第四章 アモ
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テューリが襲われる三ヶ月ほど前。ローラシアシティーのある一軒家。
「ご主人様、もうお昼ですよ? 起きてください」
アモはリビングのソファで眠る男の肩を揺すった。アモは平凡な独身ナークの平凡なペットだったが、主人の意向で高級言語をすでにマスターしていた。
アモは十二歳。主人の趣味で今は裸にエプロン姿だ。
「ご主人……様?」
男は目を覚まそうとはしなかった。こんなことは初めてだった。このままでは一度も『ご奉仕』をできずに正午を迎えてえてしまう。アモは必死に男の頭や肩や膝を揺すった。
アモは空腹に堪えながらも主人を起こし続けた。気が付けば夕方になっていた。
「どうしちゃったのかな?」
アモは仕方なくキッチンへ向かった。自分でペットフードの箱を開け、親指大の茶色の固形物を頬張った。甘いやら辛いやら様々な混じっていて美味いのかどうかもよくわからなかったが、愛する主人に与えられたエサなので喜んで食べていた。
結局その日、男が起きることはなかった。次の日もその次の日も動かないままだった。アモは欲求不満に陥ったが、勝手にご奉仕することは禁じられていたので、仕方なく同じことを繰り返した。
一週間後、近所の住民が数人、勝手にずかずかと家に入ってきた。「死体を運べ」「ペットはどこだ?」などという声が聞こえた。アモはクローゼットの中で縮こまり、震えていた。アモはナークたちの会話から、主人に寿命が来ていたことを知った。生まれて初めて死というものを知った。
クローゼットから出てきたアモは途方に暮れた。絶対的な人生の目的を失ったアモは、しばらくの間食べて寝ることしかできなかった。やがてエサが底をつき、アモはいよいよ茫然自失となった。何をしていいのかわからないアモは、主人が使っていたベッドに寝そべった。しばらくゴロゴロしていたが、ふと、昔のことを思い出した。滅多に使わない頭を使ったアモはすぐに疲れてしまい、いつの間にか眠りに落ちていた。
小さかった頃、アモは母親クローナと主人と三人で暮らしていた。
クローナはまだ少女の頃、第一次人間放出事件(フェムらが人間たちをブイ島に乗せてゴンドワナに送った事件)のせいで前主人に逃げられ、一人で住宅街をうろついていたところを今の主人が捕まえたのだった。主人はタダでペットが手に入ったと手放しで喜んだという。クローナは飛び抜けた可愛らしさはなかったが、高級言語をマスターした賢いペットだった。
やがてクローナは成人し、主人は子供のペットを欲しがるようになった。だが、子供のペットは非常に高価だった。そこで主人は人間養殖場に出向き、適当な人間の男を選んでクローナに交尾をさせ、子供を産ませた。この方が直接子供を買ってくるより遙かに安上がりだった。クローナが産んだのは女の子だった。主人はその子をアモと名付けた。
アモが物心ついた頃、主人が用事で出かけ、クローナと二人きりになったときはよく話をした。クローナは前主人に捨てられるきっかけを作ったフェムという女が憎い、としきりに語っていた。アモは初め何のことかわからなかったが、年を重ねた後、人間から飼い主を奪う魔女だということを理解するようになった。
アモが成長するにつれて、主人の目はクローナから離れていくようになった。アモが七歳の時、経済状態が悪かった主人はクローナを養殖場に売った。クローナはまだ二十八歳だった。主人は、クローナは醜いからいい値段がつかなかったと腹を立てていた。アモはクローナがいなくなってひどく悲しんだが、ペットが主人の好みにそぐわなくなったとき、売られたり捨てられたりするのは当然のことと教えられていたので、仕方なくそれを受け入れた。アモはクローナがその後どうなったのか主人に何度も尋ねたが、彼は何も教えてくれなかった。
