第358話:『覇王の先陣、毒蛇の離脱』
夜の帳が降りた覇国の野営地はかつての好戦的な熱気を完全に失い、底なしの暗い沼のように静まり返っていた。
至る所で焚火が赤々と燃えているというのに、炎に照らされる兵士たちの顔には死人のような青黒い影が落ちている。「明日は我が身か」。見えざる死神への恐怖が彼らの心を縛り上げ、言葉すら奪っていた。
だがその広場の不気味な静寂とは対照的に、覇王クルガンの巨大な天幕から離れた片隅では見苦しい怒声が絶え間なく響いていた。
「明日は貴様らの部族が先に行け! 俺の部隊は今日、見えない呪いの盾にされたのだぞ!」
「馬鹿を言え! 貴様が覇王陛下に取り入ったからだろうが! お前たちが血路を開け!」
互いの胸ぐらを掴み、剣の柄に手をかける族長たち。
彼らの眼球は血走り、恐怖と保身で完全に理性を失っている。もはやそこに覇国を支える将としての威厳はない。ただ生き残るために隣人を生贄に捧げようとする浅ましい獣の群れだった。
その醜悪な諍いをヴィクトル・フォン・ローゼンベルクは天幕の深い影に同化して見つめていた。
彼の灰色の瞳にはすでに彼らに対する軽蔑すら浮かんでいない。あるのは腐り落ちた果実を見限るような徹底した無関心だ。
(……もはや、この軍は機能しない)
ヴィクトルは懐から取り出した絹のハンカチで額の冷や汗を優雅に拭い取った。
昼間、自分のすぐ傍で弾け飛んだ馬と兵士の肉片。あの甲高い風切り音。
計算も論理も軍事的な定石も、全てを無視して一方的に命を刈り取るあの「見えざる一撃」の前に数万という兵力は何の防壁にもならない。ここに留れば自分もいずれあの名もなき将校と同じように、肉の霧となって空中に散るだけだ。
ヴィクトルは手袋を直すと、天幕の奥、玉座で荒い息を吐いている覇王クルガンの元へと音もなく歩み寄った。
「――覇王陛下」
氷水のように冷たく、甘い声。
クルガンが血走った黄色い瞳をぎらりと向ける。その手には大剣が握られ、柄を握る指の関節が白く浮き上がっていた。
「外の犬どもの騒ぎを止めろ、ヴィクトル。……どいつもこいつも姿の見えぬ敵に怯えおって。俺の覇道に泥を塗る気か」
「お言葉ですが、陛下。もはやあの臆病な犬どもに、先陣は務まりません」
ヴィクトルは深く、恭しく頭を垂れた。
「彼らの心は『未知の呪い』という恐怖に完全に食い破られています。あれをいくら鞭で叩いたところで、前に進む前に自壊するだけでしょう」
「ならばどうする。このまま撤退しろとでも言うのか!」
クルガンが立ち上がり、巨躯から放たれる殺気が天幕を揺るがした。
「滅相もございません」
ヴィクトルは顔を上げ、レンズの奥で冷徹な光を瞬かせた。
「この恐怖の連鎖を断ち切り、全軍の熱狂を呼び戻す方法がただ一つだけございます」
「言え」
「……この未知の呪いを打ち払えるのは絶対の力を持つ貴方様しかおられない、ということです」
クルガンの眉がピクリと動いた。
ヴィクトルはクルガンの最も肥大化した自尊心――「自らの暴力が全てを解決する」という盲信のど真ん中へ、致死量の毒を静かに注ぎ込む。
「陛下自らが先陣に立ち、その大剣で呪いごと南の壁を粉砕すれば……兵たちの恐怖は一瞬で熱狂へと変わるでしょう。得体の知れぬ恐怖など陛下の武の前に平伏するのだと。彼らは再び貴方様の圧倒的な力にひれ伏し、狂ったように南へと雪崩れ込むはずです」
クルガンは自らの大剣の刃をじっと見つめた。
彼にとって、恐怖とは「与えるもの」であり「ねじ伏せるもの」だ。自分が見えざる敵を叩き潰す姿を見せつければ軍の統率は即座に戻る。その単純で暴力的な解決策は苛立ちの頂点に達していた彼の思考に甘く、すんなりと浸透した。
「……ふん。ならば見せてやる」
クルガンは獣のように口の端を吊り上げて嗤った。
「呪いなぞ俺の剣の前では児戯に過ぎんことをな。……明日の朝、俺が直々に先頭を進む!」
「御意に。……覇王陛下の武運を、心よりお祈り申し上げます」
ヴィクトルは床に額が触れんばかりの深い一礼を捧げた。
クルガンが大剣を肩に担ぎ、外で喚いている族長たちを黙らせるために天幕を荒々しく出て行く。
その巨大な背中が天幕の隙間から完全に消えた瞬間。
ヴィクトルの顔から恭順の仮面が剥がれ落ちた。
薄い唇が冷酷な三日月の形に歪む。
(……せいぜい立派な『矢除け』になってください。覇王よ)
ヴィクトルは踵を返し、クルガンが出て行ったのとは反対側、天幕の裏口へと音もなく向かった。
