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第17章 戦争の気配

「本当に、いいのかい? 私はあんたには向かないと思う」


集会場の隅で、お師匠様が小さくそう言った。


私は一瞬だけ言葉に詰まってから、ゆっくりと頷く。


「……少しでも、出来ることを何かしたくて。それに、お師匠様もいますし」


自分で言いながら、ほんの少しだけ声が揺れているのが分かった。


お師匠様は私をじっと見て、それから小さく息を吐く。


「そうかい、ただ——」


言いかけた言葉を遮るように、私は先に口を開いた。


「わかっています。無理だと思ったら、ちゃんと言います」


その言葉に、お師匠様はほんのわずかに目を細めて、それ以上は何も言わなかった。


宮廷の集会場には、多くの人が集められていた。


城の医療関係者だけでなく、医療技術を持つ武官、そして各地域から集められた代表の医療関係者たち。


ざわめきは抑えられているのに、どこか落ち着かない空気が広がっている。


私はその空気の中で、無意識に指先を握りしめた。


やがて始まった説明で、状況ははっきりと示された。


玄武国との小競り合いはすでに始まっていること。本格的な戦争になる可能性が高いこと。そして五年前と同様に、同盟国である洛陽、鳳陽と連携して対応していくこと。


さらに、都にいる青嶺国の武官たちも、少しずつ国境へと送られているという。


そして——


戦争が本格化すれば、当然、多くの負傷者が出る。


そのため、城の関係者だけでなく、私たちのような一般の医療関係者にも、後方支援としての協力が求められていた。


もっとも、それは強制ではない。


あくまで任意だと、そう説明された。


正直に言えば——怖い。


逃げ出したい、とも思ってしまう。


戦争を身近に感じることなんて、平和な日本に住んでいた私にあるはずがなかった。


ここにいなければ、少しは知らないままでいられるのに、と。


それでも。


私は小さく息を吐いて、顔を上げた。


ここには、お師匠様がいて、少しずつ知り合いも増えてきた。


――そして。


武官である越さんのことが、頭に浮かぶ。


この間、あんなふうに倒れたばかりなのに。


それでもきっと、戦争になれば前線へ行くのだろう。


無事でいてほしいと祈ることしかできないのが、もどかしくて。


ただ待つだけよりも、何かをしていたかった。


私にも、できることがあるのなら。


逃げずに、やりたいと思った。


―――――――――――――――――


診療所に用事があるお師匠様と別れて、私は一人、馬車へと向かっていた。


その途中で、見覚えのある後ろ姿が目に入る。


思わず、足が止まった。


……越さん。


胸がドキッと鳴る。


いつもなら、絶対に声をかける勇気なんてないのに。


――でも、今は。


私は小さく息を吸ってから、思い切って声をかけた。


「……こんにちは」


その声に、凌越が振り返る。


「あぁ、姫香か。来ていたのか」


「説明会があったので」


「そうか」


短いやり取りのあと、言葉が続かなくなる。


何を言えばいいのか、分からなかった。


命のやり取りをしに行く人に、どんな言葉をかければいいのかなんて――平和な国で生きてきた私には、分からない。


本当は、伝えたいことならある。


ただ、無事に帰ってきてほしいと。


でも、その言葉が正しいのかも分からなくて。


迷っているうちに、先に口を開いたのは凌越の方だった。


「あまり、無理はするなよ」


その言葉に、思わず顔を上げる。


「それは、越さんの方が……」


言い終わる前に、ぽん、と頭に触れられた。


突然のことに、思わず固まる。


顔が熱くなるのが、自分でも分かった。


凌越はそんな私の様子を、少し見つめてから、


「俺は無理をしなくちゃいけないからな」


「この国を守るために」と、はっきりと言い切った。


その声は強くて、揺らぎがなくて。


――胸が、痛くなる。


やっぱり、言葉が見つからない。


「あの……これ」


私は咄嗟に手元の袋を探り、小さなお守りを取り出した。


「お守りです。私の世界のものだから、ご利益があるかは分からないけど……」


一瞬、ただの迷惑になるかもしれないと思った。


それでも、そのまま押し付けるように差し出す。


凌越は一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、それを受け取った。


「……いいのか?」


戸惑ったように、こちらを見る。


「それ、私にとってすごく大切なお守りで。だから……戻ってきたら、ちゃんと返しにきてください」


自分勝手なことを言っているのは分かっていた。


でも、無事でいてほしいという願いの伝え方が、どうしても分からなくて。


凌越は、お守りと私の顔を交互に見てから、ふっとやわらかな笑みを浮かべる。


「わかった」


短く、そう答えた。


凌越は、お守りを懐にしまいかけて――ふと手を止めた。


「これを」


短くそう言って、腰の刀に手を伸ばす。


結ばれていた黒い紐をほどき、迷いなく外した。


差し出されたそれに、思わず目を瞬く。


「え……?」


「持っていろ」


戸惑いながら、それを受け取る。


お守りのかわりってことなのかな。いや、でも、あれは私が押し付けたようなものだし。


「……あの、お借りしていて大丈夫なんですか。」


その言葉に、凌越は一瞬だけ表情を止めた。


――違う。


そう言いかけて、言葉を飲み込む。


「お守り、大切なものなのだろう。これでは、釣り合わないかもしれないが――」


私は慌てて首を振る。


「そんなこと……あの、大切に持ってますね」


「あぁ」と凌越は小さく頷く。


それから、少しだけ声のトーンを落とす。


「もし、危険が少しでもあるなら、逃げてほしい」


その言葉に、息が詰まる。


「私は……」


言いかけたところで、遮られた。


「俺は、姫香には安全な場所にいてほしいと思っている。できれば、ずっと」


真っ直ぐな視線が向けられる。


戦争が怖いと言ったことを、覚えていてくれたのかもしれない。


その気遣いが、今は少し苦しかった。


「だから、約束してくれないか」


あまりにも真剣な表情に、逃げたくないという言葉が出てこない。


私はただ、小さく頷いた。


それを見て、凌越はほっとしたように表情を緩める。


「お守りは、必ず返しにくる」


その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「はい……あの、待ってますから」


声が震えそうになるのを抑えて、なんとか返す。


「あぁ。じゃあ、また」


そう言って、そのまま背を向ける。


離れていく背中を、私はただ見つめることしかできなかった。


——次に会えるのかも、わからない。


握りしめた黒い紐が、ひどく重く感じた。

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