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三章 悪魔の左脚 3


「うーん。ないな」


 ホテルの自室に戻ったサクチャイ。


 ツインルームでベッドがふたつ並んでいる。反対の壁側にはソファにガラス張りのテーブルと家具が詰まっていて、開いたスペースがない。薄型テレビや冷蔵庫もあって豪華だが、閉塞感があっていまいち落ち着かないというのがサクチャイの感想だった。


 そのサクチャイは今、隅のほうでモンコンを探していた。

 

サクチャイのモンコンは、村のみんなが作ってくれたものだった。チャッマニーを救出して、無事に帰ってきほしいという願いが込められている。


 そんな大切な品を失くすわけにいかないのだが、探しても探しても出てこない。


「えーとリングから出るまでは手に持っていたけど、医者に検査するために外せと言われて……思い出した。記憶が正しいなら、こっちのバッグにあるはず」


 記憶を辿る内に場所が分かったサクチャイは、隣にあったリュックサックを開けた。


 ガサゴソ


「あった! よかった……あれ?」

 

 水色のモンコンを見つけ出して、安心するサクチャイ。

 

 けれど輪っかに、錆びた鎖のようなものが絡んでいた。


「これは()()か」

 

 何でこんなものを?

 

 バッグから引っ張り出した見慣れない道具に、戸惑うサクチャイ。そうこうしている内に、部屋のどこからか水音が聞こえてきた。

 

 シャアアア……バタン


「上がったでござるよ。次どうぞでござる」


 シャワールームから出てきたのはイチロウだった。

 トーナメント出場を受けたあの日、お金が残り少なくて寝床がないと泣きついてきたため、今はこの部屋で同居していた。

 

 丸裸でイチモツをぷらんぷらんとぶら下げたまま、ベッドに座っているサクチャイへ話しかける。

 

 手錠はリュックサックの中へ戻しておいた。


「あれ? どうしたのでござるか?」

「いや。何でも」

 

 なぜ手錠なんて持っているのか尋ねたかったが、無断で見たのは自分だったため、追及しにくかった。

 

 どうやらバレていないようで、イチロウはホテル側で用意されたバスローブを着衣すると、リラックスするようにソファへ一気に全体重を預けて座った。


 あらかじめ買って冷蔵庫に入れておいた酒とつまみで呑む。


 サクチャイはとりあえず、先程のことは見ないでおいたことにした。イチロウの素性を全て知らない以上、下手に口出しするのも悪い。


 イチロウは放射線を書くようにピーナッツを上へ投げてから、口へ落とした。


「どうしたのでござるか? さっきから風呂にも入らず悩んで」


 サクチャイは手錠のことには触れず、もうひとつあった考え事を口に出す。


「……次の相手が気になってな」

「あの中身も外見も醜男でござるね」

醜男(キーレー)って」

 

 確かにあまり出来がよろしくない顔立ちではあった。

 美女が隣にいるだけに、余計に際立って悪く見えた。味があるとも言えるが、大半の人間は初見で嫌悪感を抱くほどだ。


「拙者も他人のことをこき下ろせるほど美形とまではいきませんが、だからといって中身まであそこまで醜く歪んでおりません」

「金をたかって、部屋まで住ませてもらってよく言うわ」

「この分はいつか必ず返すので、ご容赦ください」

 

 ピーナッツを渡してきた。サクチャイは手に取って食べる。


 カリッ

 香ばしい。粉っぽい。

 

