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機生代  作者: ヒノミサキ
7/11

第三章 エカトと養殖人間

 15 



 フェムたちはデボニア大砂漠へ急行し、人間とナークの激突をすんでの所で食い止めた。

 ナークの軍勢はフェムの調停に無条件で応じ、あっさりとローラシアへ引き返して行った。ナークたちは口々にこう漏らしていた。「魔女フェムが復活した……」と。フェム無敵説を信じていた者は意外に多かった。

 実は、魔女伝説をナークネット上にまき散らしたのはヴァイマの仕業だった。人間狩りへの抑止力としてでっち上げたものだっが、ここまで効くとは彼も思っていなかったという。


 フェムたちは、人間解放軍参謀メイ・ティンキーの案内で、人間の新しい都テラシティー(旧ゴンドワナシティー)へ向かっていた。

 ゴンドワナの郊外からテラシティー入る少し前、軍幹部の動きが慌ただしくなった。幹部らはフェムに近づき、原色が乱れ散るド派手なクロークを着せ、目が痛くなるような金銀色の飾り付けで覆われたスピーメルに一人乗るよう促した。ヒャーボを背負ったテューリには、コンテナのような形の駱駝車用客車へ入るよう指示した。客車といっても鉄格子付きの小さな窓が一つあるだけ。まるで移動独房だ。

「何の真似だ」

 フェムは駱駝上からメイを睨みつけた。

「マザー・テラの御皇女の帰還、当然のことでありましょう」

 メイは遠く、フェムの帰還に沸くテラシティーの街に向けて手を差し出した。

「御皇女だと? 母はともかく、私には関係のないことだ。それに、テューリはなぜあの中なのだ」

 フェムは客車に目を向けた。

「あの男はナークです。ここでは大人しくしていただきます」

「ふざけるな! おまえを襲ったナークの致命打を止めたのは誰だ!」

「それは……」メイは一度下を向いたが、すぐに続けた。「ですが、ここには人間しかいません。彼はきっと理解のない者共にナークへの恨みをぶつけられることでしょう」

「フン! 私はテューリが隣にいなければどこへも行かないからな。私はテューリと共にある。テューリを恨むのなら私をも恨むことになる。そうなれば私は徹底的におまえたちと戦う」

「フェム様……我々を困らせないでください」

「黙れ!」

 フェムはスピーメルから飛び降り、客車の丈夫な鉄扉を強烈な蹴りで突き潰した。車内で佇むテューリとヒャーボが見える。

「ったく、いくつになっても乱暴な奴だ。話し合うってことを知らねぇ」ヒャーボは言った。

「話はついた」

 フェムは潰れた鉄扉を後方へ蹴り上げた。落下点にいた数人の兵士たちが奇声を上げながら逃げまどう。

 テューリは苦笑いしながらヒャーボを背負い、客車の外へ出た。

 フェムたちは一頭のスピーメルに二人乗りし、海岸がある南の方へこれを走らせた。

「ああっ、フェム様ぁ、待ってくださいよぉー」

 メイの情けない叫び声が遠ざかっていった。



 16 



 フェムたちはゴンドワナ港の埠頭でスピーメルを降りた。二人は岸壁に立ち、港を見渡した。広い湾の中に幾つもの桟橋が突き出ている。港としては規模が大きいようだが、なぜか船が一隻もない。

「すでに手が回っていたようだな」フェムは言った。

「何としてもお姫様に持ち上げたいってよ」

 テューリの背中でヒャーボが言った。

 フェムが背負うと、どうしても肩からずり落ちてしまうので、テューリが代わりを務めている。

「まぁ、なんとかなるさ」

 テューリはフェムの肩を抱いた。

「なんか鬱陶しいのが一人追ってきたぜ?」

 ヒャーボの声に、二人は振り向いた。

 暴れるスピーメルに翻弄され、横っ腹から滑り落ちる縮れ毛の女。メイだった。

「ハァハァ……こ、こうなることは判っていたはずですよ。どうするつもりだったんですか?」

 メイは息も絶え絶え、ふらつきながら近寄ってきた。

「船がないなら泳いで行けばいい」

 フェムは海に向かって言い放った。

「その腕で、ですか?」

「てめぇ!」ヒャーボが叫んだ。

「あ……も、申し訳ありません!」

 メイはその場で何度も土下座した。

「そんなことは気にしていない。頭を上げろ、メイ」

 フェムは胸元のひもを口で引っ張った。パレード用クロークは肩から背中そして足下へずり落ち、半袖姿になった。

 メイはフェムから目を逸らした。それを恥じたのか、すぐに視線を直す。それまでのお堅い感じや豹変後の温さとも違う、引き締まった表情だ。

「フェム様、少々遠いですが、あちらへ船を用意してあります」

 メイは湾岸の右手に長く突き出た半島を指差した。

「どういう風の吹き回しだ。私を海上で監禁するつもりか?」

「そんなつもりは毛頭ありません。サワラ島までお送りします」

「軍を裏切るのか?」

 メイはそれに答えず、ただフェムの目をじっと見つめた。

「いいだろう」


 埠頭を離れ、半島の根元に出ると、そこからはひたすら山道だった。半島は平地が全くなく、低いながらも険しい山々が連なっていた。鬱蒼とした草をかき分け、獣道にも劣る狭苦しい間道をしばらく行くと、迷彩色のマンホールがあった。蓋を開け、縦穴を降りるとそこは地下道になっていた。地下道は緩くうねった下り坂で、絶えず潮風を感じた。波の音が聞こえてきたかと思うと、薄暗い空間に出た。目の前に小型船、遠くに潰れた楕円形の小さな青空、空間を包む岩壁は不自然なくらい整ったドーム状をなしている。そこはメイの秘密基地だった。

 船を見たヒャーボが開口一番。

「人間にしちゃ随分と立派な船だな」

「自然エネルギー変換システム付きか……あ、この船、サイモネさんの仕業だね?」

 テューリは一目で見抜いた。彼曰く、設計に無駄が多すぎる、と。

「は、はい……」メイは俯いたが、すぐに顔を上げた。「実は以前、彼女から私の下へ一通の手紙が送られてきました。私は手紙を読み半信半疑で指定の地点、つまりこの洞窟に足を向けました。すると、このナークの船があったんです。私は罠に違いないと思い、初めは全く信用していませんでしたが、部下の調査によれば怪しい仕掛けはないとのこと。この技術をものにすれば、将来ナークを倒すための切り札になる思った私は、穏健派の目を避けるため、船や洞窟の整備を秘密裏に続けていました」

「そこまでやっておきながら、なぜ心変わりした」

 フェムはメイを睨んだ。

「私はテラ様の著作を読み、人間の屈辱の歴史を知りました。テラ様の教えは理解していたものの、私はどうしてもナークが許せなかった……。でも、私の人生は砂漠でのあの日、一度終わったんです。帰還の途中、拾っていただいた命をどう使おうか悩みました。私は……生涯フェム様だけに従うことにしました」

