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機生代  作者: ヒノミサキ
9/11

第五章 テューリと姉妹が遺したもの

 24 



 話は数日前に遡る。

 フェムは、不止鳥に乗ったアモが北西の空へ去るのを見届けた後、ヴァイマの首に歩み寄った。

「ヴァイマ……すまない……」

 フェムはテューリと共に、ヴァイマの亡骸を一片残らずかき集め、彼の家の側に葬った。フェムが五百年間苦悶し、そして目覚めた想い出深い家。ヴァイマは大きな罪を犯したが、それでも彼がいなければ、今の二人の幸せはなかったろう。フェムは心の底で、彼への憎しみを僅かに残していたが、それは今日で終わりにすることにした。


 ヴァイマの死後、安息の日々は四百二十年続いた。

 ゴンドワナの人間は内政の充実に努めた。火山活動が縮小傾向になり、痩せる土地と飢える人々の問題は解消されつつあった。不戦・文明派と否定・自然派は相変わらず拮抗しており、文化と自然が入り乱れる混沌とした社会になっていた。

 一方、ローラシアのナークはペット不足の欲求不満が続いていたが、フェムの目の黒いうちはどうすることもできなかった。


 フェムとテューリは九百五十歳を迎えようとしていた。

 フェムたちが湖畔のベンチで日光浴をしていると、二人の少女と一人の少年が訪ねてきた。フェムは彼らがどことなく誰かに似ている気がした。色黒で縮れ毛の少年少女はメイの子孫だった。代を重ねても面影は残っている。もう一人、色白で水色のおかっぱ頭をした少女は、サイモネの娘だった。名はネアといった。

「直接お会いするのは初めてですね、フェムさん。今日は、私が母の仕事を引き継いだことをお知らせに参りました」

 ネアは略帽を脱ぎ、深くお辞儀をした。地味な戦闘服のせいで、首から上が目立ってしまうのは母親譲りだ。

「サイモネは引退か?」

「いえ……姉エカトの居場所を突き止めたので動きを封じてくるといって、隠密行動に入りました」

「な!? 姉だと? では、サイモネは……」

「はい……エカトの実の妹です」

「道理で……」

 フェムは初めてエカトを見たときから初対面の気がしていなかった。顔を変えたのだろう、外見も性格も全く違うが、フェムには二人の繋がりを何となく感じていた。

「まさかサイモネまで祖母の時代の者だったとはな」

 フェムはすぐ脇にいるヒャーボをまじまじと見た。

「俺様も初耳だったぞ?」

「はい。母は成人した頃から人里離れた秘境で暮らしていました。そこで人間を観察しているうちに、共存という考え方が芽生えてきたそうです。アトゥほど積極的な行動はできませんでしたが……。

 協心の解散後、突然姉のエカトがぶらりとやってきて、ジャノンが失敗したハーフ体細胞との融合実験を母に強制しました。当時の母は気が弱く、奔放活発な姉のなすがままでした。母への実験が成功するとエカトは自分の体にも同じ処置を施し、二人は千年というナークの寿命を超えることとなりました。エカトはまたぶらりとどこかへ消え、その後は行方不明、一方、母は密かに人間を観察し続け、自分と同じ考え方を持つナークが出てくるのを辛抱強く待ちました。そして母はヤーペンルーズと出会った」

「は、八千万年も影で待ち続けたってのか?」

 ヒャーボは驚きとも呆れともとれる口調で言った。

「はい」

「俺様の人生とは大違いだな」

「宿主に振り回されっぱなしの派手な人生だったものな」

 フェムは横目でぼそっと言った。

「やかましい!」

「ヤーペンルーズさんと出会った母は、ボルタさんやフェムさんの存在を知り、人間とナークの未来を賭けていよいよ本格的に行動するようになりました。母は彼の右腕として裏舞台の活動の多くを担ってきました」

 ヤーペンルーズの没後はサイモネ自らリーダーとなり、人間とナークの共存を旗印とするイレギュラーナークの組織『マリンブラウ』を結成したことは皆が知っていた。

 マリンブラウのメンバーは人間を狩る従来のナークと区別するため、そして同志の証しとして、誰に言われずとも自分の眉をリーダーであるサイモネと同じマリンブルーに色素調整していた。ネアもそれに漏れず、髪の色とは違ったマリンブルーの眉をしている。

 フェムの威光が人間やナークの暴走を封じ続けている裏では、必ずマリンブラウの活発な軍事活動があった。

「サイモネには何と礼を言えばいいのか……言葉が見つからない」

 サイモネは、テューリを探せるようにと人間解放を代行し、先の大量解放でも船団を提供、そして今の隠居生活を影で支えてくれている。フェムはいつかは恩返しをしようと思っていたが、いつ何をすればいいのか思いつかなかった。

「いいんですよ。母はフェムさんの仕事に関われることに誇りを持っていますから」

「だが、今は……」

「フェムさんは充分すぎるほど戦いました」

「すまない」

「マリンブラウの勢力は着々と増してきています。皆さんは安心してここで暮らしていてください」

 ネアは母親に似た木の香のような笑顔を残して去っていった。


 ネアが言うとおり、その後も人間やナークの大きな動きはなかった。

 フェムたちはその後二十五年間、今までと同じように幸せな時間を過ごした。


 フェムとテューリが九百七十五歳になった頃、たった一つだけ叶わなかった願いが成就した。

 フェムはついに身籠もった。今までの間、何もしていなかったわけではないが、どうしても上手くいかなかった。平穏な生活だったとはいえ、いつ崩れるかもわからない人間とナークの緊張した関係のど真ん中にいたせいかもしれない。

