361話に移動予定:『軍師の最終布陣』
北壁の砦は、深い夜のしじまに包まれていた。
作戦室の重厚な扉が静かに開かれ、入室してきたセラの足音だけが、息詰まるような沈黙を破った。彼女の手には、振動を終えたばかりの『囁きの小箱』が握られている。
室内の空気は、蝋のように凝り固まっていた。
中央の巨大な地図盤を囲むのは、シュタイナー中将、ユリウス皇子たち、そしてアイゼンハルト監査官。誰もが口を開くことなく、机上のランプの光が照らし出す一点を見つめている。
そこには、銀の仮面を外し、素顔のままのリナが立っていた。
「――リナ様」
セラの、張り詰めた声が響く。
「前線のゲッコーより入信。……『蛇、巣を離る』。覇国の本軍、クルガンを先頭に出立したとのこと。数日のうちに、我らが想定する決戦区域へと到達する見込みです」
セラはそこで言葉を区切り、さらに声を落とした。
「……加えて、カナンの情報網より報告。覇国参謀ヴィクトル・フォン・ローゼンベルクが、進軍の混乱に乗じて陣中から逃亡。現在、行方不明とのことです」
その報告に、ユリウスやレオンが「あの参謀が逃げた……!?」と驚きに息を呑んだ。
リナの瞳もまた、微かに見開かれた。
「逃亡した……完全に?」
「はい。クルガンの演説を囮にし、その隙に姿を消した模様です」
リナは、手元の地図盤をじっと見つめた。
事態がここに至れば、ヴィクトルが逃亡する可能性も十分に考えてはいた。だが、こうもあっさりと泥舟を見限るとは思っていなかった。
(……自らが心血を注いで築き上げた国を、そして自分が仕えたはずの王すらも、自分が逃げるための『目眩まし』として使い捨てるなんて……)
机の上で組まれたリナの小さな手が、白くなるほど固く握りしめられている。
人を人とも思わず、ただ自分の生存と利益のためだけの「道具」としてしか見ていない。自らの国が沈むと判断した瞬間の、その徹底した損切り判断の早さ。
彼女は、ヴィクトルの行動力に底知れぬ不気味さを感じると共に、腹の底から湧き上がるような強い怒りを覚えていた。
「リナ様。ヴィクトルの捜索に『影』を割きますか?」
ゲッコーの配下である暗部が、影の中から問う。
「……いえ。わずかな可能性として、裏に回って別の策を弄している危険も捨てきれませんので、周囲の動きへの警戒と情報収集の継続はお願いします」
リナは短く息を吐き出し、込み上げる怒りを冷たい理性で押さえ込んだ。
「ですが、主眼はあくまで想定している戦場のコントロールです。ヴィクトルという知恵袋が消え、クルガンが自ら矢面に立ったとなれば、覇国軍の動きは力任せの単純なものになるでしょう……。基本的には盤面は読みやすく、コントロールしやすくなったと考えましょう」
彼女の冷徹な分析に、シュタイナー中将が深く頷く。
「うむ。毒蛇が消え、頭に血の昇った猪だけが突っ込んでくるというわけだ。与し易い」
リナはゆっくりと手を伸ばすと、地図盤の『黒の宮殿』の位置に置かれていた、巨大で禍々しい漆黒の駒を、静かに指先で掴み上げた。
カツン、と。
冷たく乾いた音が響く。
リナは、その黒い駒を、帝国と北辰同盟の白い駒が待ち構える、荒野のただ中へと配置した。
盤上の、最後のピースが嵌った。
彼女はゆっくりと顔を上げ、そこにいる全ての者たちの目を、一人ずつ順番に見据えた。
その瞳に、かつてのような迷いや苦悩の色は微塵もない。あるのは、この戦いの全てを背負うと決めた者の、どこまでも透き通った、静かな覚悟だけだった。
「――皆様。舞台は整いました」
凛とした声が、作戦室の空気を支配した。
