第22話 夜空
「良雄が弄ってばかりいたから臍を曲げる代わりにツノを曲げちゃったんだ」
「僕、そんなに弄りまわしていないよ。糞を取り除くときに幼虫の大きさを測っていただけだよ」
「きっとそれがストレスになったのだろう。あとは市販の腐葉土では栄養分が足りていなかったのかもしれないね。自然にはかなわないって事だろう」
「何匹くらいが成虫になるだろう」
僕は父に聞いたわけではない。やはり声に出てしまった独り言だった。
「あと二、三日もすれば生き残った幼虫もみんな、サナギになって地表に出てくるはずさ。十匹も生きていたら良いほうかもしれないね」
父はさりげなく言い残して喪服を着替えるために階下へ降りていった。
五十数匹いた芋虫のうち、二十七匹が成虫になった。そのうちの十五匹が雄で、さらに九匹はツノが曲がっていた。僕にとってツノの曲がったカブト虫は珍種に思えて『僕が作り出した僕だけのカブト虫』になった。
なぜツノが曲がってしまったのかは、きっと腐葉土のせいだと思う。農耕用の腐葉土と、クヌギやコナラの樹から落葉して出来上がった腐葉土では栄養価が違うだろうし、僕が事ある毎に、ほじくり返していた事が芋虫達にとってはストレスだったに違いない。でも二十七匹も成虫になった事に喜びを感じたのは確かだ。僕にとって初めてのチャレンジは大成功だったと思う。
夕食の時間になり家族四人で食卓を囲んでいる時も父は吉田深雪の葬儀の話は一切しなかった。
「もっと大きな飼育箱だったら全部、成虫になっていたかもしれないね」
父が箸を置かずに話を続けた。
「あとはやっぱり市販の腐葉土ではなくて雑木の土を与えていればよかったのかもしれない」
「カブト虫の話をしながらご飯を食べるの、なんか嫌だなぁ」
姉が言った一言に母が追随するのは予想できた。
「大人のカブト虫になったんだから、さっさと雑木林に放してきてね。羽があるんでしょう。飛んでってくれるんでしょう。夜中にブンブンうるさくなって、下の部屋まで羽音が聞こえてくる」
母にはカブト虫の成虫とサナギの区別がつかないようだ。
母の小言を無視しながら父はカブト虫の話に終始して夕食を終えた。僕は姉が待っているであろう部屋には入らずに自室のドアを閉めて、灯りも点けずに開けっ放しにしておいた西の窓に目を向けた。
三芳という街は西に富士山を見て、その上空に今夜も月と金星が輝いている。
階段を音をたてずに父が昇ってくるのが察せられた。父はドアを閉める時も階段を昇り降りする時も無駄な音をたてない。昭和の下町ルールらしい。ドアの取っ手から手を離すことなく開閉させる癖があった。だから僕がいる部屋のドアも静かに開いて父は入ってきたんだ。そして僕の近い未来を話し始めた。
「良雄、高校を卒業したら専門学校へ行く気はあるのか」
唐突な父の言葉だった。僕自身も自分の将来に方向性だけは見つけ出していたので、この時期に就職する決意を伝えるのには良いタイミングだった。
「父さんが言っている専門学校ってリハビリセンターが運営しているあんま、マッサージか鍼灸師学校の事だよね」
「そうだなぁ、あそこだったら通学も安心できるし、同じ目標を持っている学生達も多くいるからなぁ」
「父さん、同じ目標じゃあなくて同じ境遇でしょう。僕と同じハンディキャップを持っているって意味だよね。僕は卒業したらリハビリセンターとは縁を切る。高校を卒業したら就職することに決めた。自立を目指すんだ。たとえ障がい者雇用枠でもいい」
あの当時、昭和の五十年代に入った頃だったと思う。大手企業は障がいを持っている者を積極的に雇用して、人に優しい差別のないイメージを作ろうとしていた。大抵の企業が新入社員の中に一人か二人、軽度の障がい者を雇用し、差別や区別をしない素晴らしい企業と評されるよう努めていた時代である。
僕はこの障がい者雇用枠を利用して、ある一部上場企業への入社を目論んでいた。公務員枠もあるにはある。しかし非常に狭き門だったし、民間の中小企業での雇用もあるのは知っていたが、僕自身の将来設計を考えると安定が必須だと考えていた。
僕は知っている。あと数ヶ月後には完全なる盲人になる。そしていつの日か父、母それに姉に頼ることなく独りで生きていかなければならない。光を失った者であっても晴眼者同様に親の庇護から抜け出さなければならばい。いつの日か僕は天涯孤独の身になるであろう事を充分に予測できていた。
高校生活の三年間で僕の視野は大きく失われていった。
上下左右共にキラキラ光るすりガラスで出来たカーテンの中に、あるはずの風景は消し去られてしまった。しかし、中央部分だけはかろうじて狭窄を免れて、視力も目を細めることで焦点が合う。突然、横から人が飛び出してこなければ充分に生活の質は維持できていた。ただし、球技はまったく出来ない。キャッチボールの球は放られた瞬間から消え去り、次に現れるのは顔前であるから逃げる事も出来ずに怪我を負う事になる。僕の人生に球技なんて必要ないので気にはしない。




