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時折起こる魔力の集束むらといい、自身の体に何やら異変が起こり始めているようだ。
それはニルケに捕まっていた時のものに似ているような気がした。
つまりは完全に回復しきっていなかった体から、再び魔力が枯渇しようとしているらしい。
それでも、まだいけるはずだ。
ロゼが握りしめた手を見下ろした。
手の中には魔力が集まる感覚がある。
脇目も振らずにロゼの馬が頭領を目掛けて疾走した。
跨っていたのは集落の中に残っていた荷馬車用の馬だったが、幸い戦場でも怯える事なく走ってくれていた。
お互いの表情が分かるまで接近した所で足を止める。憎悪を滾らせた頭領が呪いの言葉を投げかけた。
「貴様、魔術士め! 貴様は絶対に生きて帰さん。引き裂いて首を切り落としたら三日は引き摺り回してやる」
「そうなるのはお前の方な気がするが」
そう鼻で笑って手を握り込む。
魔力を集束しようとした時、浮くような目眩がしてそれに失敗した。
「危ない、後ろだ、ロゼ!」
危機を知らせる遠い声音に、初めて背後から馬が近付いていた事に気付く。
頭上から振り降ろされたのは騎馬の剣、それを何とか振り向きざまに馬ごと魔術で吹き飛ばした。
だが、直近に迫った頭領の槍を防ぐだけの時間が取れなかった。
魔術の発動に間に合わない。
憎しみで理性を失った目が見開かれていた。
頭領が引いた槍の、光を受けた穂先が視界に入る。
ーーくそ、躱せない。
「ロゼ!」
また同じ声が叫んだ。
体を捻ったロゼが馬上で傾く。その脇を何かが通り抜けた。
槍ではない。
とても視認できるような速度では無かった。
滑り落ちた格好のロゼが辛うじて地に足を着いた。馬の鞍を掴んだまま顔を上げると、飛び散った血が頬を濡らした。
見れば、鋭利な物が頭領の肩を貫いていた。
一拍置いてからそれが先端の尖った氷なのだと気が付いた。
「あああ!」
雄叫びを上げて、馬上でうずくまった頭領が槍を手放した。
魔術と声に驚いたロゼの馬が、暴れて鞍を掴む手を振り解くと走り去った。
「死ね!」
頭領を取り巻いていた男達がロゼに槍を突き出す。
両者の間に緑の魔術儀を着た男が割り込んだ。
魔術士が手を振るう。紫紺の男達の眉間に綺麗に氷塊がぶつかると、男達は顔を押さえて叫んだ。
「痛ってえぇ!」
怒りの声の合唱を聞きながら、緑衣の男がロゼに向かって手を伸ばした。
「ロゼ! 掴まれ!」
そこにいたのは、レンシアと一緒に逃げたはずのバナウだった。
ノルクト族の着ているような白い装束の上にマンドリーグの魔術儀を羽織っていた。
それで、ロゼはバナウを見てもすぐに状況が判断出来なかった。
「何ぼうっと突っ立ってるんだ。早く乗れ!」
手を差し出すバナウに向かって、恨みの目を向けた敵の騎馬達が次々と槍を突き出した。
それはロゼが魔術で全て打ち払うと、バナウの手を掴み返した。
引き上げられて後ろに跨ると、馬は直ぐにその場を駆け出した。
「何でお前がここにいるんだ」
非難めいたロゼの口調にバナウが馬を繰りながら言った。
「ロゼが一人で戦を止めに戻ったって聞いたからだよ」
誰から聞いたとは言わなかったが、それでバナウとガナが無事に合流出来たのだと、そうロゼは理解する。
湧きあがる怒りが逆に笑みをもたらした。
「お前は今まで何をしていたんだ。お前がさっさとレンシアと国境を越えていればこんな事にはならなかったんだ!」
背後から頭をひっぱたかれて、むっとしたバナウが怒鳴り返した。
「どれだけ大変だったと思うんだよ! 大体お前、今危なかっただろ! まずは礼を言う所だろ! 俺が戻って来なかったら死んでたぞ!」
「馬がいれば十分だ。お前は降りろ」
「鬼畜か!」
走る馬の背で喧嘩する二人を、イレマの頭領率いる馬群が追いかけてくる。
敵の鬼気迫る表情にバナウが焦った声を上げた。
「ロゼを狙ってるよ! ぴったりくっついて来る。ちゃんと掴まってろよ」
手綱を繰って、バナウの馬が群衆に突っ込んだ。土埃の中に人影と武器がちらつくが、それらを上手く回避していく。
このまま戦場から逃げ抜けようとしている事に気付いて、ロゼが背後から制止をかけた。