 妊娠したちょうど一年後、フェムは男の子を産んだ。フェムたちはその子をミクーと名付けた。顔は父母どちらにも似ているように見えたが、混血の特性がどの程度表れるのかは全くの未知数だった。もっとも、今の二人にとってはそんなことはどうでもよかったのだが。ミクーが元気に育ってくれればそれでよかった。


 そして……ミクーの一歳の誕生日、運命の日がやってきた。



 25 



 テューリはフェムと共にミクーの誕生日を祝った後、いつものように専用ベッドで眠りに就いたミクーを見届け、笑顔でフェムの方を振り向いた。

 フェムも笑顔を返した。笑顔はすぐに困惑に変わった。

 テューリが突然気を失い、フェムの方にもたれかかったのだ。

「テューリ?」

 返事はなかった。いつものおふざけとは違う。腕や膝に力がなく、首は斜めに傾いていた。本当に意識がなかった。

「おい、しっかりしろ! テューリ? テューリ! テュ……」

 テューリは全ての機能が停止していた。

「フェム……その……これがナークの最期、なんだ……」

 丸イスの上にいるヒャーボが蚊の鳴くような声で言った。

「突然……すぎる……」

 フェムは上半身を使ってテューリを支えたまま、床に座った。テューリの頭は力なくフェムの膝の上に流れた。

 涙は出てこなかった。どうしても現実を受け入れられなかった。つい十秒前まではいつものテューリの笑顔があったのだ。

「何の言葉も……送ってあげられなかった……」

「ああ……」

「テューリは……テューリはまだ九百七十七だぞ? 少なくともあと二十年は、ミクーが一人前になるまでは生きられたはずだ!」

 フェムはヒャーボに向かって怒鳴った。

「こいつ、笑顔作るの上手かったろ? どんなに辛くても、おめぇを心配させないよう、気を遣っていたんだと思うぜ」

 ナークの平均寿命は約千年、テューリはそれより二十三年も早く逝った。フェムと出会って以来、心から安心して過ごせる時間はほとんどなかった。フェムを守ろうと、蓄積されてきたストレスが彼の脳を蝕んでいたのだろう。

「テューリ……私のために……」

 フェムは十日十晩家に籠もり、泣き続けた。

 前日から降り続く霧雨も十日間続いた。

 ネアの部下が異状を察して駆けつけたときは、フェムもヒャーボもミクーも衰弱死寸前だった。


 幸い、三人とも一命を取り留めた。

 一週間後、緊急連絡を受けたネアが駆けつけてきた。部下の尽力により、三人は特に障害を残さず、回復の兆しを見せていた。

 フェムとヒャーボは一緒のベッドで横になっていた。ミクーは専用ベッドの方で眠っている。

「フェムさん……」

 ネアは何か言いたげだったが、言葉を皆飲み込んでしまった。

「すまない……言いたいことはわかっている。私はともかく、未来あるミクーまで死なせてしまうところだった……」

「それほどまでにテューリさんのことを……」

「テューリはよ、人生の半分をフェムの回復に捧げたんだ。おめぇにフェムの気持ちなんてわかるまいよ」

 ようやく口が回るようになったヒャーボは、唾を飛ばしながら興奮していた。

「すみません」

 ネアは一切反論せず、ひたすら頭を下げた。

「命の恩人に無礼だぞ、ヒャーボ。とにかく……本当にありがとう」

「い、いえ……あ、そういえば、テューリさんの服の中から遺書が出てきたんです」

「そうか……」

 フェムはテューリの遺書をネアから受け取った。フェムは両足の指を使って封を開け、取り出した中身を読んだ。

「テューリ……おまえがそう望むのなら、断るわけにはいかないな」

 手紙を読み終えたフェムはネアに一つの依頼をした。

 ネアは止まることのない涙を何度も拭きながら、その準備を進めていった。


 一ヶ月後。

 フェムは湖畔のベンチに座り、ヒャーボとネアを交え談笑していた。話題はもっぱら、今フェムの全身を覆っている砂色のクロークのことだった。

「必要ないとか言ってたくせによ」

 ヒャーボは散々フェムを冷やかした。

 クロークはテューリが生前、フェムの腕を隠すために作ったものだ。普段は隠すつもりがなく、砂漠を渡るときに二度着ただけだった。

 フェムは鏡のような湖面に映る自分の姿を見ていた。フェムは少しずつだがテューリの死を受け入れ始めていた。

「まぁまぁ、いいじゃないですか。形見なんですし」

 ネアはうれしそうな顔で言った。

 そのとき、ネアの全身が突然、動きを止めた。まるで一人だけ時間が止まったかのように、微動だにしない。

「ど、どうした?」

 フェムは緊張した。脳裏にテューリの最期がよぎる。

「緊急通信が入りました。少々お待ちください」

 ネアはナークネットとは独立した『マリンネット』に繋ぎ、部下から送られてきた情報を受け取っていた。

 フェムは胸をなで下ろした。よく考えたら、ネアはまだ四十三歳の若者なのだ。

 通信を切ったネアは愕然としていた。

「ナークの大軍五百万が……パンゲアに押し寄せています」

「パンゲアって言やあ、マリンブラウの本拠地じゃねぇか」とヒャーボ。

「大きな組織を作らないナークがそれだけの兵を統率できるとは思えんが」

 フェムは落ち着いていた。五百万といっても所詮は烏合の衆だろう。精鋭マリンブラウの敵ではない。

「エカトです」

「何!」

「彼女がナークたちを狂わせたんです。ナークネットを通じて」

「マリンブラウの軍勢は?」

「およそ十二万です」

「四十対一か……守りに徹しても数日も保たないじゃないか」

「戦力の九割を『青の鉄壁』に敷けば、二週間くらいは……」

 ネアは俯いた。

 青の鉄壁とは、天然の要害であるパンゲアの唯一の弱点、狂飢海の激しい海流から外れた沿岸ルートからの侵入を防ぐためにマリンブラウが築いた青い防壁のことだ。高さは二百メートル、幅は東西に二千キロあるが、ナークの人海戦術にどこまで持ちこたえられるかは全くの未知数だ。