「さっきのは芝居だったってのか?」とヒャーボ。

「は、はい……好機が来るまで軍部に悟られないようにと」

 ヒャーボの下手くそな口笛が鳴る。

「私のことはいい。自分の命は自分のために使え」

「は、はい……」メイは少し考える素振りを見せ、続けた。「その……フェム様にお仕えすることが、自分のためになると思った、というのではだめでしょうか?」

「本気で言ってるのか?」

 フェムはメイの二つの瞳を見つめた。

「はい」

 メイは目を逸らさず言った。

「そうか……では、案内を頼む」

 フェムはテューリに目配せした。

 テューリはフェムの代わりに手を差し伸べた。

「ありがとうございます!」

 メイはテューリの手を両手で握りしめ、何度も上下させた。

「サイモネさん、そこまで見抜いてたんだろうか?」テューリが呟いた。

「何か言いました?」

「い、いや、何でもないんだ」

 テューリは引きつった笑顔を見せた。

「あの……無礼なことばかり言って……ほんとにすみませんでした」

 メイは何度も頭を下げた。

「実はフェムの凶暴な性格も計算の内だったんだろ? いやはや天晴れな役者だぜ」ヒャーボは高笑いした。

「人聞きの悪いことを言うな」

 フェムは横目でヒャーボを睨みつけた。

「実際暴走したクセに」

「あの鉄板のようになりたいか?」

 フェムは何度も足の素振りをしてみせた。膝下をしならせ、ヒュッヒュッと高い風切り音を出す。

「くぬっ……」

 ヒャーボはへの字に口をつぐんだ。

「まぁまぁ二人とも。暴れるならサワラ島へ行ってからにしよう」

 テューリはいつものように朗らかに微笑んだ。

「煽ってどうするんですかっ!」

 メイはフェムとヒャーボの間に割って入った。

「ひとまず勝負はお預けだ」とフェム。

「最初から勝負にならんだろうが!」とヒャーボ。

 二人の口論は船に乗るまで続いた。

 

一行を乗せた船は海上の警戒網を迂回しながら、グランタ海(ゴンドワナ周辺の海の名)を難なく南下していった。メイが参謀という立場上、陸海軍の動きを完全に把握していたおかげだ。途中、運悪くグランタが出没し、メイが腰を抜かしたが、フェムの一睨みでグランタは去っていった。

「さ、さすがに本物は違いますねぇ」メイはデッキの縁にしがみつきながら立ち上がった。「我々もフェム様が授けてくれた『紫光の海神球』の恩恵を預かっていますが、稀に興奮したグランタに襲われるんですよ」

 紫光の海神球とは、フェムが人間解放を引き継ぐサイモネに渡した左目のことだ。解放が一段落したとき、サイモネは人間たちを通じてテラに預けたのだった。その目玉は防腐処理が施してあり、フェムの知らぬ間に人間たちの至宝となっていた。

「二つはやらんぞ」

 フェムは顔を右に背け、右目をぎゅっと瞑った。

 メイはどういう反応(リアクション)をしていいのかわからない、といった顔をしている。

 グランタの襲来がなくなり、フェムたちはキャビンに入った。メイは操縦席に、他はすぐ側のソファに並んで座った。

「ともかくサワラ島へ急ぎましょう。島に入ってしまえば解放軍は手も足も出ません」

「どういうことだ」

「サワラ島は不戦派しかいないんです。解放軍は否定派の組織ですから」

「そうだ! 忘れていた。テューリ、私から離れるなよ」

「おのろけも大概にしとけ」とヒャーボ。

「そうじゃない。バーガッソーだ。ナークは単独ではバーガッソーを越えられない」

「ってことは……まずいな、俺様もフェムもクォーターじゃねぇか」

「クォーターじゃまずいのか?」

「おめぇ、ヴァイマの話聞いてたんじゃなかったのかよ」

「聞いてはいたが、全部覚えているわけじゃない」

「ナークをバーガッソーの悪夢から保護できるのはハーフだけなのさ。クォーターは自分自身しか保護できねぇ」

「そうか……なら、サワラ島行きは中止だ」

「ええーっ? ここまで来ておいてそれは……」

 メイは操縦席前の虚空に現した空間ウィンドウ内のマップを指差した。バーガッソーとサワラ島はもうすぐそこだ。

「テューリが渡れないのなら行っても仕方ない」

「行っておいでよ。僕はここで待ってるから」

 テューリは側にいたヒャーボをメイに預けた。

「だが……」

「お母さんに会いに来たんだろう?」

「……うん」

 二人はしばらく無言で見つめ合った。

「えー、お取り込み中申し訳ないのですがー、テューリさんが船に残るということは、やはりぃ……」

 メイは操縦席から立ち上がり、横歩きで少しずつ二人から遠ざかっていった。

「泳いでいく」とフェム。

「や、やっぱり……」

 メイはがっくりと頭を垂れた。

「いけないか?」

「私が人間だということをお忘れですよ。いくらすぐそこっていっても、ここから三十キロ以上あるんですから」

「万が一のときはヒャーボが救命胴衣にも筏にもなる。おまえは私を抱き、私の目になってくれるだけでいい」

「わ、わかりましたよ……」

 メイは口を尖らせ、半べそをかきながら了承した。

 メイはヒャーボを背負って海に飛び込んだ。フェムもそれに続いた。メイは爆弾でも扱うかのようにおそるおそる仰向けのフェムを上から抱えた。

「ど、どうぞ……」

 メイがそう言い終わるや、フェムは強烈な背泳キックを繰り出した。

 二人は、今まで乗ってきた船の数倍の速度でサワラ島へ猛進していった。

「あわらぁぁぁぁ! ごももっ! ごへっ!」

 メイの海水混じりの絶叫は、島へ着くまで続いた。


 フェムたちが辿り着いたのは、生家があった南端の二人浜ではなく、島の中部にある廃港だった。今では人間たちが改修し、立派な港になっている。

 メイは充血した目を何度も擦りながら、目標がずれたことの言い訳をした。あのスピードで海水を浴びれば、まともに目を開けていられるわけがない、と。

 フェムにはそれがなかなか理解できなかったが、上陸できればどこでもよかったので、必要以上に咎めはしなかった。

 ヒャーボは疲れきった様子で居眠りしていた。次回があったら少しは加減しよう、とフェムは密かに思った。

 フェムたちは桟橋から少し離れた岩場に上がった。騒ぎを嗅ぎつけた人間たちがぼつぼつと集まってきた。

「つかまれ!」

 フェムがそう言うと、メイはフェムを抱きしめた。

 フェムは崩れかけた崖を這う木の根を足場に、高さのある断崖を一歩で駆け上った。崖の頂上は縁まで木々が生い茂っていた。フェムたちはその中に身を隠した。

「何者だ?」「フェム様か?」「腕がなかったぞ?」「フェム様に違いない」

 人間たちのささやきが聞こえてきた。

「なぜ、隠れるんですか?」

 メイは木陰から顔を覗かせ、港の様子を窺っている。

「私は母に顔を見せに来ただけだ。皇位に就くつもりはない」

「私としても、ナークのことを考えると、フェム様に国を治めていただけると安心なのですが……過激派の方は私が何とかしますから」

「第一、私はナークとの混血なのだぞ? 人間たちがあそこまで熱狂する理由(わけ)が私にはわからない」

「フェム様は偉大なるマザー・テラの血を受け継いだ唯一のお方です。それに、最初の人間解放を行った英雄でもある。混血のことに目を瞑るには充分な理由でしょう。人は常に大きな何かにすがっていたいものなんです」

