1.目覚め
誰かに呼ばれているような気がした。
『か...ん...き...て......』
寒い。頭の芯が痺れるように冷たい。
『...れ....き......さ...い』
(ん.....? なに......?)
『......んおき...く...さ...』
(んおきくさ? 何を言っているの......?)
『.........おきて......さい』
(んおきてくさい......? 「起きてください」って言ってるの......?)
『はい』
それだけは、はっきりと聞こえた。
『か.........ぁなた...リュ......ア......たの...く...きて』
(かあなたりゅあたのくきて......? 何を言いたいのか、さっぱりわからない....)
『あ...たは...っきの.........で...こ...』
(あたはつきのでこ.....? 「貴女は月の」......何?月の、なに.....?)
『......』
声が、ふつりと途切れた。
(静かになった。何もわからないままだけど...良かったのかな)
ゴォォォォ、と耳の奥で風のような音が鳴った。
(なに、今の...?! うわっ、さむっ!.....なにが......?)
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目を開けると、知らない天井があった。
瞬きをして、それから身体を起こそうとした。.....動かない。
まるで鉛を身体の中に流し込まれたかのように、指の一本すら思うように動かせなかった。
焦って何度か力を込めてみるが、指先がわずかに震えるだけで、起き上がるどころか寝返りひとつ打てそうにない。
自分が誰だったのかさえ、記憶からすっぽりと抜け落ちている。
それなのに.....ここが私の知っている場所と似ているということだけは、はっきりとわかった。奇妙な話だ。何も覚えていないのに、部屋に満ちる暖かな空気だけは、どこか懐かしいような気がする。
カチャリ、と扉の開く音がした。
入ってきたのは、黒髪の少年だった。歳の頃は15ほどだろうか。仕立ての良い黒の三つ揃いにタイを締め、折り目正しい所作で歩いてくる――のだが、その頭の上には黒い毛並みの丸い耳が二つ、ぴんと立っている。しかも背中からは、耳と同じ艶やかな黒い毛並みの尻尾がすらりと長く伸びてゆらゆらと揺れていた。
なんで、男の子に丸い耳と尻尾があるの.....!?
混乱する頭で、ただ呆然とその耳と尻尾を見つめてしまう。
少年はこちらの目が開いていることに気づくと、大きく安堵の息をつき、早足で近寄ってきた。手には白湯の入った器を持っている。
「リュセリア様......!」
喉がカラカラで、声を出そうとしても掠れた息しか出なかった。差し出された白湯をひと口飲むと、渇いた喉が潤い、ようやく言葉を紡げるようになる。
「あの......ここは.....どこ、ですか....? りゅせりあ......って....?」
白湯を渡してくれた少年に、そう尋ねた。
その瞬間、少年の目がわずかに見開かれた気がした。何かを答えようと口を開きかけ、言葉を紡ごうとした――その時。
コンコン、と扉をノックする音が部屋に響いた。
少年は開きかけていた口を閉じ、主の問いへの答えを飲み込むように、代わりの言葉を口にする。
「皇帝陛下と皇后陛下がいらっしゃったようです。扉を開けてもよろしいですか?」
「......は、い」
戸惑いながらも頷こうとすると、少年は扉へと向かった。
扉が開かれ、二人の人物が部屋の中へと入ってくる。
その姿を目にした瞬間、思わず息を呑んで固まってしまった。
先に歩み寄ってきたのは、長く艶やかなアクアブルーの髪を持つ男性だった。同じ色の瞳は涼やかで、耳の先はつんと尖っている。肩には金の房飾りがついた飾り章を戴き、濃紺の詰襟の上着には銀糸の刺繍が細やかに走っていた。黒い手袋を嵌めた手を静かに組み、女性をエスコートしている。まるで物語の中から抜け出してきた王のような佇まいだった。