「エカトの狙いは何だ」

「おそらく……いや、間違いなく、マリンブラウのリーダー……です」

「サイモネか……」

 ネアはサイモネの仕事を引き継いだが、『代行』という肩書きは外していない。

「エカトの居場所を突き止めたとか言ってなかったか?」ヒャーボが言った。

「はい。母はエカトの暗殺を何度か試みたらしいのですが失敗しました。二人の内心はわかりませんが……ともかくエカト軍の急襲を知った母は……急いでパンゲアの本部へ……向かったそうです」

 ネアは絶望的な状況を想像したのか、最後には残り汁を絞り出すような声になっていた。

「行くぞ」

 フェムはネアにそう言い、一人山の方へ歩き出した。

「え?」

 フェムが振り向くと、ネアはベンチに座ったまま半開きの口で固まっている。

「何をしている。サイモネを助けに行く」

「で、でもフェムさんはもう戦わないのでは……」

「幸せは充分に味わった。何もかもおまえたちのおかげだ。今度は私の番だ」

 フェムはクロークを靡かせながら山へ走った。

 ネアは泣きながらヒャーボを背負い、フェムに続いた。



 26 



「どうした! 左翼狙撃! 集中力を欠いているぞ!」

 サイモネは物見櫓の上から檄を飛ばした。

 サイモネは僅かな直属兵と共にパンゲアシティーの要塞に立てこもっていた。マリンネットは戦争の混乱でほとんど機能しなかった。長い間隠密行動を取っていたため、ネアとはしばらく連絡がついていない。

 エカト軍は予想を覆し、山岳ルートから兵を送り込んできた。沿岸ルートから侵入してきた大船団は全てダミーだった。狭く険しい山路を越えてきた影響で敵の出足は鈍い。といってもあの数だ。青の鉄壁に戦力の大半を裂いてしまったマリンブラウは窮地に追い込まれた。

(エカト……テューリ君が欲しいという理由だけで……世界中に迷惑かけて……)

 サイモネにはエカトの真意がわかっていた。本当に狙っているのは自分の命ではない。


 二十五年前、エカトはナークネットを通じ、サイモネに話しかけてきた。姉の方からコンタクトを取ってきたのは八千万年前、あの忌まわしい実験のとき以来だ。

 エカトは『媚毒(びどく)』という名のウィルスでローラシアのナークを掌握すると宣言した。理由は聞くまでもない。フェムを倒しテューリをものにする、それだけだ。サイモネは試作ウィルスの完成度の高さに戦慄を覚えた。ほとんどのナークがエカトの下僕になってしまったとしたら、共存どころの話ではない。この話をフェムに打ち明ければよかったのだろうが、幸せの上り坂にいるフェムの手を煩わせたくはなかった。言語道断な実姉の不始末を見逃すわけにはいかなかった。サイモネはエカトの暗殺を企てた。サイモネは二十五年間、エカトを追い続けたが、あと一歩の所で全て逃げられてしまった。

 逃げ切ったエカトはナークネットに媚毒をばらまき、ローラシアのほとんど全てのナークを自分のものにした。次に何が起きるかは容易に想像できた。まずは、自分への報復。そして、フェムの打倒。

(私がエカトに()られるのはいい。ただ……)

 二つ、大きな懸念があった。一つはマリンブラウを巻き込みたくないということ。だが、エカトはサイモネの性格を見抜いていた。サイモネは部下たちのピンチを見ていられず、まんまとマリンブラウ本部に帰ってきてしまった。もう一つはフェムとテューリが援護に来るかもしれないということ。いくらフェムが強いとはいっても、あの数に囲まれたらひとたまりもない。そうなるとエカトにとっては一石二鳥だ。


「ゴフッ! ケホッ!」

 サイモネは掌に吐血した。山吹色の血が床にしたたる。

(エカト……あなたの研究はいつも詰めが甘いの。私たちの命はもう長くはないわ)

「要塞の防壁が突破されました!」

 部下の絶叫と共にナークの大軍がなだれ込んできた。それでなくても少ない戦力を分断された今、圧倒的な物量戦の前に自軍の全滅を待つしかなかった。

「かくなる上は!」

 サイモネは望遠薄膜を左目にはめ、エカトの姿を探した。

 いた! 最前線の六百メートル後方。仮設の舞台の上に立ち、裸同然の姿で踊っている。まるで子供のようにはしゃいでいる。エカトの踊りを見た敵の士気がどんどん上がっている。

 サイモネは薄膜を外し、物見櫓から飛び降りた。最後の最後で運が回ってきた。エカトが後陣でじっくり戦況を見守っていたら何もかも終わっていた。

 集中している。何もかも見える。サイモネは、大量発生したネズミのごとく押し寄せるナークが放つ拳の嵐を全て交わし、舞台へ走った。

(お願い、私の体……最後まで保って)

