4.夕暮れの目覚め
第4話 夕暮れの目覚め
――カチャ
何かの音がした。
「……ん……?」
ぼんやりとした意識の中で、リュセリアはゆっくりと目を開けた。
最初に目に入ったのは、見慣れた天井だった。
……見慣れた、と言っていいのかはわからないけれど。ここ数日、目を覚ますたびに眺めてきた天井だ。
けれど...今日は、いつもと何かが違う。
「……?」
薄く目を細める。
部屋の中が、いつもより明るい。
今まで目を覚ました時は、決まって夜だった。窓の向こうには濃い藍色の空が広がり、銀色の月が浮かんでいた。
けれど、今日は違う気がする。
窓の方へ視線だけを向けてみる。
そこから差し込んでいるのは、柔らかな橙色の光だった。空は青と紫、それから淡い橙色が混ざり合ったような、不思議な色に染まっている。
「……夕方……?」
窓から見える空を眺めていると、自然とそう理解できた。
夜ではない。
朝でもない。
一日の終わりへ向かう、夕暮れの空。
……カチャ……
また、音がした。
今度ははっきりと聞こえた。金属か何かが触れ合ったような、小さな音。
……コト
何かを置くような音。
「……?」
誰か、いるの?
寝たままでは部屋の中を見渡すことができない。
視界に入るのは、天井と窓、それからほんの少しの壁だけ。音の正体を確かめようにも、姿が見えない。
……まあ、そりゃそうか。
寝転がったままじゃ、部屋の中なんて見えるわけがない。
そう思ったところで、ふと別のことが頭をよぎった。
――昨日。私は、起き上がった。
「…………」
あれは夢だったのだろうか。
昨日は、初めて自分の力で上半身を起こすことができた。けれど、もしあれが夢だったら?今日、また身体が動かなかったら?
そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
……いや。確かめればいい。動くのなら、それでいい。動かなかったとしても……その時は、また頑張ればいい。
それに――
「音の正体も、わかるかも……」
小さく呟く。
一石二鳥だ。
私は、ゆっくりと身体の奥へ意識を向けた。
あの、不思議な塊へ。
ここ数日、何度も何度も繰り返してきたこと。
身体の奥に渦巻く、途方もない何か。
意識を伸ばす。
触れる。
――とぷん。
水面を揺らすような感覚。いつも通りだ。
ほんの少しだけ、その塊を動かす。
すると、身体の中にあった重さが、ほんのわずかに軽くなる。
指先に力を込める。
ぴく。
……動いた。
よし。
手首。
肘。
肩。
ひとつずつ、確かめるように力を込めていく。
昨日よりも、少しだけ楽な気がする。それでも、身体はまだ重い。まるで何十キロもの重りを身体中に括りつけられているようだった。
「……っ」
歯を食いしばる。
腕を使って、ゆっくりと身体を起こしていく。
――ぐっ。
「……う、ぅ……!」
肩が震える。
腕が震える。
それでも、倒れない。
昨日と同じ。
――いや、昨日よりもほんの少しだけ身体が軽い。
そして。
「……よい、しょ……」
ぐっと腕に力を込める。
上半身が持ち上がった。
「…………!」
起き上がれた!……よかった。夢じゃなかった。
思わず、ほっと息を吐く。
「……ふふ」
小さく笑ってしまう。
たったこれだけのことなのに。
身体を起こす。
それだけなのに。こんなにも嬉しい。
何度も自分の腕を見て、手を握ったり開いたりしてみる。
まだ思うようには動かない。けれど、確実に動いている。
「……ちゃんと、動く……」
それだけで十分だった。
あの塊に気づいてから、何度目の目覚めなのか、もう正確にはわからない。
一度目。
二度目。
三度目。
目を覚ますたびに、あの塊を少しずつ小さくして、ほんの少しだけ身体を動かして、疲れて眠って...また目を覚ます。
それを何度も繰り返した。
その積み重ねが、ようやくここまで私を連れてきてくれたのだ。
そして今日は――
夜ではない。
夕方に目を覚ますことができた。
もしかすると、これも身体が少しずつ回復している証なのかもしれない。
「……頑張った、私」
誰に聞かせるでもない、小さな独り言。それでも、胸の奥には少しだけ誇らしい気持ちがあった。
さて。
身体が動くことがわかったなら、次は――
「……音の正体」
先ほどからずっと聞こえている、あの音だ。
私は改めて部屋の中を見回した。
昨日も一度見たはずなのに、こうして少し明るい時間に見ると、また違った印象を受ける。
やっぱり、広い。
ものすごく広い。
ベッドだけでも普通の家の部屋に置いたら、それだけでかなりの場所を取ってしまいそうなのに、この部屋にはそれを余裕で置けるだけの空間がある。
しかも、天蓋までついている。
「……お姫様のベッドみたい」
……ん...?
