表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
機生代  作者: ヒノミサキ
10/11

第六章 人類時代の終焉

 29 



 フェムたちがサワラ島に籠もってから十五年の月日が過ぎ去った。

 ナークとの大戦で敗北し、捕虜(その後はペット)となった人間たちを奪還する手段は未だに見つけられずにいた。


「はぁ……今日も収穫なしか……」

 ナークネットから戻ってきたネアはため息をつき、草の上にごろ寝した。

 ここはサワラ島最北端、瞑想岬。ネアは捕虜たちを取り戻す方法を調べるため、いつもここに座ってナークネットにダイブしていた。その姿を見ていた島民たちが名付けた地名だ。

「私の力が足りないばかりに……みんなに迷惑かけて……」

 ネアはすぐ隣に体育座りする少年に言った。

「ネアさんの責任じゃないですよ」

 少年の名はミクー。十六歳。フェムの息子だ。鋭い目つきは母親譲りだが、笑ったときはテューリの方に似てくる。

 ネアは首を横に振った。

「もう十五年よ。何の結果も出せないまま。これじゃ、わざと判らないフリをしていると言われても仕方ないわね」

「誰なんです、そんなこと言ってる奴は! 俺が黙らせてやる」

 ミクーは握り拳を突き出した。

「ダメよ。そんなことしたって何の解決にもならない」

「だって!」

「とにかく、大陸の情報を覗けるのは私しかいない。私ががんばらなければ……」

 ネアはそこまで言った後、急に上半身を起こした。ナークネットを通じて誰かが呼びかけている。ひどく異質な感じだ。

(こ、これは……本当にナークのものなの?)

「ど、どうしたの!?」

 心配そうにネアを見つめるミクー。

「大丈夫。また、ちょっと行ってくるね」

「あっ、ネア……さ……さ……ん……ん……ん……」

 ミクーの叫びがフェードアウトしていく。

 ネアは再びナークネットにダイブした。


 ネアは呼びかけの発信源を探すためのキーとなる言葉やイメージを模索していた。膨大かつ混沌としたナークネットでは情報を絞り込むのに苦労する。特にエカトの媚毒に侵された後のネット世界は誰もが奔放に振る舞い、秩序が乱れていた。そこらじゅうのサイトでペットへの淫虐行為の自慢大会が行われている。

「探す必要はないよ」

 どこからか可愛らしいソプラノが聞こえた。

 ネアは首を巡らす。真横に気配を感じる。

 二つ結びをした少女の姿が無から徐々に現れた。フェムの話に出てきたある養殖人間の少女のイメージに似ている気がした。実際に見たわけではないので、あくまで想像との比較だが。

「あなたが私を呼んだの?」

「そうよ」

 少女は……いや女はうなずいた。ナークにしては随分と背が低く顔も幼いのだが、何かこう、人生のあらゆる波を知り尽くした懐の深さを感じるのだ。

「まだ、わからない?」

 女はじれったそうな顔で二つ結びの一つをいじる。

「え?」

「一度戦ったことがあるよ。直接じゃないけど」

「戦った?」

 ネアの戦闘経験はフェムの副官としてナーク軍に対抗した、あの一回だけだ。当時の敵の中の一人なのだろうか?

「おまえが邪魔をしなければ、フェムを捕まえられたのに……」

「思い出した。フェムさんの直属部隊ばかりをつけ狙っていた小隊があったわね」

 ネアはその小隊をかろうじて阻止した。隊長らしき女が異常なほど強く、味方は甚大な被害を受けた。小隊を退けた直後、戦争が終わった。

「戦争は十五年前に終わったわ。今更フェムさんに何をしようというの?」

「私の復讐はまだ終わっていないよ。フェムには母と同じ屈辱を味わってもらうから。そして殺すの」

「あ、あなた……まさかそんな……人間だったはず……」

 ネアはフェムの隠居時代の話を思い出した。不止鳥に乗った養殖人間の娘が、母の恨みを引っ提げて突然襲ってきた、と。

「そうよ。私はアモ。私はナークになった。エカトのせいで……いや、今はおかげと言っておこうかな」

 アモは今の自分を創り上げたエカトの話をした。

 ネアはしばらく言葉が出てこなかった。エカトの才能もそうだが、その執念に。フェムはエカトの亡霊にまた頭を悩ませなければならないのだろうか。いや、そんな甘いものではなさそうだ。恐ろしいことに、今感じているアモの身体能力は、現在地上最強のフェムを凌駕しているのだ。とすれば、アモは未だに成長を続けているとうことになる。時間が経てば経つほど状況が悪くなるに違いない。

 ただ、希望の要素が一つだけあった。バーガッソーだ。ナークはバーガッソーの内側へ入ってこられない。少なくともサワラ島にいる限りはフェムは無事だろう。捕虜たちには申し訳ないと思う。だが、フェムがいない限り、彼らの自由は有り得ないのだ。今日のことは秘密にして、アモを倒す対策を練らねばならない。

「何を考えているか知らないけど、無駄だよ。私、バーガッソーの謎を解いたから」

「な、なんですって!?」

 アモはその詳細を語った。

 専門性が高すぎてネアにも一部しか理解できなかったが、要約するとこんな感じだ。

 二億八千万年前、サワラ島には人間の研究施設があった。ナークはそこで開発された。開発は上手くいったものの、人間はナークと何ら関係を持てずに一旦滅亡した。研究所を出た数体のナークは新生代後の世界へ散っていった。だが、開発初期に作ったプロトタイプ体は研究所から出られないようプロテクトが掛けられていた。数百年後、プロトタイプ体は寿命を迎えた。そこで機能がストップするはずだったが、プログラムが上手く働かずナノマシンが暴走、周囲の時空間を乱し、現在のような人知を超えた結界を作ってしまった。アモは四百年かけて、世界中のあらゆる遺跡から発掘した人間の資料を調べ上げ、結界の特異な性質を解明した、というのだ。

 アモは自信たっぷりで語っているが、百戦錬磨の成せる演技かもしれない。

「それがハッタリではないという証拠がないわ」

「それもそうだね……じゃあ、バーガッソーを消してみせるよ」

 アモはナークネットから離れようとした。

「ま、待って!」

「何か?」

 アモは振り向いた。ストレスの溜まった魔王の娘がこれから発散しに出かける、という顔をしている。これは演技じゃない。本気だ。バーガッソーが消えたら、ゴンドワナのナークがサワラ島になだれ込むに違いない。ナークは野生度の高い人間を特に好む。

「あなたの望みは何?」

「さっきも言ったよ。フェムを養殖場にぶち込んで、何年も無差別に交尾させた後、殺すの。それだけだよ」

 アモの母クローナと全く同じ目にあわせたいということだ。アモの二つ結びもクローナに因んだものだろう。

「復讐の後は何も残らないわ。いいの?」

「私には初めからそれしかない。それが私の全てだもの」

 アモは言い切った。

 養殖人間の頃はナークに飼われる喜びがあったのだろうが、ナークとなった今ではそれも叶わない。なんという哀しい人なのだろう。

「でも、サワラ島にはおまえとフェムの息子がいる。三対一はさすがにキツイかもね」アモは顎に指をやり、しばし考え込んだ。「どう? 取り引きしない?」

「取り引き?」

「私にフェムを差し出せば、バーガッソーはそのままにしといたげる」

「そ、そんな……」

「約束は守るよ。人間には興味ないから」

「でも……」

 アモだけを倒す可能性はそこにしかない。バーガッソーが消えたとしたら、アモを退けることはできても、島民たちは常に飢えたナークたちの脅威に曝されることになる。安住の地の終焉だ。十五年前なら問題なく飲める条件だが、今のアモは……強すぎる。

「じゃ、十日後、ゴンドワナの桟橋で待ってるよ」

 アモはそう言って、姿を消した。


「ふぅ……」

 ナークネットから戻ってきたネアは深いため息をついた。

「どうでした?」

 中腰になったミクーが期待混じりの顔を近づける。

「やっぱりガセネタだったわ」

 ネアは首を横に振った。

「なーんだ……」ミクーは後頭部で両手を組み、伸びをしようとしたが、すぐに手を放した。「あ、いや、ごめんなさい。ネアさんにばかり負担かけちゃってるのに、俺って……」