「私には、母のように大勢を統率したり教育したりする才能はない」

「それは、やってみなければわからないと思いますが」

「……」

 フェムは答えなかった。それが今の答えだった。

「では、これからどうなさるおつもりですか?」

「少し……考える時間をくれ」


 フェムたちは崖上の林をしばらく歩き、やがて整備された山道へ出た。五百年前に見たときは劣化したアスファルトが散乱していたはずだが、今はきれいに砂利を敷き詰めた道が続いている。道には細い車輪の跡がついていた。フェムは暗い気分になった。

 辺りに民家は疎らだった。大人たちは街や畑や海へ働きに出ているようで、家の周りには老人や子供しかいなかった。フェムは廃屋で見つけた頭巾や野良着を身につけ、わざと腰を曲げて歩いた。メイには孫のフリをさせた。寄り添う二人は誰にも怪しまれずに峠を越え、島の南端の海岸へ出た。

「ここは……ここは本当にあの二人浜なのか? 私が生まれた……」

 フェムは口が開いたまましばらく塞がらなかった。ここを去るときは親子三人で暮らした小屋一つしかなかった。それが今では、緑地や岩が削られ、百数十の民家や商店や宿泊施設などが立ち並び、縦横無尽に道が走っていた。数は少ないが原付バイクまで走っている。島の遺跡で設計図や部品を発掘したのだろう。

「あの静かだった浜が……」

 フェムは数歩歩いては立ち止まり、何度も首を振った。

「テラ様の第二の故郷、ロキソーニタウンです。テラ様亡き後も巡礼や観光地として賑わって……」

「そんな説明はいい!」

「す、すみません」

 メイは両目をぎゅっと瞑り、縮こまった。

「人間の五百年とは……これほどまでに環境を変えてしまうものなのか……」

 フェムは手つかずのサワラ島と、自然と上手くつき合うナークの世界しか知らなかった。

「こりゃ……ナークのことを悪く言えなくなっちまったな」

 メイの背中でヒャーボが呟いた。

「悪いに決まってるじゃないですか! ナークは人間を狩り、養殖し、ペットにしてきたんですよ!」

 メイは首を捻り、ヒャーボに噛みついた。

「悪いのは、そこだけなのさ。連中は必要以上に自然を壊したりしねぇ。完璧な生態系バランスを考え、完璧な計画に乗っ取って最低限の開発だけをしてる。どこをどう見たって人間よりナークの方が圧倒的に地球に優しいじゃねぇか。さらに言やぁ、地球を汚す人間どもを排除してくれる良い存在という見方もできるな」

「いくらなんでも、最後のだけは聞き捨てなりません!」

 メイはヒャーボを降ろし、砂浜に放り投げた。

「おぅ、やるか、嬢ちゃん!」

 大口を開けて威嚇するヒャーボ。

「いい加減に、しろ……」

 フェムはその言葉に心境の全てを集約させ、静かに言った。いつの間にか体が淡紫色のオーラに包まれていた。

 メイとヒャーボは辺りの酸素が薄くなったかのように、呼吸が荒くなった。半乾きのひきつり笑いを見せつつ、二人は和解。

「野良着を脱がしてくれ」

 普段の状態に戻ったフェムはメイに近寄った。

「え? で、ででもここでは目立つのででは……」

 メイの呼吸はまだ荒いままだった。

「母の墓へ行きたい。案内してくれるな?」

「は、はははい」

 メイはしばらくの間、胸の谷間から手を離そうとしなかった。


 テラの墓は二人浜から少し離れた小高い岬の突端にあった。街を見下ろせるし、美しい水平線が一望できるという配慮があったのだろうが、フェムは気に入らなかった。自分が生まれたあの粗末な小屋がある、岩が邪魔で見晴らし半分の砂浜。あそこでなければ意味がないのだ。小屋は朽ちても仕方ないが、アトゥ、ボルタ、テラ、そしてフェムの想い出の場所には石碑が一本立っているだけ。周りは騒がしく汚らしい海水浴場。フェムは歯ぎしりがするほど怒りがこみ上げていた。だが、テラの亡骸はそこにはない。フェムはヒャーボを背負ったメイを連れ、仕方なく岬の先へ向かった。

 岬は終始緩い上り坂だった。途中、参拝を終えた幾人もの人間とすれ違った。彼らは女二人の片割れがフェムであることに気づいていたようだが、誰も声を掛けてこなかった。参拝者はフェムの顔を見ると、道脇に逃げ、急ぎ足で坂を下りていった。

 岬の突端には、神殿と墓を兼ねた石造りの小さな建物があった。横一列に五人並んだ大人がやっと入れる程度の大きさしかない。装飾は一切なく、神殿というよりほとんど倉庫か物置だ。テラの意向であることは容易に想像できた。あの街を造った人間に任せたのなら、目も潰れんばかりのデザインを施したに違いない。

 観音開きの鉄扉を開けると、中にテラの墓があった。黒土に石碑が立つだけの質素な墓だ。

「お母さん……」

 フェムは膝をつき、土に頬ずりした。碑の真下にテラが眠っている。

「お母さん……約束守れなくて……ごめんなさい……ごめんなさい」

 フェムは二人の目をはばからず、声を上げて泣いた。

 絶対にこの地へ帰ってくる。その約束はテラが生きているうちに、ということが大前提だった。フェムは五百年もの間心を閉ざしていた自分への怒り、情けなさ、後悔で我を忘れ、子供のように泣きじゃくった。顔が泥だけになり埃で何度むせても、構うことはなかった。

 フェムはさんざん泣いて落ち着いた後、ふと振り向いた。メイとヒャーボの姿がなかった。鉄扉も閉まっている。居たたまれなくなって出て行ったのだろうか。後ろの壁に耳をあててみると、二人の会話が聞こえてきた。

「私……何といっていいのか……」

 メイの声。時折しゃっくりが出る。

「世界のためとはいえ父親であるボルタを自らの手で葬り、そのショックで五百年も時を止めたまま母親との再会を果たせず、サワラへ戻ってみりゃ命を賭けて救い出した人間の子孫共がまた愚かなことをやり始めている。あいつの心の中にはもう誰も入って行けないかもしれねぇな」

