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第14章 夜を越えて——手のぬくもりの先に

「越さん! 目、開けてください。お願い……!」

「お師匠様、お師匠様! 越さんが……あの、早く——!」

 どうして、こんなことに。

 階上から降りてくる足音が聞こえた瞬間、張り詰めていた意識がわずかに戻る。

 凌さんの様子を見る。呼吸がおかしい。浅く、苦しそうに上下している。

 ——これ……毒?

 一瞬、そんな考えが頭をよぎる。

 お師匠様は何も言わず、まっすぐ凌越のもとへと駆け寄った。

「越、しっかりするんだよ」

 声をかけながら、閉じかけていた瞼を無理やり開かせ、すぐに脈を取る。

 続けて胸元や腕、首筋に触れ、状態を確かめていく。

「……これは……黒鈴蘭くろすずらんの毒か」

 低く吐き捨てるように言ったあと、鋭くこちらを見る。

「姫香」

 ただ呆然と凌越を見つめていた私に、叱りつけるように声が飛ぶ。

「しっかりしな、姫香。越を死なせたくないなら、清脈散せいみゃくさんを持ってきな。あと水もだ、早く!」

 その言葉で、ようやく体が動き出す。

「は、はい……すぐ!」

 慌てて店の奥へ駆け込む。

 ——大丈夫、大丈夫。お師匠様がいる。きっと何とかしてくれる。

 そう思おうとするのに、手は冷たく震えていた。

 薬と水を抱えて戻ると、お師匠様と二人で凌越の体を支え起こす。

 お師匠様は迷いなく口元に薬を運び、水とともに流し込んでいく。

「……あとは、様子を見るしかないね」

 小さくため息をついた。

「その……越さんは……大丈夫、ですよね」

 祈るように問いかける。

「さあね」

 あっさりと返される。

「この子の体力次第だろうね。ただ、越は毒に慣れるための訓練をしている。でなければ、ここまで辿り着けなかっただろう」

 さらりと言われた言葉に、息が詰まる。

「毒に……慣れる……?」

 思わず繰り返す。

 ——何を言っているんだろう。

 越さんとは、住んでいる世界が違う。

 そんな当たり前のことを、今さら突きつけられた気がした。

 混乱している私の肩を、お師匠様が軽く叩く。

「とりあえず、魔道鏡で陸医師に連絡を入れるよ。診てもらった方がいいだろう。それから陳も呼んでくる。私たちじゃ、越を寝台まで運べないからね」

 一拍置いて、まっすぐに言う。

「それまで様子を見ておくれ。呼吸と脈、そこを外すんじゃないよ」

「あ……はい」

 ぐっと口を結んで頷く。

 お師匠様はそんな私を見て、ほんの少しだけ声をやわらげた。

「この子はしぶといからね。きっと大丈夫さ」

 そう言い残して、その場を離れていった。

―――――――――――――――――

 それからの時間は、どこか現実味がなかった。

 気づけば、陳さんが駆けつけてくれていて、お師匠様と二人がかりで越さんを客間の寝台へと運び込んでいた。

 私は、呼吸と脈を確認することしかできない。

 しばらくして、陸医師が到着する。

「……どれ」

 短くそう言って、迷いなく診察に入った。

 瞳を開かせ、脈を取り、胸に手を当てる。お師匠様と同じ箇所を、同じ順番で確かめていく。

「……やはり、黒鈴蘭か」

 低く呟いた声は、お師匠様と同じだった。

「清脈散を飲ませたなら、あとは持たせるしかないな」

 そのまま、淡々と処置を続けていく。

 首元に薬を貼り付け、呼吸を整える。

 脈の様子を見ながら、胸にも別の薬を貼る。

 私は言われるままに、水を用意し、薬の準備をし、ただ必死に動いた。

 どれくらい時間が経ったのか、分からない。

 やがて、お師匠様が小さく息を吐く。

「……少し落ち着いたね」