 サイモネは何度となく吐血した。その度にナークの手が体の至る所を掠める。サイモネはメイの子孫にもらった自動小銃でこれを蹴散らした。ナークの脅威が減ったせいか、人間の技術はそれほど進歩していなかった。銃は弾を撃ち尽くす前に壊れた。

 あと百メートル。エカトがこちらに気づいた。彼女が右手を挙げるとなぜかナークたちは列になって道を空けはじめた。罠か……。たとえ串刺しにされても炎に焼かれても、エカトだけは倒さなければならない。

(倒せなくても……伝えなければならない。あなたの残りの命数を)

 罠はなかった。直接手に掛けたいということか。その甘さが命取りになるのだ。最後のチャンス、逃しはしない。

「あら、随分やつれたのねぇ。サイモネちゃん」

 裸同然だったエカトはいつの間にか真っ赤な戦闘用スーツを着ていた。体に密着し動きやすく、しかも衝撃吸収性能が高い素材。見た目より機能重視のタイプだ。やる気は満々ということか。

「変な呼び方しないで、エカト」

「いいじゃないの、最期くらい」

 エカトの流し目は嘲りの波長に満ちていた。

「エカト、あなたに伝えたいことがあるの」

「その前に、あたしを見て訊きたいことがあるんじゃないの?」

「え? どういう意味……」

「ったく最後まで鈍くさいコね。面倒だわ」

 エカトはブラブラと左手を振った。

 側近のナークたちがサイモネを取り押さえようと迫ってきた。

 サイモネは必死に抵抗したが三人倒すのがやっとだった。背後のナークに羽交い締めにされ、両足にも数人まとわりつき、まったく動けなくなった。

「出来の悪い妹のためにもう一度だけ訊いたげるわ。あたしを見て何も気づかない?」

 エカトは様々なセクシーポーズを披露した。周囲のナークたちの鼻息が荒くなる。

「あ……」

 そうだ。エカトは自分と同じ症状を持っているはずなのに、咳一つしていない。それに、あの成長期のような肌の張りと艶は何だ。

「融合細胞の劣化。百年も前に解明したわ」

「そ、そんな……」

「こんなバカな妹と血が繋がってるなんて。あたしの唯一の汚点よ」

 エカトは腰に差していたダイヤモンドナイフを抜き、ゆっくりとサイモネに近寄った。

「ゴホ、ゲフッ……」

 サイモネは再び吐血した。

「苦しそうね。あなたは保ってあと一ヶ月ってところかしら?」

「私が憎いのなら、今すぐ殺せば?」

 サイモネはあえてエカトを挑発した。

「んもう、わかってるくせに」

 エカトは目を細め、悩ましげな表情を見せた。

「やはり……そうなのね……」

 エカトはフェムとテューリが来るのを待っている。

「それともう一つあるわ」

 エカトはサイモネの左耳をナイフで少しずつ切り落としていった。

「ヒッ!? ギャアァァァ!」

「あなたが……嫌いだからよ」

 エカトはサイモネの右耳にもナイフを当てた。

「人間とナークの共存ですって? 誰の発想かしら、反吐が出るわ。マリンブラウは全員皆殺しよ」エカトは首を捻り舞台の下で待機するナークに向かって続けた。「いい、降伏を許す者なんかいたら味方でも八つ裂きにしていいわ!」

 舞台下で歓声が上がった。

 サイモネは絶望のあまり、舌をかみ切ろうとした。長年、ナークの事故や事件などを観察していて、人間と同じ弱点があることは判っている。

「ちょっと、あたしの楽しみを奪わないでよ」

 エカトはサイモネの顎をつかみ、数々の宝石で青光りする鞘を舌の上に突っ込んだ。

「ムグッ!? グムウゥゥゥ!」

 サイモネは必死に首を左右に振った。エカトのナイフがサイモネの右乳首を服ごとえぐり取ろうとしていた。ナイフが動く寸前、エカトの手が止まった。周囲のナークがざわついている。

「エカト!」

 遠くの方から女の声がした。

 エカトは振り向いた。

 クロークで身を包んだフェムが既に舞台に立っていた。舞台の後方を囲んでいた数十人のナークは音もなく倒されていた。

「来たわね。思ったより早く願いが叶いそうだわ」

「何だと?」

「全てはあなたが悪いのよ」

「言っている意味が解らないな」

「私は永遠の命を得て狂喜したけど、本当は退屈だった。どんな男も私を満足させてはくれなかった。どいつもこいつもいつの時代になっても、似たようなことを言い、似たようなことをする、似たような男ばかり。死ぬより辛い退屈だった。千年くらい前までは。そして、出会ったのよ。運命の人に。私はその人のためなら彼の寿命と共に土に還ってもいいと思ってた。そしたら、そしたら……あんたが出てきて彼を奪ったのよ!」

 エカトはサイモネから離れ、ナイフの先でフェムを指した。

「テューリのことを言ってるんだな?」

「あんたさえいなければ……」

「愚か者め」

「な、なんですって!?」

「愚か者だと言ってる。おまえはテューリの気持ちを何一つ考えていない」

「彼はあたしのことを知らないだけ。あたしの方がいいに決まってるわ!」

「話にならんな」

 フェムは子供を相手にするような目つきでため息をついた。

「クッ!」エカトは眉間に皺を寄せ、ナイフを握る手に力を込めたが、すぐにいつもの顔に戻った。「フ、フフ……まぁいいわ。簡単なことよ。あなたを殺してテューリをあたしのものにするの。実験に使ったハーフ体の冷凍細胞はまだあるわ。それを使って、永遠に二人だけで暮らすの」

