイブリッドタイプらしく、非常に頼りがいがあって実戦でも大いに活躍してくれそうな気配が漂っている。

――だが、致命的な問題があった。俺には、そんな大金(銅貨7枚)は無いっ!


結局、財布の寂しい俺が選べる選択肢は、最初から一つしか存在しなかったのである。


◆◆◆


「ワイはベルリン! 今回お供させてもらうことになったっス。よろしくっスよ、あ、よろしくっス!」


酒場の一角で、威勢よく頭を下げて自己紹介をしてくれたのは、やはり価格の安さで選んだ武道家のベルリンさんだった。

深々とペコリと頭を下げる姿は、想像以上に礼儀正しい好青年だ。……が、その格好は俺の予想を裏切らず、白い帯を締めた、どう見ても柔道着そのものを着用した「柔道選手の異世界版」だった。ファンタジー感は皆無である。


続いて、俺たちはそのまま街の「魔獣レンタル屋」へと足を運んだ。

迷宮のルート案内役として、もっとも安価で借りられる【チワワ】という種族の魔獣を一匹、雇用することにした。

店員が奥から連れてきたのは、ここでもやはり、地球で嫌というほど見かける、あの目がクリクリとした愛玩犬の「チワワ」そのものの姿をした子犬だった。

チワワという生き物の存在も外見も、俺は元の世界の実家で飼っていたので既に知識として持っていた。そのため、今更大して驚きはしなかった。


(これが魔獣ねぇ……)


本音を言えば、ゴールデンレトリバーやシェパードクラスの大型犬であれば、索敵の他に、いざという時の戦闘要員サブアタッカーとしても戦力に数えられたのだが、仕方が無い。今の俺は、ギルドへの支払いと転送費用で、すでにお金が完全に底を尽きかけていたのだ。贅沢は言えない。


こうして、俺(一般人)、ベルリン(柔道着の武道家)、チワワ(ただの子犬にしか見えない魔獣)という、何とも締まらない、お世辞にも勇壮とは言えない凸凹パーティーが結成されたのだった。


目的の場所である外れの森《シュナウザーの迷林》までは、普通に徒歩で向かうと半日は軽く掛かる道のりらしい。

だが、そこはさすが異世界チート。かつてこの地を訪れたとされる《先導者》が作り残した、古代の遺物《転送鏡エリアミラー》と呼ばれる巨大な鏡が街に設置されていた。

これを使えば、目的地である森の入り口まで、空間を歪めて1秒もかからずに転送ワープによって移動できるらしい。

挿絵(By みてみん)

ここでも通行料として、なけなしの銅貨1枚を支払う羽目になったが、日本でいうところの「高速道路の料金所」みたいなものだと思えば納得はいった。こんなに便利で文明的な移動手段が遺されているものだと、つくづく感心させられる。


「よし、行くぞ」


俺は覚悟を決め、冷たい質感の《転送鏡》の表面にそっと手をかざした。頭の中で行き先を強く告げる。

視界がぐにゃりと歪んだ――と思った次の瞬間には、俺たちの足元は石畳から湿った土へと変わっていた。


そこは、まさにゲームの画面でしか見たことがないような、おどろおどろしいダンジョンの入り口だった。

挿絵(By みてみん)

周囲には、地球ではお目にかかれないような、紫や蛍光緑といった色鮮やかすぎる不気味な草木が生い茂っている。さらに気味が悪いことに、それらの植物のいくつかには、中央にぎょろりとした本物の「目玉」が付いており、侵入者である俺たちの姿を執拗に観察するようにジロジロと見つめていた。某有名RPGに出てくるモンスターのようで、精神衛生上よろしくないことこの上ない。


森の奥へと向かって、一応は人の手で開拓されたような、一本の獣道が奥へと伸びている。だが、それもほんのわずかな隙間が開いている程度で、すぐにでも植物に飲み込まれそうな細い道だった。

入り口に足を踏み入れた途端、それまでペコペコしていたベルリンが、急に鋭い目付きになってピタリと足を止めた。


「ジョニーさん、その魔獣を先に歩かせてくれっス。最深部までの正しい行き先を、あの鼻で匂い嗅ぎつけてもらうっスよ。野生の凶暴な魔獣が横槍を入れてきたら、このワイが残らずおっ飛ばしてやるっスから!」


「おお、頼もしいな。任せた!」


俺が合図を送ると、チワワは短い四肢をフル回転させて、タタタタと猛烈な勢いで走り出した。


挿絵(By みてみん)

二番手に肉体派のベルリン、そして三番手にジョニーという陣形を組み、細い獣道を疾走する。

走る、走る、とにかく走り切る。

それにしても、このチワワ、見た目に反して信じられないほど足が速い。油断すると置いていかれそうになる。


俺たちが駆け抜けるたびに、周囲の目玉の花が「ジロジロ、ジロジロ」と、不快な視線をこちらに投げかけてくる。気色の悪さに鳥肌が立つ。

さらに、前方の茂みから、俺の体躯ほどもある巨大化された黒蟻の軍勢が、ハサミをカチカチと鳴らしながら一斉に飛び掛かってきた。

挿絵(By みてみん)

「邪魔っス!!」


ベルリンが疾走の勢いを殺さず、大きく跳躍して地面を思い切り拳で叩きつけた。

ドガァン!!

