25、バティストの涙
王太子バティストは、幼い頃に姿絵を見てからダリア・キンツェル伯爵令嬢が自分の運命の伴侶だと信じて疑わなかった。
黒曜石を溶かして流したような艶めく黒髪に、初雪を思わせる白い肌。
長くくるんとしたまつ毛。不思議なほど惹きつけられる、黒い瞳。
華奢なのに、どこか危うい。
そんな特別な令嬢が、ダリア・キンツェルだ。
直接話したことは一度もないうちから、彼女を見るたびに胸が高鳴った。
彼女は自分のものだ。そんな執着心が湧いて仕方なかった。
バティストが彼女を手に入れるために障害となるものは何もない。
父王にその気持ちを告げると、すんなりと婚約者にしてくれた。
世界が色彩を何倍にも増したような幸福感があった。
自分が彼女の主人なのは当然のことだ。だから、彼女は何も不満など持つはずがない。
なぜかそんな思いあがった気持ちでいっぱいになっていた。
だから。
「なぜ、悲しそうな顔をする?」
彼女が憂い顔をしていて、自分との婚約を喜んでいない、という事実を知ったとき、天地がひっくり返るような衝撃があった。
彼女のことをもっと知りたい。知らなければ結婚してはいけない。
そんな強迫観念めいた思いが生まれたのは、バティストの母親である王妃が原因かもしれない。
「いい、バティスト。あなたは王太子という権力者ですから、油断するとすぐに傲慢な暴君になってしまうわよ」
王妃はバティストの情操教育にちからを入れていて、幼い頃から小動物の世話をさせたり死別と経験させたりしたり、学友は平民もまじえて、身分の垣根を越えた友情を築かせた。
学術書以外の書物をたくさん読ませ、特に平民や王侯貴族に虐げられる主人公の物語に多く触れさせた。バティストが「王様はなんてひどいんだ」とか「身分が上だからって好き勝手しやがって」と義憤に駆られると、「その感情を忘れないのよ」と言い聞かせてきたものだ。
時にはうざいと思った教育方針だが、おそらくはそのおかげもあってバティストは本能めいた「俺がダリアの主人だぞ」という暴君な思いを制御することができたのである。
「俺はダリアが好きだから、彼女を悲しませたりする暴君にはならないんだ」
バティストはそう決意して、彼女の周辺を調べた。
物語を読んでいると、主人公からすると「どうしてあんなことをしたんだ?」とか「何を考えているかわからんな」となる人物に、実は事情があったりする。
その人物の背景を知ると、「なるほど、そういう事情があったからだったのか」と唸らされることも多いのだ。
調べてみたところ、ダリア・キンツェル伯爵令嬢はサロンを設けていて、そのサロンの常連参加者の平民と秘密の関係になっていた。
「そんな馬鹿な」
バティストが運命を感じたように、ダリアもバティストが特別な存在だと思っていたのに。
なのに、彼女は別の男に夢中だったんだ。
それは悲しい現実で、ショックだった。
けれど同時に「そうか、そういう事情なら、王太子と婚約させられたのはつらかったよな」という納得感が湧いた。
バティストは他人の気持ちを自分のように理解できる性質を培えていたので、ふたりを結婚させてあげようとさえ思ったのだ。
けれど、手を回すより先に、ふたりは駆け落ちしてしまった。
「待て待て、俺は身を引くし、お前たちを応援するよ。逃げなくていい。王太子が味方してやるんだから」
バティストは慌ててふたりを配下に追わせて連れ戻そうとした。
よかれと思ってのことだ。
だが、後から考えると逃げる側からは「ふたりの仲を引き裂こうと追っ手を放った」と思われても仕方がなかった。
しかも、王国には異変が起きた。
ダンジョンが各地に出現し、モンスターによる被害が齎されたのだ。
この国の歴史に何度か記されている、得体のしれない災害だ。
因果関係はそのころはわからなかったが、バティストは自分の国を愛していたので、国が解決困難な災害に見舞われて悲しかった。
自分に何かできればいいのに、自分は無力だ。
そんな無力感を噛みしめていたとき、配下が「逃亡していたふたりの居場所を掴みました」と知らせてきた。
せめて、ふたりだけは幸せにしてやろうじゃないか?
バティストはふたりがいる場所へと向かったのだが、その途中で、ぴしゃりと雷に打たれて――前世を思い出したのだった。
竜騎士王バロンだった頃の記憶。
そして、宿敵アルチュール……『名もなき時計屋』が自分に向かって放つ怨嗟の気配が、ありありと感じられた。
【許さない……!】
「ひっ……」
恐ろしい。
まるで奴が目の前で生きていて、呪詛を吐いているかのように、俺を憎み国を呪う声が聞こえる!
バティストはガタガタと震えた。
「呪いだ。お、俺のせいで、愛する国が――」
お母様。お母様。
俺は、とんでもない暴君でした。
この国の歴史に刻まれている、何度も国を苛んできた呪いは、俺のせいだったんです。
俺とアルチュールのくだらない私情で。女の取り合いで、国民が巻き込まれて犠牲になってきたんです!