「おまえの壊れた妄想はもういい。さっさとかかってこい」

「あなたの足技、ヒストリカルクラウドで全て研究させてもらたったわ」

 エカトはインファイター(接近戦が得意な格闘家)のような前傾の構えを見せた。

「そうか……それならおまえにも塵ほどの勝機はあるかもな」

「フフ、あなたはそのくらだない自己過信のせいで敗れるのよ!」

 エカトは三十メートル以上あった間合いを僅か一歩で詰める。

「フン、延命処置の副作用ってところか」

 フェムはエカトの一打目に少し驚いた素振りを見せただけだった。エカトのナイフ混じりの左右のコンビネーションを難なくかわしていく。

「男も時間も全て私のものよ」

 エカトは数十もの(フェイント)だらけのフェムのミドルキックを、いとも簡単に見切った。

「あたしには二度と当たらないわ。あなたの脚にはクセがあるの」

 エカトは右手のナイフを突き出す。

 フェムはそれを左脚ではねのけ、宙に残った足先で顔面を狙う。

 そこにエカトの顔面はなかった。

「しまった!」

 足技で空振りし、その場で一回転したフェムに隙ができた。

「死ね!」

 エカトは懐に隠していた短銃でフェムの心臓を狙い撃つ。

 パン! 乾いた銃声。

 エカトの顔が狂喜に歪む。

「フフ……ウフフゥ……テューリィィ……」

 次の瞬間、エカトの銃が地面に落ちた。

 エカトは右手を押さえ、苦痛の表情を見せながらも、何が起きたのかわからないといった様子だ。エカトはフェムのはだけたクロークの中身を見て愕然とした。

 フェムは右手の中に握っていた銃弾をエカトに見せ、地面に落とした。左小指の付け根が血で滲んでいる。

「う、腕が……クォーターはそこまで再生しないはずよ……」

「義手ではこんな反応速度は不可能、か?」

「当たり前よ。何よそれは! 誰の手よ!」

「わからないか?」

「あ……」

 エカトは両手を口に当てて絶句した。

「テューリは死んだ。少し早いが寿命でな。ついこの間のことだ。私はテューリの遺言でこの腕をもらい受けた」

「あ、あああ、あああああ……」

 エカトは半狂乱になり、銃を自分のこめかみに向けた。

「テューリは……テューリはあなたのものに……なってしまった……永遠に……」

「お、おい、よせ! よ……」

 パン!

 フェムの制止の手は間に合わなかった。

 エカトは俯せに倒れ、動かなくなった。

 たった一発の銃弾。エカトはためらいもなく、八千万年の生涯を閉じた。

 女王を失ったナークの大軍はいきなり潰走を始めた。だが、追っ手はいなかった。

 息を切らす女の声が近づいてきた。ネアだ。

 ネアは号泣しながらサイモネにまとわりつくナークを追い払った。

「マリンブラウ軍はどうなった?」

 フェムは血だらけになったサイモネを抱きしめた後、ネアに尋ねた。

「全滅……しました」

 ほどなくサイモネは気を失った。



 27 



 フェムたちはマリンブラウ本部があるパンゲアシティーへ立ち寄った。要塞も本部も無惨に壊れていた。エカトの名を口にしながら、よろける足で去っていくナークたちの列が幾つもあった。

「結局、生き残ったのはサイモネ親子だけか」

 フェムは要塞の残骸を何度か掘り起こしてみたが、どの死体も息がなかった。辺りに気配はない。

「私たちはリーダーとしての責任を果たせませんでした」

 ネアがここに駆けつけたときには、すでにエカトは亡く、戦争は終わっていた。ネアは親子共々生き残ったことをひどく恥じていた。

「責任を果たすのはこれからよ」

 フェムの背中でヒャーボが言った。

「え?」

「そういうことだ」

 フェムは、気を失ったサイモネを背負うネアの肩に手をやった。

「……はい」

 ネアはうなずいた。

 解ってくれたようだ。亡くなったマリンブラウの者たちのためにも、人間とナークの関係改善に努めなければならない。

「これからどうする?」ヒャーボは言った。

「ゴンドワナへ行こう」

「ゴンドワナ?」

 ネアが心配顔になった。

「ローラシアのナークはすでにエカトの教徒と化している。エカトが死んでも元に戻る様子はない。今までの私の威光も連中には通用しない。とすれば、ひとまず人間と協力してナークに対抗するしかなさそうだ」

「いいんですか? ゴンドワナへ行けばフェムさんは……」

「わかっている。私は皇位につく。今はそれしか道はない」

 ゴンドワナは現在、思想の多様化で団結力を欠いており、絶対的な指導者を求める声が少なくなかった。その中でもフェム待望論は群を抜いて支持者が多いという。

「こいつらはどうすんだよ」とヒャーボ。

 マリンブラウの最後の生き残り、サイモネとネアは人間が嫌うナークだった。

 ネアは寂しそうに俯いた。

「ネア、おまえは私の側近になってくれ。今度は誰にも文句は言わせん」

「で、でも……」

 ネアはちらと自分の背中を見た。

「サイモネの余生は私が責任を持って確保する」

「ありがとうございます」

 ネアは安心したのか、ほっと軽く息をついた。

「さてと……」

 フェムは背中のヒャーボを降ろし、フロントポケットに手を突っ込んで口を広げた。内部には屋根裏部屋ほどの広さの異空間がある。色も形も混沌としていてどこまでが現実なのかわからないが、その説明をヒャーボにさせると百年はかかるし、知りたいとも思わない。ともかく、中で眠るミクーの血色がいいので安心した。