 その一言を残して、「明日もあるから」とそっと部屋を出ていった。

 陸医師は、そのまま様子を見続ける。

 夜がゆっくりと明けていく。

 窓の外がわずかに白んできた頃、陸医師がようやく手を止めた。

「……はぁ」

 長く息を吐いてから、ぽつりと呟く。

「もう、大丈夫だろう」

 その言葉を聞いた瞬間、体の力が一気に抜けた。

「……良かったです。本当に……」

 声が、少し震えていた。

「じゃあ、私は戻るよ。明蘭様によろしく伝えてくれ」

「あ、はい……ありがとうございました」

 陸医師は軽く頷くと、最後に振り返る。

「起きたら水を多めに飲ませるように。命はもう問題ないが、毒はまだ残っているからな」

「はい」

 見送ろうかと一瞬迷う。

 でも、越さんから目を離すのが怖い。

 そんな私の様子を見て、陸医師は軽く笑った。

「いいよ、送りは。あとは頼むよ」

 それだけ言い残して、部屋を後にした。

―――――――――――――――――

 ——温かい。

 ぼんやりとした意識の中で、最初にそう感じた。

 重い体の奥に、かすかに熱が戻っている。

 ゆっくりと息を吸う。まだ浅いが、夜のような苦しさはない。

 何かが触れている。

 視線を落とすと、自分の手が握られているのが分かった。

 温かな手が、しっかりと絡んでいる。

 その先に、姫香がいた。

 ベッドの脇に座り込むようにして、上半身を預けたまま眠っている。

 ——ずっと、ここにいたのか。

 ぼんやりとそう理解する。

 無意識に、ほんのわずかに指に力が入った。

 その動きに気づいたのか、姫香の目がゆっくりと開く。

「……越、さん……?」

 かすれた声で名前を呼ばれた。

「悪かったな」

 自分でも驚くほど小さな声だった。

 その一言で、姫香は完全に目を覚ましたのだろう。

 慌てて体を起こす。

「よ、よかったぁ……! どうですか、体はだるくないですか? 呼吸は苦しくない? あ、そうだ、水——飲まないと……!」

 一気に言葉があふれ出す。

 思わず苦笑が漏れた。

「大丈夫だ。それより……迷惑をかけたな」

 姫香はすぐに首を横に振る。

「そんなこと、全然……あの、水を——」

 言いかけて、ふと動きが止まる。

 自分の右手が、まだ凌越の手を握っていることに気づいたのだ。

 みるみるうちに、顔が赤くなっていく。

「あ、ち、違うの、これは……その、越さんの手が冷たくて……温めた方がいいかと思って……」

 しどろもどろに言い訳を重ねる様子に、思わず息が抜けた。

 ——戻ってこれた。

 そんな感覚が、胸の奥に広がっていく。

 もう少し、その慌てた顔を見ていたい気もしたが、

「……水をもらえるか」

 そう声をかけると、姫香ははっとしたように頷いた。

 まだ顔を赤くしたまま、どこか安心した様子で立ち上がり、コップに水を注いで戻ってくる。

「体、起こせますか?」

「あぁ、少しだるいが大丈夫だ」

 気だるさの残る体をゆっくりと起こす。

 指先に、まだわずかに力が入りきらない。

 差し出された水を受け取り、口に含む。

 心配そうにじっと見つめてくる姫香の視線に、わずかに気恥ずかしさを覚えた。

 何か言葉を返そうとした、その前に——

「……心配しました。本当に……よかった」

 姫香が、深く息を吐く。

 その言葉が、不思議と胸の奥に響いた。

 巻き込んでしまったことへの申し訳なさと、それでも——

 自分を見つめるその表情を、嬉しいと思っていることに気づく。

 戻ってこなければならない場所が、できたような——

 ……らしくないな、と思う。

 それでも、否定する気にはなれなかった。

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