第330話:『深更の饗宴、軍師の条件』
その日の夜。北壁の砦は水面下でかつてないほどの熱を帯びていた。
突然の『商人』――もとい、皇帝陛下の来訪と宿泊。その知らせを受けた侍女長クララの動きはまさに鬼神の如き手際だった。
「一切の抜かりは許しません。帝都よりいらした『大切なお客様』に辺境の侘しさなど微塵も感じさせてはなりません!」
砦の奥に設けられた食堂。
そこに展開されたのは辺境の砦とは到底思えぬ、魔法のような晩餐の風景だった。
目を見張るべきはクララたち侍女と、皇帝が「商人の供回り」として連れてきた者たちの一糸乱れぬ完璧な連携である。彼らの正体は変装した宮廷の熟練給仕や近衛の精鋭たちだ。クララが視線でわずかに合図を送るだけで商人の従者が音もなく銀のドームを開け、湯気の立つ極上の肉料理を供する。彼らの洗練された身のこなしと無言の阿吽の呼吸は、この場が帝都の高級レストランであるかのような錯覚さえ抱かせた。
「おお、これは美味い! 帝都の宮廷料理にも劣らぬ腕前だ! まさかこの北の果てでこれほどのものを食えるとはな!」
豪快にワイングラスを傾ける皇帝の横でグレイグとシュタイナーもその見事な連携に舌を巻いていた。ユリウス皇子たちは父帝の突然の行動にまだ胃の痛みを引きずったまま、緊張した面持ちで食事を進めていた。
やがて食事が一段落し、クララが絶妙なタイミングで食後の茶を供して退出する。
扉が閉まり、部屋には機密を共有する者たちだけが残された。部屋の隅には昼間試射を行った四名の『影』とゲッコーが音もなく控えている。
和やかだった空気がふっと凪いだ。
「――素晴らしい夜食であった。……して軍師殿。明日はあの『道の駅』とやらを視察するぞ」
「……え?」
私は思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
「帝国の一大事業であろう? 近くまで来ておいて見に行かぬ手はないからな!」
「あ、あの、まだ建設中でして、足元も悪いですし……」
「構わん。決定事項だ」
有無を言わせぬ皇帝の言葉に私はぐっと言葉に詰まった。だがその瞬間、私の頭脳は別の回路で高速回転を始めていた。これは危機か? いや好機だ。
私は両手を膝の上で固く握りしめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
ドクンと心臓が大きく跳ねる。
「……商人様。ならば一つご提案がございます」
私の震えを微かに孕んだ声に皇帝が「ほう?」と興味深そうに目を細める。
「実は……あの『道の駅』の運営をある者たちに任せたいと考えております」
「ある者たち?」
「はい。……かつて北方の商都を築き、クルガンに滅ぼされた『カナンの民』の遺民たちです」
その言葉にグレイグとシュタイナーがピクリと眉を動かした。
私は皇帝の顔色を窺いながら必死に言葉を紡ぐ。
「彼らは元々優れた商人であり、北方に太い情報網を持っています。何より、故郷を奪った覇国を心の底から憎んでいる。……彼らにこの『拠点』と未来への『希望』を与えたいのです。そうすれば彼らは必ずや覇国を内側から崩すための最強の刃となってくれるはずです」
言い終えた後、部屋には重い沈黙が落ちた。
皇帝は腕を組み、目を閉じている。その沈黙が私の胃をキリキリと締め付ける。
アイゼンハルト監査官の時のように「帝国の事業を異邦の難民に任せるなど言語道断」と一蹴されるのではないか。冷や汗が背中を伝う。
やがて皇帝はゆっくりと目を開いた。
そして腹の底から響くような低く、しかし心地よい笑い声を漏らした。
「……ふはははは! 亡国の民を商いと情報の拠点に据え、敵の足元を食い破らせるか。……相変わらず、えげつなくも美しい盤面を描くものだ」
皇帝は満足げに深く頷いた。
「よかろう! そのカナンの民とやら明日の視察でとくと拝見させてもらおうではないか。軍師殿の目に狂いがないことを証明してみせよ!」
「……っ! はい!」
私は仮面の下で安堵に大きく息を吐き出し、深く頭を下げた。
その直後、私はゲッコーを手招きし、彼にだけ聞こえる声で切羽詰まったように早口で命じた。
「ゲッコーさん! 今すぐナディムさんに連絡を! 明日の昼前までにバラク族長と、カナンの民でこの件を任せられそうな者を数名、できるだけきちんとした身なりで『道の駅』へ! 理由は聞かないで! 急いで!」
「……御意に」
ゲッコーは眉一つ動かさず、ただ静かに頷くと、音もなく闇に溶けた。
◇◆◇
その報せがナディムの元へ届いたのは、それからわずか半刻後のことだった。
彼は即座に、夜の闇を切り裂いてバラクの元へと駆けた。
「――バラク殿! 緊急のご連絡です!」
ゲルの入り口で天幕を跳ね上げるようにして現れたナディムのただならぬ様子にバラクは驚いて顔を上げた。
「軍師殿からです! 『明日の昼前までに、あなたとカナンの代表者を連れて、道の駅へ。できるだけきちんとした身なりで来られたし』と!」
「明日だと!? この忙しい時に……」
バラクは眉間に深い皺を刻んだ。三部族の連携、クルガンへの偽装工作、やるべきことは山積みだ。
「……軍師殿にしては珍しく慌てておられるようだが、何か事態の急変でも起きたか?」
彼はナディムの顔に浮かぶ緊張を見抜き、探るように問う。
「いえ、詳しいことは何も……。ただ、『きちんとした身なりで』と念を押されたと」
「ふむ……」
バラクは腕を組み、顎を撫でた。
(戦の気配ではないな。となれば……戦局に影響のある豪商でも来たか? あの『道の駅』はそういう場所になるはずだった)
彼の老獪な勘が事態の本質に近い場所を指し示していた。
(……あるいは、あの薬草の話か?)
考えは巡るが答えは出ない。だが、あの少女がこれほど急かすからには、それ相応の理由がある。
「……分かった。……ナディムよ」
バラクは決断した。
「お前はすぐに信頼のおける同胞と数名の若者を選び出せ。明日の朝、日の出と共に出るぞ」
「はっ!」
ナディムは力強く頷くと、再び夜の闇へと消えていった。