 水を飲みたかったが、わざわざ取りにいくほどではないので飲み込んだ。


「ところで、なぜそんなにあやつのことが?」

「負けるかもしれないからだ」


 少なくとも一回戦みたいに場当たりの無策で挑んでは、確実に敗北する。あの強烈な左ミドルキックはそれを予感させるものだった。


「なのに、あまりこれといった手が思いつかなくてな。やはり一回見ただけでは……」

「つまり何度も見られて、さらに他のパターンもあるならさらにいいと……それでしたら、いい方法があるでござるよ」

「本当か!?」


 何やら良い案を持っているらしいイチロウ。


 普段履いているズボンのポケットから、薄型の機械を持ってくる。


「なんだそれ?」

「スマートフォンでござるよ。知らないのでござるか?」

「村にはそんなものなくて……」


 珍しく真顔で言うイチロウ。そこから自分は常識を知らないと気付いたサクチャイは、恥ずかしくて身を縮こまらせた。


 それを前にしたイチロウは、なんだか和んだ気持ちになった。


 スマートフォンを操作した後、サクチャイの肩をポンと優しく叩いて画面を見せる。


「これでござるよ~」

「何これ? テレビ?」

「まあそんなものでござるね。ここから動画を購入すれば……」


 画面に、クアーンが試合をする姿が映った。しかも今日とは別の試合だ。


「なんだこれ!? 東洋の魔術か!」

「いえ。違……忍法でござる。日本人なら必修でござるよ」

「マジかよ。日本人ってすごいな」

「そうでござろう。そうでござろう」


 嘘からとはいえ、祖国を褒められて喜ぶイチロウ。


 テンションを高くすると、ケーブルを持ってきてスマートフォンに差した。


「そしてこれをテレビに繋げると……」

「テレビに映った! 忍法すげー!」

「ふっふっふ。忍法・電子分身の術! せっかくなんで、これを食べながら観賞するでござる」

「それは日精(にっせい)カップラメーンのトムヤンクン味!」

「拙者、本場のトムヤンクンは辛味と酸味が強くて合わないのでござるが、日本人向けにも調整されたこれはとても好きなのでござる。日泰協同で制作したこの食品を味わいながら、一緒に頑張りましょうぞ!」


 動画再生から三分後。沸かしたお湯を注いだカップを、イチロウは先に動画を見ていたサクチャイに渡した。

 

 真剣に動きを観察するサクチャイに暖かい目を送りつつ、麺をすする。

 

 ずずず

 

 サクチャイも目線をテレビから外さないまま、カップラメーンを食べる。初めて食べるのに、とても懐かしい味がした気がした。




 日を跨いで朝五時になると、サクチャイはホテルから出てランニングに向かった。

 動画については、ついさっきまで見ていた、就寝したのは四時頃だから、睡眠時間は一時間程度だ。


 正直、眠い。


 だが慣習というのは恐ろしいもので、ちょっとやそっとの疲労ならいつも通りにしなければ逆に体にも心にも異常が起こってしまう。


 街道から公園に入る。


 あくびをしながら走っていると、隣にあの青年が現れた。


「おはよう」

「うん、おはよう。眠そうだね?」

「分かる? 実は昨晩、徹夜してしまって」


 青年とはあの日からずっと出会っている。話す時間は短いが、毎日、顔を合わせていると自然と親しくなった。


 雑談をしながらランニングする。


 先にルンピニーへの空中歩道が出現する。


「それじゃここで」


 いつも通りに別れようとするサクチャイ。

 青年は空中歩道の近くまで来ると、なんとそのままこちらのコースに従って通り過ぎた。


 未だに青年はサクチャイの隣に居続けた。


「あれ? いつもならあっちじゃ」

「今日はきみに話があってね。この後、時間あるかい?」

 

 あると答えると、走るのが終わってからにしようと青年は言ってきた。

 そのままランニングを最後まで続行した。やはりというか、青年はサクチャイに遅れることなくついてきた。

 

