描く未来を
時は少し遡り、ソルたちが三層のボス『インソレントワイト』と戦っている頃。
松島住子は一心不乱にキーボードを乱打していた。
「やっぱセキュリティ硬いですね。突破してもすぐに塞がれます」
「それぐらい予想できたことでしょう。泣き言言ってないでひたすら打ち込みなさい」
覇気のない声で弱気な発言をする立岡翼を、叱咤するように制する住子。
ここ数日、住子は風呂や食事はおろか、睡眠すらほとんどとっていない。髪はボサボサ、肌は荒れ、目にはクマもできている。おそらく、今体重計に乗れば、針は今までの数値よりも少ない数を指すだろう。
しかし彼女は手を止めない。
ゲームに囚われたプレイヤーたちを――いや、咲夜を助けるために鬼気迫る様相で画面に向かい続けている。
そんな状態だから、彼女は接近してくる者に気づけなかった。
「住子さん」
「ひえゃぁぁぁぁ!?」
首元に何か冷たいものを押し当てられ、年甲斐もない悲鳴をあげてしまう。一体何事かと振り返ってみると、そこにはいたずらっぽい笑みを浮かべた斎藤祐介がいた。
「おお、思ってたより面白い反応っすね。録音しとけばよかった――すみません冗談っす」
静かな怒りのオーラが、住子から滲み出たのを感じ取った祐介が、すぐさま頭を下げる。
恥をかかせてくれた相手をどうしてくれようかと思った住子だったが、謝られてしまって勢いを削がれてしまった。
どうせそんなことをしている余裕も気力もない、と自らを戒め、再びモニターに向き直った。
「おーい祐介ー。今の録音しといたけど後で聞くかー?」
「バカお前今言うことじゃないだろ!? せめてもう少し後で――」
またも爆弾発言を投下され、今度は机に頭を打ち付ける住子。疲れと眠気とで、体に影響が出始めている今、この痛みはなかなかに耐え難い。
危うく意識を手放しそうになるが、咲夜が今どれだけ大変な思いをしているかを考え、何とか持ちこたえる。
それはそうと、この者たちにはしっかりと鉄槌を下す必要があるようだ。
椅子を少し引いてすっくと立ち上がり、つかつかと立岡の方に歩いていく。
「その録音、消してもらえるかしら? 今は遊んでいる場合じゃないでしょう?」
「いや、『娯楽の少ない今、何かしら楽しめるものがないと作業が続けられない』って祐介が」
「おまっ――!? それは言わないって、ああすんませんでも俺らとしても作業効率を上げるために仕方なくやったところがあるんで許してほしいっていうかすいませんって無表情で近づきながら拳握り締めるのやめてくださ――!?」
主犯がわかったところで、制裁を加える。
思いの外、大きく鈍い音が鳴ったので、少々罪悪感を覚えたが、この状況であんなことをするメンタルの持ち主が、この程度で折れることはないだろうと結論し、再び持ち場に戻ってキーボードを打ち込む。この際、録音に関しては彼らの判断に任せることにした。気力がもう残っていない。
小瓶に入ったカフェイン剤を、複数口の中に放り込む。住子が消費した小瓶の数は既に一〇にも及び、全体でいえばゆうに一〇〇は超えるだろう。
さっきの二人もふざけているようだが、その実、住子と同じようにほぼ一睡もしていない。その証拠に、目の下にはかなり濃いクマがあり、歩くことすら覚束無い。
他の研究員も同様、全員が寝る間も惜しんで全プレイヤー救出に向かって、作業を進めている。
しかし、いい加減限界が近い。脳が危険信号を発しているのだろう、目が霞み始める。早く眠れと身体が叫んでいる。如何ともし難い眠気が、身体を支配し始めた。
「……やっぱ寝た方がいいっすよ」
住子の様子を察知した祐介が、住子に進言する。しかし住子は無視してキーボードに指を走らせ続ける。
ため息をつきながら、祐介は続ける。
「このまま続けてたって、作業効率が落ちるだけっす。そもそもこんな状態で、もし核心までいって、その時にぶっ倒れられたら迷惑なんすよ」
若干呂律が回っていないが、伝えるべきを伝えようと、祐介は重い頭を振って言葉を紡ぐ。厳しいながらも、優しく語りかけるように。
「本当に救出を想うならこそ、今は寝てほしいっす。過労死とかしたら、咲夜ちゃん悲しむっすよ?」
