第336話:『行商の戯言、崩れる前提』
ヴォルガルド覇国の本拠地に広がる市場の片隅。
そこにある薄汚れた酒場は、安酒の饐えた匂いと、獣の脂が焦げる煙、そして荒くれ者たちの喧騒で常に満ちていた。
ヴィクトルが放った密偵の一人は目深に被った頭巾の下で息を殺し、カウンターの隅に陣取っていた。「境界線を越えるな」という厳命を受けた彼らは、こうして他国や辺境から流れてくる行商人たちに酒を奢り、間接的に情報を拾い集めるしかなかった。
彼の向かいで泥酔した恰幅の良い行商人が、上機嫌に木の実の酒を呷っていた。
「いやぁ、あんたも気前がいいねぇ! 北の連中はケチばかりだと思ってたが、見直したよ」
「そりゃどうも。……ところで、あんた南の方から回ってきたんだろう? あっちの景気はどうだい。病が蔓延して、ひどい有様だと聞いているが」
密偵がさりげなく探りを入れると、行商人は「ぶっ!」と酒を吹き出し、腹を抱えて笑い始めた。
「病? ひどい有様? 冗談キツいぜ! どこの大昔の話をしてるんだよ!」
「……何?」
「南の三部族の周辺は今、羽振りが良くてね。病なんて欠片もねえよ。連中、まるで見違えたように血色がいいんだ」
行商人は身を乗り出し周囲に自慢するように声を潜めた。
「なんせ、新しいデカい市場ができててな。そこにゃあ上等な塩や鉄、それに南の美味いもんが溢れてる。商売がうまくてしょうがねえよ」
「新しい、市場……?」
「ああ。信じられるか? あの荒野のど真ん中で、連中、毎日焼きたての美味いふかふかのパンをちぎって、肉と野菜がゴロゴロ入った温かいスープを食ってるんだぜ。……この泥水みたいな酒と硬い干し肉しかねえ、ここよりよっぽど天国さ」
行商人は愉快そうに笑い声を上げたが、密偵の耳にはその声は全く届いていなかった。
心臓が、早鐘のように打ち始める。
彼らが集めていた「南は病と飢えに苦しんでいる」という前提が、足元からガラガラと崩れ落ちる音がした。
◇◆◇
数刻後。黒の宮殿、ヴィクトルの執務室。
外の寒風を遮断した静謐な空間で、ヴィクトルは部下から上がってきたその報告書に目を通していた。
カリカリ、と軽快に走っていた純銀のペンの音が、ピタリと止まる。
沈黙。
ただ、暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが虚しく響いた。
止まったペンの先から、一滴のインクがポタリと落ちる。真っ白な紙の上に、どす黒いシミがじわじわと不吉に広がっていった。
「……ありえない」
ヴィクトルの薄い唇から、呻くような呟きが漏れた。
彼は血の気を失った手で報告書を握り潰し、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「南の三部族は、我々の交易網から完全に孤立させたはずだ。北の物流は全て私が掌握している。……あの不毛の荒野で、どこからそのような『富』が湧き出るというのだ!」
感情を交えず、常に論理と効率だけで世界を支配してきた男の完璧な仮面が、今、音を立ててひび割れていた。
彼の脳内で、これまで「不自然だが無視できる誤差」として処理していたバラバラのピースが、恐るべき速度で最悪の形へと組み上がっていく。
突如として病が癒えたバラクたち。
泥だらけの薬草を差し出し、恭順を誓った不可解な行動。
そして、南の境界線を越えた途端に、気配すら残さずに消滅していく覇国の優秀な『影』たち。
密偵たちは、単に狩られただけではない。
南方が、すでに覇国の目を完全に塞ぐほどの『圧倒的な組織力』を持ち、情報を完璧に統制している証拠なのだ。
(……自力で復興した? 否、ありえない。あの貧弱な部族単独で、新たな市場など築けるはずがない)
ヴィクトルの額に、冷たい汗が滲み出した。
一筋の汗が、青白い頬を伝って顎から落ちる。
「……まさか。帝国と……繋がっているのか?」
その推論に行き着いた瞬間、ヴィクトルは背筋を這い上がるような薄ら寒い恐怖を覚えた。
帝国軍が武力で国境を越えてきたのなら、まだ理解できる。だが、もし相手が、軍隊の代わりに「商人」や「物資」を送り込んできているのだとしたら。
剣や槍ではなく、「経済」と「文化」という甘い猛毒で北の民の心を内側から溶かし、覇国の足元を食い破ろうとしているのだとしたら。
恐怖と飢えで人を支配する自らのやり方を、根本から否定した戦術。
「……南は干からびてなどいない。むしろ、かつてないほどに潤い、牙を研いでいるというのか……!」
ヴィクトルは、机の上の書類を乱暴に薙ぎ払った。
自分の足元の土台が、すでに腐り落ち崩壊のカウントダウンが始まっている可能性に気がついたのだ。
「……確かめねばなりませんね」
ヴィクトルは、震える手で眼鏡の位置を押し上げ、荒い呼吸を整え、暗い瞳を光らせた。
「直接、あの古狼の喉元に手を突っ込んででも。……公式な『使者』を送りなさい。名目は『病のその後の見舞い』。……もし拒めば反逆として討つ。受け入れれば……その腹の中の『豊かさ』の正体を、白日の下に晒してやりましょう」
ヴィクトルの冷たい声が、執務室の凍てつく空気に溶けていく。
見えない敵への底知れぬ恐怖を、怒りと殺意で塗りつぶしながら、彼は最後の反撃の糸口を掴もうとしていた。