 ふたりは緑が生えた場所で休む。

 周りには遊具があって、今はいないが子供たちが集まって遊ぶところだった。


 息が整ったところで、ふたりは会話をする。


「で、なに? 話したいことって」

「そうだね。まず確認したいけど、きみってムエタイ選手のサクチャイ・シリラックだよね?」

「……そうだけど」


 サクチャイは俯いた。トーナメントで勝ってもまだ八百長どうこうで言われていて、ムエタイについてはあまり外部で関わりたくないのが無意識の内に態度に出てしまった。


 その心の内を感じ取ったのか、青年は曖昧に笑った。


「いやね。ぼくはきみにどうこう文句をつけたいわけじゃないんだよ」

「じゃあなんだ?」

「余計なことを言うと、きみをさらに不機嫌にさせてしまうから単刀直入に訊くね……次の相手のクアーン。君はどう対抗するつもりだ?」

「記者? それともクアーン側の人間?」

「どちらとも違う。話しても、きみが不利になるようなことは絶対にしないと約束しよう」


 真剣な面立ちで言う青年。


 一週間近く会って、この青年は平気で嘘を吐く人間ではないとサクチャイは感じた。

だから本当のことを話すことにした。


「サウスポーだ」

「それは、きみがサウスポーで挑むということかい?」

「ああ」


 動画を何度も注視して気付いたが、クアーンが左蹴りを当てやすいのはあのサウスポーの構えにあった。オーソドックス同士よりも、相手の前足に邪魔されず正面を捉えやすい。


 だから同じサウスポーなら条件は五分になる。


 サクチャイの話を聞くと、青年は天を仰いだ、


「悪いけど、それじゃ駄目だ。そんなにあまい作戦じゃ絶対にクアーンには負ける」

「なんでそこまで言い切れる?」

「これでも、ぼくは結構ムエタイに詳しくてね。きみのサウスポー作戦だが、実際にやったやつはいたがあっさり負けたよ。多少、打ちにくくなったところであいつの左脚はいとも簡単に相手を打ち砕く」

「その試合は拝見させてもらった。だけどあれは、相手が未熟だったからだ」

「言うねえ。まあ確かにそれはそうなんだけど、その後にあいつと戦った強敵たちも完全にサウスポーとまではいかずとも、スイッチを多発して左右を切り替えるようにしていたんだ。でも結果は全部、駄目だったよ」

「……」


 言われてみれば、そんな気がした。


 試合の後もあってか、疲れて想像以上に注意力が散漫していたのかもしれなかった。


「きみの作戦が成功したとして、状況としてはやっとイーブンといったところだろう」

「そうだな」

「そのうえで、きみは付け焼刃のサウスポーに対して、相手は慣れたスタイル。イーブンのはずが不利になっている。これで勝てると思うほど、あいつを舐めちゃいないだろ?」

「ああ。まったくその通りだ」


 青年の言っていることは、かなり当たっている気がした。


 クアーンは向こう優位な状況で勝てるほど、甘くはない相手だ。


 素直にサクチャイはサウスポーをやめることにしたが、ならばどうしようと考えていると、青年は言った。


「ぼくに策がある。随分と遠回りになってしまったが、今日、話したいことはそれだった」

「そうだったのか。じゃあ聞くよ」


 青年の分析力は確かだ。サクチャイはとりあえず耳を傾けてみることにした。


 青年は自分が考えた作戦を話した。


 説明が全部終わると、サクチャイは感心した態度を示す。


「……なるほど。それなら確かにいけるかもしれない」

「だろ! じゃあ善は急げだ。早速、今からここで練習しよう!」

「ここで!? どうやって?」

「ぼくが相手になるよ。多少は心得があるから練習相手くらいにはなるさ」


 青年はサウスポーに構える。中々、様になっていた。


 サクチャイからしても、作戦の提案者本人がいたほうが色々やりやすいからと申し出を受けることにする。


 サクチャイはリングの上と同じ体勢になった。


「でもあんた。なんでここまでしてくれるんだ?」


 親しくなったといって、所詮は知り合い程度だ。金もないし、なぜムエタイ界隈でも嫌

われている自分にここまで肩入れするのかを知りたかった。


 ビクッとわずかに硬直してから、青年は答える。


「……きみが親友に似ているからかな」

「親友?」

「そう。今はいなくなっちゃったんだけどね」

 

 一瞬、あの優しい瞳が憂いを帯びた切ないものになった。

 

 サクチャイもそれ以上は聞かないようにして、厚意を受けるつもりで付き合ってもらう。

 

 ふたりは公園に他の人が来るまで、緑の上で練習を行った。

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