咲夜の名前を出されたことで、意識が全て祐介の方を向く。思考が全くまとまらない頭で、今何を言われたのかを思い出す。実際、明らかに作業は遅くなっているし、確かにここらで休憩を入れた方がいいのかもしれない。
「……わかった。なら少し休ませてもらうわ」
焦ったところで成果は出ない。なら、体調を少しでも戻すべきかと、朧げながらも形にし、祐介の提案を受け入れることにした。
「了解っす。ついでに、お見舞いに行ったらどうっすか? 最近行ってないんすよね?」
「行く余裕もなかったから、ね。そうさせてもらうわ。少し遅くなるかもだけどお願いね」
「むしろ、早く戻ってきたら怒るっす。今が一時過ぎぐらいだから――そうっすね、やっぱ今日はもういいっす。家に帰ってゆっくりしてください」
ここまで言われて、住子は少し言葉の意味を考え、そして唖然とした。この忙しい時に、一日も休めと。彼はそう言っているのだ。
「考えてみれば、一人ずつ休めばローテーション組めるし、その一番目を住子さんにしたところで何も問題ないっすよね。そもそも住子さんは、本来なら部外者っす。今は何の関わりもないわけっすから、その人を巻き込んで身体を壊されでもしたら、俺らの責任問題になるんで、さっさと帰って休んでくださいっす」
「……わかったわ。じゃあそうさせてもらうわね」
聞き様によっては冷たくも取れるが、これが純粋な好意なのだとわかった住子は、ありがたく申し出を受けることにする。
少し離れたところで、大井恵が死んでいるのには目もくれず、住子は自宅――本当は咲夜の家だが、便宜上住子のものとなっている――に戻ることにする。
さすがに家まで歩いて帰るのは、距離的にも状態的にも不可能と感じたので、会社お抱えの運転手に送ってもらうことにした。今日一日は住子につくよう言われたらしい。
帰るまでに少しでもと仮眠をとり、家に着いた頃には、少しばかり疲れがとれた気がした。
本当はすぐに病院に向かうつもりだったのだが、いくらなんでもずっと風呂に入っていない身体で、病院内に入るわけにもいかないので、少しさっぱりしてから向かおうと考えたのだ。
車を待たせて家に入り、着替えを探して風呂場に向かう。
軽くシャワーを浴びて、シャンプーを髪につける。しかし、よほど汚れていたのか、泡がほとんど立たない。先に風呂に入ることにしたのは英断だったと、住子は苦笑いして、頭からシャワーを浴びて、もう一度シャンプーをつけた。
気分もさっぱりし、眠気も少々吹き飛んだ。少しとはいえ、休憩する効果はバカにならないものだ。自身がどれほど疲れていたのかを痛感しながらタクシーに乗り込み、咲夜が運ばれた病院に向かうように指示する。
音もなく車体が動き出す。景色が後ろに流れていく様を見ながら、住子はマシになった頭で今の状況を整理し始めた。
こちらの求めるは全プレイヤーを救出すること。それを成すためには、プレイヤーたちが自力でゲームをクリアするか、こちらからの操作で強制的に魂をこっちに引き戻すかだ。
しかし、後者は残念ながら不可能だと断定していい。
向こうのスペックが高すぎて、こちらからの操作を全く受け付けないからだ。
一時はゲームを破壊することも考えたが、それをすると向こうも強行手段を取るだろう。
すなわち、全プレイヤーの永久幽閉だ。
向こうとこちらとでは演算速度が違う。破壊しても、システムを掌握している向こうにかかれば、一瞬あれば、魂接続すらも切って、プレイヤーを永久幽閉することなど容易いだろう。だからこの案は当然却下。
ならば、こちらからできることは何もないのだろうか。
いや、そんなことはない。例え強制脱出が行えなくとも、もっと浅いところでなら干渉はできた。
それは『数値の操作』と『モンスターの弱体化』だ。
これらのデータは、ログアウト機能と違いロックされていない。いや、ロックできないのだ。
ロックとは、その機能を停止させることであるため、もしもこれらをロックしてしまうと、ゲーム内でモンスターが出現しなくなるからだ。
ゲームとして成立させる気があるのなら、この制約だけは絶対に破れないはず。そこに隙ができた。