その後のある日、アモはいつもと違う味のするペットフードを与えられた。アモは今まで以上に主人を溺愛するようになった。その一方、何か大事なことを忘れてしまった気がしたが、それが何だったのか結局わからずじまいだった。
「……ナ、クローナ……お母さん」
アモは目が覚めた。窓の外は朝焼けだった。
とっくに忘れたはずの名前が苦もなく出てきた。アモはクローナのことをもっと深く思い出そうとしたが、夢の記憶はあまりにも儚かった。
ある一つのことだけがアモの頭の隅に強く残った。
クローナはフェムという名の女を心の底から憎んでいた。フェムは飼い主から人間を奪う魔女だ。クローナは前主人にもっと尽くしたかったはずなのに、今では養殖場で家畜のように無差別に交尾させられ、死ぬまで新たな養殖人間を生産し続けなければならないのだ。
アモは今すぐクローナを探し出し、抱きしめたかった。だが、それは叶わないことだった。人間はナークの所有物だ。ナークに牙を剥こうなどとは、天地がひっくり返っても思わない。
主人を失ったアモは、なぜか新たな主人に飼われたいという欲求が起こらなかった。変な味のするエサを食べたあの日以来、あまりにも深く主人と繋がってしまったせいかもしれない。今のアモには人生の目的が一つしかなかった。
魔女フェムを倒し、母の恨みを晴らすこと。他には何もなかった。
その日、アモは十二年暮らした家を出た。
アモは玄関を出てすぐに立ち止まった。外に出たのはいいものの、どこへ向かえばいいのかわからなかった。外の世界は一ヶ月前、主人と共に散歩した時以来だ。目が痛い。暑さには慣れていたが、肌を焦がす強烈な日差しだけはどうしても抵抗があった。アモは首を何度も横に振った。こんなことくらいで泣き言を言っていたら何も始まらない。ともかく、アモは歩み出した。フェムがいるような気がする方角へ。
アモは近所を流れていた大河伝いに東へ歩いた。これで少なくとも水は確保できる。問題はエサだった。ペットフードはそう簡単には手に入らない。空き巣を狙うか他人が散歩中にこぼしたものを拾い食いするかだ。常に空腹だったアモはその辺に生えている木の実や草や動きの鈍い虫などを口に入れた。味は薄すぎてよくわからなかった。味覚を無視した安価なペットフードに慣れてしまっていたせいだろう。
家を出てから数日間、何度かナークの視線を感じたが、彼らに捕まることはなかった。彼らは皆自分のペットに夢中だった。
川沿いは多くが散歩コースだった。アモは障害物が少ないときは不自然にならないよう主人を待つフリをしたが、大抵は木陰や物陰を選んで彼らを観察しながら進んだ。ペットたちの視線は半ば虚ろだった。
アモは心の中で呟いた。
(あのコたちもあの変な味のするエサを食べているのかな?)
そうにしろそうでないにしろ、主人の寵愛を受けているペットは幸せそうだった。アモはときどき指をくわえながらじゃれ合いを眺めていた。やがて彼らがどこかへ行ってしまうと妙に寂しくなった。我に返ったアモは目的を思い出し、再び歩き始めた。ペット同士がすれ違うと四回に三回は男が女にちょっかいを出す。ナークたちは必死になって首輪のひもを引っ張ったり、拘束具に電流を流したりしていた。
家を出てから一ヶ月経った。算数も多少は学んだので、日没の回数で日数と距離の概算をした。月の満ち欠けについてはよくわからなかったが、家を出て以来二度目の満月を見ていることだけは理解していた。対岸が霞んで見えるほどあった川幅はずいぶんと狭くなり、ナークが石を投げれば届きそうな程になっていた。ナークの会話に聞き耳を立てていたアモは、ここがローラシア地境までの中間地点であることを知った。残りはあと半分もある。だが、アモは不思議と苦痛を感じなかった。今日と違う明日が常にやってくる。家で主人に飼われていたときはこんなことはなかった。退屈とまでは言わないが、どこか物足りなさを感じたときもあった。アモは足取りが軽くなった。今の状態に当てはまる適当な単語を探したが、見つからなかった。アモは後にこれが『自由』であることを知る。