待って。
私は確か――「姫殿下」って呼ばれていた気がする。
「…………」
まさか、本当にお姫様なのだろうか。
いやいや。そんなわけ――
……でも。「リュセリア姫殿下」って言われた。
皇帝陛下と皇后陛下と呼ばれていた二人が、私の父と母だと言っていた。そして、私はその二人の娘。
……つまり。
「………本当に…お姫様、なの……?」
口に出した瞬間、妙に現実味が増してしまった。
改めて部屋を見渡してみる。
大きな天蓋付きのベッド。
磨き上げられた大理石の床。
繊細な彫刻の施された家具。
壁には淡い色合いの装飾。
そして、天井には大きなドーム。
そこから、空が見えている。
「……これ、透明な屋根……?」
天井を見上げる。
どうやら丸く切り取られたような部分は、ガラスか、それに似た透明な素材でできているらしい。
夕暮れの光がそこから差し込み、部屋の中を柔らかく照らしている。
……え、待って。これって、かなり高いものなのでは?
というか...
「お金持ちすぎない……?」
思わず、ぽつりと呟いた。
私の部屋……なんだよね?
この世界の基準がわからないから何とも言えないけれど、少なくとも私が前に知っていた世界では、こんな部屋を自分の寝室にしている人なんて、そうそういなかった。
というか、天井が透明って何?
「……掃除、大変そう」
思わずそんな感想が出てしまった。
その時だった。
――カチャ。
また音がした。
今度こそ、はっきりと聞こえた。
音の方へ視線を向ける。
すると――
「失礼いたします、リュセリア様」
部屋の入口から、聞き覚えのある声がした。
「あ……」
昨日、白湯を持ってきてくれた黒髪の少年。黒い丸耳と、長い尻尾。あの少年だった。
少年は一台のワゴンを押しながら、静かに部屋へ入ってくる。
そのワゴンは、ただのワゴンではなかった。
銀色の金属で作られた細身の車体には、月と花を思わせる繊細な彫刻が施されている。
四隅には小さな装飾柱のようなものまでついていて、その上には淡い青色の宝石が嵌め込まれていた。
夕暮れの光を受けて、きらりと輝いている。
「……豪華……」
思わず呟いた。
ワゴンの上には、白銀のティーポットとティーカップ。小さな砂糖壺に、ミルクピッチャー。
それから、綺麗に切り分けられた小さなお菓子まで並べられている。
どう見ても、病室に持ってくるような簡素なものではない。
……そもそもここ病室なのかな?
そんなことを考えていると、少年がこちらへ視線を向けた。
そして、ほんの一瞬だけ目を細める。
「お目覚めになられたのですね」
「……はい」
声はまだ弱い。
けれど、昨日よりはずっと出しやすかった。
少年は特に驚いた様子もなく、いつものことのようにワゴンをベッドの横まで運んできた。
「お身体の具合はいかがでしょうか」
「……少し、動かせるようになりました」
そう答えると、少年は小さく頷いた。
「それは何よりでございます」
驚かないんだ……。
昨日、初めて起き上がった時には誰もいなかったから、私がどれくらい動けるようになったのか、この少年は知らないはずなのに。
もしかして――
「……驚かないんですか?」
思ったことを、そのまま口にした。
少年は少しだけ目を丸くした。
「何にございましょう?」
「私が……起き上がっていること」
そう言うと、少年は「ああ」と納得したように頷いた。
「失礼いたしました。もちろん、喜ばしいことでございます」
そう言いながら、口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ですが、リュセリア様が少しずつ回復されていることは、以前から伺っておりますので」
「……そう、なんですか?」
「はい」
誰から聞いたんだろう?
お父様とお母様……かな。
それとも、ずっと私の様子を見てくれていたのだろうか。
そんなことを考えている間にも、少年は手際よくティーセットを整えていく。
ポットからカップへ、温かな液体が注がれる。
ふわり。
甘く、爽やかな香りが漂ってきた。
「……いい匂い」
思わず鼻を動かす。
紅茶……なのかな?
見た目は淡い琥珀色。
けれど、香りは私が知っている紅茶よりもずっと柔らかい。
少年は私の前にカップを置くと、少しだけ冷ますように息を吹きかける。
「どうぞ。まだ熱うございますので、ゆっくりお召し上がりください」
「ありがとうございます」
カップを持とうとして――
「あ……」
まだ腕に力が入りきらない。
持てない。
それに気づいた少年は、何も言わずにカップをそっと持ち上げた。
「よろしければ、こちらを」
「……お願いします」
恥ずかしい。自分で飲みたいのに。
けど、今の私にはまだ難しい。
少年がカップを口元まで運んでくれる。
一口。
温かな液体が喉を通った。
「……おいしい」
思わず、目を細める。
すると少年の黒い耳が、ほんの少しだけ嬉しそうに動いた。
「お気に召しましたか」
「はい……」
なんだろう。
この人、すごく優しい。
昨日は何もわからない私に白湯を飲ませてくれて。
今日もこうして世話をしてくれている。
……でも。まだ、名前を知らない。
「……あの」
「はい」
「あなたのお名前は……?」
そう尋ねると、少年は一瞬だけ目を瞬いた。
それから、恭しく一礼する。
「申し遅れました。私は、リュセリア様付きの従者を務めております。名を――」
その言葉を聞いた瞬間。
なぜだろう。
胸の奥に、ほんの小さな何かが揺れた。
けれど、それが何なのかを確かめるより先に――少年の名が、静かな夕暮れの部屋に響いた。
「カイル・ノクスフェルと申します。カイルとお呼びください」
「...よろしくお願いします」
窓の外では、夕焼けがゆっくりと藍色へ変わり始めていた。




