自分の目の丸太
「え、ワクチンって獣の刻印だったの!? 打ったら悪魔の子になって天国行けなくなる!? これは拡散!」
現在、パンデミックが起き、在宅ワーク中だった赤澤虹子。通勤時間も減っただけでなく、仕事量も減ってしまい、暇。その上、自粛ムードで引きこもりしていた。子供がいない三十代主婦だ。他にも趣味がなく、暇な時間、ぼーっとSNSを見ていたら、陰謀論にはまってしまった。
「支配者層のやつら、また意図的にパンデミックを起こし、我々庶民を苦しめているんだわ! 許せない!」
鼻の穴を膨らませながらSNSに書き込みをするが、自宅いると、孤独感が襲う。自宅は田舎にある比較的広いマンションだった。夫の転勤とともに住み着いたが、とにかく周りは田んぼだらけ。かろうじてスーパーや病院は徒歩で行けるが、近所に友達はいない。今回のパンデミックのせいで大学時代の友達や地元の幼馴染とも疎遠になってしまった。
こうして陰謀論にハマってはいたが、心から楽しいかは微妙。ワクチンの話をしたら夫と口喧嘩になった。今も最低限の会話しかしていない。大喧嘩や不倫とは無縁だったものの、うっすらと冷えた関係だった。
「はぁー、本当に悪の組織の支配者層がむかつくわ」
その時、チャイムがなった。最近、近所の子どもがピンポンダッシュをしていた。どうせ今回もイタズラだうと思いつつ、一応出てみたが、誰もいない。
「何、イタズラ?」
しかし玄関の扉に妙なものが挟まっていた。赤と緑のチェック模様のクリスマスカードだった。
「何これ?」
しかもクリスマスカード、聖書の言葉が引用されていた。虹子は陰謀論者だ。ワクチンと獣の刻印の関係が知りたく、一応全部読破していた。陰謀論界隈では、聖書=支配者層の計画書という認識が一般的だったが。
クリスマスカードの引用箇所はマタイの福音書の最初の方だ。イエス・キリストの説教部分。人を裁くよりも前に自分の目の丸太を取り除きなさいという所だった。
「何これ、私に説教でもしたいやつがいるの? もはや旦那の仕業?」
こんなクリスマスカード、見ていると心がざわつく。なんか面白くない。そもそもクリスマスだって元々はミトラ教のお祭りで、支配者層の悪魔崇拝だから。陰謀論グログで読んだ。
「なんなの、もう。だから悪の組織の支配者層なんて嫌い」
クリスマスカードを丸めて捨てた。だが、なぜかその瞬間、意識がなくなった。
「は?」
夢か幻か。よくわからないが、陰謀論界隈で言われている悪の組織が解体された素晴らしい世界にいた。虹子はSNSの陰謀論界隈の連中と喜び、酒を飲んで笑っていた。
「これで本当にウチらの理想通りの世界になるね! ワクチンもマスクもおさらばだね!」
仲間と共に喜びあっていたが、それも束の間だった。悪の組織は消えたが、また似たような団体ができ、パンデミックが意図的に発生し、さらに酷い監視社会になっていた。
その度に虹子たちは団結し、悪の組織を解体させたが、イタチごっこだった。解体しても解体しても、似たような悪人が登場し、何も世の中は変わらない。むしろどんどん悪くなっていく。
「どういうこと……?」
絶望感でいっぱいになった時、目が覚めた。いつも通り自宅のマンションにいた。スマホにはSNSのタイムライン。陰謀論界隈の仲間が悪人を叩く。いつもの光景。
「……。まさか、こういうのって全部無駄だった?」
はっと何か悟った感覚があった。下を見たら、ぐしゃぐしゃに丸めたクリスマスカードもある。そうか。その通りかもしれない。このカードを広げ、書かれた聖書の言葉を見つめる。
マタイ7:3-5
3. なぜ、あなたは兄弟の目の中のちりを見て、自分の目の中の丸太に気がつかないのですか。
4. 自分の目の中の丸太を見ずに、兄弟の目の中のちりを見ようとする者は、偽善者です。
5. まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目の中のちりも取り除くことができるでしょう。
「たぶん……。まずは自分から変わった方が早いってことだよね?」
返事などないが、そんな気がする。
◇◇◇
妻の虹子が陰謀論者になってしまった。
赤澤文雄はため息をつく。今日は仕事は早く終わり、自宅に向かって歩いていたが、憂鬱。正直、ワクチンがどうとか、悪の組織云々と言っている妻についていけない。
何度も陰謀論を見るのをやめるように言ったが、虹子は全く聞く耳を持たない。むしろ文雄が陰謀論を否定すればするほどハマってしまう。
カルトにハマり家を出た母もそうだった。常識的な助言をすればするほど、その界隈で団結し、心を閉ざしていく。一体、何が悪かったのか。さっぱりわからない。
こんなことを考えているうちに、自宅につく。田舎のマンションだ。正直、このマンションを見ているだけで憂鬱だったが、郵便受けに何か入っているのに気づいた。
「なんだ、これは。クリスマスカードか?」
妙なクリスマスカードが入っていた。送り主は不明だが、聖書のことばが引用されていた。
マタイ7:3-5
3. なぜ、あなたは兄弟の目の中のちりを見て、自分の目の中の丸太に気がつかないのですか。
4. 自分の目の中の丸太を見ずに、兄弟の目の中のちりを見ようとする者は、偽善者です。
5. まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目の中のちりも取り除くことができるでしょう。
「なんだよ、これは……」
カルトにはまった母の顔がフラッシュバックする。嫌な記憶が全部溢れてきそう。教義の躾という名の暴力、ご近所の冷たい目、連れていかれた集会の雰囲気なども思い出し、目眩がする。意識も切れた。
気づくと自宅のマンションにいた。帰って来れたのかと思ったが、なんか身体に違和感がある。視界が低くなったし、手に力も出ない。
「は?」
なぜかわからないが、今、妻の虹子になっていた。鏡を見つめると、首を傾げてしまう。
「は? なんで虹子に?」
とはいえ、戻れそうにない。仕方ない。虹子としてしばらく生きることにした。
仕事は在宅の秘書業務だ。簡単な仕事ですぐに終わる。退屈。今はまたパンデミックも起き、家にいるしかない。
趣味もない。これといって好きなものもない虹子。時間と孤独を持て余す。SNSばっかり眺めるが、その時「ワクチンは獣の刻印! パンデミックは支配者層が意図的に起こした事件だ」という陰謀論が目に飛び込んできた。
最初はバカにしてた。今は虹子の身体だが、こんな荒唐無稽な話はない。鼻で笑っていたが、暇な時間、ついつい見てしまう。見出しだけはセンセーショナルで目を引くし、この界隈にれば暇孤独も紛れるし、なんか悪いものと争っている庶民というカテゴリーに入るのも、面白い。承認欲求が満たされる。この時だけ冴えない主婦という事実から目を背けられる。ローンとか田舎暮らしとか物価高とかからも現実逃避できた。
その上、悪の組織という共通の敵がいるため、界隈の団結力も高く、孤独感も紛れる。全く楽しくはないのに、ついつい毎日界隈に浸かってしまうのだ。
「え、あれ? なんか虹子の気持ちがわかったかも……???」
気づいた時、またマンションの前に戻ってきた。もう虹子じゃない。何か夢か幻のようなものを見ていたらしいが、手の中にはあのクリスマスカード。
「そっか……。虹子を正論で責めるより、まずは自分から歩みよった方がいいかもな……?」
そんな気がする。とりあえず、今日は虹子の話を聞いてみるか。クリスマスも近いし、ゆっくりと過ごしてもいいかもしれない。そうすれば、母の二の舞だけは防げそうだ。