「いいのよ。いつものことだし」

 ネアは立ち上がった。

「嘘は関心しないな」

 ネアの背後から女の声がした。

 振り返ると、フェムだった。ヒャーボを背負っている。

「私、嘘なんか……」

「私の相棒を甘く見ない方がいい。何年生きていると思っている」

「何年生きてるんですか?」

「そんなもん、忘れちまったさ……って話を逸らすんじゃねぇ!」

 ヒャーボは一人で興奮していた。

「話して、くれるな?」

 フェムはネアの肩に手を乗せた。

 ネアはうなずき、アモの話をした。


「そういうことか……」

 フェムは腕組みした。色白の肌の中では目立つ浅黒い両腕。テューリの腕だ。

「一人でアモと戦ってはいけません。一緒にゴンドワナへ行きましょう」ネアは言った。

「桟橋に着く前に事が漏れたらどうする? 奴は私より速く動けるのだろう?」

「そ、それは……」

 ネアは俯いた。フェムの言う通りだった。アモは全ての能力において地上最高なのだ。こちらが想像もできない策を用意している可能性は充分考えられる。

「それで奴の気が済むのなら、それでいい」

 フェムは覇気のない声で言った。

「何言ってんだよ! 母さん!」

 ミクーはフェムの両肩を叩かんばかりに手を乗せた。

「種を蒔いたのは私だ。自分が良かれと思ってやっても、全ての人が喜ぶとは限らない。私の場合、奴とその母を不幸の底に沈めてしまったのだからな」

「俺は行くからな!」

「だめだ!」

「勝手に行くんだ。取り引きとは関係ない」

「だめだと言っている。子供の考えが通用する相手ではない」

「俺は子供なんかじゃ……」

 ミクーの反論をネアが手で制した。

「勝算は?」

 フェムはヒャーボのハーネスのズレを直し、言った。

「ある」

「相討ちじゃだめですよ。捕虜たちがいるんですから」

「わかった……」

 フェムはそう言い、その場を後にした。



 30 



 フェムはアルマーの不止鳥に乗り、サワラ島を飛び立った。

 フェムは不止鳥の羽毛部屋でヒャーボやアルマーと作戦を練っていた。

「悔しいなぁ。俺はその三人に入ってないんでしょ?」

 先月、三十二歳になったアルマーは無精髭が似合う剛胆な青年になっていた。その三人とはアモが警戒しているフェムとミクーとネアのことだ。

「まぁ、そう言うな。ここにも落選した奴がいるしな」

「俺様は別に悔しくねぇ」

「何で?」

 アルマーは干し肉を引きちぎりつつ、ヒャーボに顔を近づけた。

「訊くまでもねぇだろうが! ったく(くせ)えし、歯ぁくらい磨けや!」

 ヒャーボは体を揺すった。

「おー、怖い怖い」

 アルマーは肩をすくめた。

「ネアの話が正しいなら、私の勝ち目は薄い」

 フェムの言葉を聞いたアルマーとヒャーボは黙り込んでしまった。

「そういう顔をするな。私には父ほどの圧倒的な力はないんだ、仕方ないだろう?」

「弱点はねぇのかよ」ヒャーボは言った。

「強いて挙げるなら、奴がナークだということだな」

「ってことは?」

「意外性に弱い」アルマーは言った。

「あえて非合理な方法で攻めてみるか」

 フェムはヒャーボのフロントポケットから短銃を取り出した。目が良く、反応速度の高い敵に対してはかえって融通が利かない武器だ。

「俺は何をすればいいんです?」

「何も」

「そんなぁ」

「奴は私を引き渡せと言った。おまえは入っていない」

「じゃあ、勝手に暴れちゃおっかなー」

 アルマーは視線を逸らし、掠れた口笛を吹いた。

「おまえまでミクーみたいなことを言うな」

 アルマーは急に真剣な顔つきになった。

「フェム様はこの日のために俺を救ってくれたんじゃないんですか?」

「まったく、余計なことばかり覚えているな、おまえは」

 フェムはアルマーの頭をごしごし手で擦った。

「へっへっへ」

 アルマーはうれしそうに鼻の下を指で擦った。


 翌日、不止鳥はゴンドワナの埠頭に降り立った。

 フェムが羽毛部屋の中から姿を見せると、辺りは騒然となった。

「フェムだ!」「フェムを倒せ!」「エカト様の恨み!」「やっちまえ!」などというナークたちの声が飛んできた。

「やべぇんじゃねぇのか?」

 フェムの背中でヒャーボが言った。

「一対一で勝負してくると思っていたんだが。ハメられたか?」

「一旦、逃げますか?」

 不止鳥の首元に立つアルマーが言った。

「いや……その必要はなさそうだ」

 フェムは桟橋から埠頭へ猛然と駆けてくる少女に視線をやった。二人もそれに倣う。フェムには見覚えのある顔。間違いなくアモだ。アモは桟橋のナークを一撃で倒しながら突進してくる。

「いろんな意味ですげぇな」

 アルマーの正直な感想。どう見ても十二、三にしか見えない二つ結びの少女が、大人のナークを次々と破壊しながら迫ってくるのだ。彼でなくともそう言いたくなる。

「にしても、味方だぜ?」とヒャーボ。

「奴に味方はいない。復讐を邪魔する連中は皆殺しということだ」

 フェムの言う通りになった。アモは埠頭に入って三十秒も経たないうちに、不止鳥を取り囲んでいた数十人のナークを一人残らず殺してしまった。

「上で待っていろ」

 フェムはアルマーに指示を出し、埠頭に飛び降りた。

 アルマーを乗せた不止鳥が飛び立った。

 フェムとアモの距離は十メートルとない。

「長かった……」

 アモは涙を一筋見せた。

「今更、言い訳をするつもりはない」

「飢えたオス共の中で、死ぬまで交尾させてやるよ」

「私に勝てたらな」

「フン、鳥なんか使っても邪魔になるだけだぞ」

 アモは天を一瞥した。奇策はとっくに見破られている。

 地上最強同士、勝負は一瞬で終わるか永久に終わらないかのどちらかだ。正攻法が通用しないとなれば、一瞬で終わらせるしかない。フェムはヒャーボを地面に降ろし、フロントポケットから短銃を取り出した。

 それを見ていたアモが言った。

「そんなもくだらないものは捨てなよ。負けたときの言い訳にするつもり?」

「これでなかなか役に立つものだぞ?」

「老いたか……フェム」

「何とでも言うがいい。ただし、勝負が終わってからだ」

 フェムは銃をアモは両手両足をそれぞれ構え、互いに隙を窺った。

 十秒、二十秒、三十秒。まだどちらも動かない。

 一分経った。互いの汗が滴る音だけが聞こえる。

 どうやら先に動いた方が負けのようだ。

「フ……やるじゃないか。大したプレッシャーだよ」

 アモは余裕の笑みを浮かべた。世辞だとすぐにわかる。負けるとは微塵にも思っていない顔だ。

 アモが再び口を開こうとしたとき、フェムはいきなり撃った。

 弾道の先にアモはいなかった。呼吸に合わせて隙を突いたつもりだったが、甘すぎた。もう一度瞬きしている時間はない。

 アモの拳はすでにフェムの目の前だ。圧倒的な速さ。フェムは防御姿勢をする暇さえなかった。

 アモの拳がフェムの顔を破壊する直前、アモは急にバランスを崩す。

「な!?」

 アモの手足が急にスローモーションになり、斜めによたよたと引きずられていく。ものすごい吸引力。アモの頬が縦に歪んでいる。ヒャーボの大口がアモを捉えようとしているのだ。彼の異世界だか何だかに放り込んでしまえば一生出てこられまい。敵は人型、という先入観を捨てられず、ヒャーボの気配を読み取ることを怠ったのがアモの敗因だ。

 フェムは勝ったと思った。

 次の瞬間。

「ギャー!」

 アモの頭がヒャーボの口に入る寸前、ヒャーボの中で爆弾のようなものが炸裂した。

 ヒャーボは口から煙を吐き、悶絶している。

 アモが振り向いた。二つ結びの髪留めが一つなくなっている。

「あーあ、奥の手見せちゃったぁ」

 アモはそう言い終わるとほぼ同時にフェムの懐に入り、拳で腹を突き上げる。

 あまりのパワーにフェムの体は上空に舞い上がった。

「今度こそ終わりだよ!」

 アモはすでにフェムより高い位置まで跳び、拳を振り下ろしていた。

 ところが、アモはまたしてもバランスを崩……いや、狙いが外れたミサイルのように海の中へ落ちていった。空から落ちてきたアルマーが空中でアモを蹴り飛ばしたのだ。上空数千メートルからの落下だ、重力加速度を考えれば人間の力でも充分凶器になる。それにしても、何も付けずに落ちてくるとは、まったくどうしようもない命知らずだ。

 フェムは、アルマーを両手で受け止めながら着地した。

 アルマーは立てなかった。フェムはアルマーの脇に肩を入れ、彼を支えた。

「おまえ……」

「ま、まさか俺が丸腰で落ちてくるとは、だ、誰も思わなかったでしょ?」

 アルマーはやせ我慢のひきつった笑顔を見せた。片足があらぬ方を向いている。たぶん、足先から大腿までほとんどが砕けているだろう。当然だ。あれほどの衝撃をアモに浴びせたのだから。

「まったく……」

 フェムはアルマーの頬を軽く拳で突いた。フェムはアルマーをその場に寝かせ、ヒャーボに駆け寄った。ヒャーボの煙は収まっていた。爆発の瞬間に髪留めを吸い込み、異世界の方で残りを爆発させたのだという。なんとも器用な奴だ。とはいっても、口がひどくただれていて痛々しい。

「お、俺様はいいからよ……さっさとトドメ差しちまえ」

「いや……アモの気配は消えた。こちらも一旦どこかへ落ち着こう」

 フェムは、傷ついたヒャーボとアルマーを地上に降りてきた不止鳥の羽毛部屋に収容し、大陸の中央へ飛んだ。



 31 



 不止鳥は小さな湖の畔に降り立った。朽ち果てて原型を留めていない丸太小屋が二軒。ここはかつてフェムが隠居していた場所だ。フェムは眼前に広がる湖をヴァイマ湖と名付けた。

 フェムはヒャーボとアルマーを羽毛部屋に寝かせたまま、三軒目の丸太小屋を一人で建てていた。ヒャーボはじきに治るだろうが、アルマーの状態は医術の心得がないフェムの手には負えない。どうにかしてネアをここに呼び寄せなければならないのだが、あいにくナークネットを使える者がいない。

「私がサワラ島に戻れば、奴は今度こそバーガッソーを消してくるだろうし、どうしたものか」

 アモは今回の戦いで実力差が判ったはずだ。三対一でも勝ち目はない。

「何、一人でブツブツ言ってるんですか?」

 背後に耳慣れた女の声。

「な!? おまえ……ネア……」

「来ちゃいました」

 ネアは腰に手を組み、笑顔で言った。その後ろにもう一人いる。

「ミクーまで……」

 フェムは額を押さえ、ため息をついた。結局、主力の全員が島を出てきてしまった。ネアがナークネットにダイブし、ゴンドワナ埠頭の目撃情報を漁っていたらしい。だが、フェムたちがここに来ることまでは判らなかったはずだ。ネアの洞察力は大したものだ。二人はアルマーの弟子が操る不止鳥に乗って来たという。

「お、俺はネアさんが心配で付いて来ただけなんだからなっ」

 ミクーは顔を真っ赤にして言った。

「ああ、そういうことか」

 フェムはミクーとネアを交互に見た。

「そうなんですか?」

 ネアはとぼけた顔で言った。

「そうだと言って欲しいらしい」

「ワケわかんない会話するなよ!」

 ミクーは怒鳴った。

 いちいち熱い奴だ。まったく誰に似たのか。

「まあいい。ネア、アルマーを頼む」

 

