第25話「建築者の到着」
地下の深淵へと続く巨大な縦穴。赤黒い光と、ハミルトンを構成する無数の悲鳴が渦巻く中、マーカス、ノラ、アーロンの三人はコアへと降下を続けていた。
突如、その混沌としたノイズを切り裂くように、全く異質の音が響いた。
チリン、チリーン……。
それは、無機質な電子音でも、狂気に満ちた多重和音でもなかった。外界の古いホテルのフロントで鳴るような、澄み切ったアナログのベルの音だった。
三人の足元、蠢くケーブルの束に埋もれるようにして存在していた、真鍮製の古びたインターコム。そのランプが、静かに黄色く点灯している。
マーカスは、そのインターコムを見た瞬間、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
ハミルトンの防衛システムではない。この「音」を、彼は知っている。
『――マーカス。インテイク・オフィサー、マーカス・グレイ』
インターコムから流れてきたのは、複数の声が混ざり合ったポリフォニーではなかった。
静かで、絶対的な威厳を持った、単一の「個」の声。
それは15年前、絶望の底にいたマーカスに『お前は特別なのだ』と語りかけ、彼をシステムの最も深い檻へと引きずり込んだ、真なる支配者の声だった。ディレクター・ハミルトンという群体意識すらも作り出した、この次元の本当の主。
『受付室を空けておくのは感心しないな、マーカス。直ちに持ち場へ戻りなさい』
澄み切った声が、狂騒の地下空間に不気味なほどの静寂をもたらす。
『――たった今、新しい宿泊客が到着した。この施設の設計者、「建築者アーロン・グリーン」本人がね』
マーカスは息を呑み、弾かれたように隣を振り返った。
そこには、自分たちと共にここまで空間をハッキングしながら降りてきた『046』、アーロン・グリーンが立っている。
「……どういうことだ、アーロン。お前は、誰なんだ……?」
マーカスの問いかけに、アーロンは答えない。
彼はただ、虚空を見つめ、自らの両手を信じられないものを見るように見開いていた。
その両手の輪郭が、まるで古いブラウン管テレビの映像不良のように、ジリジリとノイズを発してブレ始めている。
「ああ……ああ! そういうことか!」
アーロンの口から、歓喜と絶望が入り混じった狂笑が漏れた。
「私は『彼』がこの施設を設計する過程で切り捨てた、ただのシミュレーション・データ! 狂気と探求心だけを抽出された、アーロン・グリーンの『残骸』に過ぎなかったんだ! 本物が……本物の私が、ついに外の世界からこの箱を開けに来たぞ!」
ノイズはアーロンの全身に広がり、彼という存在の座標が、システムによって強制的に書き換えられようとしていた。
その瞬間。
施設全体を24時間照らし続けていた、あの絶対に消えることのない「永遠の白昼」の蛍光灯が、一斉に明滅した。
チカッ、チカッ、と不規則に瞬き、そして――完全に光を失った。
完全な暗闇。ハミルトンという群体意識が5年間(体感時間15年)維持し続けてきた「終わらない昼」という絶対的なルールが、ついに死を迎えたのだ。
直後、はるか頭上の虚空で、空間そのものがガラスのように「パキンッ」と甲高い音を立てて割れた。
裂け目から、外の世界の光が漏れ込んでくる。
しかし、それはマーカスが記憶しているような「太陽の光」ではなかった。
裂け目から滝のように零れ落ちてきたのは、まばゆく発光する、水銀のように重く粘り気のある『液体』――あるいは『液状化した未知の物質』だった。
「物理法則が……溶けている……」
ノラが、降り注ぐその光の物質を見上げて呟いた。
光の物質が地下のケーブルやコンクリートに触れた瞬間、ジュワッという音と共に、それらは燃えるのではなく「透明なガラス」へと変異し、サラサラと砂のように崩れ落ちていった。
三次元の物質を、根本から別の情報へと書き換えてしまう、絶対的な高次元の光。
外界の時間が流れ込み、本物の設計者が到着し、偽りの空間が溶け落ちていく。
このグリーン・ルーフ・インは、もはや刑務所でも、ハミルトンの胃袋でもない。二つの異なる次元が衝突し、融解し合う「特異点」へと姿を変えようとしていた。
「マーカス!」
崩れゆくアーロンが、ノイズまみれの手でマーカスを突き飛ばした。
「行け! コアはもうすぐそこだ! 本物の私がこの箱を完全に破壊する前に、君たちの手でハミルトンの心臓を止めろ!!」
光の物質が降り注ぎ、すべてをガラスに変えていく崩壊の雨の中。
第一部「支配への沈没」の幕が、文字通り物理法則の崩壊と共に引かれようとしていた。
――では、あなたが読んでいるこれは、何回目だ?