 フェムたちは不止鳥に乗るため、パンゲア南部の高山へ足を向けた。山麓で登山道を探している時、なぜか一羽の不止鳥が空から舞い降りてきた。不止鳥は高い空以外は滅多に通らないはずなのだが……。

 不止鳥の首元に色黒で大柄な少年が一人乗っていた。少年はメイの子孫でアルマー・ティンキーと名乗った。不止鳥は彼が手なずけたらしい。アルマーはフェムたちをゴンドワナへ送るという。フェムは自然に手を加える人間に怒りを覚えたが、今日は堪えた。サイモネのことを考えると、一刻も早く安住の地へ連れて行きたかった。

 フェムたちは不止鳥に乗り、ゴンドワナへ向かった。


 フェムたちは、すぐにはゴンドワナに入らなかった。フェムは北の地境に近い東ペルミー南麓の森でサイモネやネアと共に静かに暮らした。サイモネは三ヶ月の余命だったが、人生で一番幸せな三ヶ月だったと言い残し、永遠の眠りに就いた。

 フェムはその地でサイモネを手厚く葬った後、ネアとアルマーを連れ、ゴンドワナの都テラシティーへ向かった。


 フェムたちが降り立ったのは、政治機能が集まるカインパークという広大なエリアのど真ん中だった。巨大な噴水の向こうに官庁関係の建物が連なっているのが見える。

「皆がフェム様のご帰還を心待ちにしておりました」

 アルマーは不止鳥に空で待機するよう指示した後、フェムたちを国会議事堂へ案内した。

「私は四百年以上も隠れていたんだがな」

「はい。フェム様のご存命は我らティンキー一族の間で代々伝えてきました。フェム様がこの地を去った後、我々人間はどうにかゴンドワナ地方を治めてきましたが、何しろ人の数だけ思想があります。今は十五国による連邦体制をかろうじて維持しています」

「ナークのようには上手くいかない、か……」

 フェムは隣を歩くネアをちらと見た。

 ネアは目が合うと下を向いた。

「近頃は国家間の小競り合いが続き、国力が下がる一方で皆頭を悩めています。そこで、復活を果たしたフェム様にこの国を統一していただきたいのです」

「私の言うことなど、誰も聞かぬかもしれない」

「何をおっしゃいます。大陸の真ん中で人間とナークの激突を抑えて続けてきたフェム様の人気は絶大です」

「あれはマリンブラウの活躍があってこそだ」

「承知しています。ですが、ゴンドワナ地方では……その……存在しなかったことになっていまして……」

 アルマーは俯いた。

「どうあってもナークは受け入れられないのですか?」

 ネアが口を開いた。

「はい……何しろ積もり積もった憎悪を歴史の教育に盛り込んでいますから、飼われた経験のない子供たちまでナークを悪と決めつけている傾向が強いです」

「あなたはどう思っているんですか?」

「私や、ティンキー一族、また我らに深く関わった一部の人間は、マリンブラウと連携を計ってきましたから、ナークにもいろいろあることは理解しているつもりです」

「そうですか……」

 ネアは少しだけ表情を緩めた。彼女が完全に孤立することはなさそうだ。

「だが今は、残念ながら悪と言うしかあるまい」

 フェムは階段の前で立ち止まった。無地の半袖シャツにハーフパンツという格好の政府高官たちが石の階段の両端に一列ずつ、ずらりと立ち並んでいる。灼熱の時代の中ではこれでも充分正装だ。階段の上には横長で木造二階建ての議事堂がある。大きさから見て議席数は百に満たない感じだ。

「はい。諜報員の報告によれば、今やイレギュラーを除いたほとんどのナークがエカトの媚毒に侵されているとのこと。養殖人間はなかなか数が増えず、ローラシアの多くのナークが極度の欲求不満に陥っています」

「三千万のエカトが襲ってくる日もそう遠くはあるまいな」

 フェムは大統領を始めとする高官たちと握手を交わした。フェムがネアを紹介すると、高官たちは顔を曇らせた。フェムは彼らにマリンブラウの活躍を語り、ネアを受け入れなければこの地を去ると脅しをかけると、高官たちは渋々ネアに握手を求めた。

 フェムたちは議事堂内部を見学した後、控え室に入り、人払いした。

「安心しろ、ネア。おまえの活躍を見ていればそのうち彼らの顔色も変わる。だが、出過ぎた真似は控えろ。人間は嫉妬深い」

「はい……フェム様」

「その呼び方、人前だけにしてくれ。背中が痒くなる」

「俺様は何もしてないぜ?」

 フェムの背中のヒャーボが口を挟んだ。

「誰もおまえのせいだとは言ってないだろう」

「なーんか引っかかるんだよなー」

「被害妄想だ」

 しばらく二人のくだらない口論は続いた。

「ウフフ……」

 ネアは緊張が解けたのか、顔がほころんでいた。

 数時間後にこの国の女王になる人の会話とはとても思えなかった、とネアは翌日語った。



 28 



 フェムが女王に即位した翌年、恐れていたことが現実となった。

 ナークの軍勢、実に一千五百万。全人口の約半数がゴンドワナ地方へ侵攻を開始した。ナーク軍は砂漠隊と海兵隊の二手に分かれ、東西からゴンドワナを襲った。砂漠隊は力押しの正面突破だったが、海兵隊はローラシア港から地球の四分の三を占める大海、西半球洋と東半球洋を船で渡り、万憂尋からの上陸となった。

