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第16章 理由のいらない選択——ただ隣にいるだけで

明蘭が昼頃に出かけるため、店を閉めようとしていたときだった。


戸口の扉が開き、凌越が姿を見せる。


「おや、どうしたんだい。まだ調子が悪いのかい」


「いえ、お礼に伺いました。ご迷惑をおかけしたので」


そう言って差し出されたのは、一本の酒だった。


「相変わらず律儀だねぇ。……おや、この酒、私の好きなやつじゃないか」


明蘭はすぐにそれに気づき、楽しそうに笑みを浮かべる。


「お師匠様、誰か……あ、越さん。体調はもう大丈夫ですか」


声をかけながら現れた姫香は、いつもより少しだけこぎれいな格好をしていた。


「あぁ、問題ない」


その一言に、姫香は目に見えてほっとした表情を浮かべる。


「迷惑料に、これを持ってきてくれたんだよ」


「わざわざ、ありがとうございます。良かったですね、お師匠様。それ、好きなお酒ですよね」


「あんたも飲めたらよかったんだけどね」


明蘭が軽く言うと、凌越が姫香へと視線を向けた。


「酒、飲めないのか」


「はい。少し飲むだけで、すぐ頭が痛くなるので」


そう答えると、凌越はわずかに間を置いた。


「……すまない。今度、菓子でも買ってくる」


「いいです、いいです。そんな、気を使ってもらわなくて」


慌てて両手を振る姫香に、明蘭がくすりと笑う。


「そうだ、今日は休みかい」


「えぇ」


「じゃあ、ちょうどいいね。姫香にも礼をしたいんだろう?」


「……まぁ」


わずかに言葉を濁す凌越に、明蘭はさらりと続ける。


「それなら、ちょっと付き合ってやりな。本当は今日、私と花月楼に行く予定だったんだけどね。急に用事ができちまってさ」


そう言って肩をすくめる。


「あそこ、人気で予約も取りづらいだろう。せっかくだし、姫香だけでもと思ってたんだけど」


「お師匠様、大丈夫です。越さんも、せっかくのお休みなのに……」


姫香が慌てて口を挟む。


その横で、凌越は小さくため息をついた。


「俺は構わない。予定もないしな」


淡々とした口調のまま続ける。


「礼ができるなら、ちょうどいい」


「でも――」


姫香が何か言おうとした、その前に。


「じゃあ、頼むよ。姫香の分は私もちで、あとで請求しとくれ」


明蘭が軽く言い放つ。


「いえ、こちらで払います。お礼ですので」


凌越は間を置かず、きっぱりと返した。


気づけば、姫香が口を挟む余地もないまま、


――凌越と二人で食事に行くことが、決まっていた。


―――――――――――――――――


「あの、すみません。せっかくのお休みなのに」


越さんと出かけられて嬉しいと思うより、どうしても申し訳なさが上回ってしまう。


お休みの日を、私なんかのためにつぶさせてしまっているのだから。


それに、十日ほど前に死にそうな目にあったばかりだ。


本当は、ゆっくり休みたかったんじゃないのかな、とどうしても思ってしまう。


「こちらは礼のつもりだ。気にしなくていい」


「そうですけど……」


それに、あのお店。


結構高いと聞いたことがあるし、奢ってもらっていいのかな。


私の手取りで払うには痛い金額だけど、払えないわけじゃないし。


お師匠様には、もう身内みたいなものだから甘えてしまっているけれど――


どうしようかと悩んでいると、


「……その、髪飾り」


越さんの言葉に、はっとする。


顔が一気に熱くなるのが分かった。


「……あの、これもありがとうございます」


慌ててお礼を言う。


せっかく高いお店に行くのだからと、今日は大事にしている髪飾りをつけてきていた。


越さんに買ってもらったものだ。


それなのに――この事態にすっかり髪飾りのこと忘れていた。


「いや」


短く、それだけが返ってくる。


よく考えたら、この髪飾りも買ってもらっているのに――私からは何も返していない。


なんだか、社会人として駄目な気がしてくる。


全部は少しきついけど、半分くらいは自分で払うべきかもしれない。


でも、半分だけ払いますっていうのも、それはそれで変な気もするし。