更に一ヶ月歩いた。上流に行くほど人口密度は減っていき、要領も良くなったアモはナークに見つかることはもうなかった。見落としそうなほど粗末な案内板と共に地境を越え、アモはシルレアン山脈の南麓に入った。フェムの気配はやはり東にあり、山には登らずそのまま山麓伝いに歩いた。しばらく行くと、アモは見たこともない大きな鳥が草地でもがいているのを見つけた。その青い怪鳥は羽根に深い傷を負っていた。アモはおそるおそる近づいた。怪鳥はアモを凝視したが、遠ざけようとはしなかった。
ここでアモは鳥の名を思い出した。主人が見せてくれた立体図鑑に載っていた。
「あ……これって不止鳥っていうんだっけ?」
アモは不止鳥の傷ついた羽根に近づき、患部を観察した。
「このくらいなら治るかもしれないよ」
アモはここに来るまでの間、何度も転び、流血していた。適当に巻き付けた草が傷を癒し、それが薬草であることを学んだ。アモは薬草を探したが、大河の流域に生えていたものはなかった。それでも似たような形をした草が幾つかあった。アモは何度もその草の臭いを嗅ぎ、汁の色を確かめ、自分の傷に付けてみた。効果があった。おそらくこの草は流域にあったやつと同じ種類のものだとアモは思った。
推測は当たった。アモはそれから二週間ずっと不止鳥の側を離れず、大量の薬草を運んできては傷に当てていった。不止鳥の傷はみるみるうちに消えていった。その間、空模様は安定していたがとにかく風が強く、アモは草を抱えたまま何度も地面を転がった。不止鳥はなぜか大口を開けっ放しにして風を受け入れていた。それが何を意味するのかアモにはわからなかった。
不止鳥は完全に回復した。にもかかわらず、鳥は空へ舞おうとはしなかった。まだどこか悪いのだろうかとアモが近づいたとき、不止鳥はその大きく細長いくちばしでアモの襟首をくわえ、自分の背中に放り投げた。アモは羽毛部屋の屋根を突き破り、頭から床に突っ込んだ。床を埋めている水色の羽根は柔らかく、怪我はしなかった。アモが床から頭を引き抜き一息ついたとき、突如として、浮遊感に襲われた。アモは慌てて羽毛部屋から飛び出した。すでに雲の上だった。
「お、降ろしてよ……わ、私、行かなければ……」
アモはあまりの高さに腰が抜けていた。不止鳥は低い鳴き声と共に首を震わせた。笑われているような気がした。
何も指示していないにもかかわらず、不止鳥はアモの望む方角へ飛んでいた。
「考えてることがわかるのかな?」
アモがそう言うと、不止鳥は短く鳴いた。アモは自分が気配を感じている魔女の下へ連れて行って欲しいと強く願った。
翌日、アモが羽毛部屋から顔を覗かせていると、分厚い雲の隙間から大山脈と大砂漠に挟まれた青と緑のスポットが見えてきた。深い森に囲まれた小さな湖が見える。アモは目をこらした。湖畔に丸太造りの家が二軒、並んで建っている。
「見つけた、フェム!」
不止鳥は急降下を始めた。何層もの雲を抜け、湖畔へ近づいた。幸い地上付近は霧がちだ。これほど大きな図体でも、誰にも見つからずに下りることができる。
不止鳥は滑空しつつ高度を下げた。家の周りに人影はなかった。気配だけでは大雑把な位置しかつかめないが、フェムは少なくとも湖の近くにはいる。微かに風が吹き、一瞬霧が晴れた。アモは対岸の畔で誰かが寝転がっているのを見つけた。
(フェムかもしれない)
不止鳥は即座に旋回し、対岸へ向かった。
(気配が大きくなってきた。間違いない)
アモは羽毛部屋から飛び出し、不止鳥の首元に立った。
不止鳥は霧が濃い水面すれすれを飛びながら人影に迫っていった。
ここでアモは躊躇った。