レアアイテムの出現率や、クリティカル率の上昇・モンスターのステータスの弱体化等、表面上でのサポートならこちらからでも可能となっている。
当然、向こうもやられっぱなしになるわけはないので、即座に修整されるが、それでも積み重ねれば必ずプレイヤーの助けになるはず。住子はそう信じている。
『着きましたよ』
運転手の呼び声を受け、車を降りる。
現在、この地域の『インフィニティ』プレイヤーが運び込まれた病院、『麻倉総合病院』だ。
この医院の前身を知っている身として、思うところがないでもないが、今はとりあえず咲夜の元へ行くことが先決だ。
住子は自動ドアの前に立ち、ドアが開くと足早に受付に進む。
『いらっしゃいませ。どのようなご要件でしょうか』
「松島住子です。東雲咲夜の面会をお願いします」
『はい、承りました。少々お待ちください』
少しの時間の後、向こうの通路から看護師が来た。受付が呼んでくれたのだろう。
『こちらへどうぞ』
看護師さんに案内され、咲夜のいる病室へと歩いていく。
ここに来るのはこれで二度目だ。
一度目は、咲夜たちがここに搬送された時の付き添い。あのニュースの後、咲夜と陽太が部屋で倒れていたのを見たときは、卒倒しそうになったものだ。
住子が家を出たのが午前一〇時頃で、悪夢のニュースが流れたのが午後三時頃。わずか五時間で世界を震撼させたあのゲームを、住子はどれだけ憎んだことか。
咲夜はあのゲームを楽しみにしていた。午前九時半頃に、そのゲームを持ってきたのが、何故か知らない男の子二人だったのには疑問が残るが、ソフトを二つ受け取り――おそらく陽太とやる予定だったのだろう――あまり表情を表に出さない咲夜が、あんなに嬉しそうに笑っていたのを見たのはいつぶりだっただろう。
これから始まる、きっと楽しい思い出になったであろうそのゲームは、人々の信頼を裏切ってプレイヤーを閉じ込めた。これを悪夢と言わずして何と言おう。
『松島さん』
不意に、看護師から声がかかる。
『そんな顔をしていては、あの子たちも喜びませんよ。笑っていてあげてください』
知らず知らずのうちに、険しい表情になっていた住子を、看護師が窘める。思考に没頭している間に、病室に着いたようだ。
そうだ。久しぶりのお見舞いに、険しい顔をするのも似合わない。
住子はそう思い直し、病室の扉を開ける。
真っ白い、清潔感のある部屋に二つのベッド。そこに横たわる少女――東雲咲夜と、少年――白凪陽太だ。
薄青いパジャマタイプの病衣を着ている二人の腕には、点滴のための管が付けられている。身体のどこにも異常はなく、血色もいい。傷一つないその身体には、たった一つ、大切なものが存在していない。
二人を、いや、世界の『インフィニティ』プレイヤーの魂を閉じ込めた小さな檻、『ソウルコネクト』が首にはかけられている。
ごゆっくり、と看護師が言い残して退室する。その後、住子は咲夜のいるベッドの近くの椅子に腰掛けた。
目の前にある悪魔の装置を、今すぐにでも壊してしまいたい衝動に駆られたが、住子はそれを押しとどめる。
この子たちはきっと、この中で戦っている。押し付けられた不条理に屈さずに、勇敢に。そう信じて、住子は咲夜の頭をそっと撫でた。
「せっかく、これから楽しく遊ぼうとしてたのにね。本当に――」
ごめんなさい、と口にする前に、病室の扉が開いた。一体誰が、と振り返ると、そこにいたのは一人の女性。陽太の母親だった。
「……いらしていたのですね、松島さん」
「……お久しぶりです、白凪理子さん」
理子は真っ直ぐ住子を見据えて、しかし居心地悪そうに目を逸らした。
「……すみません。私のせいで……」
その理由をわかっている住子は、意味のない謝罪をすることしかできなかった。理子も、それを困った顔で受け止めることしかできない。
「いえ、あなたのせいではありませんから……」
理子がそう言いながら、自身も陽太が横たわっているベッドの、近くの椅子に腰掛けた。しかし、住子はその言葉を鵜呑みにすることはできなかった。
『ソウルコネクト』の基盤を作ったのは住子だ。
『魂』の定義が発表されたのは、約三〇年前。『魂』とは、生き物であれば、必ず一つだけ存在し、エネルギーを伴った圧縮情報体である。