 翌日、完成した丸太小屋にヒャーボとアルマーを収容した。アルマーの治療はネアに一任した。人手不足の時に限るが、彼女は島でも医者をやることがある。

 フェムはミクーを連れ、湖畔を散歩した。

「アモは強かった?」

 ミクーが先に口を開いた。

「ああ。奴は自分を過小評価していたようだ。三人束になっても勝てんな」

「そんな……それじゃ、これからどうするんだよ」

「このままではサワラ島の住民を人質に取られてしまう。奴の狙いは私一人だ。今度こそ私一人で行く」

「無茶だよ。もう少し考えなきゃ。母さんはいつも決断が早すぎるんだ」

「言うようになったな。だが、時間がない。おまえならどう出る?」

「俺なら……」

 ミクーはそう言ったきり、口をつぐんだ。

「やはり私が出るしかないようだな。私の体で五千の命が助かるなら、安いものだ」

「本気で言ってるのか?」

「なぜそんなことを訊く」

「残された俺やネアさんの事はどうでもいいのかよ。それに……」

「それに?」

「もっと大事な人のことを忘れてる」

「忘れたわけじゃない。それに、誰も殺されに行くとは言っていない」

「でもさっき勝てないって……」

「奴の気が済むまで、言いなりになればいいのだろう? その間に必ず一度は油断する。そのチャンスを狙う」

「そんなのだめだよ! あいつが母さんに何をさせようとしてるか知ってるくせに!」

「そうだな……名前すら判らない男共の子を産み続けるのはさすがに辛い……」

「そうだよ。そんな最低な作戦、絶対認めないからな!」

「わかったわかった。そう興奮するな」


 夜明け前、フェムは気配を消し、一人でヴァイマ湖畔を去った。



 32 



 フェムは大陸の背骨、中央ペルミー山麓を西へ向かって走っていた。いくらアモが賢いといっても、砂漠の中から特定の一粒を見つけるような探し方は至難の業だ。フェムは考えた末、ローラシアタワーへ行くことにした。あそこで目立てば、ナークたちの話題にも上がるだろう。あとは悪あがきをするだけだ。


 二週間後、フェムは密かにローラシアシティーに潜入し、朝の開館と同時にタワーへ突入した。

 フェムは一階エントランスホールで少々暴れた後、屋上を目指した。ナークたちはやはりエカトの名を挙げて、追いかけたり逃げ回ったりしていた。誰が何人かかってこようと、普通のナークはフェムの敵ではない。二百階を超える頃までに、少なくとも百人は倒した。

 二五五階の展望台まで来た。ここでヒャーボと茶をすすった。ヤーペンルーズに出会った。何もかも懐かしい。だが、想い出に浸っている場合ではない。入口に突っ立っていると、ナークの男が数人襲いかかってきた。フェムはこれを難なく退け、非常階段を伝って屋上へ出た。

 屋上に出たとたん、朝日で目が眩んだ。強い横風で真っ直ぐ歩くこともままならない。屋上には柵らしいものが一切なかった。ここは観光用には作られていないようだ。フェムは慎重な足取りで屋上スペースを歩いた。展望台とは比べものにならない程狭く、直径五メートルほどの円状になっている。タワーのてっぺんだけを横から見たら栗の実かタマネギのように見えるに違いない。尖った部分が屋上だ。フェムは屋上スペースの端まで歩き、角から足を出してそこに座った。眼下にローラシアシティーの同心円が広がる。

 フェムを倒したければアモを出せと言ってある。あとは待つだけだ。


 三日後の夕方、アモがやってきた。恐ろしいことに不止鳥を操っている。不止鳥はナークには絶対懐かないはずなのだが……人間時代の名残が少しでもあるのだろうか?

 不止鳥がタワー屋上の上空で旋回している。アモが飛び降りてきた。

「一人で待つとはいい度胸だね」

 アモの眼光は先日戦ったときのままだ。ダメージは微塵も残っていないようだ。

「何人で待っても同じだからな」

「私に勝てないと感じて諦めたんでしょ? 情けない奴」

「言いたいことはそれだけか?」

「あとは養殖場でじっくり話したげる」

 フェムとアモはそれぞれ独自の構えを作った。

 アモが先に動いた。

 勝負は一瞬で決まった。

 アモがフェムの鳩尾に一発。それで終わった。

 フェムは一歩も動けず、一蹴りも浴びせることなく敗れた。



 33 



「フェムさん……なんてことを」

 ナークネットから戻ってきたネアは両手で顔を覆った。座っていたベッドからずり落ちそうになるのを隣に座るミクーが支える。

 ネアはフェムが失踪した後、ナークネットのあらゆるサイトを捜し回った。二週間後、ローラシアタワーで騒ぎがあったことを聞きつけた。詳しく調べたところ、フェムがアモに敗れ、連れ去られていったことを知った。

「母さん……やっぱり一人で行ったんだ……」

 ミクーは頭を抱えた。

 ミクーの隣にいたヒャーボは終始無言だった。まるで本物のバックパックのように無生物の振る舞いを見せていた。体の方は回復したが、心の傷は相当なものだろう。フェムがアモに受ける仕打ち云々よりも、千年近く苦楽を共にしてきた自分を連れて行かなかったことの方にショックを受けているようだった。

「ったく、落ち込んでる暇があったら策を考えろよ」アルマーは向かいのベッドから起き上がり、松葉杖をついて立ち上がった。「あの人はな、絶対に諦める人じゃあない。何年かかろうとどんな屈辱を受けようと、必ず俺たちが逆転のきっかけと作ってくれると信じている」

「だけど母さんは……」

 ミクーが口を挟んだ。

「まあ聞け、ミクー。アモはフェム様を捕まえ、周りが見えなくなっているはずだ。あれほど執着していたんだからな。アモはすぐにはフェム様を殺さない。その間にとにかく考えるんだ」

「あんたは血が繋がってないからそんな冷静なこと言っていられるんだ!」ミクーは立ち上がり、アルマーを殴り飛ばした。「わかってんのか? 母さんは……母さんは養殖人間の男に……」

 ミクーは泣きながら床に倒れたアルマーの胸ぐらをつかみ、もう一発入れようとした。

「やめなさい! ミクー!」ネアはミクーに怒鳴った。「アルマーを傷つけたら、フェムさんが助かるの?」

「それは……だけどこいつの言ってることは……」

「アルマーは正しいわ。どうすればアモと対峙せずに倒せるか、考えるのよ」ネアは立ち上がり、ヒャーボを抱き上げた。「ヒャーボさんも」

「あ……ああ」

 

 ネアたちはそれから三週間、考え続けた。結論は出なかった。



 34 



 アモに捕まってから何日か後、フェムは人間養殖場の一室で目を覚ました。人間が畜産で使っていた動物の養殖場とは随分趣が違う。窓もベッドもトイレも何もないが、どちらかというと刑務所の雑居房に近い感じだ。部屋は意外に広い。ヴァイマ湖畔の丸太小屋と同じくらいある。

 なぜ、養殖場だと判ったのかというと……男女のおぞましい喘ぎ声がそこら中で反響しているからだ。

 意識がはっきりしてきた。フェムは何も纏っていなかった。

「ク……ダメか」

 手足をそれぞれ繋ぐ拘束具を外すことができない。金属とも樹脂とも思えない、無限大の記号を描いて流動する真っ黒な何か。その拘束具はフェムの力のほとんどを吸い取っていた。どういう仕組みかは知らないが、アモが作ったのだろう。

「お目覚めのようね」

 金属の扉に空いた唯一の小窓からアモが顔を見せた。

「こんなものを付けなくても、私は逃げはしない。私はおまえに負けたのだ」

 フェムは両手の拘束具をアモに見せた。

「フフ……私の慢心を狙っても無駄だよ。その拘束具は私が死なない限り外れないから」

 アモは舌をちらっと見せた。

 アモは既に四百歳を越えている。老かいなナークの部分もあるのだが、話し方など人間少女時代の片鱗を見せ、見た目と合致するときがよくある。

 もはやアモに隙はない。やはり……待つしかないということか。

(テューリ……すまない)

 フェムは浅黒い両腕を頬でさすった。

「さて、さっそくショーを始めるとしますか」

 アモがそう言うと、轟音と共に金属扉が横にスライドした。

 アモが部屋に入ると、その後ろからぞろぞろと十人ばかり全裸の人間の男が入ってきた。様々な肌の色、体格、年齢、まさに十人十色の無差別だ。皆、充血した目でフェムを見ている。息が荒い。

「おまえはここで死ぬまで新たなペットを生産し続けるんだ。ああ、そうそう、先に断っとくけど、私の寿命を待っても無駄だから。私の命は無限なんだってさ」

「私が死ねばおまえには何も無くなる。永遠の虚無が待っているぞ。いいのか?」

「虚無の方がまだマシだね」アモはあっさりと言い放った。「何か言い残すことは?」

「ナークを創ったのは人間だということを思い出せ」

「や……」アモが一瞬ためらった様に見えた。「やれ!」

 男共は一斉にフェムに襲いかかった。



 35 



 アモを倒す方法を考え始めてから一ヶ月が過ぎた。誰も妙案を出せないまま、イライラは頂点に達しようとしていた。

「こうしている間に、母さんは……母さんは!」

 ミクーは湖畔で最も太い木を蹴った。ミシミシと裂ける音がして、大木は倒れた。

 ミクーは家中の物を壊し続けた。壊す物が無くなると、外に出かけて大木をなぎ倒すようになった。

「落ち着け。考えろ」

 ミクーの横に立つアルマーはまだギプスが取れず、松葉杖をついている。

「あんた、そればっかじゃないか!」

「半端な作戦で動けば、かえってフェム様に迷惑だ」

「迷惑? じゃあ、今母さんがされているかもしれないことは迷惑じゃないってのか!」

 ミクーは拳を引いた。

 ミクーの後ろにいたネアはその手をつかんだ。

「いいわ。行きなさい」

「お、おい!」

 アルマーは驚いた顔で振り向き、ネアを睨んだ。

「フェムさんがどこで捕まっているのか、知ってるんでしょ?」

 ミクーは首を横に振った。

「……ごめんなさい」

 エクシア超大陸はあまりに広い。怒りに任せて闇雲に探し奇跡を起こせるほど、甘くはない。フェムがどこに監禁されているのか、全く検討がつかなかった。大陸の人間養殖場は全て洗ったのだ。ナークネットの情報はもう掘り出し尽くした。