「待て、敵の頭を仕留める。後ろのあいつだ。馬を引き返せ」
「えっ」
後ろから襟元を引っ張られて、バナウが背後を振り返った。
後方には頭領を先頭に、騎馬の一群がまだ自分達を追って来ている。
少しでも馬の脚を緩めたら瞬間的に槍を突き出されるだろう。
思わず大きくかぶりを振った。
「無理だって。無理無理!」
「いいから戻せ!」
「この状況でどうやって引き返すんだよ!」
二人を乗せた馬は、追走してくる馬からの攻撃の間合いに入りそうだった。
「バナウ、このまま馬の脚を止めるな!」
ロゼが叫びながらバナウの肩を掴むと鞍に左足をかけて体を支える。力が掛かってバナウが踏ん張った。
斜め後ろについた馬に向かってロゼが魔術を放つ。間近で起こった爆風に、バナウの馬が煽られて脚が乱れた。
「うわっ! 危ね。もっと穏やかにやってくれよ」
「うるさい、お前は馬を操る事に集中しろ!」
「俺が落ちるから引っ張るなって!」
追いかけて来るイレマの者達はまるで自分の足のように馬を操り群衆の間を縫うように走る。
逃れようとするバナウの操術も巧みではあるが、二人の男を乗せている馬の脚は間違いなく鈍い。
周りは敵味方が入り乱れていた。
ここで無闇に魔術を放つとノルクトの者を巻き込んでしまう。それに今は魔術を無駄打ちしたくなかった。
頭領一人を仕留められる隙を窺いながら、ロゼは時機を待った。
そうしている間にも距離は縮まって、突き出された槍がバナウの腹をかすった。
「わああ! 死ぬ! ロゼ、何とかしろよ!」
「なら、お前が馬から降りろ。俺一人ならどうとでもなる」
「それはさっきも聞いた!」
軽口を叩いてみせたロゼだが、バナウを掴んでいる左手が滑りそうになる。
さっき槍で切られた傷が重く、痛みもあって手に力が入らない。
いくらクオール人が傷に強い種族とはいえ、魔力が底をつきかけていてはその恩恵も十分には受けられないようだ。
さらに魔力を使おうとすると、血の気が引くような感覚がついてくる。
もう広範囲かつ高威力の魔術は使えそうにない。
間近に迫った敵を力ずくの魔術で追い払うのが精一杯だ。
追い縋って騎馬が槍を突き出すのを、さらにロゼが魔術で薙ぎ払う。
だが自身の魔術の反動を受けて、体を支えていた手が肩から離れた。
「おい、ロゼ!」
馬から落ちかけたロゼの体を、気付いたバナウが間一髪で抱えて止めた。
「大丈夫か、ロゼ。落ちるなよ」
「分かってる」
答えたロゼを見て、バナウが不安を抱いた。
口調に反して何となく調子が悪そうに見えたのだ。
「どこか怪我をしてるのか? もしかして魔力切れを起こしたとか?」
「いいから前を見てろ」
後ろから頭を抑えられて、仕方なくバナウが騎馬の少ない場所を選んで馬を駆けさせた。
背後にぴたりと追って来る騎馬を、ロゼも振り返った。
一撃で仕留めてやりたいところだが、それを見越してか敵の動きも隙が無い。わざと蛇行するように群衆を避けている。
バナウに自分の状態を察されてしまったようだと、ロゼが目を据わらせた。
とはいえ、迂闊に魔術を放ち続ければ冗談ではなく意識を失って落馬するかもしれない。
魔力は無尽蔵では無い事を、今回の一件で否応なしに思い知らされた気がする。
頭領達はどこまでも執念深く追いかけてきた。
彼らも諦める気はなさそうだ。
バナウ達が駆け抜けている群衆の中の、ノルクトの士気は完全に相手を飲み込んでいた。
この戦地には殺気が薄れている。
徐々にイレマの群勢はノルクトの集落から離れつつあるようだった。
「この……!」
脇に迫る敵の騎馬に向かって、バナウが手を振り払った。
鋭利な氷塊が敵に向かって一直線に飛翔するが、相手はそれを軽く避けた。
「お前の動きは読まれてる。前だけ見てろ!」
反論しようとしたバナウは舌を噛みそうになってやめた。
だったら何とかしろと言いたかったが、敵の頭領が取り巻いている仲間に向かって叫んでいるのが耳に入った。
「魔術士を馬から落とせ! そいつは足が悪いから馬がなければ動けない。それに暴れすぎて魔力を失っている。今ならやれる」
バナウがロゼを振り返って、やはりと思った。
さっき感じたロゼの異常は気のせいでは無かったのだと。
敵の目に分かるくらいなのだから。
