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三章 悪魔の左脚 4


 あれから二日が経った。

 

 サクチャイはスタジアムの観客席に今度はひとりでいた。

 今日は、イチロウはいない。昼間は珍味レストランとやらに行くらしい。前からちょくちょくサクチャイの知らないところに出かけては、手土産を持って帰ってきた。

 

 リングでは、マスクを被った男たちが宙を舞っている。繰り出す技は全て派手だが、実際のダメージはないものがほとんどだった。


「ふわぁ」


 退屈のあまり、欠伸をするサクチャイ。

 

 彼の目的は、別のものにあった。

 

 今日ここでスリヨータイ・トーナメントの最後の一回戦が行われる。その試合はメインイベントで、開始される前に別の競技やショーが差し込まれている。今やっているプロレスもそのひとつだった。


「多いな……」


 トーナメントの試合はたったひとつなのに、サクチャイたちがやった時よりも客数が多い。


 ショーを見に来たにしては、退屈にしている観客が大半だった。サクチャイがスタジアム入りする時には、チケットを売ってくれと懇願するものさえいた。たった一試合でもこれだけ呼べるのだから、運営側としては別の日にしたかっただろう。おそらく他と同じ日にされていたらパニックが起こっていたかもしれない。


 ここまで特別視される選手がどんなのか気になる。プロレスが終わったらもうすぐ試合だ。


(そういえば昨日のイチロウの話は、どうなんだろうな?)


 夕方、鍛錬を終えて戻ってきたサクチャイ。ドアを開けると、金髪でグラサンをかけた怪しい男が部屋にいた。


 イチロウが変装した姿で、どうやら他にクアーンへ取材にきた雑誌のライターやテレビアナウンサーに紛れて、海外からの記者と偽ってクアーンのことを探ってきたそうだ。


『何やってんだおまえ?』

『いや。動画以外に拙者ができることはないかと探していましたら、これくらいしかなくて』


 散々、指摘した後にとりあえずイチロウが集めてきた情報を聞くことにした。


『有益なものはあったの?』

『それがなーんにも』


 掌を天井へ広げて、お手上げのジェスチャーをするイチロウ。


 美女が脇にいないことを除けば、リングにいた時と変わらないと態度で取材を受けるクアーン。専門店でしか出てこないような高級酒を飲みながら、足を組んで応答していたらしい。


『クアーンさんは普段はどのようなことをしているのですか?』

『ふらっと入った店で気に入った女を買って、その娘と一日中遊んでる。まあ他には知り合いや友達とパーティーかな。おいらが一声かけるだけで、みんな犬みたいに嬉しそうにうちに来るんだぜ』

『クアーンさんは新人時代しばらく芽が出ませんでしたが、今では三階級制覇をしました。秘訣かなにかあったのでござるか?』

『何も。時代が認めてなかっただけで、おいらはこうなるに相応しい人間だっただけさ』

『練習はどのようなものをされているのでしょうか?』

『練習? ははははは!』


 終始クアーンは記者たちをからかっていたが、その問いには盛大に笑ったらしかった。


 ひとしきり愉快声をあげた後に言った。


『練習なんてものはしないよ。それは才能がないやつがやることだ。おいらには誰にもないこの左脚という天賦の才があるからね。凡人どもとは一緒にしないでくれ』


 元々、雰囲気が悪くなった現場がその答えでさらにキツイものになったそうだ。


 記者側も攻撃的な質問をぶつけようとしたが、クアーンはトレーナーに耳打ちされると、取材を中断して遊びに出かけてしまった。


 記者たちも唖然として、消化できないわかだまりだけが残ったようだ。


『最悪のやつでござったよ。女性記者のナンパを成功したのも、うらやまけしからん』

『ふーん』

『なんだかどうでもよさそうって感じでござるね。あやつは男の敵ですぞ。いざ尋常に成敗してくだされサクチャイ殿!』


 頼まれている側が怖いぐらいにイチロウは必死に懇願してきた。


 ここまでではないが、先日の試合会場の光景からしてクアーンを良く思ってないものはかなり多い。そしてそれも分かるほどの態度の悪さだった。


(でも、おれ自身は、そんな嫌いになれないんだよな。あの男)


 度を過ぎた遊びは確かに忌避すべきところだ。金で女を買っているのも好きじゃない。


 けどクアーンがムエタイをしているところを見ると、どうしてもみんなほど憎むことはできなかった。


 あの左ミドルキックは、それほどの絶景だったのだ。

 サクチャイは初めて祖父のムエボーランを見た時と同じ感動を覚えていた。


 あとは女を買っているといっても、モンクットのように強引ではなく、水商売の人物に留めていて、そうじゃない人たちは交渉して同意を得ようとするのも嫌いきれない一因だ。

 

 周囲との温度差を感じつつも、サクチャイは勝つべき相手として目標に据える。

 

 プロレスでは、片方の仮面レスラーがライターを隠し持って火を吹いていた。相手は火球をスライディングで潜って、下半身を掴んでから投げ技を仕掛ける、


「やめて!」

「好きなだけ金はやるって言ってんだから、いいだろ姉ちゃん」


 リングとは別の場所から聞き覚えのある声がしたので、サクチャイはそちらへ首を回す。


 観客席で、チャッマニーと彼女の肩を掴んでいるクアーンが目に入った。


「お金なんていらない! だからどっか行って!」

「そんなつれないこと言わないでくれ、おいら姉ちゃんみたいな美人、初めて見たんだ」

「いいから離して!」


 ぱしんっ

 振りほどこうとしている内に、チャッマニーの手がクアーンの顔面に当たってしまった。


「おいあんた。いくら絶世の美女でも、おいたが過ぎるぜ」

「いたっ」

「こっちに来やがれ」


 クアーンは握っている手に、細い体が折れてしまうのではないかと思うほど力を込めた。


 痛がるチャッマニーを強引に連れて行こうとすると、急に前に出現した障害物にぶつかった。


「なんだよおまえ?」

「さっさとその女を放せ!」

「サクチャイ……」


 憤怒の形相を見せるサクチャイ。さっきまでの心象は全部ぶっ飛んで、今はクアーンを憎んでさえいた。

 

