第12章 ―― 最後の歌、残された音 ――
医師たちの慌ただしい声が、ガラス越しの向こうから漏れてくる。
誰かが叫び、誰かが指示を飛ばし、何かの機械音が不規則に重なり合う。
だが奏には、そのすべてが遠い世界の出来事のように聞こえた。
廊下に座り込んだまま、手は震え、視界は滲んでいた。
雪音の小さな手の感触だけが、まだ掌に残っている。
それは、二度と戻らないかもしれない“存在の証”だった。
*
「奏さん」
肩に手が置かれた。
振り向くと、白石澪が立っていた。
息を切らし、涙をこらえるように唇を噛んでいる。
「大丈夫じゃ……無いよね……」
奏は首を横に振った。
「……大丈夫じゃない。全然」
「そっか……」
澪は隣にしゃがみ、そっと奏の手を握った。
「奏くん。雪音ちゃん、ちゃんと頑張ってるよ……。
あなたが側にいたから、ここまで来られたんだよ」
「……俺なんて、何もできてない」
「できたよ。雪音ちゃん、あなたの名前、ずっと呼んでたもの」
奏の胸が深く抉られた。
その瞬間――
病室の扉が開き、医師が出てきた。
奏は立ち上がると、よろめきながら駆け寄った。
「雪音は……?」
「……容態は安定していません。
ただ――おそらく、今夜が峠でしょう」
峠――
耳が拒絶した。
「もう……助からないんですか?」
「……正直に申し上げます。
できることは、ほとんどありません」
世界が白く揺れた。
医師は続ける。
「ただ、ご本人が……
“奏さんを呼んでほしい”と」
胸の奥で何かが破裂したように痛んだ。
奏は何も言えないまま頷き、
雪音のもとへ向かった。
それは、生涯で最も重い一歩だった。
*
雪音の病室の中は、
いつもの白い光がどこか青白く見えた。
「……奏くん?」
弱い声。
けれど、はっきりと奏を求める声だった。
「来たよ、雪音」
「……うん。来てくれて、ありがとう」
奏が手を握ると、雪音は安堵したように微笑んだ。
その笑顔は、まるで春の光のように柔らかかった。
「苦しくない?」
「少し……でもね、怖くはないよ」
雪音は奏の頬に触れた。
その手は冷たく、しかし全力で温もりを伝えようとしていた。
「奏くん。
ねぇ……ちょっとだけでいいから、歌ってくれない?」
「今……ここで?」
「うん。奏くんの声、聞いていたいの。
最後まで」
“最後まで”。
その言葉は、刃のように鋭く胸に刺さった。
けれど奏は、涙を噛み殺して頷いた。
「……わかった」
「ありがとう」
奏は雪音の枕元に身体を近づけ、
そっと歌い始めた。
冬の街角で雪音が歌っていたあの曲。
二人が一緒にアレンジを考えた、最初の思い出の歌。
雪音は目を閉じて聞いていた。
頬に透明な涙を流しながら、息をするように微笑んだ。
「やっぱり……奏くんの声、好き……」
声が、途切れ途切れになった。
奏の歌声も震え、言葉にならなくなる。
雪音は沈む夕日のようにゆっくりとまぶたを開き、
奏を見つめた。
「ねぇ奏くん……私、お願いがあるの」
「なんでも言って」
「枕の下……見てくれる?」
奏は震える手で枕をめくった。
そこには、小さなノートが挟まっていた。
見慣れた、水色の表紙。
「これ……?」
「うん……私の“未完成の曲”」
雪音は小さく息を吐いた。
「ぜんぶ……奏くんにあげる。
私の代わりに、完成させてほしいの」
「そんな……!」
「できるよ。奏くんだから」
奏の頬を、雪音の手がそっと撫でた。
「私ね……ずっと信じてるの。
音って……消えないんだよ。
奏くんが歌ってくれたら……
私はきっと、どこかで聴いてるから」
その言葉を聞いた瞬間、奏は雪音に抱きついた。
「いやだ……雪音……行かないで……」
「行かないよ……。
どこにも行かない……。
だって、奏くんの中にいるもん……」
雪音の呼吸が、ゆっくりと、細くなっていく。
モニターの音が落ちていく。
雪音は、最後の力で奏の手を握った。
「ねぇ……奏くん」
「なに……?」
「幸せだったよ……。
ほんとうに、幸せだった……」
その言葉は、
まるで“最期の歌”の一節のようだった。
そして――
「……大好きだよ」
雪音の手が、ふっと軽くなった。
まるで風が抜けたように。
「雪音……? 雪音……?」
呼んでも、返事はない。
まぶたは閉じたまま、
微笑むような穏やかな表情だった。
モニターの音が――
細い線を描きながら消えていく。
医師が駆け寄り、処置が始まる。
奏は雪音の手を握ったまま、
声も出せずただ泣き続けた。
時間が止まった。
世界が静まり返り、
ただ雪音の残した“温度だけ”が、手に残っていた。
*
どれほどの時間が経ったのか、奏にはわからなかった。
気づけば病室には医師が立ち、
静かな声で告げた。
「……ご臨終です」
雪音の時間は、静かに、優しく、終わっていた。
奏は動けなかった。
雪音の手を握ることすら、手放せなかった。
澪がそっと肩に手を置いた。
しかし奏はうつむいたまま、
小さく震える声でつぶやいた。
「……雪音の曲……完成させないと」
涙で濡れたノートが、膝の上にあった。
雪音が最後に託した“音”。
それだけが、奏をかろうじて立たせていた。
雪音が消えてしまった世界で、
奏の心にはただひとつの願いだけが残っていた。
――雪音の歌を、終わらせない。
そしてその夜、奏は初めて気づく。
雪音のノートの最後のページに、
震える字でこう書かれていたことに。
「この曲を完成させられるのは、奏くんだけ」




