第332話:『荒野のプレゼンテーション』
茶室の空気は、張り詰めた弓弦のように震えていた。
い草の香りに、男たちの汗と緊張の匂いが混じり合う。障子戸の向こうで響く建設現場の槌音だけが、この密室と外界を繋ぐ唯一の音だった。
「――商人様。ご紹介いたします」
私が銀の仮面の下から静かに切り出すと、全ての視線が、入り口で固まっていた二人の男へと注がれた。
「こちらは北西の荒野を駆ける『風読む民』の族長、バラク殿。そしてこちらが、かつて北方の交易を支配した商都カナンの末裔、ナディム殿にございます」
紹介されたバラクは、この異様な空間と皇帝が放つ圧倒的な覇気に呑まれぬよう、必死に平静を装って深く頭を下げた。隣のナディムは、緊張で顔をこわばらせながらも、その瞳だけが商人の本能で目の前の『商人』の真価を測ろうと鋭く光っている。
皇帝の重く、値踏みするような声が静寂を破った。
「――して、そこの古狼」
その視線はバラクを射抜いていた。
「軍師殿は貴様らに、この新しい『駅』の運営を任せたいと申しておる。……だが俺の目から見れば、貴様らはただの荒くれ者の集まりにしか見えん。この一大事業を任せるに足る器量とやらを、どう示してくれる?」
それは単なる問いではない。試練だ。
バラクは微動だにしなかった。彼は差し出された抹茶に静かに口をつけると、その深い苦みを味わうように一度目を閉じた。そして、ゆっくりと顔を上げる。その瞳に、もはや蛮族の長としての荒々しさはない。老獪な政治家の静かな光が宿っていた。
「商人様。……貴方様の仰る通り、我らは戦しか知らぬ荒くれ者。帳簿の付け方も利益の計算も、からきしでございます」
あまりに素直な自己評価に、グレイグたちが怪訝な顔をする。
だが、バラクは不敵に続けた。
「ですが、我らには我らにしかできぬ仕事がございます」
彼は窓の外、広大な北の荒野を指し示した。
「この『道の駅』が真に栄えるには、北の全ての部族との交易路が不可欠。その道を切り拓き、無法者から隊商を守る『牙』となれるのは、この荒野の全てを知り尽くした我らをおいて他にありますまい」
彼は自らの胸を叩いた。
「我らは、この新しい時代の『秩序』そのものとなる。……それこそが、我らがお示しできる最大の『価値』にございます」
その言葉は力強く、揺るぎない。
皇帝は満足げに頷くと、次にその視線をナディムへと移した。その値踏みするような眼差しは、先程よりもさらに鋭く、冷たい。
「では、そちらの若いの。お前たちの『価値』は何だ?」
ナディムの背筋を、冷たい汗が伝った。
彼は震える唇を一度固く結ぶと、意を決して語り始めた。
「……商人様。我らカナンの民がご提供できるのは、『情報』と『富』を産み出す『仕組み』にございます」
彼の声は最初こそか細かったが、語るうちに熱を帯びていく。
言葉の奔流が、何もない茶室の空間に未来の交易網を幻影のように立ち上げていった。北の各部族の特産品、需要と供給のバランス、そしてそれらを結びつける最適な物流ルート。それはただの夢物語ではない。現地の気候、民族性、そして何よりクルガン体制下の不満という「見えざる資源」までもが緻密に計算された、完璧な事業計画だった。
「この『道の駅』を起点とし、我らが情報の網を張り巡らせます。クルガンが恐怖で支配するならば、我らは『富』という抗いがたい蜜で、彼の足元を内から溶かしていく。兵を動かすことなく、金と物の流れだけで彼の国を干上がらせてご覧にいれましょう」
彼のプレゼンテーションは、いつしかこの場にいる全ての者を圧倒していた。
グレイグも、シュタイナーも、そしてアイゼンハルトさえもが、その若き商人の言葉に息を呑んでいた。
全てを語り終え、ナディムは汗の滲む額を床に擦りつけんばかりに深く頭を下げた。
長い、長い沈黙が落ちる。
茶室を満たすのは、風鈴の涼やかな音と、障子戸の向こうから聞こえる槌音だけだった。
やがて、皇帝がゆっくりと立ち上がった。
彼はナディムの前まで歩み寄ると、その肩に大きな手を置いた。
「――顔を上げよ」
その声は、もはや商人のものではない。大陸の全てを統べる皇帝の威厳に満ちていた。
「……見事だ。……軍師殿の目に狂いはないようだな」
皇帝は私に向き直ると、最高の賛辞を口にした。
「……面白いものを見せてもらった。褒美にこの北の地の采配、そなたに一任しよう」
「は、はい!」
私は仮面の下で安堵に大きく息を吐き出し、深く頭を下げた。
皇帝は満足げに頷くと、悪戯っぽく付け加えた。
「ただし! この緑の飲み物は、もう少し飲みやすくはならんのか? 例えば砂糖を山と入れるとか」
その一言で、張り詰めていた空気が一気に和らいだ。
グレイグとシュタイナーが豪快に笑い出し、バラクも安堵の息をついている。
皇帝は背を向け、悠然と茶室を出て行く。
その背中を見送りながら、私は静かに心に誓った。
(……必ずご期待に応えてみせます。陛下)
◇◆◇
茶室の非日常的な静寂から一歩外へ出ると、秋の荒野特有の、肌を刺すような冷たい風がゼノンたちを出迎えた。