(フェムはナークの誰もが恐れる魔女。ひ弱な人間ごとき自分に一体何ができるんだろう)
アモは今までフェムのことばかり考えていて、自分のことは棚に上げていた。
不止鳥が短く鳴いた。
「そうか!」アモは手を打った。「お願い、あいつを殺って!」
不止鳥は寝転がっている影に向かって直進した。
「フェム、覚悟!」
影はアモの大声に驚きの声を上げ、飛び起きた。身構える暇はもうない。
風で霧が晴れ、視界が開けた。
「テューリ君! 伏せろ!」
木々の隙間から緑髪の男が突然現れ、標的を突き飛ばした。テューリと呼ばれた男は俯せに転んだ。
「あ……」
アモは思わず両手で口を覆った。違っていた。フェムじゃなかった。フェムに仲間がいることまではクローナは話していなかった。
不止鳥はテューリを庇った緑髪の男を鋭い嘴で上空に突き飛ばし、落ちてきたところをくわえ、湖畔に強行着陸した。
「ヴァイマさん!」
テューリは不止鳥の嘴の方へ駆け寄った。
「違う……違うの! だめぇぇぇっ!」
アモは不止鳥に強く命令した。
間に合わなかった。
不止鳥の一咬みでヴァイマの体はバラバラに砕けた。
ヴァイマの絶叫。首から上がテューリの足下に転がる。
「そんな……そんなことって……」
テューリは両膝をつき、頭を抱えた。
「い、いつかはこうなるだろうと思っていたよ。当然の報いさ……」
ヴァイマの首は力無く笑った。
「ヴァイマさん……」
「全ての災いの始まりは……Q会が……私がボルタを大陸に導いてしまったことにある」
「確かに……あなたは昔、過ちを犯しました。でも、あなたの協力がなければ、ナークを抑えることも、大量の人間解放も、今の隠居生活もなかったんです」
「ありが……とう」ヴァイマの目は虚ろになった。「テューリ君……フェムを守ってやってくれ。彼女が生き続ける限り……希望は決して……消え……ない……」
ヴァイマは瞳を閉じた。
テューリは四つん這いのままうな垂れ、しばらく固まっていた。
「ごめん……なさい」
アモは涙が止まらなくなった。
報復はなかった。
「純粋養殖の子が、なぜ、こんな辺境に……」
テューリは当惑の表情でアモを見つめるだけだった。
「何事だ」
湖の水面に淡紫色の頭が浮かび上がった。
「フェム……ヴァイマさんが……」
テューリは立ち上がり、フェムと呼んだ女の方へ振り向いた。
ヴァイマの悲惨な亡骸を見た女は、しばらく言葉が無かった。
(フェム……あれが、フェムか。お母さんの幸せを奪った魔女)
アモの涙はぴたりと止まった。
「おまえがフェムか」
フェムはすぐには応えなかった。テューリ同様、戸惑っている様子だ。
「ローラシアの人間だな? Q会と接点があるとは思えないが……ヴァイマに恨みでもあったのか?」
アモはちぎれそうな勢いで首を何度も横に振った。
「僕を狙ったんだよね?」テューリは言った。
「そうか……」
フェムは湖から上がった。
アモはフェムを指差し、叫んだ。
「違う! おまえだ!」
淡紫の髪と瞳を持つ両腕がない女。クローナが言っていた通りの姿だった。アモは全身を濡らした水着の女がフェムだと確信した。
フェムは波打ち際で立ち止まり、静かに言った。
「一応、理由を聞かせてもらおうか」
「覚えてる? おまえがローラシアで最初に大量解放したときのこと」
「もちろんだ」
「あのとき、ご主人様に逃げられ、おまえに突っかかってきた女の子がいたはずだよ」
「……いたな」
フェムは苦痛の表情を見せた。何かを振り払うように何度か頭を振った。
「私はそのときの女の子……クローナの娘、アモよ」
「そうか……」
「お母さんは、まだ若かったのにタダ同然で養殖場に売られてしまった。もっともっとご主人様に尽くしたかったはずなのに……」
アモは再び涙が止まらなくなり、言葉が一度詰まった。
「おまえがお母さんの前のご主人様を脅したりしなかったら……若くて裕福なナーク様にもっと長く飼ってもらえたかもしれないのに」
