第13章 ―― 残響の手紙、夜に灯る音 ――
雪音が旅立った翌日、
世界は不思議なくらい静かだった。
昨日まで降り続けた雪は止み、
空気はどこか柔らかかった。
でも奏には、何ひとつ色がなかった。
歩く道も、見慣れた街並みも、
まるでガラス越しに見ているみたいに遠い。
音が――消えてしまっていた。
ギターケースを背負っていても、
重さだけがずっと肩にのしかかってくる。
雪音がいない世界は、
本当にこんなにも静かなんだろうか。
耳を澄ませても、
彼女の声は、どこにもなかった。
*
その日の午後、
雪音の母・新庄が雪音の部屋へ奏を連れて行った。
「雪音のものをね……あなたにも渡したいの。
きっと、それがいいと思うから」
新庄はそう言って、
雪音の机の引き出しをそっと開けた。
そこには、雪音が大切にしていた日記帳、歌詞ノート、
そして一台の古びたスマートフォンが入っていた。
「これ……」
「雪音がね、使っていた録音用の端末よ。
あなたのために残したものがあると思うの」
奏は震える手で受け取った。
端末は小さく、温度を失っていた。
でも、その中に雪音の声が生きていると思うと、
胸が強く締め付けられた。
雪音の母は続けた。
「雪音はね……最後まで、あなたの話ばかりだったの。
“奏くんがいてくれるだけで幸せ”って……」
「……っ」
言葉にならない声が漏れた。
新庄は優しく奏の背を撫でた。
「雪音を好きでいてくれて、ありがとう。
どうか……雪音の歌を、止めないであげて」
奏は静かに頷いた。
雪音の音を、消すわけにはいかなかった。
どんなに苦しくても――。
*
その夜、奏は自分の部屋に戻った。
雪音のノートと、録音端末を机に並べた。
枕元の照明だけが小さく灯り、
部屋の中に雪音の存在を呼び寄せているように感じた。
奏は端末の電源を入れた。
ロック画面には雪音が書いたメモが残っていた。
〈奏くんへ〉
ただそれだけで、胸が詰まった。
震える指でメモを開く。
再生リストの一番上に、ひとつだけタイトルの付いた音声があった。
「最後のメモ」
奏は息を整え、
ゆっくり再生ボタンを押した。
*
――ガサッ……ガサガサ……
――(雪音の小さな息遣い)
〈……これ、聴いてるの、奏くん、だよね〉
〈もし聴いてるなら……私はもう、奏くんの隣にいないんだと思う〉
雪音の声が流れた瞬間、
奏は喉の奥で涙がこみ上げるのを感じた。
その声は少し掠れていたが、
間違いなく、雪音だった。
〈こんな形でごめんね。
でも、どうしても伝えたいことがあるの〉
雪音が息を吸い、
小さく笑った。
〈奏くん。
出会ってくれてありがとう〉
涙が頬を伝って落ちた。
〈私ね、奏くんがギターを始めてくれたとき……
すごく嬉しかったんだよ〉
〈だって私、自分の音が誰かを変えるなんて思ってなかった。
まして奏くんみたいな人の人生に触れられるなんて〉
声が少し震えた。
〈奏くんは……私の音を好きだって言ってくれたよね。
あれ、本当に嬉しかった。
ずっと胸の中にしまってるくらい、宝物だった〉
奏は顔を覆い、肩を震わせた。
雪音の声は続く。
〈でもね、最初に言っておきたいの。
奏くん。泣かないでね〉
〈私がいなくなった世界は、寂しいかもしれないけど……
奏くんの音は残るから〉
〈奏くんが弾いて、歌って、誰かに届ければ……
私の音も一緒に響いてる〉
〈だから、止まらないで〉
〈私のためじゃなくて……奏くん自身のために〉
雪音は咳をした。
その音が痛々しくて、胸が裂けた。
〈最後に……お願いがあるの〉
奏は、息を止めて聞いた。
〈未完成の曲、あったよね。
あれね……実は本当はもう、完成してるんだ〉
〈奏くんの声が入ったら、それで完成だから〉
〈だから……続き、歌ってほしい〉
〈私の代わりに〉
雪音は、小さな声で言った。
〈奏くんの音、すごく好き〉
〈あなたが歌うなら……私はどこにいても、ちゃんと聴いてるから〉
そして――
〈奏くん。大好きでした〉
音声はそこで途切れた。
奏は、机に突っ伏して泣いた。
子どもみたいに、声を上げて泣いた。
雪音がいない世界が、あまりにも広くて、寒かった。
けれど――
雪音の声は確かに残っていた。
雪音の願いは、まだ終わっていなかった。
*
その夜の深い時間。
奏はギターケースを肩に、
街へ歩き出した。
雪音と出会った、あの夜の路地。
街灯がぽつんと光り、
夜の風がアスファルトを静かになでている。
人影は少なかった。
雪音がよく歌っていた場所に立つ。
まるで雪音がそこにいるような、
そんな錯覚すら覚えた。
「……雪音」
呟いた声が、夜に溶けた。
奏はゆっくりギターを取り出した。
手が震える。
でも――弾けないわけじゃない。
雪音が遺したノートを開き、
未完成だった最後のページを見た。
そこにはたった一行、震える文字でこう書かれていた。
〈奏くんの声で終わります〉
奏は息を吸い、弦に指を置いた。
そして――
雪音の最後の曲を弾き始めた。
歌った。
声が震えた。
涙で音が揺れた。
でも、止まらなかった。
街灯の下、
冬の風の中、
雪音の残した“音”と一緒に、
奏の声は夜空へ溶けていった。
その音は、かすかに震えながらも、
どこまでも優しく、
どこまでも切なかった。
まるで――
雪音がそこに寄り添っているようだった。
夜の街に、たしかな残響が満ちていく。
そして奏は、泣きながら気づいた。
雪音の音は、消えてなんかいない。
消えるわけがなかった。
雪音の願いも、想いも、残した歌も、
全部、奏の胸の中で生き続けていた。
だから奏はギターを離さず、
雪音の曲の最後のフレーズを歌った。
その声は、まっすぐ夜空の高みに吸い込まれていく。
“雪音、聴こえてる?”
奏の問いに応えるように、
わずかな風が吹き、
足元の落ち葉が舞った。
雪音が微笑んだ気がした。
冬の夜が、静かに、静かに揺れた。