 驚くも、一歩も引くことなくクアーンはすぐに睨み返してきた。


「てめえ。次のおいらの対戦相手じゃねえか。こっちはナンパの最中なんだよ。無関係の雑魚が割り込んでくるんじゃねえよ」

「悪いが関係者だ。おまえはチャッマニーの前から姿を消せ」

「はあん……女か? おいらに取られると思って悔しいのか」

「……黙れ」


 ガシッ

 

 チャッマニーを拘束していた手の手首をサクチャイは掴むと、捻りを加えた。


「いててて! なんだてめえ。こんな技、ムエタイにねえだろ!」

「ここはリングじゃないんでな。ルールなんてないんだよ。いいからどこかへ去れ。じゃないとこのままへし折るぞ」

「はっ。だったらこうしてやるよ」


 クアーンは左足を引いた。蹴りを放つつもりだ。


 打たれる前に、サクチャイは使っていなかった手も添えて、両手で手首をさらに曲げようとする。


 ピー! ピー!


 笛の音が聞こえた。


「警笛か」

「邪魔が入ってきたな。ちっ、まあいい。今日はここまでにしておいてやるよ」


 悔しげに舌打ちすると、クアーンは出口へ行こうとする。


「待て。あんた、他の女の子にもこうしてきたのか?」

「そんなわけないだろ。おいらになびかなかったのなんて、その女が初めてだ」


 サクチャイが手を外すと、クアーンはスタジアムから走って去っていった。


 警備員が遅れて現れるが、もう必要がないことを教えると帰った。


 サクチャイとチャッマニーは観客席の端でふたりきりになる。


「ありがとうサクチャイ」

 

 礼を伝えるチャッマニー。


「これぐらい気にするな。それよりどうしてここに?」

「サクチャイってこの大会に出場しているんでしょ?」

「そうだけど、それがどうした?」


 訊き返すサクチャイ。

 

 チャッマニーはスカートをきゅっと握りしめながら、顔を下にして隠した。


「来れば、会えるかなって思って」

「そうか……」


 彼女をよく見れば、耳まで赤くなっていた。


 サクチャイは今まで感じたことない不思議な気持ち――胸が締め付けられるような痛みを覚えた。なぜかその痛みは苦しくはなく、どちらかというと心地が良くていつまでも感じてみたい痛みだった。


「でも、おれの試合は今日ないぞ」

「うん、そっちもちゃんと見たから知ってる。相変わらず強いねサクチャイは」

「そうでもないよ」

「ううん、強いよ。だって昔と一緒だった。あたしを守ってくれたあの小さくても逞しい背中と変わってない」

「チャッマニー……」


 自分でも気づかない間にサクチャイの手がチャッマニーへ伸びていた。


 そのまま背中へ回して、自分へチャッマニーの体を寄せようとしたところで、


 カンカンカン


「あーっ! いつのまにか試合終わってる!」

「あらま、ほんと」


 プロレスが既に終了していて、その後にはあったはずのトーナメント第八試合もさっき終わった。


 せめてトーナメントで勝ち上がってくる相手の顔を見ようとするが、高揚した客が立ち上がって壁になっていた。チャッマニーから離れてかき分けて進むが、リングの全景が視界に映る頃には、もう誰もいなくなっていた。


 結局、相手が誰だか分からずに今日は帰ることとなった。


 二回戦当日まで日は過ぎていく。


 サクチャイは朝に青年と鍛錬をして、夜になるとホテルでイチロウと動画で試合観戦をする日々を続けた。




 試合前日の深夜。

 もう人がいないはずのホテルのトレーニングルームで、サンドバックを《《誰か》》が叩いていた。

 

 蹴ると、サンドバッグが縦に揺れる。

 天井と繋がっている鎖がギシギシと低い音をたてる。

 

 誰かは、ともかく蹴った。

 

 蹴るごとに皮膚に張り付いている汗がスプリンクラーのように飛び散った。

 

 服はビチャビチャで、息も絶え絶えだ。

 

 もはや相当運動したはずだろうに、それでも誰かは休むことなく蹴り続けた。


「荒れているな。クアーン」


 傍らにいたクアーンのトレーナーが誰かに言った。


「嫌な女にでも引っかかったか?」

「うるせえ!」

「久しぶりに相手が怖くなったか?」

「うるせえ! うるせえ! うるせえ!」


 叫ぶたびにクアーンは蹴る。足が当たるたびにサンドバックの揺れが大きくなっていく。


「おいらの思い通りにならないやつなんて消えてしまえ!」


 今までは金を渡すと言えば大体の人間は、自分の言うことに従ってきた。残りの連中はムエタイ選手である自分を知っていて、力に恐怖してやはり従った。


 あんな女も男も初めてだった。


「ちくしょう! 虚仮にしやがって!」


 肥大した感情をサンドバックにぶつける。


 右横にかっ飛んでいって、天井にぶつかった。


 振り子運動で元の位置まで戻ってくると、トレーナーが隣につく。


「いいぞ。あと一〇〇本だ。いけ!」

「うぉおおお!」

「憎しみを左脚に込めろ! それがおまえの強さだ!」


 クアーンは先程と同様に蹴り込んだ。トレーナーがサンドバックの位置を安定させるために抑えるが、蹴りが当たるたびに後退する。


 静かな夜に、この部屋だけ爆発音が何度も鳴り響いた。


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