 ヒャーボの声。ため息が聞こえる。

「そんな……そんなのって……」

「だが、俺様は一生フェムに付いていくぜ。たとえあいつが世界をぶっ潰そうと考えていてもな」

「せ、世界をぶっ潰す?」

「例えばの話だ。あいつだってそんなことは望んでねぇ。が、これ以上双方の暴挙が続くようなら、あいつがどうするのかは俺様にもわからん」

「それでも付いていく、と? も、もしかして、ヒャーボさんてフェ……」

「い、言うな。今そんな話は不謹慎だろうが」

「おまえが不謹慎という言葉を知っていたとは意外だな」

 フェムは神殿の扉を開け、外へ出た。

 メイが驚いた顔で振り向く。

「き、聞いてたのか?」

 ヒャーボは全身から玉のような汗を出している。

「何をだ?」

「い、いや何でもねぇよ。それよりもう大丈夫なのか?」

「ああ。心配かけたようだな。すまなかった」

 フェムはそう言うと、墓を覆う建物を蹴り壊していった。

「ああっ、神殿があっ!」

 メイが両手で頬を覆う。

「これで……いいんだ。下がってろ」

 フェムは空高くジャンプし、むき出しになった地面に渾身の一撃を与えた。ほどなく地面に亀裂が入り、テラの亡骸が埋まった岬の先端が崖下の海へ落ちていった。

「還る場所が海になってしまったけど、許してください」

 フェムはしばらく眼下の海を見つめていた。やがて振り向き、言った。

「私はローラシアへ渡ろうと思う」

「そんな……私たちを側で見守っていてはくれないのですか?」

「前にも言ったはずだ。私には母のような才能はない。神のような扱いを受けるつもりもない。おまえたちは内政に全力を傾けろ。私はローラシアの人間たちを解放し、ナークの異常な本能の謎を追う。間違ってもナークの領地を侵そうなどと思うな。ナークのことは私に任せておけばいい」

「は、はい……」

 メイはいかにも残念そうな顔で返事をした。

 フェムたちが岬の坂道を下ろうとしたとき、麓の方から若い男が走ってきた。男はメイ直属の部下で、皆が乗ってきた船の地下室で諜報活動を行っていた。

「た、大変です! テューリさんが!」

「テューリがどうした?」

 フェムは眉をひそめた。

「サワラ島の住民に……襲われました」

「ばかな! サワラ島の者は皆、不戦派だと言ったじゃないか!」

 メイと部下は顔を見合わせ、信じられないといった様子だ。

「どこだ!」

 フェムは部下に詰め寄った。

「おそらく港の方かと……ですが……あっ、フェム様、待って……」

 部下はフェムの肩に手を伸ばしたが、既に遅かった。

 フェムは崖から直接海へ飛び込み、港の方へ猛然と泳いだ。

「おいっ、待てっ! こいつの話を聞けって! フェムゥゥゥ!」

 ヒャーボの絶叫は虚しく荒波の音に紛れた。



 17 



 フェムは港の近くまで来ていた。立ち泳ぎをして首をめぐらす。両腕がない分バランスが悪く、視線が安定しない。ともかく、桟橋にメイの船とサワラ島の漁船があるのはわかる。

「テューリ!」

 フェムは思わず叫んだ。

 もしあのまま、何も知らない人間たちに捕まり、バーガッソーを越えたのなら、純粋なナークであるテューリは既にこの世にはいない。

「テューリ! テューリ!」

 フェムは何度も水を飲み、むせながらもテューリの名を叫び続け、桟橋へ突進した。

 一本だけ海に突き出た石造りの桟橋を挟んで右手にメイの船、左手に漁船が停泊している。埠頭を歩いている者はいないようだ。

 フェムは漁船の船首に近づいた。

「何の色だ?」

 漁船の操縦室やデッキの手すりはところどころ赤く染まっていた。

 フェムは船尾の方へまわった。

「な、何が起きた?」

 後部デッキには血だらけの人間が山のように積んであった。ざっと見ても二十人、隠れた部分を考えればもっといるはずだ。どれも息はなさそうだ。前頭部が完全に陥没している。鋭利な物を使った形跡はない。フェムは直感した。これは人間の仕業ではない。

 フェムは埠頭へ上がった。

「ここもか!」

 埠頭にはおびただしい数の死体が散らばっていた。おそらく港の仕事に従事する者のうちのほとんどだろう。誰もぴくりとも動かない。死因は皆同じだ。拳による一撃必殺。

「あら? もう一人残っていたのね?」

 背後から女の声がした。

 フェムは即座に振り向いた。両手を血に染めた深紅の長髪女が立っていた。真っ赤なビキニの上下に真っ赤な左右のリストバンド。体が少し濡れている。

「おまえの仕業か。ナークがなぜここに立っていられる」

「そういうあなたも人間ではなさそうね」

 女は「フフ」と笑うと、瞬時に間合いを詰め、フェムの顔目がけて拳を放……つと見せかけ、心臓を狙った。

 フェムは難なくタイミングを合わせ、女の拳を蹴り上げた。

「ば、ばかな……あたしの拳を、脚で合わせるなんて……」

 痺れたのか、女は何度も腕を振った。

「やめておけ。その程度では私の皮膚に触れてからでも、合わすことができる」

「あらそう。それなら……これはどうかしらっ!」

 女はフェムにリストバンドを向け、数十本もの極細ニードルを一斉発射した。

 フェムは脚を一振り。

 ニードルが無惨に散る。数本が女の太腿に刺さり、山吹色の血が染み出す。

「無駄だ」

「二人ともそこまで!」

 突如、開けっ放しの倉庫の中から浅黒の青年が現れた。

 フェムと女は同時にそちらを見た。

「あっ、テューリ君、起きたんだぁ」

 女は急に甘ったるい声になった。

 フェムは背筋が痒くなった。

「テューリ! ……なのか?」

 フェムはテューリらしき男に駆け寄った。見た目はどこをどう見ても当人なのだが、フェムは半信半疑だった。一体どうやってバーガッソーを越えたのだろう?