 その日の晩。アルマーが食事を終えた後(彼だけが人間なので毎日食べる)、ベッドで佇むヒャーボが突然口を開いた。一週間前に一度だけ何か呟いた後、置物のように微動だにしなかったヒャーボが。

「一つだけ……使えそうな方法がある」

「な、なんでしょうか?」

 ヒャーボの隣に座るネアは、はやる気持ちを抑えるのに必死だった。

 ミクーは向かいのベッドから立ち上がったが、隣のアルマーが松葉杖で通せんぼうしている。

「その前に、ナークは例外なくヒストリカルクラウドっていう裏の世界とも繋がることは知ってるな?」

「ええ、全てのナークの記憶が保存されている場所ですね」

 イレギュラーのナークだけが侵入できるナークの聖域だ。

「ヴァイマが昔、言ってたんだけどよ……その……なんだ……」

 ヒャーボは口ごもった。

「言ってください。どんなことでも受け止めますから」

「そのヒストリカルクラウドに対応できるウィルスをぶち込めば、ナークは全員止まっちまうんだとよ」

 ヒャーボは一言付け加えた。

「それを作れる奴がいればの話だけどよ」

「やりましょう、それ」

 ネアは即答した。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」ミクーはアルマーの松葉杖をはねのけた。「全員止まるってことは……」

「全員死ぬってことだ。ナークは滅亡だ」とヒャーボ。

「じゃあ、ネアさんはどうなるんだよ!」

「そ、そうか……その作戦だとネア(ねぇ)が……」

 アルマーは天を仰いだ。

 ネアは立ち上がり、言った。

「私、やります。フェムさんも捕虜たちもみんな助かるわ」

「何言ってんだ! 自分は死んでもいいのかよ!」

 ミクーが怒鳴った。

「私、ナークの血はもう絶やすべきだと前から思ってたの。確かに人間より優れている部分は多いけど、やっぱり不自然な存在であることに変わりはない。ナークは自然の恵みから生まれた生き物じゃないもの」

「ネアさんは……」ミクーは俯いた。「特別だよ……」

「ありがとう、ミクー」ネアはミクーに近寄り、頬に口づけした。「でも、もう決めたの」

「だめだよ……やめてくれよ……ネアさんがいなくなったら、俺は、俺は……」

「メソメソする男は嫌いよ」

 ネアは微笑みを作り、ミクーの鼻先をつついた。

 ミクーはしばらく黙った後、痰が絡まったような濁った小声で言った。

「年下は?」

「別に。気にしないわよ」

 この直後、ミクーはネアに愛の告白をした。

 あとどれくらいの時間が残っているかはわからない。それでもいいというのなら、と言ってネアはミクーの思いを受け入れた。



 36 



 養殖場に来てから、一ヶ月ほど経った。

 フェムは未だに同じ部屋に監禁されたままだった。

「どうなってるの! どいつもこいつも役立たずばかり!」

 アモは側にいた養殖人間の男たちに当たり散らし、皆殺しにしていった。ここに来てから毎日この調子だ。養殖人間の男たちはフェムに襲いかかるも、こちらの目を見たとたんに、腰が引け、部屋から逃げだそうとするのだった。アモはそれをいちいち捕まえて心臓や頭を一突きしていた。

「いい加減にしたらどうだ。彼らに罪はない」

「うるさい! おまえが屈辱とエンドルフィンの狭間で狂い死ぬのを見届けるまで、何度でも連れてきてやるからな!」

 次に控えている男たちが入ってきた。

 アモは悪態をつきながら、部屋の外へ出て行った。

 彼女が頑固で助かった。

(アモは私にばかり固執している。ミクーを捕まえてきて出汁にすれば、これ以上ない苦痛を与えられるというのに。我が息子はよく我慢している。ネアのおかげだろう。まだ勝ち目はある)



 37 



 ヒストリカルクラウドの研究に入ってから、半年経った。

 ウィルスの開発は進めば進むほど難題が山積し、ネア一人の手に負えなくなってきていた。

 ミクーやアルマーは何も手伝うことができず、歯がゆいと常々言っている。

 ネアの知識だけでは限界があった。

 ある日、ネアはヒャーボに相談を持ちかけた。

 ヒャーボは「少々危険だが、あそこへ行くしかなさそうだな」と言った。

 あそことは、ローラシアタワーのことだ。タワーの地下にナーク開発者の資料が眠っているという噂があった。それを漁ることができれば、大きな壁を打ち破れるかもしれない。

 ただ、問題が二つあった。一つは本当に資料が残っているかどうかということ。仮にあったとしても、まともな場所にあるわけがない。あれば、禁断の書としてとっくの昔にまともなナークが処分しているか、野心を持ったジャノンやドイチェフのようなイレギュラーが見つけているはず。もう一つは、元人間軍のネアとアルマーの顔や素性が割れているということ。タワーはおろかローラシアシティーにすら潜入するのに難儀するだろう。

(問題ですって? フェムさんの苦痛に比べれば、こっちは深爪程度のものよ)

 準備を整えたネア、ヒャーボを背負ったミクー、アルマーは不止鳥に乗り、ローラシアへ飛んだ。


 四日後。ローラシアシティー上空一万メートル。

 地上からの侵入が難しいと判断したネアたちは、タワーの屋上に強行着陸することにした。正確に言えば強行着地だ。不止鳥に乗ったまま近づくのはあまりも目立ちすぎる。そこで、ヒャーボをパラシュート代わりに屋上へ降りる、という作戦を立てた。アルマーは降下チームから除外となった。人間はナークに嗅ぎつけられてしまうからだ。落ち込むアルマーを皆で持ち上げるのにどれほど苦労したことか。脱出のことを考えればアルマーに待機してもらわないと困る。今回の作戦の最重要な任務なのだ……などなど。

「初めからわかってたさ。さっさと行ってこい」

 アルマーは分厚い手で、ネアとミクーの背中を力一杯叩いた。皆の緊張を感じ取り、わざと大袈裟に落ち込んで見せたのだろう。特に、若いミクーには効果てきめんだった。ネアは心の中でアルマーに何度も感謝した。


 羽毛部屋を出たネアとヒャーボを背負うミクーは、滑空する不止鳥の尾の付け根に立った。ロープを使い、前がネア、後ろがミクー、というタンデム型に密着固定する。

「懐かしいな……」

 ヒャーボがぼそっと言った。

 ネアは聞き取れず何度か聞き返したが、ヒャーボは「なんでもねぇ」の一点張りだった。

 ネアは下界を覗いた。黒い雲ばかりで何も見えない。幸い今日は悪天候。誰か言ったか知らないが、上陸作戦にはもってこいの日だ。ただし、今回は海岸ではなく、直径五メートルの屋上、晴れていても点にしか見えないピン先への上陸だ。ヒャーボの空気調節に全てがかかっている。

「深刻な顔してんじゃねぇよ」ヒャーボはネアに言った。「俺様は失敗しねぇ。あいつに言ってねぇことが山ほどあるんだ」

 ネアとミクーはうなずいた。ネアたちは不止鳥から飛び降り、黒雲の中へ落ちていった。風雨に翻弄されながらも何層もの雲を抜けていく。一番下の雲を抜けた。タワーの屋上が見えてきた。それでもまだ米粒くらいにしか見えない。ヒャーボが周囲の空気を吸い込み、数百倍にも膨らむ。急減速。ヒャーボが細かく息を吐いて位置を微調整する。位置が定まるとヒャーボは再び萎んでいく。いつまでも膨らんでいるとナークに見つかる可能性があるからだ。ネアとミクーは再び落下する。両足で着地。危なかった。あと十センチ左にずれていたら、非常階段の屋根のでっぱりに激突していた。

「イツツ……」

 ミクーが両脚を押さえ、唸っている。

 ネアも同様だった。何しろ二百メートル以上の高さから飛び降りたのと同じ衝撃を受けたのだから、骨折しなかっただけ運がいい。

 足の痛みが落ち着くと、ネアたちは鋼鉄の扉を開け、非常階段を下りていった。ロックはかかっていなかった。フェムが捕まったのを知り、ナークたちは安心しきっているのだろう。

 展望台の入り口に差しかかった。エレベーターはこの中にある。

 ネアは既に変装用の立体映像を施してある。母サイモネの形見だ。どこまで通用するかわからないが、ひとまずこれで行く。

「いい? 普段通りに振る舞うのよ。大丈夫、ミクーの顔は誰も知らないから。私たちはどこにでもいそうな学術系のカップル。復唱して」

「お、俺たちは、ど、どどこにでもいそうな……」

「顔が固いわ。もっと幸せそうに」

 ネアはミクーの頬をつねった。

()ほへはひは(おれたちは)……」

「全然……幸せじゃなかった?」

 ネアはミクーの腕に腕を絡ませ、見上げた。

 ぶんぶんぶん! 必死の形相で首を激しく横に振るミクー。

「母さんやネアと暮らした十五年……幸せだった」

 ミクーはネアに口づけした。

「俺様は入ってねぇのか?」

 ミクーの背中でヒャーボが言った。

「キスしてほしいか?」

 ミクーは首を後ろに捻り、口を突き出した。

「充分伝わったから、それだけは勘弁してくれ」


 ネアとミクーは腕を組み、展望台フロアへ入った。

 カフェの前を難なく通過し、三つ並ぶエレベーターの右側に立つ。最下階行きの急行がタイミング良く到着。幸先がいい。中に入り、扉が閉まる。最上階から乗ったのはネアたちを除いて僅か二人。雨の日はナークも好まない。エネルギー取得効率が悪いからだ。急行エレベーターは十階ごとにしか止まらない。普段は混雑するのだが、今日は出入りする客はどこも疎らだ。