そこには彼が個人的に金で雇い手懐けていた数名の『影』たちが目立たぬ毛色の馬を引いてすでに待機していた。馬の蹄には布が巻かれ、馬具が立てる音は徹底的に消されている。
「……準備は?」
「はっ。最短の裏ルートと、変装の準備は整っております」
ヴィクトルは頷き、覇国の参謀を示す豪奢な外套を脱ぎ捨て、目立わない灰色のマントを羽織った。
振り返り、混乱と恐怖に包まれた巨大な野営地を一度だけ冷ややかに見渡す。
燃え盛る無数の焚火はもはや彼の目には、沈みゆく泥舟を照らす葬送の炎にしか見えなかった。
「……では。皆の目を引き付けて頂いているうちに、私たちは愚か者たちの舞台から静かに降りるとしましょうか」
風が強く吹いた。
土煙が舞い上がり、天幕の影が濃くなった次の一瞬。
ヴィクトル・フォン・ローゼンベルクの姿は覇国軍の陣から完全に、そして跡形もなく消え去っていた。
◇◆◇
「黙れェェェッ!!」
醜く諍い合っていた族長たちの頭上に、物理的な質量を伴った怒号が叩きつけられた。
巨大な天幕から姿を現したのは、大剣を肩に担いだ覇王クルガンだった。その巨躯から立ち上るどす黒い殺気と圧倒的な覇気に、先ほどまでいがみ合っていた族長たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「見えない呪いに怯え、味方同士でいがみ合うとは、なんと惨めな犬どもだ! 貴様らの腐った牙では、もはや南の壁は噛み砕けんか!」
クルガンは黄色い瞳を血走らせ、広場に集まった兵士たちを睥睨した。
「ならば俺が道を作る! 明日の朝、この俺が直々に先頭に立つ! 得体の知れぬ呪いなど、俺の大剣でまとめて粉砕してくれるわ!」
その宣言に、広場の空気が一瞬ピタリと止まり――直後、爆発した。
「おおおおおおおっ!! 覇王陛下万歳!!」
「陛下が直々に先陣を! これで勝てるぞォォッ!」
親クルガン派の族長たちや、前衛で死の恐怖に怯えていた兵士たちが、堰を切ったように狂乱の声を上げる。
それは真の忠誠というよりは、「自分たちが死なずに済む」「この狂王なら本当に呪いを打ち払ってくれるかもしれない」という、絶望的な状況での盲信と安堵が生み出した熱狂だった。
彼らは武器を振り上げ、クルガンの名を叫んた。
野営地の中央広場は、凄まじい熱狂と混乱の渦に包まれ、一つの巨大な生き物のようにクルガンへと意識を集中させていた。
その喧騒から少し離れた物資の集積所。
遺棄された荷車の陰で、エノクはその光景を静かに見つめていた。
(……力で恐怖をねじ伏せるか。だが、クルガンが前に出たところで……)
エノクが微かに眉をひそめたその時、闇の中から現れたカナンの同胞が、息を切らせて彼の傍らに膝をついた。
「老師……申し訳ありませぬ。ヴィクトルを見失ったようです」
「……何だと?」
エノクの灰色の瞳が細められる。
「昼間の『天罰』の混乱、そして……この覇王の大号令。広場に全軍の注意が向かい、怒号と砂塵が舞い上がる中……その中で目を離している間に気配を絶たれました。陣中では足取りが掴めませぬ」
エノクは視線を、狂乱の頂点にある広場へと向けた。
クルガンが大剣を振り回し、「俺に続け!」と吠え猛っている。兵士たちはその気迫に圧倒され、熱狂している。
その光景と、ヴィクトルの消失。
「……逃げおったか」
エノクは枯れた声でポツリと呟いた。
覇王の熱狂的な号令。ヴィクトルは、自らの逃亡から目を逸らさせるためにクルガンを煽り立て、この大軍の狂騒を「巨大な目眩まし」として利用したのだろうと。
自らが心血を注いで築き上げた覇国を、そして絶対的な武の象徴である覇王すらも、己の保身のための使い捨ての囮として切り捨てる。
「……うむ。まぁ、厄介な動きをされるよりはよかろうかの......」
エノクは深く息を吐き出し、冷静に盤面を再評価した。
「あの毒蛇が裏で糸を引いておらんのなら、あとは烏合の衆と狂王だけじゃ。我らの盤面としては、読みやすくなったからの」
エノクは同胞に向き直り、素早く指示を出す。
「ヴィクトルを無理して追う必要はない。陣の周囲を目を配るくらいにしておけ。あの男のことだ、すでに我らの手の届かぬ安全圏への逃走経路を確保しておろう。今は、目の前の戦線に集中せよ。……だが、帝国の軍師殿には、この情報を速やかに流しておくように手配しろ」
「はっ!」
カナンの影が再び闇へと消えていく。
エノクは、怒号が響く覇国の陣を冷ややかに見据えた。