「フェム!」

 テューリはフェムを抱きしめた。

 フェムにはそれだけで充分だった。確かにテューリだ。

「あのー、あたし、放置されるの嫌いなんですけど」

「あ、ああ、ごめんなさい。彼女はエカトさん」

 テューリは笑顔でエカトを紹介したが、散乱する死体を見てすぐに顔が曇った。

「エカトだって!?」

 フェムは思わず大声をあげた。エカトといえば、アトゥの記憶に出てきた八千万年前の人物だ。驚かずにはいられない。

「何だか二人ともあたしの事知ってるようだけど……まぁ、とりあえず……」

 エカトは事の経緯を簡単に話した。エカトはグランタ海を航海中、人間に襲われていたテューリの近くを通りかかり、人間たちを倒した後、気を失ったテューリを看病しながらバーガッソーを越えたのだという。

「その素質はハーフにしかないはずだが……」

「フフ……ナイショよ」

 エカトはそっぽを向き、ぺろんと舌を小出しにした。

「それは後にしよう」テューリは言った。

「なぜ、関係ない人間まで殺した」フェムは埠頭に転がる死体に顔を向けた。「おまえ程の腕なら手加減できるはずだ」

「可愛い子がいなかったからよ。むさ苦しいジジイばかりでむしゃくしゃしたから、ストレス解消に利用させてもらったわ」

「理由はそれだけか?」

「そうよ」

「そうか……なら、私もストレス解消におまえを抹殺するか」

 フェムはゆっくりとエカトに近づいた。

「ちょ、ちょっと待ってよ……」

 エカトは二人の間隔を保つようにして後ずさった。しきりに目を動かしている。

「逃げる隙を探すだけ無駄だ。おまえには解っているはずだ」

 フェムの言葉にエカトは観念したのか、立ち止まり、うなだれた。

「あ、あたしを殺したら、テューリ君、島の外に出られなくなるわ。いいの?」

「む……それは……」

 フェムの動揺を察したのか、エカトはにやけた顔を上げ、言った。

「こうしましょう。あたし、バーガッソーまでついていくわ。そしたら見逃してくれるわね?」

 フェムは死体の群れをしばらく眺めた後、テューリを見つめた。

 テューリは少しだけそれに応えたが、やがて俯いた。

 フェムは決断した。

「クッ……いいだろう。命はひとまず預かっておく」 


 フェムは人間たちの死体を埠頭の一カ所に集めるようエカトに命令した。

 エカトはブツブツ文句を垂れながらも従った。

 エカトが最後の死体を倉庫の脇に寝かせた頃、ヒャーボを背負ったメイがふらつきながら走ってきた。

 ヒャーボはエカトの姿を見て、これ以上ないほど複雑な口型で驚嘆の叫びをあげた。

「おめぇ、一体何やらかした?」

 エカトも口を開けたまましばらく固まっていたが、やがて口を開いた。

「ま……まぁ、いろいろとね。えっと、その……元気そうね?」

「そうらしいな」

「何よ、他人事みたいに」

「自分の体についてまともな事は何一つわかっちゃいねぇんだ、そう言いたくもなる」

「実はね……あたしもよ」

 エカトは口に手を当て、大きなヒソヒソ声でヒャーボに耳打ちした。

「見え透いた嘘を堂々と言うんじゃねえよ」

「フフ……ダテに長生きしてないわね」


 一行を乗せたメイの船は、サワラ島を後にした。

 母は海へ還り、故郷サワラ島は変わり果てた。フェムは再びこの地へ帰ってくるかどうか、正直言って自信がなかった。

 フェムたちは皆、キャビンのソファに座っていた。

 ヒャーボがエカトへ質問責めしている間に、バーガッソー到着のアラートが鳴った。結局、ヒャーボはエカトの話術にはぐらかされ、大事なことは何も引き出せなかった。

 フェムは「おまえは私を三度見ることはない」と脅し文句をエカトに浴びせ、彼女を解放した。

 エカトは満面の作り笑顔で「そうありたいものだわ」と言って海に飛び込み、泳ぎ去っていった。

 デッキに出てしばらく見張っていると、エカトが泳いでいる周囲の海が盛り上がり、世界最大の海中生物が顔を出した。

「グランタだと!? 私の周囲には近寄らないはずだが」

 フェムはデッキの手すりから身を乗り出した。

「エカトさん! 危ない!」テューリが叫ぶ。

 だが、グランタはエカトを巨大な頭の上に乗せただけだった。グランタは徐々に浮上していき、エカトの姿はみるみるうちに小さくなっていった。

「まったねー」

 エカトはグランタを操り、北の方へ去っていった。

「ど、どういうことなんだ?」

 フェムは呆然と振り返り、テューリやヒャーボに何らかの回答を求めた。

「フェム、奴には気をつけろ」

 テューリの背中でヒャーボが言った。

 テューリがうなずく。

「敵に回したらかなり厄介そうだね」

「……」

 フェムは自分で訊いておきながら二人の言葉には上の空だった。引っかかることが一つあった。

「どうしたの?」

「いや……以前どこかで会ったような気がしただけだ」

「まさかぁ。考えすぎだよ、フェム」

 テューリはフェムの肩を抱き、キャビンへ入るよう促した。


 船は数日の航海の後、メイの秘密基地に帰港した。

 フェムたちはそこでメイと別れた。

「フェム様……」

 メイはフェムにすがりつき、泣きじゃくった。

「心配するな。おまえはおまえの役目を果たせばいい」

「はい……」

 解放軍を辞めることにしたメイは彼女を慕う部下数十名と共に、私立諜報組織を結成することになった。これで、フェムたちがローラシアへ渡っても人間側の動きを詳しくつかむことができるだろう。

 秘密基地を後にしたフェムたちは、ゴンドワナの北にそびえる東ペルミー山脈へ向かった。適当な山頂から不止鳥に乗り、一気にローラシアの郊外へ飛んだ。



 18 



 ローラシアの郊外に降り立ったフェムたちは住宅街へ向かい、夜を待った。

 ナークの女と人間の少年たちが戯れる影が曇り窓に映る。フェムは予定もそっちのけで突入しようとしたが、テューリがこれを制した。人間を飼うナークの家を襲う前に、試してみたいことが一つあるという。

「そんなもの、本当に通用するのか?」フェムは囁いた。

「どのみちバレるんだから、やってみようよ」

 テューリはフェムとヒャーボを見張りにして、ナークネットへダイブした。フェムはもちろん、人間に荷担するテューリもこの地では立場が悪い。そこで彼は父親が生前残してくれた『なりすまし』の技を使った。イレギュラーにのみ許された特技だ。テューリはローラシアのあらゆるニュースエリアを廻り、『デボルの娘、フェム襲来』の報を偽の証拠動画付きでまき散らした。最初は半信半疑だった民衆だが、噂が噂を呼び、最後には『魔女の復讐』というサイトまで立ち上がるようになった。

 一週間後、フェムはテューリの指示で擬装を全て外し、堂々とシティーの街中を歩いた。それを見たナークたちは逃げまどい、ペットを次々と家の外へ放り出した。テューリは路頭に迷った人間たちを、ローラシア海岸へ誘導した。海岸には、かつてフェムが乗ってきたブイ島が予想通りのタイミングで来ていた。定期的に地球を周回するブイ島は半年後、地球の裏側ゴンドワナ近海を通る。そこでメイたちが拾ってくれる手筈になっている。