そんなことが誰かに言えるはずもない。
バティストは震えながらも自分を叱咤し、なんとか心を立て直して――「間に合わなかった……」無力感でいっぱいになった。
何度も人生をやり直しては失敗するアルチュールの、なんと哀れなことだろう。
奴の妄執と恨みの、なんと恐ろしいことだろう。
巻き込まれたヴィクトリア……ダリアが、可哀そうだ。
やりきれない思いでいっぱいになりながら、バティストは王家に伝わる秘宝を思い出した。
これは確か、二代目竜騎士王の養子であり、のち長き忠臣の家柄を続かせることになった吸血鬼――初代キンツェル伯爵、エヴァ―グリーン・キンツェルが創った魔道具だ。
異空間にアイテムを収納できる高級魔法鞄から天秤を取り出し、ありったけの魔力を注ぐ。
発動するためには、膨大な魔力と強く望む気持ちが必要だった。
日々積もらせてきた無力感を。
宿敵の怨念への恐怖を。
国民への罪悪感を。
ヴィクトリアとダリアへの執着心を。
王太子としての、責任感を。
何度出会いなおしても幸せになれない恋人たちへの憐れみを。
すべてを注ぐと、天秤は傾いた。
次に気づいたときには、バティストの世界は過去に戻っていた。
世界も、バティストも。ヘルマン・ウェルザーも、ダリア・キンツェルも。
何もかもが、時間を巻き戻していた。
時を戻す前の世界はどうなったのだろうと考えると恐ろしくなったが、バティストは未来を見ることにした。
「前世の記憶と、時間を戻す前の記憶。両方があるからには、俺はきっと望む結末を導ける!」
元凶である暴君の責任を取り、あのふたりを幸せにしてあげよう。
愛する自国を呪いから解放して、ダンジョン災害のせいで悲しむ民が未来永劫、出ないようにしよう。
そうして暗躍するうち、バティストは異変に気付いた。
どうもヘルマン・ウェルザーが前回の人生と違い、めきめきと活躍して成り上がっていく。
まるで自分と同じく、人生をやり直したようだ……。
まさか、そうなのか?
バティストは疑い、何度かヘルマンに接触したが、ヘルマンは腹の内を見せぬ男であった。
決定的な言質が取れないが、ダリアの名を出すと執着心のような切なさのようなものを見せる。
きっと、人生をやり直したのだ。
前回の人生と違い、ダリアとヘルマンは恋愛する様子がない。
ヘルマンが距離を取っているせいだ。
ダリアの側は、一方的に想いを寄せている様子ではある……。
「呪いを警戒して、身を引こうと言うのか? 健気な英雄だ」
バティストはヘルマンの心のうちを読み、ふたりに結婚を命じた。そして、現れるようになったダンジョンを攻略していく。
俺が救ってやるから、お前たちは結ばれろ。
俺は横恋慕をしないから……。
ダリアという令嬢は美しく、竜騎士王の記憶のせいもあって、遠目に見るたびに心がざわざわしてしまう。
手を伸ばして触れたくなる。
しかし、彼女は明らかにヘルマン・ウェルザーを愛していた。
彼女の幸せは、ヘルマン・ウェルザーと結ばれる結末にある。それは、何度も繰り返してきた悲劇の恋人たちの魂を考えると、あまりにも当たり前に思えて、絶対に横取りしてはならないと思うのだ。
誘惑に駆られてしまうので、あまりダリアを見てはいけない。
バティストは意識して距離を取り、目を逸らすようにした。
彼女に自分を断罪してほしい。
嫌いだと言い、あなたのせいで苦しんだと罵倒して、はっきりと自分の望みを断ち切ってほしい。
そんな望みがいつしか生まれて、ちゃっかりと解呪の方法に織り込んでみた。
「殿下。竜騎士王バロンは殿下ではありませんわ。前世と今世の人格の区別をつけたほうがよろしくてよ」
ダリアは優しく、冷静だった。
彼女は、竜騎士王バロンとバティストはあくまでも別の人間だと言ってくれた。
その言葉を聞いた瞬間に、世界は再び色彩を変えた。
明るく、あたたかく、光溢れる世界だ。
バティストはそのとき、自分が前世の人格とは違うことを思い出した。
許された。解放された。
結婚式の鐘が鳴る。
幸せそうなふたりが、神父の前でキスをする。
――ああ。
俺は、俺の努力は、報われた。
バティストは力いっぱい夫婦の結婚を祝福する拍手をしながら、堪えきれず熱いものが頰を伝うのを感じた。
涙の向こうで、ダリアがふっとこちらを見て、柔らかく微笑んだ気がした。
これでいい。
俺はようやく、暴君ではなくただの王太子として生きていけるのだ。
空には虹がかかり、白い雲に彩られた晴れ間は眩しいほど青く澄み渡っていた。
――Happy End!
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