アモは少しずつだが、遮断されていた記憶を取り戻しつつあった。
「だが、歳を取ればやはり二人とも捨てられるのだろう?」
「それでもいい。幸せの時間は短くても、私はご主人様のペットでいたい」
「養殖人間は皆同じようなことを考えているのか?」
「そうよ。おまえは私たちの敵。おまえが死ねば全ての人間は幸せになれる」
「全てだと? 少なくともゴンドワナの人間は違……」
「あんなのはもう人間じゃないの! ナークに飼われるのが正しい人間の姿なのよ!」
「なんてことだ……」フェムは深くため息をついた。「同じ姿をしていても養殖人間はもう全く別の生き物になってしまったのだな」
「彼女たちがナークを望む以上、真の共存共栄はもう不可能なのかもしれない」
テューリはそう言って、さりげなくフェムと不止鳥の間に入ろうとした。
不止鳥が低く唸り、テューリを威嚇する。
アモはフェムを指差す。
不止鳥の口先がフェムの方へ向く。
「やめておけ……無益な殺生はしたくない」
「うるさい! お母さんの……正しき人間たちの恨み!」
アモを乗せた不止鳥は、翼をたたんだままフェムに突進した。
フェムは不止鳥の嘴をひらりとかわし、たった一歩でアモとの間合いをゼロに詰めた。
「ひあっ!?」
アモは石のように固まった。気づくと、フェムの足先が左胸を貫く寸前だった。
「不止鳥よ、これでもまだやるか?」
フェムは首を捻り、不止鳥の頭部に話しかけた。
不止鳥は喉がつかえたような鳴き声を上げ、上空へ舞い上がった。
フェムはそれに合わせて地上に飛び降りていった。
不止鳥はアモを乗せたまま、ひたすら北西へ飛んだ。
22
ローラシアの北東、シルレアン山脈上空。
アモは不止鳥の羽毛部屋の中で泣いていた。フェムを倒せなかった。母の恨みを晴らすことができなかった。しばらく、それ以外のことは考えられなかった。
突如、耳が痛くなった。気圧の変化が激しい。アモは思わず部屋の外に出た。不止鳥は背の低い山々に向かって降下を始めていた。
やがて不止鳥は草だらけの高原の端に降り立った。僅かに開いた大嘴の中に小さなアモを器用に乗せ、地面に降ろした。
アモは何も指示を出していなかった。不安に陥ったアモは不止鳥に声をかけた。
「いきなりどうしたの?」
不止鳥は小さく鳴いた後、空を見上げた。
アモは視線の先を追った。不止鳥がもう一羽いる! 不止鳥たちは互いを呼び合っているように見えた。空を舞っている方は、羽毛部屋のコブがなかった。どちらが雄か雌かはわからなかったが、どちらにせよこれ以上一緒にいてはいけない気がした。
「ごめんね……今までありがとう」
アモは不止鳥に別れを告げた。
不止鳥は名残惜しそうに辺りを何度も旋回した後、もう一羽が待つ方へ飛び去っていった。
アモは二羽の不止鳥が雲の中へ消えるまで見つめていた。
「また、一人になっちゃった……」
アモは力のない足取りで草深い坂を下りていった。途中から土の道があることに気づいた。それを辿っていくと、今までに見たこともない派手な色の屋敷が見えてきた。
「お城?」
アモは城がどういうものか詳しくは知らなかったが、立体図鑑で一度だけ見たことがあった。屋敷は中世の古城によく似ていた。頭が痛くなるような鮮やかな赤とピンクで壁という壁が塗り込められていることを除いては。
屋敷の門は閉まっていた。中に人がいる様子はない。
(どうしよう? ここのナーク様に飼ってもらおうかな……)
自力ではフェムを倒せないと理解したアモは、ナークの力を借りてでも目的を成就したいと思っていた。
「人間がこんなところで何してるのよ」
突然、背後から女の声がした。
「ひあっ!?」
アモはひどく驚き、振り向きながら尻餅をついた。深紅の長い髪をした女が立っている。見た目ですぐにわかる。
(この人、ナークだ)