ぐるぐると考えていると、


「……まだ、気にしているのか」


小さくため息をついて、そう言われた。


「だって、私、大したことしてないですし。やっぱり、半分くらいは払います」


言い切ると、わずかな沈黙が落ちる。


「――怖い思いをさせた」


低い声が落ちた。


「十分、大したことだ。お前が一番嫌だと言っていたものを、見せたと思っている」


その言葉に、思わず首を振る。


「……嫌とか、じゃなくて。その……すごく心配はしました」


うまく言葉にならないまま、そう返すと、


「だったら、心配料として受け取ってくれ。その方が、俺の気も済む」


少しだけ申し訳なさそうな表情で、そう言われた。


その顔に、これ以上は何も言えなくなる。


「その……じゃあ、ありがとうございます」


小さく頷いたところで、


「ついたぞ」


そう声をかけられた。


顔を上げると、花月楼が目の前にあった。


思っていた以上に、立派な店だ。


これはさすがに、一人で来る感じのお店じゃなかったかも。


もし越さんが一緒じゃなかったら、きっと引き返していたと思う。


それに――


こんなお店で、越さんと一緒にご飯を食べるなんて。


たぶん、もう二度とない気がする。


……そうだよね。


せっかく来たんだから、今だけは少し、申し訳なさは忘れよう。


越さんだって、私に奢ることで気が済むって言ってくれているんだし。


小さく息を吐いて、私は越さんの後に続いた。


そのまま、店の中へと足を踏み入れる。


―――――――――――――――――


案内された席に腰を下ろす。


落ち着いた空気に、少しだけ背筋が伸びる。


「やっぱり、一緒に来てくれて助かりました」


小さく苦笑しながらそう言う。


お師匠様も、よく私一人で来られると思ったな。


メニューはコース料理しかないし、一人で食べていたら、たぶん浮いていたと思う。


「いや。……それで、どれにするんだ」


「えっと……じゃあ、これで」


一番品数の少ないコースを指さす。


「本当にそれでいいのか。遠慮ならしなくていい」


「そんなに食べられないので」


「わかった」


短く返して、越さんはすぐに店員を呼び、注文を済ませた。


少しの間が落ちる。


「あの、ここのお店、来たことあるんですか?」


「まぁ、一度だけ。同僚と」


それだけのやり取りなのに、いつもより少しだけ緊張する。


向かい合わせで座っているからだろうか。


視線を上げると、どうしても目が合ってしまいそうで、長くは見ていられない。


……やっぱり、かっこいいなぁ。


心臓の音がうるさいくらいに響いている。


最初の料理が運ばれてくる。


さすが高級店、料理の配置がすごく綺麗。


そんなことを思いながら、口に運ぶ。


――美味しい。


思わず、顔が綻ぶ。


そのままもう一口食べて、少し肩の力が抜ける。


もともと食べるのが好きだから、料理を味わっているうちに、自然と落ち着いてきた。


それに、少しだけ、この状況にも慣れてきたのかもしれない。


「……これも、美味しいです」


そう言って顔を上げたとき、ふと、視線が合った。


――見られていた?


いや、偶々だって。


どんだけ自意識過剰なの、私……。


そう思ったはずなのに、少しソワソワする。


「あぁ、確かに美味いな」


「来てよかったです。どれも美味しくて」


そう言うと、


「それなら、良かった」


相変わらず淡々とした声だったけれど、ほんの少しだけ表情がやわらいだ気がして――


それだけのことなのに、とても嬉しくなる。


「そういえば、この近くに甘味が美味しいお店があるんです。今度、行ってみようかなって思ってて」


「あぁ」


短い返事が返ってくる。


ただの話題のつもりで口にしただけだったのに、ふと、……一緒に行けたらなって。


まぁ、言えるはずもないけど。


そんなことを考えた自分に、内心苦笑する。


だからこそ、今、この時間がもう少しだけ続けばいいのにと思ってしまう。


——それが叶わないことも、たぶん、分かっているのに。

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