第339話:『偽装の激戦、帰還する戦士たち』
北の荒野を吹き抜ける風が、ざらりとした砂塵を天幕に叩きつけていた。
『風読む民』の野営地に取り残された覇王クルガンの使者は、舌打ちと共に天幕の入り口を乱暴に開け放った。
「遅い……。いつまで待たせる気だ」
苛立ちに任せて吐き捨てた言葉は、広場を満たす香ばしいパンの匂いと、子供たちの屈託のない笑い声に虚しくかき消される。
この野営地の異常な豊かさ。病の影すら見当たらず、民の頬には赤みがさしている。その光景を目にするたび、使者の肌にじっとりと冷たい汗が這った。
その時。
遠く地平線の彼方から、地鳴りのような馬蹄の音が響き始めた。
土煙が赤茶けた空を高く濁らせ、野営地へと真っ直ぐに近づいてくる。
「帰ってきたぞ! 族長たちが帰ってきた!」
見張りの声に、人々がわっと広場へ押し寄せた。使者もまた、供の兵を連れて偉そうに腕を組み、門の前に立ちはだかる。
だが、土煙を割って現れた一行の姿を認めた瞬間、使者は組んでいた腕を解き、言葉を失った。
生臭い血と、泥と、馬の荒い息遣いが、突風となって鼻腔を打ち据える。
馬上の戦士たちの姿は、凄惨の一言に尽きた。
引き裂かれた革鎧から覗く肌は赤黒く腫れ上がり、あちこちに真新しい血が滲んだ包帯が巻かれている。腕を不自然な角度で吊った者、兜を割られ頭部から血を流している者。彼らの乗る馬でさえ、白い泡を吹いて限界まで疲労しきっていた。
(……帝国軍の厚い壁に叩き潰されたか)
使者の口元に、嗜虐的な嘲笑が浮かびかけた。
しかし、その笑みはすぐに凍りついた。
戦士たちの様子が、どうにもおかしいのだ。
これほどの惨状でありながら、彼らの顔に敗残兵特有の暗い絶望や怯えはない。むしろ、その瞳の奥には、異常なまでの熱がギラギラと燃え盛っている。
「痛ぇっ! おい、肩を叩くな、骨にヒビが入ってんだよ!」
「がっはっは! だから言っただろうが、あの白い髭の巨漢に正面から挑むなと!」
「うるせえ! だが、見たかよあの帝国の分厚い装甲! 俺の槍の切っ先が、確かにあの硬え盾を削ったんだぜ!」
「次は必ず、あの白い壁をぶっ崩してやる!」
血を吐くような痛みに顔を歪めながらも、戦士たちは口々に互いの武勇を語り合い、血に塗れた顔で獣のように笑い合っている。
死地から生還した狂乱。あるいは、強大すぎる敵と刃を交えたことへの異様な高揚感。
使者は、背筋を氷の刃でなぞられるような悪寒を覚えた。
(なんだ、こいつらは……。帝国と本気で殺し合い、ここまでボロボロにされて、なぜ笑っていられる……!?)