それはもはや、八歳の少女のものではない。幾万の命の運命をその両肩に乗せ、揺るぎない意志で大陸の未来を切り拓く、『天翼の軍師』の声だった。
「これより、最終布陣を通達します」
リナの白い指先が、地図の上を滑る。
「我が帝国軍は、決戦場を囲む左右の丘陵地帯に伏兵として布陣。決して、こちらから手出しはしません」
その言葉に、ゼイドが「しかし、それでは!」と血気にはやって声を上げかけたが、シュタイナー中将の重い一瞥に押し黙った。
「我らの役目は、あくまで『威圧』です」
リナの声は、有無を言わせぬ響きを帯びていた。
「夜明けと共に、丘の上に帝国の軍旗を掲げ、陽光に輝く我らの甲冑を見せつける。ただ、それだけで良い。……覇国軍の兵士たちに、己の背後が完全に塞がれ、帝国の圧倒的な大軍に監視されているという揺るぎない事実を、その骨の髄まで刻み込むのです」
彼女は一度言葉を切り、今度は地図上の『北辰同盟』を示す白い駒を指差した。
「この戦いの主役は、我々ではありません」
リナの瞳が、確かな信頼と敬意の光を宿して細められた。
「荒野に生まれ、荒野に生きる、誇り高き北の民。彼ら自身の牙で、偽りの王に引導を渡すのです。……帝国は、そのための『最高の舞台装置』を用意するに留めます」
その言葉の真意を、そこにいた誰もが理解した。
ただ敵を殲滅するのではない。戦いが終わった後の、北の民の「誇り」と「自立」までもを見据えた、壮大で、慈悲深い絵図。
アイゼンハルトが、ぐっと息を呑むのが聞こえた。
シュタイナー中将は、腕を組んだまま、深く、重々しく頷いた。
彼の岩のような顔には、軍師の描いた盤面への信頼と、その崇高な理想を必ずや実現させてみせるという、帝国軍司令官としての鋼の決意が浮かんでいた。
「――承知した、軍師殿。このシュタイナー、貴官の描いた盤面を、帝国軍の威信にかけて寸分の狂いなく演じ切ってご覧にいれよう」
その力強い言葉に、リナは静かに頭を下げた。
彼女は最後に、部屋の隅の闇――そこに融け込むようにして控えているゲッコーの配下へと視線を向ける。
「ゲッコーさんへ伝達を。『MC-1による陽動は、これにて終了。水面下の工作と監視のみを続行し、最終的な想定戦域まで覇国軍の誘導を継続せよ。もう危険を冒す必要はありません、決して無理はしないように』と」
「はっ」
「そして、『MC-1』は最終戦域において、最も盤面を俯瞰できる最適な場所へ配置をお願いします。……引き金は貴方に一任しますが、その牙を剥くのは、クルガンが『民の命を盾にする』ような、万が一の事態に陥った場合のみ。……それ以外は、ただ備えに徹してください」
それは、最強の切り札を最後まで使わずに済ませたいという祈りにも似た命令だった。
「……御意に」
影は、短く、しかし確かな重みを込めて応じた。
作戦室は、再び静寂に包まれた。
だが、先ほどまでの重苦しい空気はない。そこにいる全ての者が、来るべき歴史の転換点に向けて、自らの役割を胸に刻み、心を一つにしていた。
リナは、再び地図盤に視線を落とした。
彼女の脳裏には、数多の血が流れる凄惨な戦場ではなく、朝日を浴びて立ち上がるバラクたちの雄姿と、その背後で誇らしげに揺れる北辰同盟の新しい旗印が、はっきりと見えていた。
私は、窓の外、白み始めた東の空を見つめる。
クルガンが築いた、明けない夜が明けようとしている。
この戦いが終われば。
きっと、北の荒野にも、新しい朝が来る。
私はその光景を思い描き、それを信じて静かに戦乱の夜明けを待った。