 この一件で九百人の人間を一気に解放した。


 次の日。ローラシア海岸沿いの公園。

 朝から降っていた雨は止み、今は曇り空だ。

 フェムたちはベンチに座り、思わぬ成果に歓喜していた。唯一の懸念は、ブイ島での食料の確保だが、メイの部下を二人付けたので、人間同士うち解ければ何とかなるだろう。ブイ島は海の幸に恵まれている。

 次の手を考えようと三人で議論していたところ、一人の人間が近づいてきた。まだ十五にも満たない感じの二つ結びの少女だ。濡れた白のYシャツに下着だけ。足は裸足だ。

「おかしいな。昨日集めた人たちはみんなゴンドワナへ送ったはずだけど……」

 テューリは首を捻った。

「君は今朝捨てられたのか?」

 フェムは努めて優しい口調で訊いた。

「高級言語で言ってもわからんだろうが」

 すかさずヒャーボが突っ込む。

「む……そうか」

 フェムは覚えたての初歩的な低級言語で言い直そうとした。

 少女は首を横に振った。なぜか通じている。

「ブイ島は行ってしまったし、ひとまず例の山小屋へ連れて行くか?」

 フェムの言葉に、テューリは腕組みしながら考え始めた。

「余計なことしやがって……」

 少女は上目遣いでフェムを睨みつけた。

「余計なこと?」

「あたしのご主人様を返せ! みんなで幸せに暮らしていたのに」

「な、何を言う」

「ご主人様はあんたを恐れて、あたし達を放り出す代わりに自分から逃げてしまった」

「あれほどの屈辱を受けておいて幸せだというのか?」

「屈辱? なにそれ。あたしたちはご主人様にご奉仕することが一番の幸せなの」

「ご奉仕……あのおぞましい淫行がご奉仕だと?」

「あたしは姉妹の中で一番ブサイクで、投げ売り同然だったけど、妹たちのついでだといってご主人様に買って頂いた。本当にうれしかった。妹たちも毎日のご奉仕に満足していたわ」

「信じられない……」

 フェムは思わず少女から顔を背けた。

「ねぇ、責任とってよ。ご主人様を捜し出して!」

「そ、そんなことは……できない」

 フェムは少女を見つめることができなかった。

「じゃあ、そこのお兄様。あたしを飼ってくださる?」

 少女はテューリに迫った。

「えっ? む、無理だよ。僕は人間を解放する立場だし、人間をペットにしたいとは思わないんだ」

 テューリは逃げ腰になった。

「ブサイクだけど、カラダだけは自信あるの」

 少女は体をくねらせながらYシャツのボタンを外し始めた。

「やめないか!」

 フェムは思わず少女の肩を蹴った。少女は横向きに倒れ、唸っている。顔を平手で張ったつもりだったが、自分には腕がなかった。わかっているはずなのに……フェムは急に哀しくなった。