人は、得た情報を『脳』に蓄積するが、あまりにも強烈に印象づけられた記憶は『魂』に保存される。
例えば、勉強などで得た『知識』等は『脳』に記憶され、『歩く』『話す』といった、本能的なものや、反復練習などで身体に染み付いた習慣、外的心傷等は『魂』に記録される。
そしてその『魂記録』を、脳を介することで、歩いたり話したりできるのだ。
さらに、エネルギーを伴っているが故、いわゆる霊感の強い者ならそれを視認することもできる。幽霊と呼ばれる存在も、『体から抜け出た魂』として定義できるようにもなった。ポルターガイストですら、そのエネルギーの流れによるものとして説明できるのだ。
生き物が持つエネルギーそのものであり、生き物を生き物足らしめる、その中核を成すのが『魂』。『記録』はその力の一端に過ぎないのである。
そして、その『魂』を使って何かできないかと考えた結果、生み出されたのが今の『ソウルコネクト』の前身、基盤だ。
仕組みが解明された今、その膨大なエネルギーを解放することは未だできないが、『魂』そのものに信号を通して干渉することはできるのではないかという研究の元、辿り着いた答えの一つが『電脳化』である。脳を介することなく、『魂』そのものだけで活動するための研究だ。
研究は成功し、あらゆる技術が飛躍的に発展した。特に『医療』と『娯楽』は郡を抜いており、世界一の技術を手にしたと言っても過言ではないほどの進歩をしたのだ。
『医療』では、脳に疾患のある患者との意思疎通を叶えることができ、さらに記憶の全てを『魂』そのものに書き込める状態になるため、認知症の治療にもなった。
『娯楽』では当然、『VRシステム』というジャンルが爆発的な人気を博した。今までの『脳』で遊ぶものとは違い、もっと深い『魂』を利用することにより、より繊細な感覚を生み出すことができたため、その魅力にとりつかれた者たちは後を絶たなかった。
大方が世界に誇れる仕事だったとはいえ、現在こんなことになってしまったのは、その研究に携わった住子にも責任がある。
住子もそれをわかっている。だからこそ、理子に責められればいっそ楽になるのかもと、わずかばかりの期待をしていたのだが、理子もこの事実を知っているため、責めるに責められなかったのだ。
どちらも被害者だ。望んでこうなったわけじゃない。しかし、少なくとも住子には責任がある。それだけは果たさなければならない。
「私が必ず助けます。だから、もう少し待っていてはもらえないでしょうか」
後ろめたい気持ちを押し込め、毅然と理子に真っ直ぐ目を向ける。
逃げられない問題から逃げないように。住子が自らに課した責任を果たすために。
「……待つも何も、もともと責めてもいませんよ。それに、きっとこの子も頑張ってます。私はそれを信じるだけです」
理子はその謝罪を聞いて、ふっと雰囲気を和らげた。確かに多少の気まずさはあるが、嫌いというわけでもない。
本心を、決意を話してくれたのならそれでいいと、愛おしそうに、陽太の頭を撫でる理子。
親子の絆とは、こんなにも強いものなのかと、住子は改めて思う。何があろうと信じ抜き、暖かく見守る強さがそこにはあった。
私も、いつか。
咲夜とあんな風に。そんなことを思いながら、もう一度咲夜の髪を撫でた。
「相変わらず、美人な子ですね」
理子が咲夜の方を見ながら言う。家族ぐるみの付き合いがあったため、咲夜と理子は面識がある。以前のことを覚えていた理子が、そう切り出した。
「そうですね。桜さんに似て、可愛らしい子に育ちました」
桜は咲夜の母親だ。朗らかで、楽天的な性格で、そして住子の親友だった。だったというのは、咲夜を産んだ時に、既に亡くなっているからだ。
父親の白夜は存命していたものの、男手一つで育てるのも大変だろうと、住子が家政婦を買ってでたのだ。残念ながら、白夜も咲夜が幼い時に亡くなってしまったが。
「仏頂面は、どういうことか私に似てしまいましたけどね」
住子は苦笑しながら理子に返答する。住子自身もそんなに感情を表に出さないタイプのせいか、成長するにつれ、性格の方は住子に近いものになってしまった。せっかくの美人を活かせないような育児をしてしまったのは、正直申しわけないと思っている。
