リハビリ
◇◇◇
ベッドに滑車運動器が取りつけられた。テスラの指導の下、リクライニングを四〇度程度に上げた状態で吊り輪を左右交互に引っ張る。
私の新しい腕はまるで最初からそこに備わっていたかのようにある。眠りから覚めた時のシーツを握る感触は、それが当たり前だというばかりに関心の薄いもので、まるで感動をもたらさなかった。当たり前の感覚を取り戻しただけ。腕を失っていたなど夢であるかのような。それがいかにカンデラの技術が凄まじいものなのか、それだけでは表しきれないのがもどかしい。
ただ、義手との境目は一目瞭然。新しい腕にはあらかじめ適量の人工筋が盛り込まれている。つまり体型のバランスが取れている時の、健康体に見合った腕が今の私の体についている訳で、ずっと寝たきりだった私にとってダンベルを取りつけられたようなものなのだ。神経はつながっているので指先はある程度思い通りに動かせる。しかし、腕の上下運動は肩に過酷な負担を強いた。
「ゆっくりで構わないから、止まるんじゃないよ」
仁王立ちで鋭い口調ながらも言っていることは優しい。先日にリハビリを〝地獄〟とたとえたのは彼女がとことん厳しく指導するからという意味ではなかった。単純に私自身がきつい思いをするからなのだ。
動かせる腕を手に入れたのだから食事も自力で取る。スプーンを握るまではいいがスープをすくい口元に運ぶまでが一苦労である。自然と前屈みになろうとするのだが、背中は石板のように固まっていた。
二時間ほどかけて柔軟運動、滑車運動、腹筋、背筋をする。それを一日に二セット。二日置きで行う。二日休めても食事はある。始めの頃は筋肉痛でスプーンを持つことすらままならなかった。面倒なのが、伝達義手も生身の体の神経に反応して疲労感を出せるということである。
「ロボットじゃあないんだ。だるくなって当然だ」
と、カンデラがしたり顔で言ったのにはうんざりした。リハビリさえなければ、ここまで生身に近づけることができるのかと感動もしたのだろうが。この時ばかりは邪魔な機能としか言いようがなかった。
排泄を自力でできるようになったのは成長と呼べる。先日テスラに述べたように義性器の必要性を感じられなかったため、女性と差ほど変わらない尿道にしてもらった。始めの違和感は当然あったが、あれを支えなくてよくなったことに開放感があった。
あれを触ることに嫌悪感がずっとあったのだ。あれが自分の体にくっついていることに不快感があった。そうかといって性の同一性に問題があった訳でもない。男であることに自覚はあるし、何度も女性に恋をした。(誰に恋を……?)ただ、グロテスクな物体という認識。あれが生殖活動に必要とされる部分。あれを女性の体の中に入れる。そんな酷いことはできない。
それだというのに彼女は(誰……?)私を悪く言って……。
もはや私は男ではなくなったのだろうか。そうかといって女でもない。(そういえばミミズは雌雄同体なのだ……)生殖器を捨て、家の血筋を絶ったことには変わらない。しかし恋は一人前にできるままだ。元より非生産的な感情だろう。性器はいらない、セックスはもってのほか。子どもは……。子どもは欲しいと思えるのだが。愛する人の……。
一体私は誰に恋をしていたというのだろう?
