8、吸血姫とモンスターの王
逆らえない。抗えない。
歓喜すら感じて、今、【わたくし】は手を伸ばす。
長く伸びた赤い爪を彼の首にあて、彼の驚いた漆黒の瞳を美しいと思いながらその首筋に唇を寄せ。
くわりと牙を剥き、その肌へと喰らい付く。熱い血潮に歓喜する。
【獲物だ。ご馳走だ。アア……この血をずっと啜りたかった】
歓喜するのは、吸血鬼の心。
そう。そうだ。【ヴィクトリア】は――【わたくし】は、吸血姫。
ひとの姿を被った魔性の生き物。ひとの血を啜る捕食者なのだ。
【いや】
血を啜り、味わううちに、拒絶の感情がぶわりと湧き上がる。
おぞましい。恐ろしい。【わたくし】は今、なにをしているの。
苦悶の表情を浮かべ、けれど抗いはせずに力を失っていく彼。
彼が、かよわい人間の魔術師が、死んでしまうではないの。
――殺してしまうではないの。
【いや……いやよ。殺したくないの】
殺したくない。死んでほしくない。
でも、体が勝手に。
止められない。止められない。
――止めたいのに、止まらない!
悲鳴のような思いが渦巻いて、けれど体は彼を夢中で貪っている。
なんとか止めなければ。なんとかしなければ。
焦燥感ばかりが募る。
そこに、馥郁とした花の香りを含んだ風がふわりと吹いた。
星の瞬きのように自然で控えめな、【自分】を呼ぶ声がする。
「【お嬢様】。こんなところで、なにを?」
「えっ」
ヘルマンの声だ。彼の香りだ。
そう認識すると同時に、風が急速に勢いを増す。
「ヘ……ヘルマン……」
ダリアを取り巻いていた世界は暴風に吹き飛ばされるベールのように剥がれ、その下に秘められていた現実を曝け出した。
「こ、ここは……わたくしは……」
ダリアの顔を覗き込む碧眼は、心配そうにしていた。
「お嬢様は、ずっとドラゴンとにらめっこをしておられたのです。楽しかったですか?」
「なんですって?」
ひと呼吸する間に、ダリアは現実の状況を把握した。
ダリアがいるのは、岩壁で構成された広い部屋だった。
部屋にはお洒落な内装も家具もなく、アルチュールもうさぎもいない。
かなり地下に潜っていたはずだが、部屋には天井がなくて夜空が見えていた。
距離的に、せいぜい地下一、二階ほどの場所にいると思われる。不思議。
傍らには、純白の片肩マントを揺らすヘルマン・ウェルザーが立っている。
彼の手には、彼のひたむきさを示すような真っ直ぐな聖剣が携えられていて、ダリアはその存在を頼もしく思った。
短い金髪を揺らしてダリアの顔を覗き込み、「正気に戻られたようで」と呟いた彼は、そのまま部屋の中央に向かって歩き出す。
「妻がお世話になったようですね。私は最近こちらの地域に就任した領主です。お騒がせして恐縮ですが、民の安全のために討伐させていただきます」
歩みながら、視線の先にいるモンスターの王に討伐宣言をしている。
モンスターの王は、部屋の奥にいた。
巨大な氷のドラゴンだ。
一流の芸術家が水晶を彫って造り上げた至高の芸術品のように美しい。
頭上では、緞帳めいた雲が夜廻りの月の手前を横切り、その明かりを遮った。
ふっと月光が細くなり、おぼつかなくなる。
そのタイミングで、ドラゴンは猛々しく咆哮した。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
全身が総毛立つ。
びりびりとした大音量の咆哮には、本能的な恐怖心を刺激させる圧があった。
「……っ」
ダリアが立ち竦んでいると、金色の風がドラゴンの視線を遮るように割り入る。
ヘルマンだ。
彼は聖剣に優しく呼びかけた。
「歌え、アルシリオン」
彼が呼ぶ名は「旅を祝福する」という意味を持つ聖剣の名だ。
そよ風のような囁きに応えて、長い聖剣の切っ先が煌めき、虹色の光の波がゆらりと広がる。
すると、咆哮が小さく遠く感じられるようになった。
ドラゴンは変わらず吠えている様子なのに、もう、何も怖くない。
聖剣の力だ。守ってくれている。そういえばさっき「妻」って仰った?
ダリアは神秘的な光に包まれて、ほっと安堵した。
ワルツでも踊るように彼の靴が一歩踏み込むと、その足元からパアッと花が咲く。
そこを中心に花風が吹き、純白の片肩マントがふわりと風を孕んだ。
――綺麗。
そんな場合ではないのに、ダリアは幻想的な光景に目と心を奪われた。
見惚れている時間は一秒にも満たなかった。
その間に、ヘルマンは聖剣を横に一閃させていた。
初撃。まるで剣身が射出されたかのように、光の刃が衝撃となってドラゴンに向かう。
衝撃が届くより先に、聖剣はくるりと切っ先を変えて天に向けられた。二撃目だ。
瞬きするほどの時間で放たれた二つの剣撃により、鋭い光が駆け抜ける。
初撃の光は真一文字に。
それと垂直に交わるように、二撃目の光が下から上へ。
硬質なはずのドラゴンの巨体は、まるで柔らかなジュレのように十字に切り裂かれた。
二撃目の光はドラゴンを断って終わらず、夜空まで駆け上がって分厚い雲を切り裂き星空を開拓している。
地上では。
「オオオオオオオオオ……アアア……」
ドラゴンが断末魔を響かせた。
その巨体は、無数の氷の破片を散らしながら崩れ落ちる。
衝撃で地面がずしんと振動し、土煙や埃がぶわりと舞って視界を遮った。
一秒。二秒。
静寂が続き、ダリアはそっと白い吐息に確認の言葉を乗せた。
「た……倒しましたの?」
「ええ。もう安全ですよ、お嬢様」
ヘルマンは事もなげに言い、片肩マントを外してダリアの肩にかけた。
「お嬢様は、なぜダンジョンの最奥にいらしたのでしょうか。いえ、理由は予想がつきますが……ここは冷えますから、まずは戻りましょうか」
手が差し出される光景が、夢のよう。
わたくし、まるで英雄物語のヒロインになったみたい。
ヘルマンのどこか飄々とした言葉にダリアが夢心地で頷く間に、舞っていた塵芥が地に落ちて、視界がクリアになる。
物言わぬ骸と化した『モンスターの王』は、頭の側面が天上から注ぐ蒼白い月光に濡れたように照らされて、まるで泣いているようだった。