 小国家の統合が進んでいなかったゴンドワナは対応が遅れ、次々と防御網を突破されていった。フォトングレネード(ナークの俊敏性を考慮した手投げの高エネルギー弾)などの中量破壊兵器も、ナークの圧倒的な機動力の前に思ったほどの戦果を得られなかった。ナークは武器も兵糧も必要としないため、本陣から離れていても絶え間なく攻撃を仕掛けてきた。夜戦は戦いにならないほど悲惨な状況だった。ナークの夜目は人間を圧倒した。

 五百万いた人間側の戦力は、たった三日で百万を切った。


 フェムは東部方面軍の最前線で戦っていた。

 フェムは戦闘が始まったと知った直後、王宮を抜け出し戦地へ急行した。ネアもこれに続いた。ナークの海兵隊は人間たちの狙撃を巧みに避けつつ、万憂尋を駆け上がってきた。フェムとネアはクリテイシャス大平原でこれを待ち伏せ、攪乱した。ナークたちはフェムの姿を見ても全く動じず、かつてのように混乱することは無かった。媚毒に侵されたナークはもう以前のナークではない。それでも、人間軍は東部方面に限っては互角以上の戦いを見せた。だが、それも虚しく、砂漠方面の守りが予想より早く壊滅してしまった。ナークはテラシティーになだれ込み、政府及び軍事機関を占拠。人間側はあえなく降伏した。

 フェムは敵陣のまっただ中でこれを知った。敗戦を知った東部戦線の人間もほどなく降伏し、人間とナークの二大勢力の時代は終わりを告げた。捕らえられた人間たちは全てペット取引の場に引きずり出され、やがて方々へ売られていったという。

 アルマーはフェムと共に敵陣で戦っていた。ついさっき、部下が人間敗北の報を伝えてきた。

「人間の時代は終わった」

 アルマーは、鉄色で野球ボールのような形のフォトングレネードを両手に持って森を抜け出し、ナークが集まるテントへ突っ込んでいった。

 フェムはこれを高木の上で見ていた。アルマーが森から出るとすかさず飛び降り、彼の前に立ちはだかった。

「行かせてください!」

 アルマーは何度も左右に足を向けフェムをかわそうとしたが、フェムは全てこれを遮った。

「百人や二百人のナークを葬ったところで何になる」

「人間は皆捕まりました。もう助ける術はありません。敵は全部で三千万、こっちは僅かな敗残兵とサワラ島に籠もった不戦派の五千人だけだ」

「本当にそう思うか。本当に助ける術はないか?」

「ありません。人間は……負けたんです」

「なら行くがいい」

「えっ?」

「私はサワラ島へ行く」

「な……逃げるんですか!」

 アルマーは驚きの表情を見せた後、軽蔑の眼差しでフェムを凝視した。

「そういう意味で言ったのではない」

「あなたならどんなに追い込まれようと、一人になろうと、その超人的な力で逆境を乗り越えられる。今、命を賭ければ少なくとも千人は救えるはずです。あなたは自分の命が惜しいんだ!」

「僅かな捕虜を救うために玉砕するのも一つの生き方だ。だが、私はどんなに恥をかこうと、何年かかろうと生き抜いて、少しでも光の差す道を探したい」

「あ、あなたは、そうやって長く生きられるからそんなことが言えるんです!」

 アルマーは顔を真っ赤にしてフェムを指差し、怒鳴った。

「そうだな……そうかもしれん……」

 フェムは視線を落とした。それに対しては、言い返す言葉はない。

「あ……」アルマーは手を下ろし、頭を垂れた。「すみません。言い過ぎました。フェム様の長年の苦労と悲しみは何度も長老に聞かされていたのに……」

「諦めることはいつでもできる。だが、おまえはまだ若い。もう少しだけ、足掻いてみないか?」

「フェム様……」

 フェムはアルマーの顔を自分の胸に引き寄せた。

 アルマーは母にすがる子供のように泣きじゃくっていた。

 

 フェムはアルマーと別の場所に潜んでいたネアを連れ、ナークの勢力下から脱出した。

 脱出の途中、フェムはナークの軍勢の中に見覚えのある顔を見つけた。

(まさか、そんな……あの娘は人間のはずだが……)

 じっくり観察している暇は無かった。女王フェムを捕らえようとするナークたちが迫っていた。

 一行はクリテイシャス大平原から無事撤退し、東ペルミー山脈東麓の沼地に出た。アルマーは口笛で不止鳥を呼び、一行は一路サワラ島へ向かった。

 