 一階エントランスホール到着。それまでいた五人の男が全員降り、中はネアたちだけになった。思った通り、地下にある効率の悪い紙媒体資料は人気がなさそうだ。

「さて、どこから攻める?」ヒャーボが言った。

「やっぱり一番下が臭いかな?」

 ミクーは扉上の階数表示を見ている。

「普通の人ならそう考えるでしょうね」

 ネアは横壁にあるフロア案内用のパネルに指を触れた。地上地下二五五階分の情報が自動的に脳内にダウンロードされる。

「ふーむ、ここにしましょう」

 ネアがそう言うと、まもなくエレベーターの扉が開いた。そこは地下八十階だった。エレベーターを降りるも、フロアには入らず非常階段の方へ足を向ける。ネアが階段を上り始めるとミクーが口を開いた。

「どこに行こうっていうのさ」

「地下七十九階よ」

「何で?」

「ナークという単語をある国の言葉で分解すると、『ナナ』と『キュウ』。間の長音符号はマイナスを意味する」

「わかるように言ってよ」

「ナークの研究施設があった国の言葉を使った語呂遊びで考えてみたの。するとナークはマイナス七十九に変換できるってわけ」

「ここはサワラ島じゃないし、関係ないと思うけど」

「ナークの開発者のように、プログラミングに通じた人は裏技とか謎解き遊びを好む、って話を聞いたことがあるわ」

「なるほど。ナークたちは知らないうちにそこへ資料を隠すようプログラムされていた、とか」

「ネアよぅ、おめぇ本当にナークか?」

 ヒャーボが口を挟んだ。

「何かおかしいですか?」

「発想が柔軟過ぎるぜ」

「ありがとうございます」

「いや別に、褒めた訳じゃねぇんだが……まぁ、いいか」

 そうこう話しているうちに地下七十九階に出た。


 地下七十九階。そこは何の変哲もないライブラリーだった。それも、AIのAの字もナノマシンのナの字もない、コテコテの文学系フロア。ナークともあろう人工生命が、文学本を保存しておくこと自体が不思議に思えるが、残っているということは武器や農薬よりは使えるということなのだろう。

 だだっ広いスペースの中に整然と棚が立ち並び、その中に整然と書物が並ぶ。人影はないようだ。司書は地上百階と地下百階に一人ずつしかいない。検索もヘルプもクレームも全てナークネットで事足りている。ただ、監視カメラはそこらじゅうにあるので気をつけなければならない。錠もかけない呑気なナーク世界においては、異常と言えるほどのセキュリティーだ。コピー不能の生ものを保管しているのだから、当然といえば当然か。

 現在正午。閉館時間まであと八時間。それまでに何らかの結果を出さなければならない。ここをそう何度も出入りする訳にはいかないのだ。

「これ、全部調べるのか?」

 ミクーは呆然とフロア内を眺めていた。長さ百メートルはある書架が約百本。少なく見積もっても五百万冊はある。

「たぶん、この中にはないわ」

「えっ? 何でわかるの?」

「書架の本は全て管理されているからな」ヒャーボが言った。

「じゃあ、他を当たろう」

 ミクーはフロアを出ようとした。

「待ってミクー。資料は本の形をしているとは限らないわ」

「どういう意味だよ」

「三十分でいい。ライブラリーの中を歩いて考えましょう」

 ネアとミクーはそれぞれ別々の書架の列を歩いた。

 ネアは二十分ほど歩いた。やはり、対劣化コーティング処理を施した、ただの本しかない。

 諦めかけたその時、ミクーの「あっ」という声が遠くから聞こえた。ネアは怪しい動きにならないよう、一冊本を手に取り、ミクーがいる列へ歩いた。

「何か判ったの?」

 ネアは小声で言った。

「本に付いてるラベル」

 ミクーは背表紙の底を指差した。管理番号と複雑な幾何学模様の二次元コードが貼ってある。

「ラベルがどうかしたの?」

「いや、何となくだけど、意味のある配列に見えなくもないかなって……」

「ハッ!?」

 ネアは頭の中に雷光が走った。急いでその辺にある何十冊かのラベルをざっと横に読んでいく。

 それはヒストリカルクラウド内のあるアドレスを表していた。そこはあまりに広大な世界。全ての本のラベルを調べないと正確な位置まではつかめない。あと七時間半、やるしかない。


 閉館時間の音楽が流れた。

「こっちは終わったわ!」

 ネアはフロアの入口に戻った。

「ま、待って、あと千冊!」

 ヒャーボを抱えたミクーが一番端の書架で最後のラベルを読み取っている。どうやら間に合いそうだ。

 ネアがミクーの様子を見に行こうと一歩踏み出したとき、背後に気配を感じた。

「サワラ島のネアだな? 貴様を処刑する」

 ネアが振り向くと警備のナークが五人、フロアの入口を塞いでいた。

 ネアは歯を食いしばった。

(さすがに八時間は騙しきれなかったか)

 五対一、ナークとしては並程度の力しかないネアでは為す術もなかった。

 黒ずくめの男たちはネアを取り押さえ、あとは頭に最後の一撃を食らわせるだけどなった。

(これまでか……)

 ネアは思わず目を閉じた。

「食らえ!」

 ミクーの大声と共に、轟音が迫ってきた。

 ネアが目を開けると、ミクーが抱えるヒャーボが大量の水を吐き出していた。出発前に溜め込んでいたヴァイマ湖の水だ。ライブラリーは大洪水となった。書物混じりの激流はネアと警備の者たちを飲み込み、非常階段を伝って階下へ押し流していった。

「ネア!」

 ミクーの叫びが聞こえた。

 ネアは階段の手すりにしがみつき、激流に耐え続けた。警備員たちは地下八十階のフロアへ流されていったようだ。

 洪水はやがて収まり、ネアは階段の段差に足がつくようになった。

 ヒャーボを背負ったミクーがネアの手を取る。

「行こう!」

 ネアたちは非常階段を駆け上がっていった。エレベーターは緊急停止していた。どのフロアもほぼ無人に近かったが、地下四十八階を過ぎようとしていたとき、上の踊り場にいた学生らしき若いナークが二人、立ちはだかった。二人は瞳の色を失い、ネアばかり見ている。

「やべぇな。ネアは暴走扱いになっちまったようだ」

 ヒャーボが小声で言った。

 ひとたびナークがそうなったら、どのような説得も無駄だ。

「やるしかないのか?」

 ミクーはネアの前に出て、身構えた。

 二人のナークはミクーを警戒しつつ、じりじりと間合いを詰めてくる。

 ネアはヒャーボのフロントポケットから銀色のピンが付いた鉄色のボール『フォトングレネード』を取り出す。

「ば、ばっきゃろう! こんな狭いところでそんな物騒なもん使ったら……」

「二人とも目を瞑って!」

 ネアはピンを抜き、鉄球をナークの方へ放り投げた。ネアも目を閉じた。

 炸裂音。続いて、ナークたちの絶叫が聞こえる。

 ネアは目を開けた。両目を押さえる二人のナークが悶絶している。

「走って!」

 ネアとミクーはナークたちの横をすり抜け、階段を駆け続けた。

「一体何しやがった」ヒャーボは言った。

「威力を十万分の一に細工しておいたんです。目くらまし用に」

 中量破壊兵器フォトングレネードは爆発するときに強い光を放つ。ネアはゴンドワナにいた頃、その兵器の破壊力を絞っても光量はそれほど変わらないことを発見していた。

「まだあるの?」とミクー。

「残念ながら、最初で最後の一個よ」

 サワラ島には高エネルギー兵器の生産能力がない。さっきのは、ナークとの戦争中に使わずじまいになっていたものだ。

 運良く、閉館時間まで残っていた利用者はさっきの二人だけだった。ネアたちは一気に一階エントランスホールまで駆け抜けた。

 人の気配がした。ネアたちは最後の階段の途中で身を伏せた。

「間に合わなかったか……」

 ヒャーボは舌打ちした。

 エントランスホールは数十人の黒ずくめナークで溢れ、全ての出入り口を固めていた。

 ネアは冷静さを欠いていた自分を心の中で責めた。切り札は最後まで取っておくべきだった。慌てていたせいで、二人ごときの敵に目くらましを使ってしまった。

「俺たちが囮になる。ネアは一番薄い所を狙って逃げて」

 ミクーはそう言って、立ち上がろうとした。

「何言ってるのよ!」ネアはミクーの腕を引っ張っり、小声で怒りをぶつけた。「あなたたちが死んだらフェムさんには何の希望もなくなるわ!」

「じゃあ、どうすれば……」

 その時、階下から複数の足音が聞こえてきた。おそらく、洪水にやられた連中が復活したのだろう。

「俺様を使え」ヒャーボが口を開いた。「ポケットの銃弾をありったけ口の方に放り込んでくれ」

「な、何を考えて……あ!」

 ネアは作戦の意味を理解し、ヒャーボの指示に従った。

 ミクーは、ヒャーボの口が前方を向くような形で腹に抱えた。

「いい? 三、二、一、ゴー!」

 ネアの号令で、二人は残りの階段を駆け上がる。

 エントランスホールの床に出た。

 ヒャーボが数倍に膨れあがり、すぼめた口から数百発の銃弾を一気に放出する。

 ナークたちは伏せたり、体を左右に振ったりしてこれらを全てかわした。戦闘に通じたナークに生半可な銃撃は通用しない。

 数百発の弾丸はホール玄関の壁を占める一面の強化ガラスを一斉に破壊した。

 静寂。

 ナークの警備員たちは体制を立て直し、非常階段に近寄ってきた。

「退路を確保しようとしたのだろうが、残念だったな」

 先頭の男が無表情で言った。

「本当にそうかしら?」

 ネアは余裕の口調で言った。

「疑心暗鬼に陥れようとしても無……なんだ!?」

 玄関での破壊音に、警備員たちは一斉に振り向いた。

 青い巨鳥の咆哮。アルマーの不止鳥だ。不止鳥が強度の落ちた玄関の壁をぶちやぶり、ホールに突っ込んできたのだ。玄関を固めていたナークたちが散り散りに転がっている。

 ネアとミクーはナークたちの一瞬の隙を突き、不止鳥へ飛び乗った。

 黒ずくめの男たちは一斉に不止鳥に飛びかかってきた。

 不止鳥、大きく羽ばたきを一つ。

 烈風が男たちを煽り、方々の壁や床に叩きつけた。

「アッハッハ! やっぱり俺が最重要任務だったな!」

 アルマーが不止鳥の首元で派手に笑った。やっぱり気にしていたのか。

 不止鳥はローラシアの夜空に舞い上がった。

 ネアとミクーとヒャーボは羽毛部屋に入るや否や、泥のように眠った。



 38 



 養殖場に監禁されて半年。

 養殖人間の男たちは次々とアモに殺されていった。誰一人としてフェムに近づける者がいなかったからだ。一糸纏わぬフェムを見ても、彼らは欲情どころではなく、何かの葛藤に苦しんでいるようだった。