 テューリは少女を抱き起こし、シャツに付いた砂を払った。

「ごめんね。僕らはもう行かなきゃ」

 テューリはヒャーボを背負い、フェムを連れ、小走りで海岸を離れた。

 少女は追いかけてきた。

 フェムとテューリは、人間には追いつけないスピードで一旦逃げ切った。少女の今後が気になり、物陰に隠れながら様子を窺った。

 少女はローラシアシティーの最も外輪の住宅地で足を止め、辺りを見回していた。

 ほどなく、古びた一軒家の中から冴えない面をしたナークの男が出てきた。少女と男が揉み合う。フェムは駆け出そうとしたが、テューリがこれを手で制した。

「残念だけど、あの子はもう人間とは言えない」

「あれを黙って見ていろというのか!」

 少女はYシャツを脱がされ上半身が露わになっている。抵抗していたはずの少女だったが、今はなぜか嬉しそうな顔に変わっている。

「え……」

 フェムは目を疑った。

 そうしている間に、少女はナークの家へ入っていった。どう見ても諦めの表情ではなかった。新たなる喜びを得たという感じだった。

 フェムたちは郊外の隠れ家へ戻るため、街を後にした。


 その日の夜。

 フェムたちは真っ暗な倉庫の中で語り合っていた。小窓から差す微かな光で、互いの表情をかろうじて確認できる。

「こんなことが、あっていいものなのか……」

 フェムの脳裏に、少女が主人について語るときの恍惚の表情が浮かんだ。フェムは思わず頭を振った。

「長い間代を重ね、ペットにされてきた人間たちは随分変わってしまった」とテューリ。

「さっきの奴はそれほど特別ではない、ということか?」

 テューリはうなずいた。

「生まれたときから飼われることが当たり前だったとすれば、慕っている主人から無理矢理引き剥がされたとき、どういう感情を持つと思う?」

「そんなこと……」

「そりゃおめぇ、哀しいだろうよ」ヒャーボがフェムの言葉を遮った。「あ! いや、なんでもねぇ」

 ヒャーボはフェムの視線に気づいたのか、その後は口を挟まなくなった。

「そっちの方が一般的なんだ。今のナーク世界では」

 フェムは思い出した。テューリの誘導に応じてブイ島へ渡った者たちは、それなりに野生を残した人間ばかりだった。

「純粋養殖の人々はもう、僕らの言うことに耳を傾けてはくれない」

「私は……私はどうすればいいんだ。せっかく助けても恨まれるのでは、やりきれない」

 フェムはテューリの胸に顔を埋めた。

 テューリはそっとフェムの頭を撫でた。

「とにかく、純粋養殖以外の人たちを何とかして助けよう」

 テューリの言葉に、フェムは黙ったままうなずいた。



 19 



 フェムたちはその後もローラシアに留まり、壮大な計画を描いていた。

 少しでも野生を残した人間を一気に全員解放しようというのである。

 計画と準備に半年を要した。


 作戦実行一ヶ月前の夜、テューリがローラシアシティーを調査していたときのことだった。

 闇から突然現れた女がテューリの腕をつかみ、誰もいない路地裏へ引っ張り込んだ。

「テューリくぅーん!」

 女は満面の笑みで、テューリの肩を外れんばかりに揺さぶった。

「エ、エカト……さん」

 テューリは下を向いた。目のやり場に困っているようだ。

 エカトは、海岸でもないのに胸の下半分が全て露出する挑発的なビキニを着ている。

「会いたかった……」

 エカトは力一杯テューリを抱きしめた。

「や、やめてください」

 テューリは渾身の力でエカトを引きはがした。

「もぅ、久しぶりだっていうのにそれはないんゃない?」

 エカトは口を尖らせつつ腰をくねらせた。

「あのとき、助けてくれたことは感謝してます。だけど、僕とあなたとでは……考え方が違いすぎる。あなたは罪のない人たちまで殺してしまった」

「違うわ! テューリ君は、あのフェムとかいう女の妄想に巻き込まれているだけよ」

 エカトはその大きな胸をテューリに擦りつけようとしたが、テューリは一歩退いてこれをかわした。

「妄想……確かに、フェムが両親から受け継いだ共存思想は実現困難なものかもしれません。だけど、そんなものがなくても僕はフェムのことを……」

「言わないで! 好きなの……あなたを初めて見たときからずっと……」

 エカトはテューリの目を見据えた。

「嘘では……なさそうですね。いつから知ってたんですか、僕のこと」

「あの女を連れて逃げているときからよ」

「そんなに前から……じゃあ、バーガッソーでの出来事は……」

「鋭いのね。偶然ではないわ。あなたが一人になるチャンスをずっと狙っていたのよ」

 テューリは深く息を一つ吐いた。

「気持ちはうれしいけど……ごめんなさい。僕にはフェムしかいないんです」

「逆でしょ? フェムにはボクしかいない」

「そ、そんなことは……」

「全然ないとは言い切れない」

「……」

 テューリは口をつぐんだ。言い返す言葉が見つからないようだ。

「それは同情っていうのよ」

「同情?」

「若いときから重い使命を背負わされ、あんな形で父親を失った……あなたはあの女に同情しているだけなのよ」

「違います。フェムは自分の意思で島を出てきた。ボルタさんを自らの手に掛けたのは大きな傷かもしれませんが、僕はそのずっと前からフェムのことを思っていました。初めは使命感のようなものがどこかにあったかもしれませんが、今は違います」

「あの女は危険よ。いずれ世界を滅ぼすわ。それより、あたしと二人で楽しく暮らさない? 平和も快楽も永遠にあなたのものよ」

「永遠に?」

 テューリは少しだけ眉をひそめた。

 エカトは一瞬、やってしまったという顔をした。

「あ、いや、ともかく、あの女といると苦労ばかりするわよ。それでいいの?」

「永遠の快楽なんてあり得ません。楽しいことは苦しみの中から生まれるんです。僕はフェムと一緒に居られるのなら生涯苦労したとしても構わない」

「お願いよ……」エカトは目を山吹色に充血させ、テューリの両腕にすがった。「あたし、初めてなの。本気で誰かを好きになったのは。それまで何万という男とつき合ってきたけど、あたしの孤独と退屈は満たされなかった。想像できる? 八千万年よ。狂うことを許されないまま過ごすにはあまりにも長すぎた……。テューリ君のような男にはもう二度と出会えないかもしれない。だから、お願い……」

 エカトは涙を流しながらテューリの胸に顔をうずめた。

「ごめん……なさい」

 テューリはエカトの両肩に手をやり、静かに遠ざけた。

 夜空の半月が雲で覆われ、再び顔を出した。

「後悔しても……知らないわよ」

 エカトはそう言い残し、闇の中へ消えていった。

 やがて、テューリは郊外の隠れ家に戻った。今晩のことは何も語らなかった。


 作戦実行当日。

 テューリはなりすましをせず、そのままナークネットにアクセスした。フェムだけが憎まれる日々をこれ以上過ごすことはできない、と言って。テューリはフェムの名を掲げ、野生を残した人間は全て解放せよと呼びかけた。テューリはネット内で『魔女の番犬・堕ちたナーク・裏切り者』などと相当な反感を買ったが、バックにフェムが付いている以上、該当するナークたちは従わざるを得なかった。

 ナークが解放した人間は僅か五万だった。残念ながら、既にローラシアの人間は大部分が純粋養殖もので、彼らは皆、ナークに飼われることを望んだ。

 解放された人間たちは、砂漠を越えスピーメルの大軍を連れてきたメイや、船団を率いてきたサイモネの協力によって、陸海のルートでゴンドワナへ送られた。

 メイは諜報組織『シュレーデン』を結成、メンバーはすでに千人を超えていた。

 サイモネはCoXの後継組織『マリンブラウ』を結成、ローラシアのナークとは完全に独立した勢力をパンゲアに築いていた。パンゲアはかつての火山活動のせいで不毛の地と化していたが、マリンブラウの尽力で少しずつ元の姿を取り戻そうとしていた。

 この事件により、ナークのペットはほぼ全て純粋養殖種だけとなった。


 人間解放から十日後。

 フェムたちはローラシアでの活動を終え、郊外の十六代目の隠れ家に身を潜めていた。現在休業中というペットフード工場の一室だ。

 フェムは仮眠用の粗末なベッドに寝そべり、窓の外の夜空を見つめた。

「ひとまず目的は達成した。あと一週間、ナークの様子を見たら帰ろう」

「帰るって、どこへ?」

 フェムの枕元でヒャーボが口を開く。

「ゴンドワナですよ。ナークの飼育本能の謎が解けない以上、今僕らにできるのは人間たちの未来を影から見守ることです」

 ベッドに座るテューリはフェムと見つめ合った。フェムはうなずいた。

 やがて、テューリは立ち上がった。外の見回りだ。交代は四時間毎。今回は彼とヒャーボがペアで回るはずだったが、寒気がするとヒャーボが言い張るので、フェムと一緒に寝ることになった。

 テューリは部屋を出る前、二人を一瞥した。何やら吹き出しそうなのを堪えている。

 フェムは睡魔が邪魔して、その理由まで想像していられなかった。

 ヒャーボが「さっさと行きやがれ」と囁く。

 テューリは「ごゆっくり」と言って、部屋を出た。


 テューリは工場の周囲を二時間ほど見回った。敷地に戻ってくると、突如立ち止まり、瞳を巡らした。何かの気配を感じているようだ。

 テューリは塀を跳び越え、再び敷地の外へ出た。

 街灯近くの塀に寄りかかる人間。少女が一人、少年が二人。テューリの足音に気づき、一斉にそちらを向いた。 

 少女が笑顔でテューリに近づいた。

「こんばんは」

「き、君はあの時の……」

 テューリが今見つめているのは、海岸の公園で主人を奪われたことに抗議してきたあの少女だ。

「こんな時間に何してるんだい?」

「お散歩」

「主人に黙って?」

「そうよ」

「あのさ……飼われたいという気持ちは今でも変わってない?」

「うーん、どうしよっかなぁ」

 少女は二人の少年と相談を始めた。

 テューリは会議中の少女らを余所に、再び瞳を巡らした。人間たちの不審な行動の背後を探っているようだ。

「じゃあ、チューしてくれたらいいよ」

 少女は唇を突き出した。

「な、何だって?」

「だから、お兄様がチューしてくれたら、あたしらフェム一味に従うことにする」

 テューリは腕組みしながら、しばし小さく唸った。

「本当に……約束できる?」

「するする」

 少女はすごい勢いで首を縦に振った。

「約束を破ったら?」

「破ったら……あたしをお兄様にあげる」

「それは最初に断ったは……む!?」

 少女は強引にテューリに口づけした。

 テューリは油断していたのか、身を引くタイミングを逸した。

「か、体が……」

 テューリはそれっきり動けなくなった。

「あたしのお味はどう?」

「な、何を入れた」

「ナントカウィルスって言ってたなぁ。前のご主人様を奪った恨み。じっくり味わってね」

 少女は乾いた笑顔で少年たちに指示を出した。

 少年たちは懐から短銃を一丁ずつ取り出し、テューリに狙いをつけた。

 テューリは立ったまま悶えた。

「だ、誰の仕業だ……まともなナークの業じゃない……だめだ、解毒が間に合わ……」

 パン! パン!