「あら、可愛い。でも、メスには興味ないわ」
女は「どきなさい」と言ってアモを蹴り飛ばし、ピンク色の宝石が散りばめられた豪華な門に手を触れた。身長の三倍はある大きな門は独りでにせり上がっていった。女は敷地の中に入り、門はすぐに閉じられた。
アモはうな垂れた。男のナークならまだ可能性があったのだが、同性を好んで飼うナークは少ない。アモは蹴られて青くなった肩を押さえながら、立ち上がり、山を下りようとした。
「うーん、男がだめなら女って手もあるわよねぇ」
門の向こうで手を叩く音が聞こえた。直後、門が勢いよくせり上がった。
「入りなさい。飼ってあげるわ。ただし、あたしの実験につき合うという条件付きよ」
アモは快諾した。フェムに復讐できるのなら、この際どうなってもいい。
女の名はエカトといった。そして、アモの悲劇が始まった。
屋敷の地下実験室に通されたアモは思わず両手で口を塞いだ。目を閉じた男の全裸が円柱形の壁に沿って二十人ばかり並んでいる。アモはそれが人間ではないとすぐにわかった。
「あ、これね。Pナークの失敗作よ」
エカトは一番手前の男の頬をさすった。
「パーフェクト……ナーク?」
「そう。今の不完全なナークを徹底的に作り直すの。ナノマシンさえコントロールできれば無からでも作れる……と思ったんだけど、どうしても上手くいかないのよねぇ」
ボディの方は問題なく完成したがなぜか魂だけは宿らない、とエカトは首を傾げていた。
「なぜ、男の人ばかりなんですか?」
「んふーん。それくらい、わかるでしょ?」
エカトは男の体を順になめまわしていった。
アモは何となく理解した。
「でも、好みにこだわっていたら奴は倒せないわね」
「奴?」
「あなたは知らなくてもいいの。さぁ、始めるわよ」
エカトはアモの身体データを細かく分析し、女のPナークをたった一個のナノマシンから順に組み上げていった。完成したPナークはアモと瓜二つ、というよりアモの完璧なコピーだった。エカトはアモの服を脱がし、瞳を閉じたPナークと向かい合うように立たせた。目鼻立ちも髪の長さも乳房の形も骨格も爪の伸び具合さえも、何もかもが今のアモと同じだった。たった一つ足りないのはやはり、魂の存在だった。
「どうしてなの……ナークはAIプログラムで動く分子機械の集合体のはずなのに、なぜ魂の存在が必要なのよ……魂って一体何?」
エカトは魂という名の捉え所のない存在を本気で信じていないようだった。
アモは形を持たない存在の知識には疎かった。魂という言葉の意味すらよくわからなかった。
エカトは怒りに任せコピー体をはり倒した。コピー体は操り人形よりもみじめな倒れ方をした。
「や、やめてください……」
アモは器でしかない自分のコピーを抱き寄せた。
エカトはしきりに二人を見比べ、一人唸っていた。
「アモ、こっちへ来なさい」
「嫌です。またこの子を傷つけるつもりでしょ?」
「むしろ逆ね」
「え?」
「アモ……あなたの魂が欲しいの」
魂が一体何でできているのか、結局エカトにも解らないようだった。そこでエカトは、アモの意識や精神活動に関わる何もかもをPナークの器へ移植するようプログラムした。
アモは逆らうことができなかった。小さな抵抗はできても、主従の原則を破ることは許されない。ペットとしての本能がそのように囁くのだ。この肉体ではもういられないとわかったとき、アモは深く悲しんだ。愛する母クローナに生んでもらったこの体はもうただの肉の塊になってしまうのだ。ただ、それとは逆に、多少の期待はあった。Pナークは今までのナークより遙かに強靱な体と柔軟な頭脳を持ち、命も無限だとエカトは言っていた。それならフェムに対抗できるかもしれない。体は失っても、フェムを倒せばきっとクローナは許してくれるはず。アモは自分の魂を心からエカトに捧げることにした。