凄まじい轟音と共に地面が爆ぜる。彼の手から放たれた目に見えない「波動」が衝撃波となり、下から上へと突き上げるように巨大蟻の群れをまとめて巻き込み、遥か上空へと派手に吹き飛ばした。一撃必殺。武器を持たない武道家だと侮っていたが、やはりギルドの傭兵、その腕力は本物だった。


「ベルリン、最深部はまだか!?」


息を切らせながら俺が叫ぶ。ギルドのお姉さんから仕入れた事前情報によると、迷わずに正しいルートを攻略できれば、走りでおおよそ10分前後の距離らしい。

チワワは一切の迷いなく、道なき道を先陣を切って小さな身体で駆けていく。


だが、目的地が近づくにつれ、周囲の空気が一変した。

肌を刺すような、おぞましい「殺気」がじわりじわりと空間を支配し始める。

ついに来た。この森の支配者、あの悪名高き魔獣《殺戮動物キラーイーター》の襲来だ。


「はっ! ジョニーさん、前進停止っス!《殺戮動物》の群れが来るっス!! 気を付けるっス!」


ベルリンの声と同時に、前方の闇から高速で這い出てきた「ソレ」の姿に、俺は息を呑んだ。

見た目は、地球でいうシベリアンハスキー犬のような端正な姿をしている。しかし、その全身からは禍々しい黒い影のようなオーラが立ち上り、瞳は血のように赤く光っていた。しかも、一匹ではない。十数匹の、完全な集団――軍勢に近い規模で、地響きを立てて咆哮を上げながらこちらに向かって突進してくる。


「ワイの前に出るなっス!」


ベルリンが吼えた。彼はまさに《超人》と呼ばれるにふさわしい、圧倒的な腕力を発揮した。

正面から飛び掛かってきた《殺戮動物》の一体を、なんと生身の両手でガシッとガッチリ掴み取ると、紙切れでも破るかのように、難なく中央から真っ二つに引き千切ったのだ。

ドシャァッ!

どす黒い血液が、飛沫を上げて周囲の草木に激しく飛び散る。あまりにも凄惨で、圧倒的な暴力。ベルリンはそのままの勢いで、次々と襲いかかるハスキー犬型の魔獣を素手で殴り殺し、引き千切っていった。


ベルリンが前線で無双している間にも、賢いチワワは戦闘に巻き込まれないよう、さらに先へと進んでいく。俺も必死でその後を追った。


「おい、待て! ワン公、あまり先に往くな!」


その時、チワワが何か重要なものを見つけたように、ある場所の前で急に立ち止まった。

「ウゥー、ワンッ!」と、ここを掘れと言わんばかりに、前足で地面を激しく引っ掻きながら唸り声を上げる。


俺が息を切らせてその場所にたどり着き、地面を確認すると――そこは、鼻を突く強烈な異臭が漂う「肥溜こえだめ」だった。


「これだ……!」


ミツハが事前に教えてくれていた。作物を育てるための《肥料》の素となる、栄養豊富な特殊な素材が、この迷林の奥には眠っていると。

幸いなことに、手提げ袋の中には丈夫なビニール袋が入っている。俺は腰のホルダーから手持ちのスコップ(小)を抜き出すと、狂ったようにその素材をすくい上げ、袋の中へと次々に詰め込んでいった。これで畑が肥える。これで美味い野菜が作れる――!


しかし。

現実は、どこまでも残酷だった。

この一瞬の歓喜と油断が、ジョニーという男の命運を完全に尽きさせる原因となった。


前線で《殺戮動物》を蹂躙していたベルリンは、あまりの敵の多さに、決定的な違和感に気づいていなかった。

押し寄せるハスキー犬の群れの中に、明らかに異質な「偽物」が混ざっていたのだ。


もし、それが本物の《殺戮動物キラーイーター》の群れであれば、ミツハの言う通り、人間をただ嬲るだけで命までは取らなかっただろう。

だが、その群れに紛れ込んでいた《ホンモノ》じゃない存在――キラーイーターの偽物である、狡猾な魔獣《■■■》の生態は異なっていた。


偽物の魔獣は、目の前で圧倒的な暴力を振るうベルリンを見て、「この強き者には逆立ちしても勝てない」と瞬時に悟った。

ならば、どうするか。

彼らの本能が導き出した答えは一つ。前線の怪物を無視し、背後にいるもっとも「弱きもの」を、一直線に確実に殺害することだった。


「しまっ――!?」


ベルリンが気づいた時には遅かった。偽物の魔獣は、ベルリンの太い股下を素早い身のこなしで潜り抜け、凄まじい速度で俺の背後へと肉薄した。


俺がスコップを握りしめ、肥溜めから顔を上げたその瞬間。

視界の端に、閃光のような漆黒の影が映った。


ガブッ、ザシャァァァァッ!!!


「ぐはっ――あ、■■■■■!?」

挿絵(By みてみん)

背中に、この世のものとは思えない凄まじい衝撃と熱が走った。

偽物の魔獣が持つ、鋼鉄をも容易く切り裂く強靭なかぎ爪が、俺の無防備な背中を深々と、一文字に引き裂いたのだ。


衣服が破れ、皮膚が裂け、肉が爆ぜる。

ボトボトボト、と鈍い音を立てて、俺の腹部から、生温かい未消化の臓物が、溢れ出た真っ赤な大量の血液と共に地面へとこぼれ落ちていく。


「ぁ、え……?」


頭に血が行き届くか届かないか、そんな高尚な医学的思考をする猶予すらなかった。

人間が身体を維持するために絶対に必要な血液のうち、実に3分の1以上の量が、一瞬にして体外へと損なわれたのだ。急速に体温が奪われ、世界が急速にセピア色に染まっていく。


ジョニーは、自分の身に一体何が起こったのか、その真実を正しく理解することさえできぬまま、冷たい異世界の地面にくずおれ、そのまま静かに息絶えていった。


開拓の夢も、夏野菜の収穫も、すべては血の海へと沈んでいく。


(第8話 完)

つづく。


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