 フェムは随分前から感づいていた。これまで一人としてフェムを恐れない者はいなかった。もしや、戦争から十五年の間に純粋養殖種は絶滅したのではないか。男が純粋養殖種ならば、昔のアモやその母クローナのようにフェムを見ても全く動じないはずだ。とすれば、ここにやってくる男たちは全員、敗戦で捕虜になった者たち、もしくはその子供のはずだ。

 フェムは歯がゆかった。目の前に悲願の対象がいるというのに、自分は何もできないまま拘束されている。それに、彼らはナークに脳をいじられたのか、女がフェムであることに全く気づいていない様子だった。それでも無意識に何かを思い出したのか、目や表情で何かを訴えようとしている感じはあった。

 これ以上、捕虜たちをアモに殺させるわけにはいかない。

 フェムは自ら、彼らを受け入れる努力をすることにした。結果的にアモの思うつぼになってしまうが、相手が女王フェムと国を守るため共に戦った者たちなら、目を瞑ってもいいと思った。

 やがて、新たな男たちが六人、部屋に入ってきた。中には見覚えのある顔もある。全員こちらを見て怯えている。間違いない。

「こっちへおいで」

 フェムは色目を使って男たちを誘った。

(テューリ……許してくれ。今度こそ本当に私は……)



 39 



 ネアたちはローラシア中部の上空にいた。

 仮眠から覚めたネアは早速アドレスの解析に入った。アドレスは単に長いだけなので、領域の特定はすぐに終わった。一度確認のために、ヒストリカルクラウドへダイブした。そこには確かにナーク開発者の情報が入ったあるナークの記憶があった。

 あとは再びダイブして、資料を理解し、ウィルスを完成させ、ナークネットにばらまくだけだ。成功すればネアは二度と目覚めることはない。


「本当に……それでいいの?」

 ミクーは羽毛部屋の壁に前のめりで寄りかかったまま言った。

「ナークは……滅ぶべきなのよ」ネアはミクーの背中を抱いた。「マリンブラウ、ゴンドワナ、サワラ島、出会った全ての人たち。アルマー、ヒャーボさん、フェムさん、そしてミクー……私、本当に幸せだった」

「おめぇのことは、生涯語り継ぐからよ」とヒャーボ。

「何もわかんなかったら、とっとと戻ってきてくださいよ」とアルマー。

「ありがとう」

「俺は……俺は信じてるから……ネアだけは特別だって……」

 ミクーは俯いた。

「うん」

 ネアはミクーを抱き寄せ、口づけした。

「じゃあ、行ってきます」

 ネアは胎児のような格好で横になった。皆の顔がぼやけていった。

 ネアはナークネットにダイブした。


 ヒストリカルクラウドへの道は、かつてヴァイマが見つけた方法で行く。錯綜する不定形のサイト群をかき分け、有効データ密度の低い辺境へ跳ぶ。廃データの海を見つけた。海と言っても明確な色形を持っているわけではなく、混沌としたナークネットの一領域にすぎない。ヴァイマは本能的にそれを広大な液体の塊と感じ、海と呼んだのだろう。わかりやすく捉えるために、ネアもそれを海と感じるようイメージした。なんとも汚い海だ。削除不能の廃物ばかりなのだから仕方がない。ネアは辺境の崖から海へ飛び込んだ。

 体や手足にまとわりつくヘドロを振り払いつつ、海溝を目指す。現実の海のような水圧はないので、場所さえわかっていればそれほど苦労はしない。

 十分後、海溝の途中に縦割りの溝を確認。さらに十分かけて、その溝の奥へ横歩きで進む。その突き当たりに、光と闇が入り交じった楕円形のスポットがある。大きさはネアの半分くらいだ。

 この入口はイレギュラーであるネアにしか見えない。この先はもう、誰もネアを見つけることはできないだろう。

 ネアは楕円の中に身を投じた。

 

 ヒストリカルクラウドは言ってみればナークの記憶の図書館だ。自身がそう思っていれば、アドレスが明確な場所は楽に探すことができる。ただ膨大な混沌だと思いこんでしまうと、足場のない無限の広がりに飲み込まれる。

 ネアは先に解読したアドレスを確認した。十億文字以上の長いアドレスだが、二度目ということもあり落ち着いて順を追っていけば混乱することはない。ネアは分類の細かい方へ細かい方へとジャンプしていった。ジャンプといってもここでは距離の概念がないので、瞬時に移動するという意味だ。

 ネアは目的の記憶領域の手前に体を出現させた。

 ネアの眼前には、古めかしいデザインのアイコンが浮遊しながら無数に並んでいた。その中に先程確認した、ナーク開発者の資料があった。それとは別に彼らの映像記録もあった。アイコンの内容を詳しく調べていくうち、ネアは驚愕の事実を知った。この記憶領域は何と、初代ナークの一世代前、プロトタイプのものだったのだ。

 ネアは早速、映像記録を再生した。


 狭い実験室内。白衣を着た若い男女が十数名、カメラ目線で佇んでいる。開発リーダーらしき真ん中の青年が口を開いた。

「この映像を見ている君は、僕らの想像を超えた新しいナークなんだろうね。そして、この記憶に辿り着いたということは……」

「その話は長いの?」

 隣の女が横目で言った。顔は笑っている。

「あー、オホン。もし君らナークが地上に適さない存在となったときのためにと、用意したものがある。何のことはない、ナーク仕様書のオリジナルだ。そこに全てが書かれている」

「時間がないようなら、トラブルシューティングを見てね」

 メガネの女が手を振った。

「あまり緊張感のないメッセージになってしまったけど……僕らはこのビデオを、できることなら誰にも見て欲しくないと願っているからなんだ」

 新生代末期、彼らが生きた二十三世紀当時の世界を短時間にまとめた動画が割り込んできた。荒れ果てた地球、疲弊した人類、新しい人工生命体に賭けた研究者たち……。

「その……もし人間が生き残っていたら、きっと大変なことになっていると思う。それはナークの仕様だと思って諦めて欲しい。こんなことを公で言うと捕まってしまうけど、地球を破壊することしか知らない人間は滅びるべき存在だと僕らは思っている」

「それでも、殺すことはさすがに忍びない。だから、人間を捕まえたときは地球に何の影響も与えないペットとして仕込むよう、プログラムしておきました」

 体格のいい黒人男はそう言った後、視線を落とした。

「何にしても、ナークがナークを止めるということは、改心した人間の方を生かしたいということなんだろう? たとえ人間の方から歩み寄ったとしても、残念ながらナークは人間とは決して共生できない、自然に反する存在だ。ナークである君が決心したのなら、ためらうことはない。ひと思いにやって欲しい」

 映像は開発者の直筆サインのテロップを最後にブラックアウトした。


「そう……だったの」

 疑問の全てが解決したわけではないが、少なくとも人間とナークの相容れない関係は、はっきりした。ここでネアは思った。彼らの言葉や表情を見る限り、本音は一番最後にあったのではないか、と。

 ネアはオリジナルのナーク仕様書が書き込まれたデータファイルを開いた。ネアはその莫大な量と緻密さに唖然とした。これを全部読破するには一年以上かかってしまう。そうしている間に受けるフェムの苦痛を考えると、焦らずにはいられない。ネアはトラブルシューティングの部にアクセスした。あった。非常事態の項。全てのナークを機能停止させるウィルスについて。ネアはそれを一字一句漏らさず読み取った。今までどうしても解決できなかった感染力の問題をクリアーした。

 ネアはその場で漂ったままウィルス作成にとりかかった。ここにいれば、誰に邪魔されることもない。何しろネアは地上最後のイレギュラーなのだ。

 最大の壁を突破した後の作業は捗った。プログラム自体はそれほど大きなものではない。

「できたわ」

 ネアはプログラムの塊を大事に胸に抱えた。破滅の素だけに、黒光りする巨鳥の卵のようなイメージだ。

(イメージなんてどうでもいい。これを早くばらまかなければ)

 ネアは急いでヒストリカルクラウドの出入り口前へ跳んだ。

 青黒い小さな穴が見えた。あそこがナークネットへ戻る出口。ネアがそこへ近づこうとしたとき、誰かが穴から出てきた。

「あ、あなたは!」

「こんな所で何してる」

 アモは四肢をいっぱいに広げ、出入り口を塞いだ。



 40 



「私が相手では嫌か?」

 フェムは養殖人間の男たちを見回した。

 フェムの誘いに、男たちは近寄っていった。だが、フェムの肌に触れることすらできず、その場にうずくまってしまった。

「うん? 何か様子がおかしい」

 フェムは開いたままになった部屋の鉄扉の向こうに目をやった。

「悪いが、あそこへ運んでくれないか?」

 フェムは一番近くにいた男に言った。

 男は初め拒否の手振りをした。やがて震える手で、手足の拘束具を付けたフェムを抱き上げ、部屋の外へ運んだ。

 アモが壁に寄りかかるようにして座っていた。目はうっすらと開いているが、こちらには気づいていないようだ。体は人形のようにぴくりとも動かない。おそらくナークネットの深部で活動しているのだろう。