その腕にそっと手を添えていたのは、長く波打つ白金の髪を持つ女性だった。同じく耳の先が尖っており、彼の瞳を彷彿とさせるようなアクアブルーと白の生地を幾重にも重ねたドレスに、金細工の宝飾が首元や髪を彩っている。優しく弧を描く淡い紫の瞳は、慈しみに満ちていた。
この世のものとは思えないほどの美男美女。
それが、二人を見た第一印象だった。
入ってきた二人は、こちらの目を見た途端に大きく見開き、みるみるうちに瞳を潤ませた。歓喜を隠しきれない様子で足早に歩み寄ってくる。男性は窓を背にするようにベッドの左側へ、女性は扉に近いベッドの右側へと腰を下ろした。女性がそっと頭を撫でながら、震える声で言う。
「リュセリアっ......! よかった、目が覚めたのね.....!」
「あぁ......本当に、よかった.....。リュセリア、おはよう」
優しい声で、知らない名前を呼ばれる。
誰、この人たち。知らない。それに、リュセリアという名前だって......。
どうしてこんなに嬉しそうに、私に呼びかけるのだろう。
混乱のあまり、身体が石のように固まってしまう。何も答えられず、ただ見つめ返すことしかできない。
その様子を見かねたのか、先ほどの少年が控えめに前へ出た。
「皇帝陛下、皇后陛下。恐れ多くもこの場での発言の許可を賜りたく存じます」
「許す」
男性が短く答える。
「ありがとう存じます。僭越ながら、リュセリア姫殿下は、陛下方のことがおわかりにならないご様子。それから、ご自身のお名前も、置かれているご状況も.....」
その言葉を聞いて、必死に首を縦に振ろうとした。けれど身体はやはり思うように動かず、ほんのわずかに震えただけだった。
それでも、その小さな動きだけは伝わったのか――。
リュセリア姫殿下......? え、誰それ.......? 私が....?
頭の中は疑問符でいっぱいだった。
同時に、話を聞いていた二人の表情がふっと和らいだ。
「あぁ、なるほど」
二人は納得したように頷き合う。どうやら、なぜこちらが目を見開いたまま固まっているのか、理解できずにいたらしい。
少年の助言を受け、二人はあらためて自己紹介を始めた。
「おはよう、リュセリア。私は君の父親で、ネレイディスという。気軽に『お父様』と呼んでほしい」
「おはよう、私の愛しいリュセ。私は貴女の母親よ。名前はセラフィア。私のことも気軽に『お母様』と呼んでちょうだい」
「あ......おは.....ようご....ざいます.......。わたしは.........」
自己紹介をしてもらったのだから、私も名乗らなければ――そう思って口を開きかけて、気づく。
そういえば、私は誰なんだろう。
私の父と母だと名乗ったこの美しい二人も後ろに控える少年もみんな、私のことを「リュセリア」と呼んでいるけれど、その名前にまるで心当たりがない。
その疑問は、すぐに解消されることになった。父と名乗ったネレイディスが、頭をそっと撫でながら、優しく語りかけてきたからだ。
「目覚めたばかりだ、混乱してしまうのも無理はないよ。君の名前はリュセリア。私たちの、愛しい娘だ」
「りゅせ.......りあ......。それが......わたしの、なまえ......?」
「あぁ、そうだよ。リュセは3歳の頃から10年もの間、ずっと眠っていたんだ。理由は...またもう少し元気になってから話そう」
「えぇ、そうね。今はまだ身体もうまく動かせないでしょうから、まずは少しずつ、身体を動かすことから始めましょうね。さぁ、今日はもう良い子は眠る時間よ」
そう言われて、ふと視線を巡らせると、窓を背にして座る父の向こう側に大きく切り取られた窓が見えた。覗く空は濃い藍色に沈んでいて、それがもう夜であることを静かに告げていた。
「おやすみなさい、愛しいリュセリア」
「おやすみ、リュセリア。良い夢を」
二人から額に口づけを受けた。
その直後――先ほどまでまったく眠くなかったはずなのに、抗いがたい眠気が急に押し寄せてきた。
考えないといけないことがたくさんあるのに......。
そう思う端から、瞼がどんどん重くなっていく。
抗うこともできないまま、瞼を閉じてしまう。
意識は、ゆっくりと、また深いところへ沈んでいった。