 不止鳥の羽毛部屋に入るや否や、ヒャーボが文句を垂れた。

「たまにはしゃべらせてくれよな」

「おまえには大事な役目があるだろう?」

 フェムは指先でヒャーボのフロントポケットをつついた。中ではミクーが眠っている。

「俺様はベビーシッターじゃねぇ!」

「じゃあ、父親になるか?」

「ええっ!?」

「なんだその嫌そうな口は」

「べ、別に嫌なわけじゃ……」

 ヒャーボの口脇が赤くなった。

「冗談だ。サワラ島へ着いたらあとは私が全部やる。今まで、ありがとう。本当に感謝してる」

 フェムはヒャーボを抱き、背中にキスした。

 ヒャーボはヤカンのように口から蒸気を吐いた。

「お、おい! ミクーを蒸し殺すつもりか!」

「ら、らいじょうぶ。みふー(ミクー)べふ()の部屋らから……」

 フェムはヒャーボの大口とフロントポケットがそれぞれ別々の異世界とつながっていることを、この時初めて知った。どういう構造なのかはあえて訊くまい。

「あ、あの……お取り込み中のところ、申し訳ないんですが……」

 部屋の外で景色を眺めていたネアが深刻な表情で中に入ってきた。

 フェムはヒャーボを壁際に置き、ネアと向かい合って座った。

 ネアはバーガッソー越えについての懸念を語った。

 無論、フェムもそれを忘れていたわけではない。

「おまえはサイモネの素質を受け継いでいないのだろう?」

 ネアの母サイモネはエカトと同じ素質を持っていたが、それは後天的な操作に由来している。

「はい……私の体は普通のナークと何も変わりません」

「おまえが不在のとき、サイモネから預かっていたものがあるんだ」

 フェムはヒャーボのフロントポケットに手を突っ込み、黄色がかった透明色のリングを取り出した。

「こ、これは?」

「サイモネが自分の細胞を使い、未来のナークのために研究し続けてきたものらしい。バーガッソーでの保護に特化しているナノマシンだ」

 フェムはリングをネアに手渡した。

 ネアはリングを右手の小指にはめた。リングは一分ほどで皮膚組織と融合し、やがて体の中に消えていった。

「お母さん……ありがとう……ありがとう……」

 フェムはネアの頭を膝の上に寄せ、気が済むまで泣かせた。しばらくしてネアはそのまま眠ってしまった。

「疲れていたんですね……」

 気を遣ったのか、しばらく部屋に入ってこなかったアルマーが戻ってきた。

「おまえだってそうだろう。辛いだろうが、今は休め。時が来たら必ずおまえの力が必要になる。その時のためにも……いいな?」

「はい……その気になったら、いつでも呼んでください」


 一行を乗せた不止鳥は無事、サワラ島に着陸した。

 二人浜周辺の住民は騒然となっていた。見たこともない巨大な鳥が突如として現れたのだ、無理もない。ここは不止鳥の正規の飛行ルートではない。住民の大半は島から一度も出たことがなく、大陸の情報に疎かった。中にはナークが引導を渡しにきたのだと嘆く者もいた。

 フェムが不止鳥の青い羽毛の中から顔を覗かせると、住民の間に安堵のざわつきが広がった。後にはネアとアルマーが続く。ネアを見た住民たちは渋い顔をした。ネアの水色の髪はどうしてもナークであることを強調してしまう。フェムは敢えて目を引くよう、大袈裟な態度でネアとの親しさをアピールした。

 二人浜に付近の住民がぞろぞろ集まってきた。千人に達しようかという頃、仮設演台に上がったフェムは敗戦を報告した。敗戦はしたが、東部戦線はネアの尽力で驚異的な粘りを見せたことを最後に付け加えた。住民たちのひそひそ話が続いた。村長らしき初老の女性が群衆の一歩前に出、ネアだけは特別に居住を認めると言った。フェムが丁寧に礼を言うと、村長は極度に恐縮した様子のまま失神してしまった。フェムは、自分には既に女王の資格はないと王冠の類を返そうとしたが、そのままでいいと誰もが首を振った。フェムは仕方なく装飾品をヒャーボの口中へ戻し、島民たちを連れて石碑が立つ生家の跡地へ歩いた。フェムは石碑を蹴り壊し、ここでまた暮らすことを宣言した。また、自然をむやみに破壊する一切の活動を禁じた。アルマーの不止鳥は彼の鳥とその血縁に限り飼育を認めることにした。ここ一番での機動力はどうしても必要だった。不止鳥は非常に従順で、アルマーが呼べばすぐに飛んできた。


「ただいま、お母さん」

 フェムは石碑が除かれ何もなくなった砂地に呼びかけた。島民たちはそれぞれの仕事場や家に戻り、二人浜はフェムたちしかいない。

 フェムはネアやアルマーと共に、以前家族で暮らしていた小屋より少しだけ大きな家を建てることにした。フェムは力仕事はせず、指示だけを出した。まだ二歳にも満たないミクーを放っておくわけにはいかない。ミクーはその大きな瞳で、徐々にできあがっていく家を毎日興味深げに眺めていた。

「うん? どうした? そんなに面白いか?」

 フェムの言葉にミクーは何度も家を指差し、歓喜の声を発した。

 フェムはミクーの横に座った。瞳から一筋の涙がこぼれた。

「テューリ……ここでおまえと一緒に、この子を育てたかった……」

「いででで! 引っ張るなこらぁ!」フェムの背中でヒャーボが悶えた。「何とかしてくれよ、こいつ、俺様を枕かぬいぐるみと勘違いしてやがる」

 フェムは涙をぬぐった。

「いいぞミクー。もっとやってやれ」

「煽るなぁ! こんの、凶暴親子め……ひてててて!」

 フェムはヒャーボをミクーに譲り、立ち上がった。

「わかってる……私は独りじゃない。そうだろ? テューリ」

 フェムは浅黒い両腕を白い頬で交互にさすった。


 フェム、ヒャーボ、ミクー、そしてネアは完成した小さな家で共同生活を始めた。アルマーは不止鳥と共にサワラ島北部の小高い山の頂で暮らした。

 フェムはこの地で大逆転の秘策を練り、いつか必ず捕虜たちを取り戻そうと考えていた。ナークとの対決は避けられないだろう。それは仕方ない。ただ、一つだけ気になることがあった。

 脱出時にナーク軍の中で見かけた女。その女が属していた部隊はネアが最も苦戦した連中だったという。その部隊に足止めを食らわなければ東部戦線は間違いなく勝っていた。

 あれは確かに……ヴァイマを殺した養殖人間の少女だった……。

「ばかな……四百年以上も前の話だぞ」

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