第335話:『沈黙の荒野、消える影』
ヴォルガルド覇国の本拠地。
分厚い石と獣皮で覆われたヴィクトルの執務室には、外で吹き荒れる秋の枯らし風が、くぐもった獣の唸り声のように響いていた。
北の地では秋の深まりと共に、刃のような冷気が大地を覆い始める。部屋の隅の暖炉では赤々と薪が燃えているというのに、ヴィクトルの周囲の空気は氷室のように冷え切っていた。
カツ、カツ、カツ、カツ……。
静寂の中、ヴィクトルが手にした純銀のペンで、黒檀の机を叩く単調な音だけが規則正しく刻まれていた。
彼のペールブルーの瞳は、机の上に置かれた数枚の紙を冷ややかに睨み据えている。
そこに記されているのは「空白」だ。
本来ならば、紙の表面を黒く埋め尽くしているはずの定期報告。それが、ここ半月ほどパタリと途絶えていた。
(……遅い。あまりにも遅すぎる)
当初、ヴィクトルは報告の遅れを「秋の荒れ狂う風」やそれに伴う自然の脅威によるものと処理していた。
夜間の急激な冷え込みによる体調不良か、あるいは冬支度のために凶暴化した野盗の群れに襲われたか。辺境を嗅ぎ回る密偵のいくらかが帰らぬ者となるのは、必要経費の範囲内だ。
だが、いくらなんでも数が多い。
精鋭として放った覇国の『影』たちが、一人、また一人と、まるで底なし沼に足を踏み入れたかのように音信不通になっていくのだ。
カツ、とペンの動きが止まった。
ヴィクトルはゆっくりと立ち上がり、壁に掛けられた巨大な北方の地図の前に立った。
彼は赤いインクを含ませた筆を手に取ると、密偵たちが「最後に定時報告を送ってきた地点」に、一つずつ小さな点を作っていった。
「……ここ、と。ここ。……そして、ここもか」
打ち込まれた赤い点は、最初は無作為に散らばっているように見えた。
だが、ヴィクトルがその点と点を一本の線で結んだ瞬間。彼の呼吸が、ぴたりと止まった。
南の国境線の手前。バラク、ゴード、エルラの三部族の領域をすっぽりと覆うように、見事なまでの「境界線」が浮かび上がっていたのだ。
そのラインを越えた密偵だけが、一人残らず消えている。
一度入り込めば、二度と帰れない「見えない壁」。
(……彼らは、事故で消えたのではない。……狩られているのだ)
ヴィクトルの背筋を、暖炉の火では決して温まらない悪寒が這い上がった。
◇◆◇
ヴィクトルの推測は冷酷なまでに的中していた。
彼が引いた赤い境界線の向こう側、枯れ草が風に揺れる夜の荒野では、覇国の密偵たちが想像すらしていなかった「沈黙の網」が機能していた。
岩陰に身を潜め、バラクの野営地を探ろうと這い進んでいた覇国の密偵。
彼は突然、背後に微かな気配を感じて振り返ろうとした。だが、その視界が反転するよりも早く、鋭く重い衝撃が走り、彼の意識は抵抗する間もなく深い暗闇へと刈り取られていった。
声も出せずに崩れ落ちた密偵を見下ろしていたのは、夜の闇そのものと同化したゲッコーの部下たちだった。
気絶した密偵を手際よく拘束し、完全に無力化して運び去る彼らの傍らには、粗末な外套を纏ったカナンの遺民が静かに佇んでいる。
商人の計算能力は、今や「防諜網」として完璧に機能していた。誰がいつ、どのルートを通るか。カナンの民が拾い集めた不自然な人の動きや物資の痕跡は、即座にゲッコーの『影』たちへと伝達され、確実な「捕獲」へと繋がっていたのだ。
北方の荒野を知り尽くした部族の斥候、カナン遺民の情報網、そして帝国暗部の制圧術。三位一体となった防衛線は、覇国の密偵にとって逃れようのない『沈黙の蜘蛛の巣』と化していた。
◇◆◇
そんな裏側の事実を知る由もないヴィクトルは、地図の前に立ち尽くしたまま、手にした筆をギリッと強く握りしめた。
ポキリ、と乾いた音を立てて、上質な木製の筆がへし折れる。
赤いインクが、彼の手を血のように汚した。
「……ありえない」
整えられた金髪の隙間から、冷たい汗が一筋、頬を伝い落ちる。
彼の美しい顔に、初めて明確な焦燥と薄ら寒い恐怖が浮かんでいた。
「ただの蛮族に我が覇国が放った密偵を、気配すら残さずに狩り尽くすほどの組織力があるはずがない。あの老いぼれたちに、これほど緻密で広域な防諜網が敷ける道理がない……!」
計算が合わない。
自分の理解を超えた「バグ」が、盤面に発生している。
南の三部族は、孤立して干からびていくのを待つだけの弱い駒のはずだった。それが今、自らの領域を完璧な暗闇で覆い隠し、こちら側の目を次々と潰してきている。
「……何が、南で起きている?」
ヴィクトルは、血のように赤いインクで汚れた手を懐のハンカチで乱暴に拭い取ると、目を血走らせて執務机へと戻った。
これ以上、無為に手駒を失うわけにはいかない。
彼は白紙の束を引き寄せ新しいペンをインク壺に突っ込むと、苛立たしげに新たな命令書を書き殴り始めた。
『――境界線を越えるな。潜入は即刻中止せよ。南の境界ギリギリの市場や集落に留まり、行商人や流れ者から、間接的に南の状況を拾い上げろ』
自らの目を封じられ、耳だけに頼る屈辱。
だが、その命令の先に待っている「真実」が、彼の計算と前提をさらに根底から粉砕することになるとは、この時のヴィクトルには知る由もなかった。
外の荒れ狂う秋風は、まるで彼を嘲笑うかのように、窓ガラスを激しく叩き続けていた。