「クールな子もモテますよ。いいじゃないですか、クールビューティー。うちの子は暗いだけですからね」
理子がさりげなくフォローを入れつつ、自分の息子である陽太を若干貶す。確かに暗いといえば暗いが、そちらもクールと置き換えればいいのに、と住子は思った。
「でも、私は陽太君には感謝してますよ。咲夜はあまり人付き合いが得意ではないですから、友だちもあまり多くありませんし」
陽太がいなければ、咲夜はきっと、今でも一人で塞ぎ込んでいたのだろう。そういう意味でも、住子は陽太に対して、感謝の念を忘れたことはない。それはきっと、咲夜も同じはずなのだと、住子は思っている。
「昔はもっと明るかったですよね、咲夜ちゃん。まあ、無理もないとは思いますけど……」
昔を思い出しながら、理子が言う。そんな様子を見て、住子も同様に昔を思い出した。
一〇年ほど前のこと。とある一件のせいで、咲夜は大きく変わってしまった。明るく快活な性格から一転、誰とも関わりを持とうとしない、暗い性格になっていた。
それはクールだとか、無口だとか、そんなことではなく、本当に全てを拒絶するような、内向的なものだった。
それを変えてくれたのが陽太だ。
今でもまだ、前の影響のせいか、人付き合いは苦手なようだが、以前に比べればずっとよくなってきている。
性格はもうあのままだろうが、根っこの部分は幼い頃と同じ、優しくて、何よりも人を思う心を持った子のままなのだと、住子は確信している。
「でも、陽太君のおかげなのは間違いないですから。私は本当に感謝してますよ。きっと向こうでも、二人で頑張ってます」
いつもの二人を思い出し、きっと同じように向こうでも脱出に向けて頑張っているのだろうと、住子の知らない世界に思いをはせた。
「……そうですね。陽太、咲夜ちゃんに迷惑かけていないといいですけど……」
「お互い様、です」
頬に手を当てながら理子が言うと、苦笑しながら住子が返す。そんな雰囲気がどこかおかしく、お互いに軽く笑いあった。
「ですね。では、そろそろ私は失礼します。一応、仕事の最中に抜けて来たので」
「はい、わかりました。……きっと、帰ってきます。だから――」
「大丈夫です。信じてますから。貴方も、うちの自慢の息子も」
理子は最後にそう言って、軽いお辞儀をしてから、病室の扉を開けて廊下に出ていった。
やっぱり、あの人は強い。私よりもずっと。
住子の胸中に浮かんだそんな思いは、今までの決意をより硬くするものになった。自分もあんな風に。もっと強く。咲夜を託してくれた、あの人たちに誇れるように。
目を閉じ、心の中で、叶えたい未来を想い描く。あの日に守れなかったものを取り戻すために。
咲夜の頬をそっと撫でる。あの日よりも少しだけやせ細った、小さく、白い頬を。
「ごめんね。結局、貴方たちに任せることになっちゃうけど、私もできることは何でもやるから。だから、絶対に帰って来てね」
あの世界にいる咲夜には、届くはずはずもないその呟きを、住子は何度も反芻する。想いを力に、理想を現実に変えるために。
「おはようっす、住子さん。昨日は休めたんすか?」
研究所に帰って来てみれば、案の定祐介に指摘される。住子自身も、それをわかっていたので、冷静に言葉を返す。
「もう十分休めたわ。ありがとう。さ、今日は誰が休む番?」
昨日にローテーションで休みを組むと祐介は言った。とすると、今日は別の誰かが休むことになるのだが。
「あ、それはいいんす。昨日はあれから全員休んだんで」
「……は?」
祐介のまさかの一言に絶句する住子。
そう。あれから祐介たちは――
「――休んでくださいっす」
「……わかったわ。じゃあそうさせてもらうわね」
住子がそう言って、研究室から出ていった後。
『――っしゃああああ!!』
研究員全員が、男女問わず心の底からの咆哮をあげ、そして糸が切れたように、バタバタとぶっ倒れていく。
「全員、とっくに限界なんか超えてたしな。仕方ない」
「お前も含めてなー。見ろ、メグなんかとっくに死んでるぞ」
