第333話:『仮面の裏側と、北風の予感』
皇帝ゼノンたちが悠然と茶室を後にしていく。
その重厚な足音が完全に遠ざかったのを見計らい、私はようやく肩の力を抜き、小さく安堵の息を吐いた。張り詰めていた空気が緩み、い草の香りが再び鼻腔を満たしていく。
その瞬間だった。
ぐいと。
私のマントの裾が後ろから力強く引かれた。
振り返るとそこには鬼気迫る表情のバラクが立っていた。ナディムもその後ろでまだ完全に血の気が戻っていない顔でこちらを見ている。
バラクは周囲を窺うように極限まで声を潜め、獲物に噛みつくような剣幕で囁いてきた。
「……聞いておらんぞ! なぜあのような御方がこんな辺境に! あの『商人』殿……あれは……!」
「や、やっぱり分かりますよね……」
私は仮面の下で顔を引きつらせ、思わず素の声で返してしまった。
「私も知らないわよ! 突然お忍びでやってくるなんて……本当に寿命が縮むかと思ったんだから……!」
そのあまりに年相応な愚痴と素の口調。
バラクは一瞬きょとんとした顔で私を見つめた。
ナディムも目を丸くしている。
(――はっ!)
私は自分が『天翼の軍師』の仮面を盛大に脱ぎ捨ててしまったことに気づき、慌てて居住まいを正した。咳払いを一つし、無理やり冷徹な軍師の声色を引っ張り出す。
「……ん、んんっ! いや。本日は急なことで申し訳なかった。我もその……想定外でな。だが協力感謝する。おかげで事を速やかに進められそうである。そなたたちにとっても有意義なひと時となったであろう?」
顔を引きつらせながら必死に威厳を取り繕う。
その私の姿を見てバラクは一瞬あっけに取られたようだったが、やがてその口元がぶるぶると小刻みに震え始めた。
彼は必死に笑いを堪えている。その様子に私は仮面の下でむっと唇を尖らせた。
「……ぷっ……く、くく……」
耐えきれなくなったのかバラクは顔を背けて肩を震わせた。だがすぐに咳払いをして無理やり渋い族長の顔を作る。
「……うおっほん! ああ全くだ。肝が冷えたが……このバラク確かにあの御方から『信任』を勝ち取った。……軍師殿の無茶振りには毎度寿命が縮む思いだが、結果は極上だ。感謝する」
彼はニヤリと笑うと私の肩をポンと叩いた。その手には先ほどまでの緊張ではなく、確かな絆を感じさせる温もりがあった。ナディムもまた深く一礼し、商人の顔で不敵に微笑んでいる。
私たちは互いの健闘を称え合うように小さく頷き、茶室を後にした。
◇◆◇
彼らを見送り、私が建設現場へ戻ると、何やら不自然な人だかりができている場所があった。
困惑した顔で周囲を囲む「商人風」の近衛兵たち。そして、頭を抱えてしゃがみ込んでいるアイゼンハルト監査官。
その中心から、湯気と共に豪快な笑い声が聞こえてくる。
「おお、軍師殿。戻ったか」
近づいて絶句した。
建設中の敷地の一角、試作で作った『足湯』コーナー。そこに、皇帝陛下、グレイグ中将、シュタイナー中将という帝国軍のトップ・スリーが、ズボンの裾を捲り上げて並んで浸かり、お猪口を片手に上機嫌で寛いでいたのだ。
(間違いない。あれ、『徳利』と『お猪口』だわ!)
以前、私が前世の日本酒好きの血を騒がせてしまい、「温めて飲むお酒は、首の細い器に入れて、小さな器でちびちびと飲むのが最高なんですよ」と熱弁したことがあった。クララは呆れたような目をしながらも、「承知いたしました」とは言っていたのだが……
「……な、なにをされているのですか」
私が仮面の下で目を白黒させていると、皇帝は付け髭を揺らし、すっかり赤くなった顔で笑った。
「見れば分かるだろう。視察と、休息だ。この『あしゆ』とやらは素晴らしいな。冷え固まった身体が芯から生き返るようだ」
皇帝が満足げに立ち上がると、すかさずクララが真新しい手ぬぐいを差し出した。三人の猛将たちは名残惜しそうに湯から足を上げ、手早く水気を拭き取って鋼鉄のブーツを履き直す。
身なりを整え終えた皇帝は「さて、行くか」と歩き出した。
一行は、建設予定地を一望できる小高い丘へと向かって足を進める。
「あの者たち、なかなか見どころがあったぞ。そなたが『北の采配』を任せるというのも頷ける」
丘を登りながら、皇帝はバラクたちを思い返すように言った。
「武を誇るだけでなく、商いと情報で盤面を制しようとするあの気概。……良い手駒を見つけたな」
やがて、丘の頂上に辿り着く。
北特有の澄み切った冷たい風が、皇帝の豪奢な外套を大きくはためかせた。眼下には荒野を切り拓き、物流の心臓となろうとしている『道の駅』の基礎工事の全貌が広がっている。
皇帝は荒野を吹き抜ける風を胸いっぱいに吸い込み、満足げに目を細めた。
「たまにはこの北の地の、研ぎ澄まされたような空気も良いものだな。南の湿った潮風とは違う、肺が洗われるような清冽さがある」
「ええ」
グレイグ中将が傍らで力強く頷く。
「この荒野に道が通り、人が集う。……軍師殿の言う『道の駅』とやらが完成すれば、ここもいずれ北の新たな名所となるでありましょうな」
「うむ。その日が楽しみだ」
皇帝はそう言うと、静かに私に向き直った。
風に吹かれるその顔には、もう足湯でくつろいでいた商人の芝居はない。ただ大陸の未来を見据える光が、その瞳に宿っていた。
「頼んだぞ、リナよ。この北の地に新たな風を吹かせてみせよ」
私は深く、深く頭を下げた。
冷たい風が私の銀糸の髪を揺らす。
視線を上げると、立ち上る土煙の向こうに広がる荒野が見えた。
この大地に、いつか人々の笑顔と活気を溢れさせてみせる。