さらに足が悪いと聞いて、ロゼの動きが俊敏でなかった事に合点がいった。
考えてみればここに至るまで怪我もなく無事に済んだはずが無い。
あのレンシアと二人で逃げた混乱の中、魔力を消耗して衰弱しているロゼを一人で集落に残してきてしまったのだ。
ロゼと目が合ったが、緑の目は見返しただけで何も言わなかった。
ごめんと謝りかけてバナウは言葉を飲み込んだ。
今はそういった話をしている場合ではない。
ーーせめてロゼを生きて帰さなければ。
バナウが手綱をしっかりと握り直した。
それが出来なければ、本当にロゼを利用しただけで終わってしまうのだ。
ここに戻って来た理由すらも失ってしまう。
危害を加えるつもりは無いなどと言っておきながら、結果的に戦場に引っ張り出してしまった今となっては。
「バナウ、広い所に出ろ。そこで終わらせる」
背中からロゼに言われて、一人で思い詰めていたバナウが我に返った。
「分かった。どのみち馬がもう走れなさそうだと思ってたんだ」
逃げやすい場所を見極めてバナウの馬が群衆から飛び出した。
それを追って頭領率いる騎馬の一団も抜け出す。
「わああ!」
バナウが叫んで馬の向きを急に変えた。
人の群れを抜けた所で、先回りしていた頭領の取り巻きの数騎が正面から襲ってきたからだ。
「この……!」
横を通り抜ける直前、ロゼが魔術で先頭の馬の足を切り払うと、急に崩れ落ちるように馬が倒れる。
巻き添えを食って後続の騎馬も転倒した。
誰もいない場所に出てからしばらく走った所で、バナウは馬の脚を止めた。
ずっと全力で走らせていたせいで、馬は疲れきってしまっていた。
背後から離れなかった頭領もようやく馬の足を止めた。
落ち着いて見れば、頭領の周りにたくさんいたはずの取り巻きはもう数えるほどしかいなかった。
対峙する彼らの遥か後方で、群衆の中からイレマの者達が敗走に入り始めた。
波が引くように坂を登っていく。
対照的にノルクトの男達が一斉に上げた歓声に近い鬨の声を聞きながら、ロゼは頭領に向かって口を開いた。
「わざわざ俺を追いかけてくるなんて、魔術を軽く見たもんだな」
頭領は血走った目でふと笑った。
「軽く見てなどいない。十分味わわせて貰ったからな。お前がいなければノルクトなんかとうに落ちていたものを。一人でよくぞここまでやってくれたと感心するわ」
だがな、と頭領が前置いた。
「お前のした事は全て無駄だ」
「どういう意味だ」
怪訝そうなロゼの顔に、頭領が嘲笑った。
「この戦いは時代の変遷への先触れに過ぎん。お前のような魔術士が一人粋がっただけでその流れに逆らうことはできんのだ。それをこれから思い知らせてやりたいと思ってな」
「何が言いたい」
やけに強気な頭領の言葉を、ロゼが訝しげに聞いた。
「見苦しく足掻いたところで、もうノルクト族の命運は尽きている。それはずっと前から決まっていた事だ。繁栄したものはいずれもっと大きなものに飲まれて行く。お前がどれだけ努力したところでもうノルクトの運命など変えられないのだ」
頭領が空を振り仰いだ。
日は中天にある。
そして、頭領はロゼに向かって正面から指をさした。
「お前はもう大した魔術を使えまい。追い詰められたのはお前の方だ。お前の首をノルクトの奴らに見せつけて、絶望への礎にしてやる。我らが新しい国を創るために。そして、我々の時代を迎えるために」
意味を捉えられなかったロゼが、天の光を見てはっと何かに気付いた表情を見せた。
「ロゼ?」
戸惑って呼び掛けるバナウに、ロゼが一つ息をついて小さく笑みを浮かべた。
「まだいるようだな。……援軍が」
「……え?」
頭領が示したのは時刻だ。恐らく援軍と合流するはずの。
そう思って振り返った西の方角、荒れ地が続く丘の上。そこには地平線に並ぶ騎馬群団が見えた。
今までこの地で戦っていた者達とは別の集団。たった今駆け付けたばかりであろう敵の姿だった。
「そんな、まさか……」
バナウの声が震えた。
ざっと見て、五千人規模の騎馬や人々。
遠目でも彼らが西からやってきた集団だと見て取れた。
「あれらを掃討する力など残っていまい。無駄な努力だったな、魔術士よ」
「……もう、だめだ。終わりだよ」
脱力したバナウが泣きそうな声で呟いた。