その中で残った男二人、斎藤祐介と立岡翼が話をする。翼があごをしゃくった方を祐介が見ると、大井恵がキーボードに突っ伏して眠っていた。かなり早い段階で、既に事切れていたため、さすがにまずいと思った翼が、祐介に相談していたのだ。
「全員過労死する前に、部外者であるにも関わらず最も働いていた住子さんを帰らせて、気兼ねなく休めるようにしよう、か。うまいこと考えたもんだ。……俺が怒られる必要性には疑問があるけど」
「エネルギー使わせるような行動させないと、まだまだ働くつもりだったぞ、あの人。どうにかして意識を逸らさせないとだったんだよ」
「方法がおかしかっただろ!?」
「終わりよければなんとやら、だ。気にするな」
完全に他人事のように、ひょうひょうと受け流す翼。祐介も当然、限界などとうの昔に超えているので、これ以上は怒る気にもならない。
「……まあいいか。とにかく、俺は寝るからな。お前も寝ろよ」
「へーへー、了かーい」
気のない返事をする翼を、ジト目で見た後、祐介はそのあたりの床に寝転がった。
「……さて、と。じゃあ俺も――」
「……呆れた。貴方たちが休むための口実だったのね」
「あれ以上続けてたら確実に死んでたっす。俺が言うのも何ですが、最善の策だったと思うっす」
悪びれもなくそう告げる祐介に、住子は頭を抱えた。
とはいえ、全員疲れてはいるものの、明らかに回復している様子を見せているので、確かに祐介たちの判断は間違っていなかったのだろうと、住子は結論づけた。
「……まあいいわ。休んだ分は今日中に取り戻すわよ。私たちからはゲーム内の様子を見れない以上、ひたすら数値を弄るしかないんだから」
「わかってるっす。さて、頑張りますかね」
伸びをしながらパソコンに向かう祐介を見て、住子は思った。
彼らは、私よりも周りが見えている。だからこそ、こういう判断に踏み切ったのだと。
自分の事ばかりを考えないで、もっと先を見据えて行動するべきなのだと。
私は、色んな人に助けられてばかりだ。ならせめて、この事件が終わったら――
そんなことを考えながら、住子もまた、自分の戦場へと赴いた。
彼らは知らない。一人で作業をこなしていた者を。
「えーっと、これは……ダメっと。んじゃ、これもダメか。どうすっかなー……」
みんなが寝静まった後、部屋に一つだけ灯る光に向かっているのは、先ほどまで祐介と話していた翼。
人に提案しておいた手前、起きているのもおかしな話だが、実は翼は作業中、バレないように眠っていたことがあった。有り体に言えばサボりなのだが、おかげで他の者よりは動けるし、頭も動く。
「んー……。やっぱ突破は無理か。住子さんでも無理だしなー。でももうちょい」
全員が強制ログアウトを諦めている中、翼一人だけはその可能性を捨てていなかった。こういった作業をするのにも、一人の方がやりやすい。他の者にバレると、無駄なことはやめろと諭されるからだ。
何度もキーを叩き、その度に操作を打ち切られる。だが、ウィルスを解除するところまでは辿り着いた。後はここからどうシステムに介入するか。
真っ向勝負じゃいくら何でも勝ち目はない。しかし、だからといってウィルスを絡めた攻撃をしたところで、手痛い反撃を受けるのも経験している。となれば。
「相手の演算をブロックパターンを予測して、追いつけないほどの速度で解除しまくるしかない、か。こりゃ骨が折れそうだ」
実のところ、この方法は有効なのだ。
いくら演算速度が早いといっても、それはプログラムに組み込まれたパターンでだけの話だ。そしてパターンである以上、答えは全て同一になる。
そのパターンをパソコンに記憶させ、全て解析できれば、後は人工知能が自力で考え出したブロックとなるため、そこに追いつくことができれば、ログアウト機能にまで辿り着けるはずなのだ。
もちろん、これは机上の空論である。パターンを解析といっても、その数は膨大であるし、新しく考えたパターンにしても、やはり演算速度が違うため、簡単には解けないロックを次々と生み出していくだろう。
それでも、可能性があるのなら、翼はその手を止めることはない。
憧れたあの先輩に追いつくために。追い抜くために。