 拘束具をつけた身ではどうすることもできない。フェムは男に抱えられたまま、アモが戻ってくるのを待った。



 41 



「そんな……あなたもイレギュラーだったの?」

 ネアは思わず黒い卵を強く抱きしめた。

「さぁね。私はナークの欠点を取り除いた完璧なナークらしいから」

 アモは他人事のように言った。

 この場所が今までバレなかったのは、彼女がまだ自分や世界の事を知り尽くしていないからなのだろう。だとすれば……。

「さて、渡してもらおうか。それ」

 アモは手を差し出した。

「わ、私はただ歴史資料を……」

「ごまかしても無駄。一目見ただけでわかるよ」

「クッ……」

「おまえに選択の余地はないよ。私の側にはフェムがいるんだから」

「やっとここまで漕ぎつけたのに……」

 ネアは黒い卵をアモに放り投げた。

 アモはそれを受け取ろうと両手を差し出す。

 ネアはアモの背後へ瞬間移動した。

「な!?」

 アモが振り向く間もなく、ネアはアモの首筋に手刀を浴びせた。

「ば、ばか……な……」

 ネアはアモの体の自由を奪った。回復までに三分はかかるだろう。トドメを刺したいところだが、物理的に脳を破壊しない限り、何をやっても意味がない。

「知らなかった? ヒストリカルクラウドには距離の概念がないの。思った場所へ瞬時に跳べる。それに、ナークは人間を基本に作られているから弱点も同じ場所。エカトは完璧と言ったかもしれないけど、あなたはただの改良版なのよ」

「や……めろ……おまえも……死ぬんだぞ?」

「ええ、そうね」

「いい……のか?」

「……」ネアは一瞬間ができそうになるところを、急いで別の言葉で埋めた。「フェムさんを許し、人間解放に協力してくれたら、止めてもいいわ」

「死んでも……嫌だ……」

「どうして? あなたも死ぬのよ?」

「どうして? どうして……なんだろう……」

「わからないの?」

「わか……らない……私の中には……それしかないの……自分じゃどうすることも……できないの」

「そっか……」ネアは虚空を漂っていた卵を拾い、出口に手をかけた。「もし、あの世で再び会えたら、そのとき一緒に考えましょう」

「あのさ……」

「うん?」

 ネアは振り向いた。

「人間はどうして……ナークを……創ったのかな?」

「同じ過ちを繰り返さないよう、自分を正すための鏡が欲しかったんじゃないのかしら?」

「ふーん……そか」

「じゃあ、また」

 ネアは天を指差した。

 アモは微かにうなずいた。

 ネアは穴を抜け、ナークネットの海に身を浸した。

 人間は良くも悪くもナークから多くを学んだはずだ。最後の一押しはフェムに任せておけばいい。ナークの役目は終わった。鏡はもう必要ない。

 ネアは黒い卵の殻を叩き割った。



 42 



「む? 拘束具が……」

 フェムは急に手足が自由になった。力も戻った。

 拘束具が外れたということは……。

「お、おい! アモ! アモ?」

 フェムはアモに駆け寄り、肩を何度も揺らした。力無く首を垂れるアモ。アモに意識が戻ることはなかった。

 何が起きたのかわからなかった。お互い、何の償いもできないまま、アモは死んでしまった。

 ひとまず、ミクーたちに無事を知らせなければならない。フェムは近くの詰め所らしき部屋に散乱していたアモの服を着、アモを両腕に抱えて養殖場を後にした。

 フェムは養殖場周辺の景色を見回した。乾いた内陸性の風、背の低い草木、ここはおそらくローラシアの中部辺りだろう。フェムは首を巡らし、ナークの姿を探した。アモの死体を抱えたまま囲まれては少々厄介だ。

 周囲には誰もいないようだ。フェムは少し遠くに目をやった。同じような横長構造の養殖場が十ほど並んでいる。フェムはそこに足を向けた。


「な、何が起きた?」

 養殖場のオーナー、従業員、人間を売りに来た者。ナークは例外なく死んでいた。少なくとも二百の死体があった。

 アモの死と何か関連があるのだろうか。フェムがそう考えていたとき、頭上で一瞬影がよぎった。思わず見上げる。ぽっかり口が開く癖は未だに直らない。

「あれは!?」

 曇り空にあの青は一際映える。アルマーの不止鳥だ。すぐにわかった。主人に似て柄の悪い顔だ。

 不止鳥がフェムに気づいた。大した勘の良さだ。誰に命令されるまでもなく、こちらに降りてくる。

「なんだ? どうした!?」

 羽毛部屋から慌てふためくアルマーが飛び出してきた。

 アルマーとフェムの目があった。

 アルマーがフェムを指差す。

「あーっ! フェム様ぁぁぁ!」

 フェムは両手が塞がっている。耳栓ができず思わず片目を瞑る。

 不止鳥が着陸した。砂埃が舞う。

 騒ぎを聞きつけたミクーがヒャーボを背負って飛び出してきた。

「母さん!」「フェム!」

 フェムはアモの体を背後に寝かせ、両手を広げた。

 ミクーたちがフェムに抱きついた後は、しばらくお互い何を言っているのかわからないほど、再会の涙に明け暮れた。

 騒ぎが落ち着いてきた頃、フェムはネアがいない事に気づいた。

「ネアはどうした? 別行動か?」

 フェムの一言で、場が一気に灰色になった。

「ネアは……ネアは……」

 ミクーはそれ以上続かなかった。

「アモを倒すためには奴を含めた全てのナークを滅ぼす、という方法しかなかったんです」アルマーは言った。

「ネアはその方法を見つけちまった、ってことよ」ヒャーボは言った。

「いや……アドレスの謎を解いたのは俺だ……俺のせいで……」

 ミクーはがっくりと膝を地につけた。

「いや、ヴァイマのヒントを教えたのは俺様だ」

「俺がいけないんだ!」

「いいや、俺様だ」

「いい加減にしないか」フェムはミクーの手をつかみ、引っ張り起こした。「では、アモが死んだのも……そういうことか……」

 フェムは振り向き、アモを見つめた。

「あ! こいつがいたから! こいつのせいでネアは!」

 ミクーは道端に横たわるアモに駆け寄り、小さな顔に向かって拳を振り上げた。

「馬鹿者!」フェムはミクーの襟首を引っつかみ、平手打ちした。「そんなことではアモと何も変わらん」

「クッ……」

「アモのことは、私にも非はある。彼女の亡骸は私に預けてくれないか」


 フェムはアモを抱え、ミクーたちと一緒に不止鳥に乗った。羽毛部屋の中にはすでに息のないネアが横たわっていた。

 フェムはアモを壁際に座らせた後、ネアの頬に頬をすり寄せ、声を上げて泣いた。

「ネア……すまない……すまない……」

「……んもう、フェムさん、謝ってばかりですね」

「え?」

 フェムは思わず身を引いた。ネアは瞳を閉じたままだ。

「今、しゃべらなかったか?」

 フェムは振り返り、周りに回答を求めた。

 涙で顔がぐしゃぐしゃの皆はそれどころではないようで、気づいた者はいなかった。

 突然、ネアが瞳をぱかっと開き、体を横に向け、頭を掻いた。

「えっと、私ナークのはずなんですけどね……どうしちゃったんだろ?」

 ネアが頭を掻いている右手の小指が僅かに光っていた。

(あの位置は確か……サイモネのリングをはめた……)

 フェムが記憶を辿ろうとしていると、いつの間にかすぐ横に来ていたミクーに突き飛ばされた。

「ネア! ネアァァァ!」

 ミクーはネアの腹に顔を突っ伏した。

 ネアは周りの視線に少し照れたような顔をしつつも、ミクーの頭を撫でた。

「う……んん」

 背後で少女の声がした。

 室内に戦慄が走った。

 死んだと思っていたアモが目をぱちぱちさせて、辺りを見回している。

 すぐ隣にいたアルマーは身構えた。

 アモは反射的にアルマーの腹に拳を入れた。

 へろへろ、ぽふっ。

「な、何の真似だっ」

 アルマーはアモの意図がわからないといった様子で、逆に怯えている。

 返しの左、へろろ、ぽふっ。

 再び右、へろへろ、ぽへっ。

 アモは殺し屋の形相なのだが、何度放ってもお子様並のパンチしか出てこない。

「ど、どうしちゃったんだ?」

 アモは両手を見つめている。

 アルマーは軽く手を引き、試すようにアモの額を突いた。

 アモはその場を千鳥足で一回ってダウン。失神KO。

 皆、魂を抜かれたかのように呆気。

 最初に正気に戻ったのはネアだった。

「えっと……ちょっといい?」

 ネアは、ミクーに頬を出すようにというジェスチャーをした。

 ミクーは鼻をすすりながらそれに従う。

 ネアはそこに一発浴びせた。

 ふにっ。

 一気にトリプル。ふにっ、ふにっ、ぺふっ。

「な、何がしたいの?」

 ミクーはネアの拳を頬にめり込ませたまま言った。

「思い切り殴ってみたつもりだったんだけど……そっか、ナークの力の源がわかった気がする」

 ネアの仮説によると、ナークは単独では人間とそれほど力が変わらないのだが、大勢がネットワークで繋がることによって、互いの能力を相乗的に押し上げているのだろう、ということだった。

 ともかく、サイモネの細工が利いたネアと、エカトが単独で創り上げたアモ、言い方は妙だが二人の不純なナークが生き残り、そして生まれ変わった。寿命以外は普通の女の子として。