彼が知る由もない。
この傷が、シュタイナー中将率いる帝国北壁の精鋭たちとの、手加減一切なしの『実戦形式の合同演習(本気の殴り合い)』によって刻まれたものだとは。死なないギリギリの線で、互いの技術と魂をぶつけ合った、濃密な死闘の証なのだと。
騒然とする広場の中央へ、ひときわ大きな黒馬が進み出た。
バラクだった。
彼の顔にはべっとりと泥がこびりつき、肩口の布は赤く染まっている。だが、馬上から使者を見下ろす鳶色の瞳には、歴戦の古狼の研ぎ澄まされた光が宿っていた。
バラクはゆっくりと馬を降り、血と泥に塗れた足取りで使者の目の前まで歩み寄った。
そして、使者が見下ろすこともできぬほどの、重く、絶対的な覇気を放ちながら低く唸る。
「――見ての通りだ、使者殿」
地を這うような声が、使者の足元をすくう。
「我らは覇王の命に従い、最前線で帝国の防壁にこの身をぶつけ、血を流している」
バラクは自らの血に染まった肩を無造作に叩いてみせた。ボフッ、と重い音が鳴る。
「民を飢えから救うため、そして北の未来のために、我らは泥を啜ってでも戦い抜く所存。……これ以上の詮索は、無用だ。お引き取り願おうか」
圧倒的な迫力と、一歩も引かぬ覚悟。
だが、使者を凍りつかせたのは、バラクの言葉だけではなかった。
「……ぐっ……!」
「……帝国の犬どもめ……次こそは……!」
バラクの背後、馬から崩れ落ちるように降りた戦士たちが、血と泥にまみれた顔を一斉に使者たちへ向けた。
兜の隙間から覗く、充血した瞳。
折れた槍を杖代わりに立ち上がる者。血の滲む包帯を乱暴に巻き直しながら、剣の柄に手をかける者。
彼らの眼光は、単なる疲弊した敗残兵のものではない。死線を潜り抜け、極限まで研ぎ澄まされた本物の「殺意」だった。
(……なんだ、この目つきは……!)
使者と供の兵士たちは思わず息を呑み、じりりと一歩後ずさった。
彼らは知らない。この戦士たちが放つ殺気が、シュタイナー中将率いる帝国軍との「文字通りの本気の殴り合い(合同演習)」によって、極限まで引き出されたものであることを。
痛みと屈辱、そして「強大な敵とやり合った」という異様な高揚感が、彼らの瞳を本物の狂気でギラつかせているのだ。
「……使者殿。俺たちの血の匂いが、お気に召さねぇか?」
腕を吊った大柄な戦士が、にたりと凄絶な笑みを浮かべて一歩前に出た。その歯には、生々しい血がこびりついている。
「帝国の壁は厚かったぜ。だが、俺たちは逃げなかった。……あんたたちも剣を抜く覚悟があるなら、ここで相手になってもいいんだぜ? 俺たちの『戦意』を、その身で確かめてみるか?」
ギリッ、と。
周囲の戦士たちが一斉に武器を握り直す音が、広場に響き渡った。
彼らの身体から立ち上る、むせ返るような死の匂いと、行き場のない怒りの波動。それがすべて、今、自分たちに向けられている。
「ひっ……!」
使者の背筋を、氷の刃がなぞるような悪寒が走り抜けた。
口の中で言葉を探したが、舌が張り付いたように動かない。この凄惨な姿と、本物の殺気。彼らが帝国と命がけで戦ってきたことは、火を見るよりも明らかだった。これ以上、「帝国と通じている」などと難癖をつければ、自分たちこそがこの場で八つ裂きにされる。
使者は逃げるように馬に飛び乗ると、供の者たちと共に、野営地から逃げ出すように駆け去っていった。
砂塵を巻き上げて消えていく彼らの背中を、戦士たちはなおも飢えた獣のような目で睨みつけていた。
「……父上」
傍らに立ったアランが、小声で囁く。
「ああ。……第一幕は、完璧じゃ」
バラクの泥だらけの顔に、ニヤリと老獪な笑みが浮かんだ。
◇◆◇
ヴォルガルド覇国、黒の宮殿。
ヴィクトルの執務室は、外の猛吹雪よりも冷え切った静寂に沈んでいた。
カツ、カツ、カツ。
靴の踵が床を叩く音が、一定のリズムで部屋を往復している。
ヴィクトルの手には、帰還した使者からの報告書が握られていた。紙の端が、彼の指の力でくしゃりと歪んでいる。
『――バラクの部隊は、間違いなく帝国と死闘を演じております。その傷、その狂気じみた戦意に偽りはございません』
ヴィクトルの灰色の瞳が、報告書の文字を憎々しげに睨み据えた。
(……戦っている、だと?)