彼らは建設が進む広大な敷地を悠然と歩きながら、次々と組み上がっていく施設の規模に改めて感嘆の息を漏らしていた。
「しかし、よく考えられている。導線に無駄がない」
グレイグが武人の視点で市場の構造を褒め称える中、ゼノンはふと、工事区画の片隅から白い湯気が立ち上っている奇妙な一角に目を留めた。
そこには、マキナの持ち込んだ蒸気機関の排熱パイプから引かれた温水が、浅く細長い石造りの水路のような場所にこんこんと注ぎ込まれていた。縁には腰掛けるのにちょうど良い高さの木製のベンチがぐるりと巡らされている。
「……なんだこれは?」
ゼノンは不思議そうに付け髭を撫でた。
「温泉のようだが、全身を浸すにはあまりに浅すぎるぞ。馬の飲み水にしては熱すぎるしな」
シュタイナーも首を傾げ、顔を近づけて湯気の立つ水面を覗き込む。
「はて……軍師殿の設計図には、確か『あしゆ』と書かれておりましたが……」
「――『足湯』でございますね。商人様」
不意に、背後から涼やかな声がした。
振り返ると、いつの間にか(本当にどこから湧いて出たのか)手ぬぐいの束が乗った竹籠を抱えたクララが、完璧な微笑みで立っていた。彼女の神出鬼没ぶりには、護衛の近衛兵たちすら一瞬ビクッと肩を震わせている。
「こちらは軍師様考案の、旅の疲れを癒やすための設備にございます。……このように靴下をお脱ぎになり、足先だけをお湯に浸して温まるのです。全身の血流が良くなり、荒野の冷えにはことのほか効能がございます」
「ほう! 足だけをか!」
ゼノンの好奇心に火がついた。彼は誰に命じるでもなく、自らドカッと木のベンチに腰を下ろすと、豪奢な商人の靴を脱ぎ捨て、ズボンの裾を膝下まで無造作に捲り上げた。
「陛下……もとい、旦那様! お戯れはおやめください、このような野外で足を晒すなど……!」
アイゼンハルトが胃の辺りを押さえながら悲鳴に近い声で制止しようとしたが、ゼノンは全く意に介さず、湯気の立つ水面へザブンと両足を入れた。
「おお……っ! ほぉぉぉ……」
瞬間、天下の皇帝の口から、とろけるような深い感嘆の吐息が漏れた。
足先からじんわりと伝わる熱が、秋風に冷え切った身体の芯まで一気に温めていく。そのあまりの心地よさに、ゼノンの強面の顔が、ふにゃりとだらしなく緩んだ。
「こりゃあ……極楽だ。たまらんぞ」
その顔を見たグレイグとシュタイナーが、顔を見合わせた。
「……そこまで言うなら、護衛の身としては毒見……いや、湯加減を確かめねばなるまい」
「うむ。それも我らの務めよ」
二人の猛将は謎の言い訳を早口で交わすと、ゼノンの両脇にドカッと座り、いそいそと自分たちの鋼鉄のブーツを脱ぎ始めた。
ズボンの裾を捲り上げた厳ついおじさん三人が、並んでちょこんと足湯に浸かる。
シュタイナーは目を閉じ、天を仰いで太い首を回した。
「……ふぅぅぅ。なるほど、これは陣中にも欲しい設備ですな……。冷え固まった足の裏が生き返るようだ」
「まったくだ。……いやぁ、こんな極楽気分の時に、ここに酒の一つでもあれば、言うことはないんだがな」
グレイグが冗談めかして笑いながら呟いた。
「――お待たせいたしました」
人垣の隙間から見えたのは、すかさず朱塗りのお盆を差し出すクララの姿だった。
そこに乗っていたのは、首の細い奇妙な陶器の瓶と、人数分の小さく浅い盃だ。瓶の口からは、ふわりと温められた酒の甘い香りが湯気と共に立ち上っている。
「ほう? なんだこの変わった器は」
皇帝が不思議そうに、その首の細い瓶を手に取った。
「軍師様考案の、温かいお酒の香りを逃がさず、最も美味しく味わうための器にございます」
クララは涼しい顔で淡々と説明し、三人の手元にある小さな盃へ、トクトクと酒を注いでいく。
皇帝たちはそれをつまみ上げ、クイッと煽った。
「おおっ! 確かに香りが立つ! しかも冷めにくい。……ちびちびと飲むのが、またこの『あしゆ』の気分に合うな!」
「がっはっは! 気が利くではないか! では、北の未来に!」
極寒の荒野のど真ん中。建設中の足場が組まれた殺風景な背景の前で。
帝国の最高権力者と、軍のトップ二人が、ズボンの裾を捲り上げて足湯に浸かり、クイクイと熱燗を煽って「あーっ、美味い!」と完全に温泉旅行気分を満喫している。
その光景のシュールさに、商人風に変装した近衛兵たちは、どうやってこの状況を警備すればいいのか分からず、足湯の周囲をオロオロと囲んで不審な陣形を組んでいた。
ユリウス皇子とレオンは、父と将軍たちのあまりの寛ぎっぷりに、ただ引き攣った笑いを浮かべるしかない。
「……視察とは、一体何だったのか……」
一人、少し離れた場所に立つアイゼンハルトだけが、頭を抱え、胃薬を探すように懐を探っていた。
規則と規律を重んじる彼にとって、この「道の駅」という名の空間は、恐ろしいほどの速度で帝国の威厳を溶かし、骨抜きにしていく魔境にしか見えなかったのだ。
荒野の風は冷たいが、足湯の周りだけは、ぽかぽかと平和な温度で満ちていた。