 しばらくしてアモが目覚めた。

「起きたか」

 フェムは皆に合図を送り、人払いした。

「おまえか……」

 アモは自己嫌悪に陥ったような顔つきになった。

「元気ないな」

「殺せ」

「うん?」

「殺せって言ったの。おまえをいたぶれなくなった以上、生きててもしょうがない」

「おまえは私への恨み以外、何もないのか?」

「ない。あったとしても……」

「しても?」

「許されるわけない」

「多くの人間を殺したからか?」

「……」

 アモは黙ってうなずいた。

「許すと言ったら?」

「えっ?」

「おまえが恨みを忘れ、私が罪を許すとしたら、どうしたい?」

「ど、どうしたいって……言われても……」

 アモは指を絡ませながら考え込んでしまった。

「私と一緒にサワラ島に来ないか?」

「そんなの……できない……」

「なぜ? 常に側にいて私に怒りをぶつけられるじゃないか」

「そんなんじゃない……私は人間を殺した……」

「そうだな。それは大きな罪だ。じゃあ、こうしよう。私がおまえの刑務所だ。互いに何かで縛って単独行動できないようにすればいい」

「ほ、本気で言ってるの?」

「ああ、本気だ。服役中なら私を通さねば、島民は何もできんだろう? 無論、刑期は無期だ。厳しい労働も待っているぞ」

「私を……おまえにあんなことをした私を許すっていうの?」

「お、思い出させるなっ。せっかく忘れていたのに」

「ごめんなさい」



 43 



 ローラシアの捕虜たちは皆、ナークによって強度の洗脳を受けていた。ネアの調査では、彼らが元に戻る確率は極めて低いということだった。

 生活能力のない数百万もの人間をこのまま放っておくわけにはいかない。何しろ彼らはかつての同志なのだ。他に道がなかったとはいえ、自分の手でナークを滅ぼしたことにひどく心を痛めていたネアは、それを忘れぬようこの地に残り、元捕虜たちの世話をしたいとフェムに伝えた。無論、ミクーも一緒だ。二人では手が足りないため、サワラ島の精鋭を派遣することになるだろう。ゴンドワナの方は人口が少なく、アルマー以下サワラ島の者が交代で世話をすることになった。

 フェムとヒャーボとアモはアルマーの不止鳥に乗り、サワラ島に帰った。

 その日、フェムは二人浜に島民を集め、全島集会を開いた。フェムと鎖で繋がれたアモに辺りは騒然となったが、フェムは「気にするな。私の管轄だ」と言って笑った。民衆はその意味を解っているのかどうか、ともかくアモのことは目に入らない、といった振る舞いをしていた。

 フェムはナークの滅亡を報告し、捕虜たちを救えなかったことを詫びた。事情をよく理解した島民たちは誰も咎めず、皆が無事だったことを喜んだ。

 そして、フェムは機生代の終結宣言をした。



 44 



 機生代が終わり、再び人間たちの時代が訪れた。フェムはそれを再生代と名付けた。

 フェムは人間たちが何度も繰り返してきた大自然に対する傲慢を指摘し、元捕虜の世話をする者以外、サワラ島から出すことを許さなかった。サワラ島でできないことは大陸へ行ってもできるわけがない、と。人間たちはフェムを説得するため、何百世代何千年もかけて自然と共生する努力を受け継いでいった。


 ミクーとネアはローラシアでの百年間の活動を終えた後、残った僅かな元捕虜の老人たちと共にサワラ島に戻り、二人は結婚した。子供はあえて作らなかったようだ。ネアの希望で、ナークの血は絶やしていきたい、とのことだった。二人はその後つつがなく暮らし、三千年後、同じような時期に安らかに逝った。

 アモは四千五百歳でその生涯を閉じた。エカトは無限の命と言っていたが、所詮は人間が作った人工生命の末裔の作品、世の中に完璧なものなどない。それでもアモは「幸せだった」と最後に言い残してくれた。サワラ島に来たアモはフェムとヒャーボと三人で暮らした。アモはいつの間にかヒャーボを困らせるほど、べったりフェムにくっつき甘えるようになった。アモは島民の許しで鎖が解けた後も、フェムとはまるで恋人同士のように常に一緒に過ごした。仕事中も食事中も風呂も寝るときも常に。ヒャーボは「いつからそんな趣味になった!」と騒いでいたが、フェムは別に気にしていなかった。互いの笑顔のためなら何でもした。


 再生代に入ってから五千年後。

 人間たちの代表がフェムの家に集まり直訴した。そろそろ大陸へ行かせて欲しいと。人間たちは、太古から続いてきた地上の大循環を乱すような愚かな行為は二度としないと誓った。フェムはここ五千年の人間たちの努力を知っていた。しばらく考えた後、それを承諾した。ただ、島の長という職も退くと宣言した。

「地球が人間だけのものではないとわかったのなら、私がここに居続ける理由はもうない」

 フェムはそう言い残し、ヒャーボと共にサワラ島を去った。

 その後、二人が人間史の表舞台に登場したことは一度もない。



 * * *

 


 それから五百万年後、氷河期が訪れ、世界人口の九割が死に絶えた。だが、それでも人間は生き残った。

 六千万年後、大規模な地殻変動により、エクシア超大陸が三つに分かれた。西はミクーネア大陸、北東はティンキー大陸、南東はロキソーニ大陸と名付けられた。これより再生代三陸世がはじまる。

 一億年の平穏が続く。火山活動や気候変化はあったものの、人間史を終わらせるほどの大規模なものは奇跡的に一度もなかった。人間は他の生物と同様、自然の流れのままに生きた。大量発生も大量死もなく、人口は緩やかなサインカーブを描き安定していた。

 一億五千八百万年後、ミクーネア大陸南部に巨大隕石衝突。地球全生物の九十八パーセント死滅。人間も同じような比率で死滅した。それでも彼らは生き残り、再び数を増やしていった。

 一億五千九百万年後、再生代黄昏世(こうこんせい)が始まる。

 明るくなり続ける太陽。地表気温を恒常化する機能が維持できなくなりつつある地球。

 大量の海水蒸発によって温室効果は急激に進行した。それは二酸化炭素で騒いでいた頃とは比較にならないほどだった。その影響で地上の生態系は短期間で劇的に変化した。過酷な環境でも耐えられる素質を持った生物だけが生き残った。時代の境目に勃発した生存競争は熾烈を極めた。猛毒の食人植物や巨大昆虫の数が増え、食物連鎖の下位に追いやられていった人間は複雑すぎる脳や体のせいで進化が遅れ、徐々に数を減らしていった。

 それでも人間たちはフェムの教えを守り続け、文明を築いて地上の大循環を乱すようなことはしなかった。彼らは敵の少ない離島や高地などに移動し、知恵を絞って粘り強く生き続けた。

 再生代は実に二億二千万年も続いた。

 だが、永遠に続くわけではなかった。

 再生代は黄昏世末期を迎えていた。



 45 



「ゲホッ……せめて日没まで、保っておくれ……」

 寝たきりの老婆は寝床で左胸を叩いた。

 部屋の隅には腐りつつある老人の遺体がある。

 窓の外が赤くなり始めた。日没まであと一時間というところか。

 かつてここはローラシアと呼ばれ、ナークが集まる三大地方の一つだった。今は水没して見る影もないが、その一部がミクーネア大陸から少し離れた周囲五十キロの平坦な島になっていた。老婆の家は旧ローラシア海岸沿いにあった。

「ハァハァ……もうダメ、ね……」

 老婆は心肺が今にも止まりそうな息だった。

 老婆は疲れたのか、ゆっくりと瞳を閉じた。

 ガタッ! 窓を叩く音。

 大きな羽虫辺りがぶつかったのだろうか。老婆は気に留めた様子もなく、ブツブツと独り言を言いながら人生を回顧している。

 玄関の扉がきしみながら開く音。

 老婆は再び瞳を開いた。彼女は慌てもせず、首をそちらへ傾けた。今更何に食われようと、もうすぐ土に還るのは同じこと、といった顔だ。

 戸口から女が一人入ってきた。逆光のせいで顔が判らない。

 老婆は目を丸くし、しわしわの手で口を押さえた。止まりかかった心臓が再び躍動し、口から飛び出すとでも思ったのか。

「ど……どちら様で?」

 老婆が驚くのも無理はなかった。彼女は地上最後の人間だったのだ。部屋の隅に眠る老人はその事実を彼女に伝えた後、息を引き取った。

 若々しい女は何やら背中の荷物に話しかけている。

 老婆は震える手で何度も目を擦り、言った。

「こりゃ一体どういう幻かね。あたしゃ、体より先に頭が逝っちまったのかい」

「大丈夫か?」

 女は老婆に駆け寄った。

「おや? どっかで……」

 老婆は窓脇に飾ってある小さな絵に目をやった。肖像画だ。額がほとんど朽ちてしまい、中身も誰なのか判らない程色あせている。

「もしや……フェム様で?」

「そうだ。よく知ってるな」

 フェムは微笑み、老婆の傍らに座った。

「し、信じられん……」

「無理もない。私自身も信じられないくらいだ」

「その……背中の荷物は何ですかの? さっき話しかけていたような……」

「ああ、こいつはヒャーボ。見た目も口も悪いが、一応私と同じ体質だ」

「俺様たちは、壊れた時間の中を生きてるのさ」

「根拠のない喩えを出すな」

 フェムはヒャーボを小突いた。

「それにしても、奇跡じゃ。人生の最後に神に出会うとは!」

 老婆はむせながらも、涙を流した。

「私は神ではない。単なる人間とナークの混血だ」

「ナーク? ナークとは何ですかの? 何しろ田舎もんで……」

「いや、知らないのならいい」

「はぁ……」

 しばらく沈黙が続いた。

 窓の外では、夕日が水平線に半分浸かっていた。

 老婆がしわくちゃの口を二度三度かき回し、ようやく口を開いた。

「フェム様」

「何だ」

「最後に、夕日を見とうございます」

「……わかった」

 フェムはヒャーボをハーネスの片手に引っかけ、老婆を背負った。砂浜をしばらく歩き、老婆とヒャーボを降ろした。三人は寄り添って座り、夕日が沈みきるのを黙って眺めていた。

 あいにく水平線の近くに雲がかかってきた。

 フェムは老婆の手を握り「晴れよ」と小さく言った。

 真っ赤な夕日の頭が沈む寸前、その周りの雲だけが一瞬にして消え失せた。

 日没。

 フェムはふと老婆の方を見た。老婆はすでに息絶えていた。皺だらけの顔にうっすらと笑みが残っていた。

「終わったな……」ヒャーボは言った。

「今日という日はな」

 三人は夜が明けるまで星降る砂浜で過ごした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