すべてが漠然としている。しかし確実に連想というパズルのピースが端から埋まっていっているような。私の恋愛事情など、キャプテンにとってゴミ屑と同じ価値だろうが。
◇◇◇
食事に苦労を感じなくなってきた時に腕立て伏せも組み込まれ、かろうじて膝まで残っている左脚と、申し訳程度に残っている右太腿の筋力作りも始まった。
休憩の合間の読書も日課となった。ミリコのお下がりをテスラが持ってきてくれるのだ。ほとんど童話だが、部屋から一歩も出られない私にとって数少ない娯楽の一つであり、知らない物語の方が多く新鮮で、脳に小気味よい刺激を与えてくれる。
カンデラからはたまたま安く手に入れたという年代物のレコーダー。ジャズを聴きながら読書をし、時に三人で小さな丸テーブルを囲んでポーカーをする。カンデラは高価そうな飴色のパイプをくわえながらで、紅茶の甘苦い香りが部屋に充満する。特別嫌いではなかった。これで観葉植物の一つでもあれば心安らげるだろう。
ポーカーはテスラの方が強かった。病院の夜勤生活で医療チームと散々賭けてきたらしい。それに関してはカンデラも似た口だったが、彼女の方が程度は高く、ギャンブル依存の片鱗が見て取れた。期限切れの薬剤の横領。売却。精神洗浄剤や還元剤は九割言い値で売れる。売り上げはまたギャンブルに当てる――彼女曰く、慈善活動で招かれざる患者に投与している……。
絵札をにらみながらテスラは語った。精神廃頽予備軍は政府が公表している数より遥かに上回っている。病院に勤務していればわかる。通院できる患者は金に余裕があり且つ体裁に気を使わない者である。その条件を満たす人間は限られている。
「しかしだ。肉体の酸化を恐れ続ける美容主義者の薬物依存もまた、水面下で膨れ上がってるんだぜ。そいつらにホイホイ薬を与えちまうのがお前の慈善なのかね」
カンデラが片頬笑む。その青紫の瞳の光といい、パイプを支える指先といい、性的な魅力がにじみ出ている。さぞかし女性との交流が豊富なのだろう。……いや、テスラのようなタイプもいるし、そう考えるとゲイ特有の雰囲気のようなものをまとっているようにも感じてくる。思い当たる節があるせいで一度浮かんだ疑惑は消えない。当人が公表しない限りは口に出せない話である。
「美意識狂いのロボットにはやらないよ。健康的に老いて死んでいきたい奴に恵んでやるのさ」
「高値でだろ」
「誰も値切ろうとはしなくてね」
二人してニタニタと笑った。意地汚いテスラ。それでも彼女は看護婦の職を誇りに思っていたのではないかと思う。その証がオリーブ色のバンダナ。一部地方で使われている看護婦の頭巾だ。
「健康的な死ほど贅沢なもんはないだろう。なあ、ペタ」
テスラに投げかけられ、私はぱっと言葉を返せなかった。
「まだカードと格闘するだけでやっとさ。なあ、ペタ。ポーカーは頭を使うだろう」
なめてかかった口調と共に、カンデラの気だるく甘ったるい煙が私の頬を撫でた。二人とも酔っているのだろうか。この場に酒はない。あるのは柑橘類の果汁とグルコースを水で薄めただけの美味しくないものだけ。では彼の吸うそれに、二人して顔を赤らめているのか。
「おいおい。お前さんは何も賭けちゃいないんだから、マジにならなくてもいいんだぜ」
いいや、手を使って遊べるのが楽しいだけなのだ。手が使えるというのは嬉しい。無限に何かができる気がしてくる。この錯覚が、いずれは現実のものに。
目の前がチカチカする。黄みがかったぬるい水の入ったグラスがキラキラして見える。あのグラスの中に「希望」が一滴入って……。
「カンデラ。アンタそれ強すぎやしない? すっかり酔っちまってるよ」
「ん? 久しぶりにいいやつ手に入れたんで、気つけのつもりで吸っちまったよ」
テーブルに額を打ちつけた私の上でへらへらと言葉を交わす。私は背中を揺さぶられた。
「すまんね。まあ近いうちにいい脚を取りつけてやっから、な?」
「まさか今の衝撃で何もかも思い出すんじゃないだろうね」
「まさか。だとすれば笑っちまうな」
思い出すことはなかった。虫食いの穴は修繕されることなく、ただ一滴の「希望」が回っただけである。毒のように。