 銃声が二発。

「もぉ! ヘタクソ!」

 少女の罵声が飛ぶ。

 銃弾はテューリの両頬を掠めた。表皮が焼け、黄血がしたたる。

 少女は、訝しげに銃口を見つめる少年たちの片割れから銃を奪い、動けないテューリの額に銃口を突きつけた。

「あたしを飼ってくれたら許してあげる」

 少女はテューリの手を取り、自分の胸をつかませた。

「ごめん、それだけは……」

「じゃあ死ね!」

 少女はトリガーを引いた。

 銃弾は空を切った。

 テューリは黒い影に蹴飛ばされ、道脇の草むらの中へ吹っ飛んだ。

 影は街灯の明かりの範囲へ歩んだ。

「チッ……」

 少女たちは影の正体を知ると、急いで引き上げていった。

「いたた……強く蹴りすぎだよ、フェム」

 テューリは左肩を押さえ、ふらつきながら立ち上がった。

「キスしてた」

「あ、あれは不意を突かれて……」

「わかってる」

 その後、フェムとテューリは無言で隠れ家に戻った。

 フェムは明朝まで一言も口をきかなかった。

 ヒャーボは脳天気な寝言を呟きながら熟睡していた。

 起床後、ヒャーボはフェムの八つ当たり用サンドバックと化した。


 フェムたちは、その翌日から一日おきにペット人間やナークの襲撃を受けた。散発ではあったが、明らかにテューリだけを狙っていると判った。ただ、フェムはその意図にためらいのようなものを感じた。その気になれば、もっと本格的に攻めることができそうに思えてならないのだ。

 結局、首謀者を特定できないまま、ローラシアを出る日がやってきた。


 フェムたちは既に不止鳥に乗り、ローラシア東端の上空にいた。

「気になるな……」

 フェムは不止鳥の柔らかい羽毛部屋に体を半分埋めつつ、テューリの肩に頭を傾けた。

「僕を狙った人間やナークたちのこと?」

「人間はともかく、ナークの目はいつもと違っていた」

「僕にはわからなかったけど……」

「何かこう、誰かに操られているような感じだった」

「考えすぎだよ。ナークの強力な脳内障壁を突破できるような高度なウィルスは、ナークの能力じゃ作れない」

「では、おまえの解毒プログラムを超えるウィルスを作ったのは誰だ?」

「そ、それは……」

「ナークじゃ無理ってんだから、それ以上の何かだろうよ」

 フェムの脇にいるヒャーボが口を挟んだ。

「何か、では見当が付かない」

「プラティナム超絶ハイパーナーク改、とかよ」

「おまえにはもう訊かん」


 五日後。フェムたちは不止鳥を降り、ゴンドワナの北の地境付近を徒歩で越えようとしていた。なだらかな丘陵地帯を越え、あと少しで地境というとき、木陰から一人の男が現れた。メイの部下だった。男はフェム一行、特にテューリに対しゴンドワナに入らないよう懇願した。しばらく話をしていると、近くの林の奥からメイが息を切らしながらやってきた。

「フェム様、ローラシアでの人間解放、本当に感謝しています」

「皆、上手くやっているか?」

「はい。最初は戸惑っていましたが、徐々に人間らしさを取り戻しつつあります。ですが……」

「何か問題があるのか?」

「ゴンドワナでは、帰りたがらない人たち、つまり純粋養殖種を生み出してしまったナークへの憎悪が日増しに高くなっているんです。テューリさん、あなたはゴンドワナへ入るべきではありません。サワラ港での惨殺事件の噂が歪んで広まっています」

「僕が殺したことになってるの?」

 テューリは驚きと戸惑いが混じったような表情だ。

「はい」

「どういうことだ」

 フェムはメイに詰め寄った。

「ま、まだ詳しいことは……間違った噂の出所が未だにわからないんです。フェム様はともかく、元凶を突き止めるまでの間、テューリさんは人間と接触してはいけません」

「私はテューリがいなければゴンドワナで暮らすことはない」

「や、やはり……そうでしょうね」

 メイは寂しそうな顔でがっくりとうな垂れた。

「一つ頼みがある」

 フェムはメイを呼び耳打ちした。

 メイはフェムの依頼を快諾した。

 ほどなく、フェムたちはゴンドワナ地境に沿って西へ向かった。



 20 



 吹き荒れる砂塵の中、砂色のクロークで身を包んだフェムとテューリは大きな砂丘を一つ乗り越えた。

「なぁ、ヴァイマの元へ戻ろうなんてよ、何企んでやがる」

 テューリのクロークの中からヒャーボの声がした。

 テューリはヒャーボを背負い、その上にクロークを纏う形になっている。

 フェムは、メイやサイモネたちに一つの依頼をした。自分の威光を大袈裟にまき散らし、それを常に絶やさぬようにと。フェムはローラシアとゴンドワナの中間に位置するヴァイマの元で双方に睨みをきかせるつもりだった。

 ヒャーボとテューリは、どうせならパンゲアへ入り、今や一万の精鋭を抱えるというサイモネ率いるマリンブラウと共に活動した方が物量的にまだ確実だと言う。

「隠居だ」

「へ?」

 ヒャーボの気の抜けた声。

「隠居すると言った」

 テューリが首を捻り、ヒャーボと顔を見合わせた。

「ローラシアでもゴンドワナでも、テューリは常に危険に曝される。パンゲアに行ったとしても、サイモネやおまえのような反逆ナークを狙う暗殺者やスパイを完封することはできないだろう。そんな危うい生活はもうたくさんだ。残りの人生、私はテューリと共に穏やかな日々を過ごしたい」

 テューリの残りの人生は約半分、自分の寿命は全くの不明。フェムは確実にわかっているテューリの方に時計を合わせることにした。


 やがてヴァイマの家に辿り着いたフェムたちは、その隣に同じような丸太小屋を新築した。

 フェムたちはそこで二十年間つつがなく暮らした。

 無論、歴史の裏舞台ではメイやサイモネらの活躍があったことは言うまでもない。人間もナークも不満を持っていたが、大陸のど真ん中にでんと無敵の魔女(あるいは聖女)に居座られては、手も足も出せなかった。フェム自身は双方の動きを静観する以外何もしていなかったが、いつの間にかデボル以上の触れてはならぬ脅威として恐れられていた。


 フェムたちが隠居生活を始めて二十一年目のことだった。

 家の向こう岸で昼寝をしていたテューリは、ある人間少女の襲撃を受けた。

 そして、尊い命が一つ失われた。

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