その日の深夜、エカトはアモとコピー体の脳をリンクさせる実験に入った。二人のアモは液状ナノマシンで満たされた透明色の水槽に全身浸かった。アモはエカトの指示通りコピー体の舌に自分のを絡ませた。あとはアモの体内に入り込んだナノマシンたちがプログラムに従いコピー体の方へコピーするだけだ。
実験はつつがなく終わった。Pナークのアモが目を覚まし、自分で水槽から這い出た。人間の方は抜け殻になった。
23
新しい体になったアモは自分の手足を不思議そうに見つめていた。やがて、水槽に浸っている自分と同じ姿の少女に気づき、同じように見つめた。
「やったわ!」エカトは小躍りした。「も、もしかして、あたしってナークの創造者を超えてしまった?」
「あなた誰?」
アモはエカトを指差した。
「は?」
「私は……誰?」
アモは自分の顔を指差した。
「新しい脳に慣れてないせいで記憶が混乱してるのかしら? あなたの名前はアモよ」
「ア……モ」
「あたしはエカト。あなたのマスターよ」
「私はアモ。だけどエカトは……知らない」
「な、なんてことなの!」
エカトは頭を抱えた。
エカトはめげずに簡単な質問を幾つか浴びせる。
アモは基本的な知識と自分の名前しか答えられない。
エカトはブツブツと独り言を言い始めた。
「自分が人間だったことも忘れるなんて……これじゃ主従の関係が保てないじゃないのよ」
エカトは自分がアモのマスターであることを必死の形相で力説した。
「いい? あなたはあたしのペット。あたしの命令は絶対よ」
「あ……う……あ、はい」
アモは何か腑に落ちないような顔をしていたが、エカトのあまりに決めつけた言い方に負け、ひとまず従うようになった。
「じゃあ、最初の命令。あの抜け殻を焼却炉で焼いてきて」
エカトは水槽に浸かっている人間時代のアモを指差した。
「は、はい」
アモは水槽に近づき、昔の体を両手で軽々と持ち上げた。
(私の体、何て軽いんだろう……)
アモは頻りに周囲を見回す。実験室にはエカトしかいない。アモはエカトを凝視した。
「な、なによ。焼いてきてって言ったでしょ? ほら、早く!」
アモはぎこちなくうなずき、液が滴る抜け殻を別室に運んだ。
そこには家一軒ほどの大きさがある大型の焼却炉があった。身長の倍はある丸窓の中では失敗作のPナークの死体が燃えている最中だった。
アモの後についてきたエカトがレバーを引き、丸窓が少しずつ開いていった。
アモの顔が歪む。
エカトは「臭いからさっさと入れなさい」と急かした。
アモは抜け殻を焼却炉に放り込んだ。
(さようなら、私)
手を放した後、アモは苦い顔で胸の辺りを抑えた。
炎に包まれ、徐々に黒く焼け焦げていく少女の体。アモはそれをじっと見つめていた。
エカトは丸窓を閉めるよう何度もアモに命令したが、アモはしばらくそこに立ち尽くしたままだった。
抜け殻を処分した二人は実験室に戻った。
アモは無表情で壁際に立っている。
エカトは机に向かい、一人ほくそ笑んでいた。
「ウフフ……このPナークを量産すれば、テューリ君はあたしのもの。フェムを探し出すのも殺すのも訳ないわ」
エカトはゴンドワナ付近で消息を絶ったフェムとテューリを探し続けていた。
エカトの妄想は長くは続かなかった。
翌日、アモが脱走した。屋敷内に拘束しておくための仕掛けは全て外されていた。プログラムによる制限も、鋼鉄の障壁も、隠しトラップも、何もかも。
アモはエカトが設定した以上の能力を発揮してしまったのだ。
エカトは「有り得ないわ」を連呼しながら、実験室に戻ってきた。部屋の隅に落ちている紙切れに目が行き、それを拾う。
私はナーク、人間ではない。だから、あなたには従えない。
エカトはPナークの開発を封印し、別の研究に取りかかった。
エカトはウエットスーツ似の白衣を着た後、一人で体をくねらせながら抱擁の真似事をしていた。
「テューリ……あたしのテューリ……」




