第367話:『荒野の対峙、静かなる威圧』
太陽が天中を過ぎ、赤茶けた大地に最も短く濃い影を落とす刻。
冷たく乾いた北風が、容赦なく砂塵を巻き上げていた。
ズズズズズ……。
大地を這い回る重低音が、真昼の荒野を不気味に震わせている。
土煙を上げて南下してきたのは、ヴォルガルド覇国が誇る大軍。
だが、その威容はもはや「大軍」と呼ぶにはあまりにも無様だった。見えない死神への恐怖と、ヴィクトルという手綱を失った混乱。兵士たちは皆、土気色に憔悴しきった顔で重い槍を引きずり、統制の欠片もない足取りで、ただただ何かに追われるように前へ進まされているだけだった。
その淀んだ軍勢の先頭。
巨大な黒い軍馬に跨り、大剣を肩に担いで進む覇王クルガン。
彼は血走った黄色い瞳で、砂塵の向こう側に広がる広大な平原を睥睨していた。彼の脳裏にあるのは、帝国の防壁を力で粉砕し、逃げ惑う南の逆賊たちを蹂躙する己の姿だけだ。
「……ん?」
不意に、クルガンの視線が前方でピタリと止まった。
彼に続いて前衛の三将軍――ボルガスやゾルヴァーグたちも、怪訝な顔で馬の歩みを緩める。
吹き荒れていた砂塵が風に流され、視界がクリアに開けたその先。
なだらかな平原のど真ん中、クルガンの進路上を塞ぐようにして、一つの軍勢が静かに、しかし岩壁のごとく整然と立ち塞がっていた。
風に翻るのは『風』『土』『森』を象徴する北辰同盟の真新しい旗印。
最前列で巨大な黒馬に跨るバラクを筆頭に、ゴード、エルラの三族長が並び立っている。
その背後には、多くの北の戦士たち。彼らもまた、早めの昼飯でたっぷりと英気を養い、気力も体力も万全だ。その目に、数日前まで覇国の影に怯えていた弱者の面影はない。己の誇りと未来を自らの牙で掴み取らんとする、本物の狼の眼光がギラギラと真昼の陽光の下で燃え盛っていた。
「……バラクの老いぼれめ。逃げ隠れせず、自分から首を差し出しに来たか」
クルガンは獣のように口の端を吊り上げて嗤った。
「これしきの兵で、この俺の軍勢を止められるとでも思っているのか。……笑わせる」
クルガンは立ち上がり、大剣を天高く掲げた。
「全軍進め!! あの逆賊どもを一匹残らずすり潰せェェッ!!」
覇王の絶叫が、荒野の風を裂いて響き渡る。
大剣を抜き放ち、クルガンは馬の腹を蹴った。
黒い獣が土煙を上げて平原へと躍り出る。三将軍の部隊もそれに呼応し、地鳴りを立てて後に続いた。
だが、両軍の間にまだ十分な距離がある中程で、クルガンは不意に手綱を強く引き絞った。黒馬が前脚を高く上げ、鋭い嘶きと共に急停止する。
クルガンは振り返り、ギリッと奥歯を鳴らした。
彼の目に映ったのは、自身の後方――平原の入り口でずるずると間延びしたまま、完全に足を止めている「大軍」の無様な姿だった。
彼らの顔は青ざめ、武器を握る手は小刻みに震えている。『見えざる天罰』の恐怖が、彼らの両足を大地に深く縫い付けていたのだ。頭上や左右の丘陵を怯えた目でひっきりなしに見回し、誰一人として前へ出ようとしない。
後方で、ガルドが枯れた声を張り上げ、必死に部隊を前へ押し出そうと奔走している姿が芥子粒のように見えた。だが、恐怖という名の呪縛に捕らわれた烏合の衆は、もはや鈍重な泥の塊と化していた。
「……クソが。使えん奴らめ」
クルガンのこめかみに、青筋が太く浮き上がる。
己の圧倒的な力にひれ伏し、歓喜と共に略奪へ向かうはずの軍が、ただ怯え足をすくませている。その事実が、彼の肥大したプライドを鋭く抉った。
だが、眼前の敵は小部族の寄せ集めに過ぎない。
自分が率いる親衛隊と三将軍の武力だけでも、あの老いぼれどもを蹂躙するには十分だ。そう判断したクルガンは、再び正面へと向き直り、大剣を天高く掲げた。
「もはや待つ必要はない! 奴らの恐怖ごと、俺の圧倒的な力ですり潰せェッ!!」
彼が号令の雄叫びを上げ、三将軍の部隊が鬨の声を上げようと息を吸い込んだ、まさにその刹那だった。
ズウウウウウウウウウッ……!
大地の下から湧き上がるような、腹の底を激しく揺さぶる重低音が響いた。
それは、覇国の軍勢が上げるような雑多で空虚な怒号ではない。
一つの巨大な意志によって統制された、数万の喉が同時に震える地鳴りのような『鬨の声』。
クルガンが、そして覇国の兵士たちが、弾かれたように左右の丘陵地を見上げた。
太陽が燦々(さんさん)と降り注ぐ丘の稜線。
そこから、真昼の陽光を強烈に反射する『光の壁』が、音もなくせり上がってきた。
磨き上げられた白銀の重装甲。槍の穂先が、隙間なく並んだ鉄の牙のようにきらめいている。盾を打ち鳴らす単調で規則正しい金属音が、平原を包み込むように反響し始めた。
バサァッ!
突風が吹き抜け、丘の上に林立する巨大な軍旗が一斉に翻った。
帝国の象徴たる『翼持つ獅子』。
そして、それらを束ねるように中央で高く掲げられた、純白の地に銀糸で描かれた『天翼』の紋章。
左右の丘陵を完全に埋め尽くす、帝国軍の圧倒的な布陣。
彼らは武器を構えたまま一歩も動かない。ただ、高みから静かに見下ろしている。
無言の圧力が、物理的な重さとなって覇国軍にのしかかった。
「帝国が……見ている……!」
「俺たちはここで、皆殺しにされるんだ……!」
恐怖は一瞬にして伝染し、パニックとなって覇国軍の足元から崩れ落ちていく。
ただでさえ『見えざる死神』に怯えていた彼らの前に、今度は大陸最強と謳われる正規軍が、逃げ場のない完璧な包囲網を敷いて姿を現したのだ。
カラン、と。
後方の兵士の一人が、震える手から槍を取り落とした。その乾いた音は誰にも咎められることなく、次々と連鎖していく。
覇国の大軍は、ただそこに「帝国軍が存在する」という圧倒的な威圧感の前に、交戦するまでもなくその戦意を完全にへし折られていた。
平原の中央で、クルガンと三将軍の部隊だけが、背後の軍勢から切り離されたようにポツンと孤立していた。
「……ッ!」
クルガンの黄色い瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
自らの絶対的な力が、一切の血を流すことなく、ただの『静かなる威圧』によって無力化されていく。
動かない帝国軍。
動けない後方の自軍。
その息詰まる静寂の只中で、正面に立つバラクたち北辰同盟だけが、冷徹な殺意を湛えた目で、孤立したクルガンたちをじっと見据えていた。