彼の緻密な頭脳が、必死に答えを探して空回りしている。
使者の報告によれば、バラクの野営地は確かに豊かだったという。病は消え、民は新しい服を着て、温かい食事を取っていた。
その「豊かさ」は、どこから来たのか。
普通に考えれば、帝国から支援を受けているとしか思えない。
だが、帝国から支援を受けているのなら、なぜ彼らは帝国と血みどろの死闘を演じているのだ?
帝国軍の屈強な壁に突撃し、骨を折られ、血を流して帰ってくる。それが芝居だというのか? いや、使者の目が節穴だったとしても、狂信的なまでの戦意は偽れない。
(帝国と戦っているのに、帝国から支援を受けている……?)
二つの事実が、ヴィクトルの頭の中で激しく衝突し、矛盾の火花を散らす。
(ありえない。そんな論理の破綻した盤面など、存在してはならない)
彼はギリッと奥歯を噛み締め、机の上の紙束を乱暴に薙ぎ払った。
バサバサと、白い紙が虚しく床に散らばる。
何かがおかしい。見えない糸が、自分の首をゆっくりと絞め上げているような、得体の知れない焦燥感。
「……私の目を、欺いているというのか。……あの老いぼれが、単独でこれほどの絵図を描けるはずがない」
ヴィクトルの脳裏に、南の情勢が不気味な暗雲となって湧き上がってきた。
アルカディア王国が『天翼の軍師』なる帝国の異物によって劣勢に立たされ、いつの間にかアルフォンスが新王として即位したこと。その結果、覇国にとって南の王国への工作が極めて動きにくくなったことは、ヴィクトルも把握していた。
だが、それだけではない。
ヴェネーリアの重鎮、ドナート・コンタリーニ。彼からの情報が、王国のロベール伯爵領を経由して定期的に入ってきていた。しかし、その連絡が半年近く途絶えている。
当初は、ロベール伯爵の反乱が新王にあっけなく鎮圧され、情報ルートが一時的に潰れた程度にしか考えていなかった。大した影響もないため、放置していたのだ。
しかし今、バラクの野営地で起きているこの理解不能な矛盾を前にして、その「情報の途絶」が、突如として氷の刃のようにヴィクトルの背筋をなぞった。
(……ただの反乱失敗ではないのか? あのロベール伯爵領の背後には、ヴェネーリアの莫大な資金と、もう一つ……『別の勢力』の秘密拠点すら存在していたはずだ)
点と点が、最悪の線を描いて結びついていく。
もし、その全てが『天翼の軍師』の掌の上で処理され、完璧に制圧されていたのだとしたら。
半年もの間、自分は「情報が途絶えた」のではなく、「意図的に目を潰されていた」のだとしたら。
ヴィクトルの冷たい指先が、微かに震えた。
恐怖ではない。自らの計算式に割り込んできた、底知れぬ盤面操作能力を持つ存在に対する、どす黒い嫌悪と焦燥だった。
南の空の向こうにいるであろう、『天翼の軍師』。彼の者がすでに北方にまで翼を拡げ、この矛盾に満ちた盤面を作り上げているのだとしたら。
「……王国に置いた秘密拠点は、どうなった?」
ヴィクトルは、虚空を睨みつけながら低く唸った。
放置していた自らの油断を呪うように、彼は足元の紙を革靴で踏み躙る。
「……確認せねばなりませんね。私の知らないところで、盤面がどう書き換えられているのかを」
彼は震える手で眼鏡の位置を押し上げ、荒い呼吸を整えながら暗い瞳を光らせた。
「すぐに密偵を放ちなさい。南へ。ロベール伯爵領の現状と、そこにあったはずの秘密拠点の痕跡を徹底的に洗い出すのです」
ヴィクトルの冷たい声が、執務室の凍てつく空気に溶けていく。
見えない敵への底知れぬ不気味さを、怒りと殺意で塗りつぶしながら、彼は自らの足元に忍び寄る影を、今度こそ正確に捉えようとしていた。




